第8話 ~ 九月十三日③~
愁翔がサイン会の列に戻ると、本郷はもう列の七割ほどまで進んでいた。
そんな彼女はイベントホールに戻ってきた愁翔を捉えると、手を振って自分の位置を伝えてきた。
「黒井さん! 遅かったですね、混んでたんですか?」
「あぁ、ちょっとな。ほら、ハンバーガーとジュース。ポテトも必要だったか?」
「いえいえ、これで十分ですよ! お代はいくらですか?」
本郷はぶんぶんと手を振り、ポテトの必要性を否定し、ポケットから財布を取り出して代金を聞いてきた。
「お代はいいよ、ここに並んでくれてたんだし」
「いやいや、お金は大切にしなければ駄目ですよ! いくらでしたか!?」
「う……二九十円……」
本郷のあまりの剣幕に愁翔の口から昼食の値段がこぼれた。
「二九十円ですね……はい!」
本郷は財布の中からちょうど二九十円を取り出し愁翔の掌に押し付けた。強引にお代を渡された愁翔は交換するように一つの紙袋を手渡した。
「ありがとうございます!」
そんなやりとりがあった後、二人は紙袋からハンバーガーを取り出して昼食を開始した。
「あれだけいたのに結構進んだな」
愁翔がフードコートへ向かう前はまだ半分程度の位置だったのだが、三十分ほどでそれなりに進んでいた。
「そうですね。もう少しです、がんばりましょう!」
昼食から二十分ほど経過すると、もう愁翔達の番が回ってきた。
「い……いよいよですね!」
「でも一人ずつみたいだから本郷が先に行ってくれ」
「分かりました、先に行かせてもらいますね!」
元気に笑った本郷は愁翔に手を振り、NIGHTMAREの十九巻をもう一方の手に持って黒金 総司の前へと進んでいった。
彼は長めのテーブルを挟んだ向こう側の椅子に微笑みながら座っていた。
短く切り揃えられた黒髪に切れ長の黒い瞳。見た目は二十代後半ぐらいで、整った顔には柔和な笑みを浮かべており、全体的に優しそうな印象を受けた。
そんな黒金 総司と相対して、本郷は緊張し声を震わせていた。それから少し会話をした後、彼は本郷の持っているNIGHTMARE十九巻を受け取り今日何度目とも知れぬ自身のサインを華麗に描いた。
本郷は感激し、その後幾度か言葉を交わしてから何度も何度も頭を下げて名残惜しそうに黒金の前から引いた。
「き、緊張しました……」
戻ってきた本郷は胸に手を当て息を切らしながら小さく呟いた。
「見ててわかったよ」
そんな様子の本郷を見て笑ってると、案内係のような人間が愁翔のことを呼び、彼はそれに準じて歩を進めた。
「じゃあ行ってくる」
「はい!あの辺で待っていますね!」
本郷はイベントホールの端にあるベンチの方を指さして愁翔のことを見送った。
「NIGHTMARE関連書籍をお買い求めくださってありがとうございます」
黒金は愁翔が目の前に来ると柔和な笑みを浮かべて、サイン会の定型文であろう言葉を口にした。
「いえ、いつも楽しく読んでいます」
「それは嬉しいことですね。いつごろから読んで下さっているのでしょうか?」
「一巻からずっと読んでます。最近は仲間が一人死んで暗い雰囲気ですが、その分バトルが盛り上がっていて凄く面白いです」
一ファンと作者のなんてことのない会話が展開されていく。黒金はこのようなことを何時間もしているのだから感心してしまう。
「仲間の死を乗り越えられるかこのまま落ちていってしまうのか、最近はそれを命題にして書いているので暗くなってしまってるのは申し訳ないです」
「いや、そんなことは……」
愁翔は黒金に謝られ困惑してしまった。
「…………あなたは死についてどう思いますか?」
しかし困惑している愁翔に黒金から唐突に質問が投げかけられた。
その声音はこれまでの柔和なものではなく、鋭利に研ぎ澄まされた氷刃のようであった。
「…………」
その声と射るような視線に、自然と愁翔の身体から体温が抜けていく。
この人は何を思ってこんなことを質問してきたのだろうか。
この問は今の愁翔にとって最も近しく、最も重要なことだ。
あと三ヶ月に迫った死へのタイムリミット。この事実はどう足掻いても覆せないし、愁翔自身もどうしようもないことだと考えている。
「死は万人に訪れるどうしようもない事象だと思っています。訪れれば後には何も残らず、終焉あるのみなんじゃないでしょうか……」
「なるほど……そういう諦観の考えも……」
「ただ、」
愁翔は黒金の言葉を切って自身の言葉を繋ぐ。
「それに抗えるのなら、抗う努力をするのが人間なのではないかと思います……」
愁翔は現在の自分に重ね合わせて、無理だと分かっている理想を口にした。
「……あなたの考え方はとても参考になります」
二人は数秒間、互いを見透かすような瞳で見つめ合い、後に黒金がその顔に笑みを取り戻して言った。
「では並んでいる方もいるのでそろそろ……」
「そうですね」
愁翔は黒金のその言葉に準じ、NIGHTMARE小説版を差し出した。するとすぐにペンでサインを描き、愁翔に渡した。
「ありがとうございました」
「こちらこそご参加いただきありがとうございました」
愁翔はそれを受け取るとお礼を言い、身を翻した。対する黒金は初めの仮面のような笑みを貼り付けて愁翔を見送った。
「終わったぞ」
「あ、おかえりなさい!どうでしたか?」
愁翔は黒金との会話を終えて本郷の元へ向かった。本郷は笑顔で迎え、サイン会の感想を求めてきた。
「やっぱり普通とは違う感じの、不思議な雰囲気の人だったな」
「黒井さんもそう思いましたか! やはり天才は少し違うんですよね」
本郷も黒金と会話し、同じような感覚になったのか、嬉しそうに笑っていた。しかしその感想は愁翔とは少し異なるものだった。
愁翔は天才というよりは何か裏がある、少し不気味な感じを彼から受けた。
「本郷は楽しそうだったな。緊張してたけど」
先ほどの本郷の緊張していた姿を思い出して、愁翔は笑った。
「き、緊張するに決まってるじゃないですか!」
両手を上げて主張する本郷。その後ろから二つの人影が迫ってくる。
「あれ~?その子誰、愁?」
「もしかして……彼女……?」
間の抜けた女性の声と、おちょくるような女性の声。つまり哀奈と神咲の二人だ。
「黒井さん……どなたですか?」
「あぁ、俺の姉とその友達だよ。今日一緒に来てたんだ」
「すっごい美人が来たので何事かと思いましたよ!」
「ふふ、ありがとうね~」
「まぁ哀奈は芸能人レベルで可愛いからな」
「いえ、お二人ともですよ」
本郷は呆れる神咲に目を向けながら笑顔で言った。
「なっ……、なんていい子なの……」
「で、愁とはどんな関係なの?」
本郷の笑顔にやられている神咲を尻目に、哀奈は彼女に質問していた。
「あ、私は本郷 架蓮って言います!この書店でアルバイトをしていて、黒井さんがNIGHTMAREの小説を買っていたので良かったらこのサイン会に、ということで……今に至ります」
本郷は愁翔と出会い、これまでに至る経緯を語った。こう言葉にしてみると初対面にも関わらず、かなり奇妙な関係である。
「架蓮ちゃん、NIGHTMARE好きなの?」
「はい!大好きなんです、今日もここでサイン会があってアルバイトどころじゃなくなっちゃって……」
「へぇ! サイン会か~! 愁が買ってるから私も読んでるよ~。面白いよね~」
「黒井さ……哀奈さんも好きなんですか!?」
「うん。これは語れるかもしれないよ、愁?」
「いや、もうサイン会の並んでる間に散々話したよ……」
「何言ってるんですか、黒井さん! 私はまだまだ話せますよ!!」
あれだけ話したのにまだ話すつもりなのか、と本郷のNIGHTMARE愛に感心した。
「このあとどこかでお話を……。あ、でも私バイトに戻らないとならないんだった……」
本郷はサイン会へ行く許しをもらったというだけで、未だアルバイトの途中であるためこの後は戻らなければならないのだ。
「連絡先を交換しておけばまたいつでも会えるんじゃないのかい? 哀奈は大学生で暇だし、愁翔君とは会ってくれた方がこちらとしても嬉しい」
「そ、そうですね! 皆さん、交換……してもらってもいいですか?」
本郷はポケットからスマートフォンを取り出しながら聞いた。
「愁と交換しておけば後で教えてもらうよ」
「分かりました!」
愁翔も仕方なくスマートフォンを取り出し、SNSで連絡先を交換した。そしてまた少しの会話をした後、
「本当にそろそろ戻らないと……。今日はありがとうございました!」
「いや、こっちこそ誘ってもらったし」
「また愁と遊んであげてね」
哀奈がそう言って微笑むと、本郷も明るい笑顔で返した。
「はい! ではまた!」
本郷は素早くお辞儀をすると身を翻して書店の方向へと戻っていった。