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モノノケカミカミ  作者: 水島緑
満月の光は優しく
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再来

 赤い雫がスローモーションで迫ってくるのを、どこか他人ごとのように見ていた。

 生暖かい雫が頬に付着して、ゆっくりと滴り落ちていく感触を鈍くながら、衛は右手に握り締めた何かに目を落とした。

 わずかに温度を感じられるそれは赤く染まった人間の右手首。ちょうどお互いの手首を握り合っているように見える。だらりと垂れた肩甲骨が剥き出しの腕を適当に放ると、視界が広くなった気がした。

 放り投げた腕は何かに、いや誰かにぶつかり、体を伝うように地面に落下した。土の上に落下した衝撃で肩口の切断面から生々しい肉片と、血飛沫が飛び散った。

 気取っているのか、本職なのか、真っ白い狩衣の前を赤く汚した男が自分の欠けた腕を見下ろしながら震えていた。

「い、いやだっ……殺さないでぇ!」

 自分よりも一回りは年上であろう男が涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら地面に頭をこすり付ける姿を見て、衛は何も感じなかった。情けないだとか、見苦しいだとか、そういった感情は一切沸かなかった。

 この懇願が、悲鳴が、お稲荷様に重なってしまい衛は苛立ちを募らせていく。まるで時間を遡ったようにお稲荷様の傷だらけの姿が眼前に浮かんでくる。

 泣きじゃくる男を無視して辺りを見回すと、目の前の男と同じように地べたを這いずりながら、腕が腕がと喚いている人間たちの群れがそこにはあった。全員肩から先を失くしていて、左腕で出血を抑えながら衛を睨みつけていた。

 この場にいる人間の中で無事なのは鳴海明日香ただ一人だった。

 その鳴海も呆然と立ち尽くしていた。目の前の惨状はとても受け入れ難いものなのだろう。こんな凄惨な光景に触れたことがなく、戦闘行為に下手に慣れてしまっているせいで現実逃避ができないのだろうか。とにかく彼女はしばらく動かないであろうし口を開くことはないだろう。

 足を前に出して怯える男に近づく。遅れて靴擦れの音が耳に届いた。やはりどこか感覚がおかしくなっているのだろうか。音が遅れて聞こえることなどそうないはずだ。

 衛が近づいてきたことで、男は殊更に悲鳴を上げた。がくがくと体を震わせ、額を地面にこすり付けて殺さないでと呂律の回らない口で言葉を発して泣き喚く姿を無感情に眺めて、なんて無力なのだろうと頭の奥で囁いた。

 寄って集ってお稲荷様を傷付け、それでいて自分が傷つけられる、いや殺される覚悟を持たないでこうして大の大人が死にたくないが為に無様な姿を晒しているのは見るに耐えないものだ。お稲荷様はきっと命乞いなどしなかっただろう。たとえお稲荷様が懇願したところでこの人間たちは容赦などしなかっただろう。

 だから自分も同じことをするだけだ。

 どんなことがあっても踏み止まってきた一線に、衛は易々と踏み込んだ。

 ――殺す。

 再び視界が赤く染まる。

 町の外れでは凄惨な出来事が起きているのだが、同じ町の中で暮らしている人間はそんな血生臭い惨状が身近で起きていることなど知る由もないだろう。今までも気付くことがなく、そして恐らくこれからも気付くことはないだろう。

 人間に似た化け物が紛れていることなど生涯で気付くことはあるのだろうか。

 肌寒い秋の空の下、お手頃な値段で良い品物を提供してくれる優良店から出たトーコは予感めいたものを感じて、周りを見渡した。

 陽が暮れた空は既に月が顔を出し、のんびりと姿を消す太陽に、さっさと沈めとばかりに輝き始めていた。

 学校帰りの学生や、買い物途中の主婦がちらほら目についてもいいはずなのだが、今日は人っ子一人姿が見えない。ましてやここは駅前だ。町の中でも盛んな場所であるはずなのだがどうしたのだろう。

 安物の腕時計に目を落とす。店内を物色して悩んだ挙げ句に数着服を買ったのだが、かなり時間が経っていたようで見上げていた太陽はもう少しで沈んでしまいそうだった。

 葉を散らしてしまった木のように静かな道を歩いて帰路につこうとして、トーコは足を止めた。

 目の前に鎮座する腹に響く重低音を吐き出す排気口がそう月日が経っていないのに懐かしく思えた。

 あの日、この場所で、初めてあの人に出会った。もしかしたらこれが運命なのかもしれないと、トーコは恥ずかしそうにそっと呟いた。

 彼と知り合ってから、トーコは人間を騙して精気を吸い取ることはしなくなった。元々人間と同じ食事でも生きていけるのだ。弱体化はしてしまうが戦う種族ではないトーコにはあまり問題はない。何より、彼が眩しかったのだ。彼が何かに苦悩していることは初対面のときからわかっていた。しかしお稲荷様から詳しい話を聞いてから、トーコは彼を尊敬するようになった。どれだけ悩んでも決して諦めず、挫けてもまた立ち上がって人間に戻ろうとする強い意志にトーコはこれ以上なく惹かれたのだ。

 そして一つの欲求が生まれた。

 彼がそこまでして戻りたがる人間とは、どれだけ素晴らしい生き物なのだろうか。幸いに自分はほとんど人間に近い。だったら彼が目指す人間に、自分の成れるのではないだろうか。

 その為に、トーコは弱くなることを厭わずに精気を吸い取ることを止めた。

 男なんていなくなってしまえばいいとすら思って誘惑し、絶命ぎりぎりまで精気を吸い上げてきた過去の自分から見ればとんでもない変化なのだろう。

 今まで以上に人間として生活していくようになった。そのおかげて毎日がこれまで以上充実していて、楽しくなって、もっと人間に憧れた。

 彼が全てのきっかけで、これからも彼を追いかけ続けるのかなと考えて、答えは簡単に出た。

 かつんと背後で靴底がアスファルトを叩いた音がした。

 怪訝に思って振り返ると、見覚えのあるシルクハットが視界に飛び込んできた。

 慌てて踵を返して逃げようと地面を蹴った瞬間、物凄い衝撃が後頭部に突き刺さった。

 鈍い音が狭い路地に反響するのを聞きながら、トーコはなにもできずに意識を失った。

 燕尾服の下で脂肪が揺れた。

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