第2話 ~目覚め~
何も聞こえない、何も見えない、何も感じない。
倒れた愁翔の意識は深い闇の中で彷徨っていた。
これが『死』というものなのだろうか。
『死』という事象の感覚を知る者は、現実世界に生きている人間の中に一人として存在しない。その体験をしてしまった人間が生者の世界に帰還してくることは絶対にありえないのだから。
故に『死』というものは万人にとって経験したことのない未知だ。
愁翔は今、それと向き合い、体感している。ただ、体感と言っても全ての感覚が無になっていくという虚しいものなのだが。
最期というのはこんな感覚なのか、と愁翔は冷静に考えながら両親や姉の哀奈、お世話になってきた神咲に心の中で謝罪していた。
しかしその想いに反して、愁翔の意識に一条の光が差し込んだ。
「ん……」
意識に、いや直接的に瞼を通して瞳に光が差し込んだため、愁翔は意識を覚醒させた。
ぼんやりとしていた意識と、両眼のピントがはっきりとしていく。そして愁翔の目に、木々に縁どられた満天の星空が映し出された。
なぜ自分はこんなところで寝ていたのだろうか。
愁翔は記憶の底をひっくり返して今に至る経緯を思い出そうとした。しかし未だに意識ははっきりせず、思考するだけで頭の奥の方に小さな痛みが生じる。
愁翔は理由を追求するのを一旦やめ、ゆっくりと立ち上がってあたりを見渡してみた。
どうやらここは小規模の窪地であり、その中心に愁翔は倒れていたようだ。
切り立った周囲の崖の上には無数の木々がうっそうと茂っており、足元には見たこともない美しい草花が咲き誇っていた。
背後を振り返るとそちらの方向にだけ道が続いていて、草が禿げてむき出しになった地面が上り坂となっていた。愁翔はそちらに進み、坂の頂上へと辿り着いた。
「なっ……!?」
彼の喉からは、裏返りそうなほど驚愕の色に染まった声が上がっていた。
坂の頂上からはあたりの全てを眺望することができる。
前方に展開する星の海、眼下に広がる緑色の草原。空には星以外にも色とりどりの発光体や鳥などが浮遊しており、地上では草食恐竜のような生物が悠然と闊歩している。
「何なんだ……ここは……?」
どこなのかは全く分からないが、愁翔が今まで生きてきた世界とは全く異なる世界だということは理解できた。ならばこの幻想的な世界は愁翔の夢の中なのだろうか。いや、それにしてはあまりにも全ての感覚がはっきりとしすぎている。
何か手掛かりはないものか、と周囲を見渡し、それがあるとすれば最初の場所だと思い再び坂を下っていった。
「ッ……!」
下っている途中、愁翔は窪地の端に何かが蠢いているのを捉えた。恐る恐る近づいていくと――。
『キシャァァァ!!』
人間のものとは思えぬ奇声がこちらに向かって放たれた。その数は三つ。
愁翔は咄嗟に身構えていた。声の発生源を凝視してみると、その姿をはっきりと捉えることが出来た。
人間のような姿形、しかし容貌は人間とは言い難い醜悪なものであった。
小学生程度の背丈に、それに見合わない盛り上がった筋肉。獣と人間を強引にかけあわせたような歪な顔。多少の個体差はあるようだが、殆ど同じような顔で三匹は愁翔を睨みつけてきた。その眼前の生物とは――
「ゴブリン……?」
暇潰しにいくつものゲームをやってきたため、RPGの知識が無駄に備わっている愁翔には、目の前でこちらを威嚇してくる生物について即座に理解することが出来た。
『ヴゥゥ……、アァァ!!』
痺れを切らしたかのように、一匹のゴブリンが愁翔に向かって駆け出してきた。
「!!」
どうにかしなければ。そう考えた愁翔は接近してきたゴブリンの直線上から横に飛んだ。しかしゴブリンが腰から抜き放った棍棒が、彼が回避した方向から大振りされる。
息を飲んだ愁翔は咄嗟に腕を盾代わりにして、横腹と棍棒の間に介入させた。
刹那、まず腕に重みがかかり、そこから貫通したように全身へとてつもない衝撃が走った。そして身体が軽々と吹き飛び、岩壁へと叩きつけられる。
「かッ、は……」
衝撃に次ぐ衝撃。そしてそれに見合う激痛が遅れてやってくる。あまりの衝撃と痛みに視界が一瞬眩み、焦点が合わなくなった。
まずい。これは明らかに夢などではない。この激痛がそれを大いに物語っている。
ぼんやりとする視界の中で三つの影がこちらに向かってきている。追撃を受ければ間違いなく終わりだ。
何か、奴らを倒せる何かが必要だ。
こんな時、ゲームや漫画の主人公ならどうやって対抗するだろうか。最も王道であるのは剣であろう。
鋼鉄で構築された、肉や骨すらも両断する英雄の象徴。それがこの手にあれば愁翔でも奴らに抗うことが出来るのだろうか。
朦朧とする意識の中、愁翔は中空に手をかざした。そうしている間にも三つの影はどんどん大きくなっている。
このまま死んでしまうのだろうか。いや、それ以前にそもそも自分は生きているのだろうか。
『アァァァ!!』
ようやく焦点が合った途端、先頭のゴブリンが飛びかかってきていた。それと同時、かざした手の中に零と一の数字が集まっていき、何かを形作っていった。その何かはゴブリンの攻撃がこちらに届く前に完成し、
ガキィィィィン!!
と、甲高い金属音とともにゴブリンの攻撃を完全に防いだ。
愁翔の手中に形成されたものは剣であった。
鈍色の刀身に同色の柄。日本刀ではなく、中世ヨーロッパで使用されていたであろうそれだ。
片手で掲げているにもかかわらず、ほとんど重さを感じない。しかしゴブリンの攻撃を受け止めたはずなのに少し揺らぐだけであった。
軽々と槍や大剣を振るうキャラクターを見てきた愁翔の剣のイメージは、この程度の軽さとして頭のどこかに定着していたのだ。
「ッ……!!」
しかしこれで奴らを倒すことが出来るかもしれないと考え、愁翔は剣を構えて眼前のゴブリンを睨みつけた。