ひとときの休息
寝ぼけ眼を擦りながらリビングに入った最上妹は、テーブル前の椅子に深く腰掛けて目を瞑る衛が自分の家にいることに首を傾げた。
しかしそんな些細な疑問をキッチンで料理中の兄に尋ねるわけでもなく、最上妹はとりあえず衛の対面の椅子に腰を下ろした。
椅子の足がフローリングの床と擦れる音を聞いて、衛はようやく最上妹が起きてきたことに気づいたようだ。普段の衛であれば二階の廊下を歩く音どころか、扉を開けた音で気づくようなものだが、目の前に来てからやっと気づくとは本当に具合が悪いようだ。上げた顔はどこか憔悴しているようにも見える。
椅子に座ったままこっくりこっくりと船を漕ぎ始めた最上妹を見て、キッチンで料理を進める最上兄は優しく微笑んだ。
ばちばちとフライパンの中の油がはねるのを横目に、最上兄は後ろの食器棚から皿を三枚取り出し、フライパンの中を皿に移していく。美味しそうな香りと湯気を立てる皿を衛は受け取り、完全に眠りに落ちた最上妹の前に置いてから自分の前にも同様に置く。
その瞬間、最上妹はくわっと目を見開いた。それを真正面から見た衛はぎょっとして後ずさった。有り体に言えば怖かったのだ。
わずかに椅子を引き摺って仰け反った衛を気にも留めず、最上妹はどこからかフォークを取り出した、
まるで手品のように取り出したフォークを皿の中のウインナーに突き刺すと小さく一口齧った、とたんにとろける無表情フェイスはだらしなく緩み、めったなことでは崩さない一文字に結んだ口角を柔らかく持ち上げた。
不幸なことに、妹の笑顔を一番見たいであろう最上兄はトースターに食パンをセットしていて見事にテーブルに背を向けていた。
だらしない顔のままもぐもぐと咀嚼し、よく噛んでから飲み込んだ最上妹は、はっと我に返り慌ててキッチンへと目を向けた。しかし彼はこちらを見ておらず、一安心なのだが、目の前に衛がいることを思い出した。だが、彼も自分を見てはおらず、半ば挙動不審に天井を見上げていた。気のせいか、衛の目の焦点があっちこっちにゆれている気がするが、気のせいなのだろう。
最上妹の視線が再び皿の中に戻ったことを感じて、衛はひそかにため息をこぼした。
さすがの危機察知能力といったところか。あんな場面で最上妹と視線がかち合った日にはどうなるかわかったものではない。そのときはおそらく最上兄も巻き添えを喰らうことになるのだろう。
チン、とトーストが焼き上がった合図が聞こえ、衛はキッチンを見た。何があったかなど知らない最上兄はブルーのエプロンを棚に戻して意気揚々と皿を持って椅子に座った。
「あ、こら。カレンチャンだめじゃないか勝手に食べちゃ」
トーストの乗った皿をそれぞれの前に置きながら最上兄は目敏く妹のつまみ食いを見つけた。気まずげに視線を逸らした妹は何故か衛を指差した。
最上妹の謎の行動に衛は首を傾げ、同じように最上兄も首を傾げるが、妹の皿と衛の顔を見比べて、一言。
「なんだ。マモルクンが食べちゃったのか」
最上兄の言葉に、ようやく妹がとった行動を理解した。つまりはつまみ食いの犯人を衛になすりつけたのだ。
つまみ食いをした張本人といえば、兄の疑いの目が衛に向かったことで完全に食事をしようとトーストに手を伸ばしていた。
ごん、と鈍い音。テーブルの上の食器がわずかに跳ねた。
前時代の漫才のような最上妹に、思わず脱力して額をテーブルにぶつけた。そこそこ速度はあったようで額がひりひりと痛むがそんな小さなことは気にならなかった。
突っ伏した顔を持ち上げて二人を見れば、最上兄は一連のコントに満足げに頷き、妹は我関せずを貫いてトーストをリスのようにかじっていた。ただ、彼女の分のトーストは既にどこにもなく、最上兄の皿からも二本のウインナーとトーストが消失していた。
ようやく朝食だと最上兄が席につくころには時すでに遅く、彼の分の朝食はすべてなくなっていた。
欧米風の絶叫と共にテーブルのに上体を倒して目一杯の悲愴さを醸し出すが朝食泥棒は我関せずに紅茶の入ったティーカップを傾けてていた。実に様になる優雅な姿だが、挙動不審に目を泳がせていて、心なしかティーカップを持つ手も微細に震えているようだ。
明らかにやましいことをしましたと言っているような彼女の態度に、最上兄は愉快そうな笑みを含んで妹を恨みがましい目で見つめた。
じーっと兄の見つめる視線を感じたのか、ますます挙動の怪しくなった最上妹は残った紅茶を一息で飲み干すと音を立てずにティーカップをテーブルに戻した。
わなわなと震える指先を伸ばしかけ、一度咳払いをしてから震えの収まった指をもう一度伸ばす。
その指の先には、衛がいた。
ぷっと吹き出してばんばんと机を叩き笑い転げる兄をぽかんと見つめてから自分が苦しいにもほどがある誤魔化し方をしたと気づいた。かぁっと顔を赤くして恥ずかしそうに視線を泳がせる最上妹の視界の端に、苦笑する衛の姿を見た。
ううっと唸って体を縮こませてうつむいた最上妹の頭にぽんと手が置かれた。
慰めるようにやさしく髪を撫でる兄のするがままに、最上妹は赤みを頬に残しながらティーポットの取っ手を掴んだ。
最上兄の家に半ば強引に招かれて朝食をご馳走になった衛はせめてものお礼とばかりに食器洗いを申し出た。やはりというか、最上兄は座っててくれと押し留めようとしたが、今度は衛が強引にキッチンの流し台の前に立った。
使った食器を洗い終わり、水気を切ってから棚に戻して、衛はそろそろ帰ろうと最上兄を呼んだ。
最上兄妹に見送られながら、衛は玄関を出た。
閉まっていく宅の扉の隙間から衛の背中が消えて、最上兄はほっと息をついた。
ここを出るときには、どこか陰のあった衛の表情は少しばかり明るくなっていた気がする。
少しでも彼の気分が良くなればと、多少は余計に悪くなるのではとも思ったが正解だったようだ。
何があったのかは聞かない。衛が自分から言い出さないかぎり、最上兄からは聞き出すつもりはなかった。もっとも、最上兄は衛が自分のことをほとんど話さないことも知っている。どんなにつらいことがあっても自分の中に溜め込む人間だと知っている。
何も話してくれなくてもいい。平然としている振りでごまかされてもいい。衛が本当に誰かに助けてほしいときに、彼が何も言わずとも手助け出来ればそれでいい。
それが友達なんじゃないのかな。
最上兄は小さく呟いた。
と、くいくいと袖を引かれる感触があった。振り返れば愛しの妹がティーポット片手に自分の服を引っ張っていた。
「なんだい?」
「紅茶、なくなっちゃった」
軽く上下に降って中身がないことを知らせると、ポットを兄に押し付けて彼女はリビングに戻っていった。
苦笑しながらポットを見遣り、一度扉を見てから最上兄はキッチンに向かった。
兄は妹のお願いには弱いのだ。
ふと空を見上げた衛は太陽の眩しさに目を細めた。移動する陽の位置から、今は正午よりも少し前くらいだろうか。
最上兄妹の家から出て、もうかなりの時間が経ったようだ。昨晩は一睡もしてないせいで全身を気だるさが覆ってはいるが軽く動く程度ならば問題はないだろう。それよりも酷いのは眠気だ。昨夜の戦闘で全身の隅々まで疲労が溜まり、精神的にも多大な疲労が蓄積され、その上ほとんど休息をとっておらず、最後には心の休まる場所で朝食だ。腹が膨れれば誰もが眠くなる。狼もどきであってもそこは同じだ。
上を向いたまま大きなあくびをこぼし、衛は途端に重くなった瞼をこすりながら歩き出した。
四方をグリーンのフェンスで囲まれた真新しい公園に衛は半ば眠りながら入った。 休日ということもあり、豊富な種類の遊具があり、緑も多いこの公園は親子連れやカップルたちが楽しげに過ごしていた。そんな中で衛は、もう目を瞑ったまま大きな木陰を目指して危なっかしい足取りで歩いていく。
まるで重りをつけた棒が足とすげかわったように思うように動かないが、なんとか足を動かしてようやく適当な木の根元に辿り着いた。
この木の下ならばさんさんと照りつける陽光を遮ってくれるであろうし、冷たい風を防ぐ壁にもなるだろう。
いそいそと木の幹に腰掛けた衛は上着を掛け布団代わりに体に掛け、降りてくる瞼に抗うことなく目を瞑った。
そのまま何度か体の位置を調整すると数秒後には動かなくなった。
相当に疲れていたのだろう。糸が切れたようにすーすーと寝息を立てて眠り落ちた彼はそれから長い時間眠りこけることになった。
そよ風は柔らかい日差しのおかげで暖かく、公園のそこかしこで昼寝をする人間が見えた。
寒い時期には心地良い温風が、いたわるように衛の頬を優しく撫でていった。




