01 二○三五年
【二○三五年】
半径五メートル以内で弾けた爆音で、両耳の鼓膜が破けていた。
鈍く目蓋を開くと、焼け焦げた人参のようなものが瓦礫の中に転がっているのがぼやけた視界に映った。あれは何だろうと、ぼんやりと考えながら視線だけを動かす。途端、血の海に浸った自身の右腕が見えた。肘の少し上辺り、二の腕からぐちゃぐちゃに千切れている。断面は歪で、爆風によって一瞬でもぎ取られたのだろうと把握する。
では、あの焦げ人参は千切れ飛んだ自分の腕か。
現実味のない思考でそんな事を思う。あんなに黒々と焼け焦げてしまっては最新のパッチ・メディカル(継ぎ接ぎ医療)を用いても、繋ぎ合わせる事は出来ないだろう。だが、近頃は自動制御系生命体の研究も進んでいるから、俺の右腕は人工皮膚で覆われた機械に取って代わられるかもしれない。マッド・サイエンティストとして名高い金子先生が俺の身体を喜々として切り刻んでいく姿が容易に想像できた。
あぁ、違う違う、今はそんな事はどうでもいい。
虚ろがかった思考から少しずつモヤが晴れていく。脳裏に蘇ったのは、爆発直前に見た妻と息子の笑顔だ。
今日は、戦場から二年ぶりの帰還だった。日付変更線を飛び越えて、時差ボケも構わず自宅へと全速力で向かった。玄関を開けた瞬間、今年で十二歳になる息子のリョウが「パパおかえり!」と叫んで、俺に飛び付いてきた。二年ぶりに会うリョウは、最後に見た十歳の頃よりもずっと大きくなっていた。
リョウの声を聞いて、リビングから妻のエミーが走ってくる。エミーはその大きな瞳に、薄っすらと涙を滲ませていた。そうして、両手で口元を覆ったまま「無事に帰ってこられてよかった」と呟いた。
実際には、完全に無事とは言い難かった。最前線の攻防によって、俺の指は三本ほど吹っ飛んだし、左足は膝下から千切れ、内臓がズタズタに破裂した事もある。鼓膜なんて三回も破けた。そのうち一回は、味方の新兵が投げた手榴弾によって。
その度に、金子先生はニタニタと笑いながら、俺の身体にメスを通し、内臓を引っ張り出し、自動制御系生命体ーー所謂サイボーグへと変えてきた。
金子先生が言うには『脳味噌の一部と脊髄さえあれば、人間は生き続ける事ができる。その他の臓器なんて生ゴミだ。腹をかっ捌いてコンビニ袋に内臓を詰め込んで、燃えるゴミの日にでも出しちまいな』らしい。
そういえば、親友のリンカーンと作戦について話している時に、こんな事も言っていた。
『小難しい作戦なんざ考えなくても、お前達を全員機械に変えてしまえばいい。そうすれば正面から突っ込んで行くだけで楽に勝てる。生身の人間は、自由自在に動く機械には勝てないからな。もし人間を殺したいのなら、さっさと人間は機械になるべきだ』
それはあまりにも極端過ぎる思考に思えたが、既に身体の幾つもが機械に変わっている俺達は苦笑いを浮かべることしかできなかった。
だが、脳味噌と脊髄だけになって、他はすべて心臓ですらも機械に変わって、果たしてそれはまだ人間と言えるのだろうか。心は『heart』と言う。heart(心臓)を無くした身体のどこに心は宿る。魂の在処は、心臓か、それとも脳味噌か脊髄か。それとももっと別の、何か次元の異なる場所に存在しているのか。
そんな普遍的かつ青臭い思考が時々思い浮かぶこともあったが、問題なく動いてくれる限り、すげ替えられた機械の指も、体内の機械も、俺にとっては元々あった身体と大差なかった。
何よりも、俺には愛する妻子がいた。愛というのは、非常に解りやすい『心の存在証明』だ。心がなければ、誰かを愛する事はできない。だから、妻と息子を愛する俺には心がある。機械ではない。単純思考だが、明快極まりない真理だ。
愛おしい家族が俺の手を引いてリビングへと連れて行く。リビングのテーブルの上には、豪華な御馳走が所狭しと並べられている。テーブルの真ん中には、大きなショートケーキ。チョコプレートに『パパおかえりなさい』の文字が書かれていた。
エミーが訊ねる。
「暫くは家に居られるのよね」
「あぁ、一年は飛ばずにすみそうだ」
隊から離れる際に、一年の平穏だけは保証された。そもそも俺が所属していた部隊といえば、非常に血生臭く、人間味のない所だった。名目上は『アメリカ合衆国に危害を加える可能性が非常に高いテロリスト集団の掃討』だったが、実際そのテロリスト集団の確固とした名称を教えられた事は一度もない。ジキル少佐は、一度も俺達に明確な対象・動機を与えなかった。いつだって、この世界すべてが退屈だと言わんばかりの表情で『翌朝、出撃だ』と命じられるだけなのだ。
そして、言われるがままに俺達は出撃し、敵と見なされた人間を銃と爆薬で薙ぎ払って行く。時には破壊された市街地で、時には鬱蒼としたジャングルで、空から降下する時もあれば、泥沼から這い上がる時もある。そうして、何十何百もの死をもたらす。飛び散る血潮を何百リットル浴びたか、俺には想像も付かない。
勿論、敵と言えども人を殺すことに良心の呵責がなかったわけではない。罪悪感も確かに〈あった〉。
過去形で語ってしまうのは、出撃前に繰り返し行われたセラピーのせいだ。出撃前の兵士達には、必ずディスクリミネーション・カウンセリング(識別指導)、通称DCと呼ばれる面談が行われた。その名のまま、敵と味方とをはっきりと識別・差別するカウンセリング、もとい洗脳だ。
まずカウンセリングを始める前に、人のいい笑顔を浮かべたカウンセラーがこう言ってくる。『君が一番愛している人達の顔を思い浮かべて下さい』。俺は、妻と息子の姿を思い浮かべる。そうして、カウンセラーが言う。『それが貴方が愛すべき〈味方〉です』。これを飽きるほど繰り返し続ける。脳髄の奥の奥、脳味噌の皺の隙間にまで染み込むように、何度も何度も。
カウンセラーは最後に言う。『貴方が明日殺すのは、貴方の愛する〈味方〉を殺す〈敵〉です。貴方が〈敵〉を殺さなければ、愛する〈味方〉が殺されてしまいます』。その言葉で、不意にすとんと納得してしまうのだ。そうか、それなら敵を殺すのは間違いではないと。正しいことなのだと。自分がやらなくてはならないのだと。
DCを受け続けると、自分の脳味噌にスイッチが付いたような感覚が味わえる。家族や仲間に対する愛情深い己と敵に対する残虐なまでの己、それがまるでスイッチを押したかのように瞬時に切り替わってしまうのだ。
薬物も胃の中でじゃらじゃらと音を鳴らすぐらいには飲まされたし、注射も何本も打たれた。もしかしたら危ない薬物だったのかもしれないが、誰もその事について深く言及しようとはしなかった。誰だって、好んで殺人の苦悩を味わいたいと思わないだろう。DCと薬物投与のおかげで、帰還した後もPTSDに苦しまなくて済む。
一度スイッチが付いてからは楽なものだ。目の前にいるのは『敵』であって『人間』ではないのだから、ただシステマティックに撃ち殺せばいい。人間ではないのだから、罪悪感を抱く必要もない。敵に残虐であればあるほど、味方に対する愛情は深まっていく。俺の場合は、残してきた妻子へと。
リョウの小さな掌が俺の節くれだった掌を掴む。銃もナイフも握ったことのない、硝煙ではなく粉砂糖の匂いのする掌が愛おしくて堪らない。
短く切られたリョウの黒髪を撫でる。リョウがエメラルド色の瞳で、俺を見上げた。髪の色は東洋系の俺の血を引いているが、その大きな碧眼はエミーに似ている。子供らしさが滲んだあどけない顔立ちだ。
「パパ、明日はどこに遊びにいくの?」
帰還したら動物園に行こう、水族館に行こう、遊園地に行こう。そんな話ばかりを出国前にしていた事を思い出す。
そうだな、何処に遊びに行こうか、と呟いた時だった。キッチンカウンターの下に、上半身を折り曲げるようにして屈んだエミーが「あら」と不思議そうに呟くのが聞こえた。エミーはオーブンを覗き込んでいた。
「これ何かしら?」
結局それが何なのかエミーには判らないままだっただろう。次の瞬間、真紅の閃光と共に全身の骨を粉々に砕くような激しい衝撃が襲いかかった。
目が覚めれば、戦場よりも戦場らしい、血の海に俺は横たわっている。瓦礫の山からは、未だ白い硝煙がぷすぷすと燻るように立ち昇っていた。血管の隅々まで鉛を流し込んだように、全身が重たくて動かない。眼球をぐるぐると動かして、エミーとリョウの姿を探す。
瓦礫の上に、エミーの金色の髪を見つけた。頭皮ごと剥がれて、瓦礫にへばりついている。瓦礫には、バラバラになった肉片が幾つもこびり付いていた。おそらくはエミーの身体だったものだ。爆発の直撃を受けたのだ。身体の原型すら残っていないだろう。
そうして、自身の左手の先にリョウの手を見つけた。俺の手をぎゅっと握り締める、小さな手。手の先を、視線で辿る。その手は、肘から先が途切れていた。その小さな身体は、爆発で粉々に弾けていた。
その瞬間、確かに自分の頭の中でスイッチが押される音が聞こえた。カチッ、と冷たい鉄を爪で弾いたような硬質な音だった。
気が付いたら、誰かが肩を揺さぶっていた。一緒に国に帰還したリンカーンが血塗れの俺を抱き抱えて、黒塗りのワンボックスカーへと運んでいく。俺の手は、千切れたリョウの手を掴んだままだ。
何かぷらぷらと揺れているかと思ったら、腹から飛び出した腸が地面すれすれの高さで揺れていた。その光景に笑い出しそうになる。しかも、俺の下半身は殆ど吹き飛んでいた。それでもまだ生きているのは、すげ替えられた機械の内臓のおかげか、それとも戦場で飲まされ続けた薬物のせいか。それとも、いつの間にか俺は人間ではなくなっていたのかもしれない。
ワンボックスカーの中には、慣れ親しんだ顔があった。マッド・サイエンティスト金子先生。金子先生があのニタニタとした笑みを浮かべて、半分に千切られた人形のような俺を見下ろす。金子先生へと掴んでいたリョウの手を差し出す。
無音の世界の中、唇を動かす。
『機械、が、いい』
今は一秒でも早く、何も感じない機械になりたかった。