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青春スモッグ。

作者: 雨.

 がら、がらがら。

 重い扉を引けば引くほど胃がキリリと痛む、きゅうきゅうと締め付けられる。朝からこんな調子だ、開いたドアから見える教室の風景に吐き気がした。動悸ばかり高鳴って足がひざから細かく震えている。まるで全力疾走したかのような息苦しさに余計に胃がさらに引き攣る。


 いっそのこと校庭をぐるぐる走り回っている方がいい、これなら。全校生徒に校舎から見下ろされて馬鹿にされて嘲笑されても走っている間はそれだけに集中すればいい、噴出す汗、あがる呼吸、髪をすくい頬を撫でる風、いっそそのほうがいい、先生お願い罰として校舎一周でも校庭十周でもなんでも命じて。先生お願い。私に健全な疲れをください、先生。




     青春スモッグ。



「学校なんて嫌い」


「へえ、それはまた月並みだなあ」


 結局教室に入ることはかなわなくて、私は今度こそ全力疾走で先生のいる保健室へと逃げ込んだ。私を追うかのように狭い校舎をけたましいベルの音が揺らす。ゆらゆらと揺れる不安定な廊下をなんとか走りぬけ、真っ白い部屋へと飛び込んだ。薬品のつんとした匂いに混じる、かすかな煙草のかおり。


「先生、私いじめられてるんだよ?」


「そりゃ、大変だなあ」


 絶対思ってない。大変だとか欠片も思ってない。その証拠に先生は空になった煙草の箱を覗き込んで、もう一本くらいないかなみたいな顔してる。大人の癖に、先生はそういう間の抜けたことばかりする。

 多分だからこそ、先生は私の声を聞いてくれる。私の言葉に返事をしてくれる。私の形をわかってくれる。



「もういいですー」


 むうと膨れてみせても、先生の興味を引くことはできなかった。


 6人がけのテーブルを占領し、がばっと突っ伏す。朝の保健室はとても冷えている。教室の熱気とは対照的だ、静かで穏やかででも冷たい空気。それをうまく調合するのが先生のたばこ。本当は駄目だとおもう、保健室の喫煙なんて。でも先生の煙草とコーヒーの匂いは、保健室の潔癖ともいえる冷酷さをマイルドにする。よくわかんないけど保健室登校の私は教室に入れなくて保健室に来てるんじゃない、先生が作り出す空間が愛しくて通ってる。学校は嫌いだけど、保健室だけは特別。この空気の中になら、溶けてもいいと思えるほどに。



「いじめられてるなんて自慢すんなよ、だっせぇなあ」



 空の煙草をあきらめたと思ったらちゃんと予備があるらしい。先生がデスクの棚をがらがらとあけると予備どころかカートンで入ってる。


「ださいなんて言われなれてますからー」


 先生、そんなことよりこっち向いてよ。だってそうでもしなきゃこっち向いてくんないでしょ。自慢じゃなくて、気を引きたいわけ。そこんとこ誤解しないでよ。

 ボサボサの頭ばっかり見てるのはもうあきたんだよ。まだ三日目だけどさ。

 



「だからそういう態度やめろっつってんの」



 つーか教室帰れお前、といわれていやですときっぱり言い切る。

 先生は特に強制はしない。会話はそこで終わって、私はいつものようにテーブルの上に教科書を広げて勉強を始める。勉強は嫌いじゃない、成績も悪くない。でも教室は嫌い。授業料の無駄だな、先生がこっちむいてくれもしないし。

 


「お前さぁ、もしかしてここに通う気?」


「はい、卒業まで」


「……ずっと保健室に来て単位とれんの」


「多分、大丈夫なんじゃないですか?」


「俺知らねーからな。自分でなんとかしろよ」


「しますよ、」



 先生に会うためならどうとでも足掻いて見せます。

 たったそれだけの言葉が言えない。多分先生に言われるのが怖い、俺はお前なんかに会いたくないと。予感なんてもんじゃない、確実に言う、先生ならそれくらい簡単に口にして、同じ口で美味しそうに煙草を咥えるんだ。



「先生〜」



 扉の音と共に、甘くかわいい女の子の声が私と先生の空間を終わらせる。お腹を抱えて入ってきた女の子には、見覚えがあった。ゆるく巻かれた長い茶髪。その手の抜かれたウェーブが、実はとても高い計算の結果のもとに編み出された角度、巻き方、膨らみ具合のもとに行われているとは微塵も思わせない美しい流れ。そしてそれに良く似合う愛らしい顔。



「お腹痛ーい。寝かせてくださいー」



「さぼりじゃねー証拠は」



 ゆっくりと保健室のドアを閉めた彼女は、先生に一枚の紙切れを差し出した。彼女の名前と担任の名前と判子。保健室利用理由に『腹痛』とかかれている。



「おっけ。じゃ、適当に好きなところで寝てろ」



「はーい! あっりがとうございますっ」



 先生の了解の直後、がらりと彼女の表情が明るく変わる。どうせ仮病使ってきたんだろう。悪びれる様子など欠片も見せず、彼女は先生から私へと目を移した。

 おかしいくらい、体が反応する。びくり、椅子ががたんと弱気な音をたてた。飛び跳ねるからだ、挙動不審の視線。


 ――だから、消えて?


 言葉が耳元でうわんと反響する。彼女の小さな桃色の唇はピクリとも動いていない、これは幻聴だとわかっていても視線は回る、高速回転。反して頭はフリーズしたまま機能停止する。

 彼女はすぐに先生へと顔を向ける。そして口の端をあげて笑った。



「……先生、保健室空気悪くない? 入れ替えした方がいいかもよ。……意味ないかもしれないけどぉ」




 それだけ言い残すと彼女はさっさと奥のベッドへと向かった。真っ白い布団に紺色の制服と細い体が滑り込む。そしてそのままカーテンを閉めた。


 心臓が暴れている。どくどくと、不規則な音で震えている。

 おかしくなっているという意識すら起きない。小さく震え続ける指先から、シャーペンが音をたてて落ちた。



 彼女にとって、クラスメイトにとって、私はひとじゃない。

 ただの空気だ。

 といっても清清しいものなんかじゃない。

 都会の空を覆う重い灰色のスモッグ。煙たがられて追いやられる、汚らしい空気。


 ――だから、消えて。


 そういわれて返す言葉を失った、涙すらこぼれなかった。

 だから私は皆に嫌われていたのだと、ああそうなんだって。ただ納得した。


 納得したはずなのに、この反応はなんだろう。情けなくて乾いた笑いすら出てしまう。


「ここも、空気、汚れちゃった……?」


 ぼそりと呟いた声は、保健室に響くことなく消えた。

 そんなことない、って声もする。体の中で小さく、枯れそうな声で、そんなはずはないって悲しみが声を上げている。でもそれを受け止められるほど私は強くない。


 ――ほら、先生も返事しない。ここも私の安らげる場所じゃあないんだ。空気の声なんてどこにも届かない、何にも響かない、ただ消えるだけだ。


 教科書を閉じて筆記用具ごと乱暴に鞄にしまう。混乱したからだは当たり前のことすらうまくこなせない。鞄を閉じる事さえできなくて、開けっ放しのまま立ち上がる。

 彼女が私に向けた視線。それだけでこんなにもおかしくなってしまうなんて。


 境界線が曖昧になっていく。

 空気のように、スモッグのように霧散して消えてしまおうと自分からしてる。

 震える視界がぼんやりと滲んで崩壊し始めた。

 


「何だよ急に。まさかもう帰る気?」


 鞄を持って立ち上がった私の手首を先生が捕らえた。掴まった私は、ふらりと揺れる体をそのまま留めて、ゆっくり座ったままの先生を見下ろす。


「空気汚れたとかなんだそれ? 俺が煙草吸ってんのはいつものことだろ」


 やっと、見れた。眠たげな瞳、癖のある前髪、性格そのままの無精髭。

 やっぱり先生は間抜けだ。彼女が言ったのは私に対してのことなのに。その表情はただぽかんとしていて、全く気づいている様子もない。

 

「まあ、お前が帰りたいなら、無理に止めはしないけど」


 そうは言っても、先生は手首にこめる力を緩める様子はない。

 視線も逸らさない。

 

 ――手首が、熱い。

 先生が握った手首から確かに、熱が走る。形のないものに意識を手放そうとしていた私が、熱にひきつけられる。

 ぼんやりとしていた視界が、徐々に明瞭になる。そうして自分が空気からもとの形へと収まり始めたことも知る。

 すっかりできあがった私を生温い保健室の空気が私を包み込む。

 元通り人の形に収まってしまったら、ぼやけた煙になることはできない。

 


 逃げられない。


「脈拍……早くなってる」


 先生がさりげなく脈を取っていたらしい。やっぱり、変なひと。おかしくておかしくて、涙が零れた。

 保健室登校になってから、初めてこぼれた雫。今までは私の体ごと空気になって、涙など消えたつもりでいたのに。

 ひりひりと涙が肌に沁みる。こらえ続けた涙の塩分濃度はその分濃厚になっていて、ひどく沁みた。


「……帰るの、やめ、る」


 先生は、ずるい。私に全てを誤魔化す罰なんて下してもくれない。どうしてわかるんだろ、私が一番恐れていること。

 彼女は今もまだ起きていて、ベッドの中で聞き耳を立てているかも知れない。もしくはすっかり熟睡しているかもしれない。

 彼女の眠るベッドを囲う白いカーテンを強く睨みつける。カーテンに走る皺、そこに生まれる影、長い歴史を感じさせる染み、全てを。

 

 けれど耐え切れずに体に小さな震えが走り、胃がぎゅうと痛みを訴える。駄目だ、やっぱり駄目なものは駄目。


「先生これからも私を時々でいい、捕まえてください」 


 そうすれば私は私でいられる。

 空気からひとへとなれる。

 そしたらいつか、教室の中でもひとの形でいられるかもしれないから。少なくとも今は逃げずにいられるから。

 怖いものは怖いし、痛いものは痛いけど、でも、目を逸らさない勇気をくれるのは、どうやら先生みたいだから。


「いや、やっぱりときどきじゃなくて、ずっとでもいいけど」


 先生は私の手首を掴んだまま固まっている。女の涙に弱いのか、私が変な事を言っているからなのか。

 ただその呆けたような顔はとても可愛くて思わず顔がにやけた私に、先生は首をひねった後「何だそれ、青春?」 とまたも間の抜けたことを呟いた。 

 


 

 



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