#02 50年の残滓(シングルモルト エラム ファーストディスティラリング -リミテッド-)
その日、シーナは酒瓶を1本、割れないようにとのことなのか、新聞紙で丁寧に包んで持ち込んできた。
開店してまだ間もない時刻、店内にいたのは、僕とピアニストのアッシュだけだった。
僕がいらっしゃいというよりも早く彼女が口を開いた。
「持ち込み代は払うから、いいでしょ? このお酒、ここで飲ませてよ。いや。きっとあなたのほうから飲ませてくれって言うに違いないから」
僕の顔を見るなり、早口でそう言うのだった。
特に文句をつけるつもりもなかったのだが、小言の一つも言いかねない表情をしてたのだろうか。持ち込み料を支払ってくれると言うのならなんの文句もないのだけれど。
コルクで蓋をされた陶器のボトルをゆっくりと、さも大事そうにカウンターの上に置きながらシーナが言った。
「マスター、見てよこれ。ほら、あのエラム高原のビール工場の……そう、エラム ハイランズ ブリュワリーだったかしら? そのまんまの名前よね。でも美味しいわよね。あそこのビール。私はやっぱりスタウトが一番好きね。ここらだと、スタウトはあそこのが一番美味しいもの。あぁ、ごめんなさい。話が逸れちゃったわ」
僕は黙って会話を促す。ひとたび彼女が語り始めたなら、何をしたって彼女の気の済むまで話は終わらないのだから。
「それで、そのエラム ハイランズ ブリュワリーがディスティラリーを建ててウィスキーも一緒に作り始めて、今年でちょうど50年だそうなのよ。で、ここにあるのがその、50年前の初蒸留樽から瓶詰めされた、レアな一本な訳。正真正銘の年代物よ。年代物って言っても、光速航行でいつの物だかわからなくなっただけの恒星間輸入品とはぜんぜん違うわ」
その話を聞き、確かにそれは凄い話だと僕も思った。
エラム ハイランズ ブリュワリーといえば、ここらにあるワイナリーやブリュワリーでは、最も古くからある老舗なはずだ。
確か、第一移民団のうちの数人が老後に共同で立ち上げたと聞いている。
ディスティラリーを併設してウィスキー作りを始めたのは50年前の先代当主だが、ポットスチルは先々代の時代には既に用意されていたと聞くし、いつかきっと……と夢見て受け継がれた、立ち上げからの悲願だったのかもしれない。
「30年間樽で寝かせて20年前に瓶詰めされたうちの何本か、何があったか出荷されずに倉庫に眠っていたのが見つかったからって、身近の人たちだけに限定して売ったらしいのね。ほら、私の客のジョーイさんがあのあたりで仕事してるじゃない? 先代とも仲がよかったらしくてね。私の分も買ってくれたの。ここまでしてくれたんだから、あの爺さんとも一回くらい食事に付き合ってあげていいかもね」
シーナはそこまで語り、僕の方に笑顔を向けた。彼女にお金をつぎ込む多くの客を魅了する、眩しい笑顔だった。
確かに、この笑顔に会うためになら、ウィスキーの一本くらいはジョーイ老人にとって安いものなのだろう。
50年前に蒸留されたウィスキー。コネも金もある身じゃなければ、欲しいと思ってもなかなか手に入る代物じゃない。
酒場の店主として、味わう機会をみすみす失うつもりはない。確かに彼女が言ったように、飲ませてくれとこちらからお願いしたいところだ。
とは言え、わざわざ店に持ち込んでくれたのだ。シーナ自信も独り占めで飲むつもりはないようだった。
「マスター、乾杯しましょうよ。エラムウィスキーの50年に。あなたも一杯どう? アッシュ?」
カウンターの端に座っていたアッシュは、シーナの声に反応してこちらを少しだけ見たが、すぐに視線をもどした。
「後でいただくよ」と一言だけ答え、いつもそうしているように、自分一人の思索の海に再度潜っていったようだった。時折、鍵盤に対してそうするように両手の指でカウンターを叩いている。
そっけなくも聞こえるアッシュの言葉を聞いてもシーナは特に気を悪くした風でもなく、「そう? いつも通りね、あなたは。誰に対しても」と、返しただけだった。
「さあ、それではいただきましょう?」
ボトルを手にし、ラベルを見る。
「シングルモルト エラム ファーストディスティラリング」
ラベルにはそう書かれていた。陶製の瓶に貼られた、ボトリングされた当時のラベル。そして、そのラベル内の空白に手書きで -リミテッド- と書き加えられていた。これは今回、特別に売りに出すに及んで書き込んだのだろう。
手書きであることで、売りに出された数が決して多くはないと想像できる。
僕はグラスを二つ用意し、エラム高原の森を切り開いた丘の上にたつ、歴史ある醸造・蒸溜所の蔵の中に眠っていた貴重なウィスキーのコルク栓を丁寧に抜いた。
滑らかな琥珀色をした液体を、ゆっくりとグラスに沈める。
エラムのあたりは高原地帯で、この辺りよりも気温が低く湿度もほどほどにあり、ウィスキー作りに向いた土地だ。やはり最初からウィスキー作りまでも見越してブリュワリーを立ち上げたのだろうか。
シーナと僕は、お互いそっと自分の顔の前にグラスを掲げ、50年前のウィスキーに敬意を表した。そしてそのままグラスを口に運びそっと傾ける。
高原の空気を吸って眠っていたウィスキーは、しっとりとした舌触りで、浸み込むように口内を潤した。厚みを持った香りが穏やかに膨らむと、そのまま喉の奥に向かって伸びるように消えていった。
エラム高原辺りで採れる、この惑星固有の化石燃料をモルトの乾燥に使用しているらしく、燻るような香りが独特で、深い余韻を残すのだった。
「これが50年という時間の味なのね」
シーナがため息を吐くように呟いた。
僕も全く同じ気持ちだった。
50年前のウィスキーの味は、流れた時間の味だ。
珍しく静かにグラスに向かっていたシーナの表情は、やはりいつになく憂いを含んだものだった。
「150年前に、あの高原でビールを作り始めた人たちは、どんな気持ちだったのでしょうね。移民世代だったんでしょう? 遠い星にまでやってきて、何を思ってビールを作ろうと思ったのかしら」
手元のグラスに視線を向けて伏せた長い睫毛が、時おり、瞬きに合わせて蝶の羽のように上下した。
「この星で生まれた以上、私もどこかでこの星にやってきた移民の子孫のはずなのにね。私にはたった数世代前の先祖に遡る記録さえないわ。スラムに産まれるなんて、まるで泡から産まれるようなものでしょう? そう思わない? でもね、私だって産まれた時と同じように泡に返るのはいやなの。自分なんかの人生にそれほど望むことなんてないけれど、ただ……ただね? 死んだ後にも残るような生きた証が欲しいの。何かを残したいのよ。エラム ハイランズ ブリュワリーの先代が残したこのウィスキーのように」
シーナが何を言おうとしているのか、正直なところ僕にはよくわからなかった。
そういえばシーナはこう見えて、以外と内向的で考えすぎる性格なのだということを思い出したのだけれど、今日は一段と思いつめたようなことを言っている。
最近、気づくと手帳にペンを走らせているのと何か関係があるのだろうかと、この時の僕は、そう思った程度だった。
シーナは、じっと見つめたままだったグラスを手に取り、残っていたウィスキーをクイと飲み干した。もうこれで話は終わりといわんばかりに。
「あなたとアッシュしかいないから、なんだか気が緩んじゃったのかもしれないわ。独り言だもの。忘れてちょうだいね。50年の時間を過ごしたウィスキーの香りに、なんだか心も軽くなったわ」
シーナの表情からは、先ほどまでの憂いが消え、いつものように眩しく、自信に満ちたものになっていた。
「もう仕事に行かなくちゃ。その瓶は置いて行くわ。飲んでもいいけど飲みすぎないでね。次に来た時に私の分がなかったら許さないから」
そう言って支払いを済ませ、コツコツとヒールの音を響かせて店を出て行った。
シーナが店を出て行った後、アッシュが「それを僕にも一杯」と言った。思索の海に潜るのをやめ、シーナが置いていったウィスキーの瓶をじっと見つめているのだった。
突然の声に僕は少し驚いたが、黙って頷いて彼の分のウィスキーをグラスに注いだ。アッシュに一杯出してやったところで、シーナも怒りはしないだろう。
独りの思索に耽っていたアッシュが、先までの彼女の話を聞いていたのかどうかはわからなかったが、50年前のウィスキーに興味を持ったのは確かなようだった。
僕も二杯目をいただこうかなと、自分のグラスにもう一度50年前の液体を注ぎ、寡黙なピアニストと乾杯をしたのだった。