落ちた腕
全身が粟立つよりも早く、衛は駆け出していた。
衛の先で階段を登る鳴海を半ば突き飛ばすようにして押しのけると一息に駆け上がっていく。
突き飛ばされてふらついた鳴海は危うく階段から転げ落ちるところだったが、衛はそれさえも眼中になかった。
緊張のせいで呼吸が荒くなってしまっている。この先を、稲荷神社を見るなと衛の野生混じりの勘が警鐘を鳴らし続けている。だがここで帰るわけにはいかない。このいやな予感が稲荷神社からのものであれば尚更だ。何もなければそれでいい。何かあったときには……。
段数を重ねるにつれてひび割れの多くなっていく石階段に、悪い予感は加速していく。
衛は思わず息を詰まらせた。
階段を上りきった先にある、狛狐像のうち二つ、一つの像がなくなっていた。
いや違う。これはなくなったのではない。本来像が鎮座していた場所をよく見れば小石のようなものが小さな山になって積もっている。これはおそらく木っ端微塵にされた狛狐像の欠片なのだろう。
反対側の狛狐像も崩壊こそしてはいないが大破してしまっている。
一息入れる間もなく、衛は走り出した。
「嘘だろ……なんだよ、これ」
自分が息を呑んだことに気づかなかった。
口の中の水分が急速になくなっていく。まるで足元の地面が消失していくような感覚にふらついたが、衛はそれすらも気づくことがなかった。すべての事を置き去りにして、衛が目の前の光景を凝視した。
大きく見開かれた衛の目には、これ以上ないほどに荒らされた稲荷神社が映っていた。
綺麗好きなお稲荷様が毎日欠かさず掃除している参道は見るも無残に敷石が捲りあがり土が剥き出しになっていた。お稲荷様の住居である社務所はどうやったのかわからないが倒壊して瓦礫の山と化していた。反対側の絵馬殿も横転して少ない絵馬が地面に転がっていた。
衛の位置からでは本堂の辺りは見えないが同じように滅茶苦茶になってしまっているだろう。何より衛の眼球を掴んで離さないのは、数十人の降魔師と思われる人間の輪の中、人間の上半身が密集して輪の中は見えないが、足の間にはある程度の隙間がある。
自分の中の狼が牙を剥き出しにするのがわかった。しかし衛はそれを止められず――いや止めようとはしなかった。
何故なら。
見覚えのある巫女装束と狐の尻尾が降魔師の群れの隙間から見えたからだ。
土の上で倒れているせいで巫女装束は泥まみれだ。だが、それだけじゃない。
本来なら真っ白なはずの、持ち主の性格のおかげでいつも純白だった襦袢があちこちに土を付着させそして、赤く、真っ赤な血の色に染まっていた。
一瞬、衛に視界が真っ白な光に染め上げられた。光はすぐに消えたが、衛の視界は元には戻らなかった。
襦袢を染める赤と同じ色に変化したまま、衛はようやく振り返った降魔師を見た。
「なによこれ……ちょっとどういうことなの!? 話が全然違うじゃない!」
「お、早かったな。ま、これも物の怪だからな。殺しても問題になるどころか褒められるだけだろ?」
これ、と言って衛の後ろに立ち尽くす鳴海に見えるように一人の男が輪から離れてお稲荷様を指差した。
男が場所を開けたことによって倒れ伏したお稲荷様の姿が全て見えた。背後で鳴海が息を呑む音が、遠く聞こえた。
苦しげに顔を歪めて痛みをこらえるお稲荷様の右腕が、肩からなくなっていた。傷口から溢れる血液は彼女の体をますます赤く染めていく。苦悶の息を漏らしながら左腕で傷口を押さえてはいるがそんなことでは止血は出来ないだろう。
痙攣するように小刻みに震える狐耳がひどく痛々しい。顔色も青ざめている。お稲荷様の足元には恐らく切り飛ばされたであろう右腕が力なく転がっていた。
自分の後ろで、鳴海が震えているのがわかった。こんなことになっているとは思わなかったのだろう。だが、衛はそんなことに興味がなかった。いや、なんとも思わないといったほうが正しいのだろう。
あるのは視界を赤く染めるほどの殺意だけだった。
この場にいる誰にも知覚出来ない速度で衛は動いた。
彼の眼が金色に輝いていることは、誰にもわからなかっただろう。
衛は心のままに、どうしようもない衝動に突き動かされるまま、目を開き続けた。




