狐のやさしさ
「ダメだよ……。狼くん、ダメ、だよ」
弱々しくもしっかりとした声に、衛は視線を動かした。
倒れたまま自分を見つめるお稲荷様の痛々しい姿に、衛は拳を握り締めた。そんな彼を見て、お稲荷様は続けた。
「それ以上はダメだよ……。ね? 私は大丈夫だから」
そういって笑って見せるお稲荷様に衛は苛立ちを感じた。
何故止めるのか、何故人間を罵らないのか、何故無理をしてまで笑顔を浮かべようとするのか。片腕を根元から断たれた姿のどこが大丈夫に見えるのか。
衛は歩を進めた。
例え自分の中の何かが壊れてしまおうとも、自分の大切な人を傷つける要因は全て排除してしまいたい。それが、殺人といういままで越えまいと必死に踏みとどまってきたものを踏み越えることになっても、衛は微塵の躊躇を感じないだろう。これは必要なことでもあるのだ。現に今、お稲荷様は泥と血に濡れて倒れ伏しているのだから。これ以上、自分の大切な友達たちが傷つけられるのならば、全てを引き裂いてでも彼らを守ろう。その結果として、人間に戻れなくとも、彼らと共に生きていくのも悪くないのだから。
だからこそ、衛は許さないし、許せないのだ。
しかし、たった一歩踏み出しただけで足は動かなくなってしまった。
今の衛にはしっかりと見えていた。足元に刻まれた一本の線が、進めば戻れなくなると音もなく告げているのだ。
衛の決意はしっかりとしているが、それは所詮頭で考えた事柄に過ぎない。より自分自身である心は、頭で考えたことを実行するのはそう簡単には出来ないのだ。
お稲荷様がこうして大怪我をさせられたことには心も怒りを覚えている。しかし報復だと頭が騒いだところで心は易々と頷けない。納得することができない。それは良くも悪くも衛の心は人間でしかないということを暗に教えているのだろう。
いくら動かない足を叱咤したところで無駄なことなのだろう。
くそっ、と悪態をついた衛の視界はかすかにぼやけていた。ご大層な決意の裏ではこんなにも情けない。そんな自分に激しい自己嫌悪を覚えた。
「お願いだから……もう、やめよ? 狼くんがそんなことしちゃいけないんだよ」
儚い声が震える心に染み渡っていく。
――人間に戻れなくなっちゃうよ……。
もしかしたら、戻ることを望む本人よりも、彼女の方が強く願っているのかもしれない。
ここで人間を殺してしまえばきっと人間に戻れなくなってしまうとお稲荷様は言いたいのだろう。それは衛自身も薄々とは感じていたことだった。
同族殺し。
体が人間に戻ったとしても、心が人間のままで入られる保証はないのだ。心が重すぎる罪の意識に押しつぶされてしまうかもしれない、過去を引き摺ったせいで危険な方向に向かってしまうかもしれない。
お稲荷様はそう訴えているのだと、衛は理解した。
理解して、衛は心の底から彼女の優しさを感じた。
はっきりと見える足元の境界線の前で、衛は膝をついた。
お稲荷様の気持ちを無下にしてまで、衛には人間を殺せない。彼女の優しさを無視することなど出来ない。
お稲荷様を傷つけた人間たちに向かっていた怒りが行き場を失って、今度は自分へと向けられた。
どうしてもっと早く来なかった。どうして気づかなかったのだ。
「くそっ!」
やり場のない苛立ちが口をついて出た。と、そのとき。徐々に近付いてくる足音を衛の聴覚は捉えた。
血まみれの腕で立ち上がり、重い体を神社の入り口に向けた。衛の動きに反応してお稲荷様も同じところを見つめる。
敷地の真ん中に近い場所にいる衛には、随分と荒れてしまった境内の様子が見渡せた。ぼろぼろになってしまった神社の中で、一番酷く見えるのは倒壊した社務所と残骸と化してしまった参道入り口の狛狐像だ。その奥から足音が聞こえてくるとういのだから誰かは、もしくは何かは階段を上っているのだろう。
一度確認するように靴擦れの音が止まり、ゆっくりとそれは姿を現した。
光沢のないシルクハットに腹部が張り詰めた燕尾服。いつかの再現のように小脇に見覚えのある女の子を抱えた男は少々驚いた顔で衛を見つけて、気味悪く口角を吊り上げた。いや歪ませたといったほうが適切だろう。少なくともこの男の心はこの気持ち悪い笑顔の何倍にも歪んでいるのだ。その歪みが顔に出たとしても何らおかしくはない。
手入れの行き届いた艶やかで美しい黒髪が、シルクハット男の腕の中で風に靡いた。




