逃走
闇の奥に迸った雷光に浮かび上がった彼の姿を見てから、ずっと耳元で音が鳴り続けて止まらない。
鏡を見なくとも自分の顔が何色をしてるかなど簡単に理解出来た。握ったまま固まってしまった拳を見れば誰だってわかるだろう。
背後で突然竜巻が起こってから、耳元で鳴る音が一層大きく聞こえるようになった。指先の冷たさが気にならないほど、彼女は強く拳を握っていた。爪が手の平に食い込む痛みすら凍えてしまったようだった。
また悲鳴が上がった。また音が大きくなった。
目の前の男が愉快そうに笑っている。隣の人が倒れた。
目の前を一つの影が通り過ぎた。
それを知っている。知らないわけがない。
彼女は、彼女は、彼女は。
彼女は恩人の一人だ。
目元から暖かいものが伝った。
男が口角を吊り上げた。その瞬間、彼女は手枷を嵌められた友人の手を掴んで走り出した。
伸ばされる男の手にポケットから抜いた札を押し付け、それが紫に輝いたことを一瞬だけ見ると足を止めることなく走った。
そこかしこで上がる悲鳴を黙殺し、倒れたみかたを足蹴にして彼女は必死に駆ける。
ふと気がついたときには自分はどこともわからぬ地面に寝転がって空を見上げていた。
酷く息苦しく、心臓が破裂しそうだった。
隣を見れば腰を抜かしたようにへたり込んだともだちが肩で息をしながら笑っていた。
あの男はいない。ともだちだけここにいる。
鳴海明日香は西野桃花を連れて森の中に逃げ込んだ。
女性降魔師を一人蹴り倒したところで背後から敵意を感じた最上妹は片足を引き戻す暇もなく残った軸足で大きく横に跳躍した。
体を捩って体を反転させ、危なげなく着地した彼女が見たのは短刀を突き出したまま驚愕の表情を浮かべたまま硬直している男の姿だった。
仲間が多くいる混戦の中では確かに札を使った攻撃では味方を巻き込む可能性があって使えない。だからこそ接近戦で最上妹を狙ったようだが、考えが甘かった。
しかし彼女も内心では驚いていた。周りには札が使えないせいで攻め手に欠けてしまい、ただあたふたと逃げ惑うばかりの大多数の降魔師の中で、男は用意周到にも近距離用の武器を携帯していたのだ。
ならば何故仲間にも徹底させなかったのか、という疑問が浮かんでくるが、探求するほどの興味はなかった。
この集団のリーダー、或いは指揮官の技量はさほど大したものではないようだ。正規の軍隊までとは言わないがある程度の指揮能力があればまた違った結果になっていただろう。
最上妹は既に勝敗を予見しているようだ。
勇敢にも素手で飛びかかってきた降魔師の殴打を受け流し、拳を突き出したままで伸びた腕を引き寄せながら重心の乗った軸足を払った。
顔面から地面に落ちた降魔師を横目で見つつ、再び短刀を振りかざして突撃してきた男に向き合う。
近距離戦の心得は多少あるようだが、経験豊富な最上妹にとっては素人と何ら変わらない。
上段から振り下ろされる短刀を片足を引いて半身になって危なげなく避けると引いたことによって少しの勢いがついた足で短刀を握った腕を鋭く蹴り上げた。
腕が稼働域ぎりぎりまで反り返ったことで肩の筋を痛めたらしい男はくぐもった悲鳴を上げながらよろよろと後退した。
男が取りこぼした短刀を拾い上げ、見向きもせずに背後に投擲するとまたしても悲鳴が上がった。気配を消して接近したつもりなのだろうが訓練不足もいいところだ。一度だけちらりと視線を背後に遣ると手に持った札ごと手の平を貫かれた降魔師が泣きながら自らの手を見ていた。
意識を再び前に向け、肩を押さえたまま最上妹を睨む男の懐に一歩で入り込むとわずかに遅れて付いてきた右膝をそのまま男の腹に叩き込んだ。
くの字に吹き飛んで仲間を巻き込んだ男から視線を周囲に向けると恐々とした視線で最上妹を見る降魔師たちが一斉に悲鳴を上げた。
大の男の大人も混じったその光景を見て、上にいるであろう兄に何の心配もいらないだろうと結論付けた彼女をここで敵を減らすことに決めた。
強さのつの字すら皆無な敵に、誰よりも強いと信じている兄が負けることはないと確信している。多少のトラブルすらはねのけてしまう兄を心配する必要はない。
最上妹に目を付けられた降魔師の受難はまだまだ続くようだった。




