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モノノケカミカミ  作者: 水島緑
満月の光は優しく
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日常に爪を立てる

 彼に言われたことは正直に言って図星だった。逃げている。そう、今の自分を評するならば逃げているというものが正しい。

 朝日の昇る空を見ながら、彼女は背後の壁に背中を預けてずるずると座り込んだ。

 自分の人を見る目がなっていないと感じるのは何度目だろうか。あの男にも手酷く裏切られ、彼にも期待を裏切られた。もっともその期待は自分本意なもので、客観的に見れば良い意味で裏切ったのだろう。自分のように、安易な道を選ばなかったのだから。

 彼と自分の違いはなんなのだろうと考える。答えは思いのほか、簡単に見つかった。

 私は逃げたのだ。目を背け、背中を向け、見ない振りをして、なかったことにして、言い訳をして、自分のせいじゃないと叫び、ごまかして、そうやって徹底的にどこまでも現実を見ようとはしなかった。

 自分が一番嫌う行為に手を染めたことを、決して認めたくはなかったのだろう。

 そして彼は逃げなかったのだ。立ち向かい、前を向き、つらくて挫けてもずっと空を見続けた彼は戻らない自分の体に抗い続け、それをやめることはなかったのだ。

 二つの選択肢を別々に選んだ二人は、こんなにも違っているのだ。しかしその選択肢はただ、逃げるか逃げないか、そんな簡単そうに見えてひどく難しいものだった。

 彼女は逃げを選んで今があり、彼は逃げなかった故に今がある。

 たったそれだけの違いだ。

 空を照らすオレンジ色の光を眺め、彼女は己の歩いた軌跡を辿り始める。

物心ついたときから、彼女は世界中を歩き渡っていた。手を引く母に自身の体の体のことを聞かされ、彼女は母が亡くなってからも世界を歩いて回った。

 彼女は狼男の子供だった。

 人間の母との間に生まれたいわばハーフだが、その狼の血の濃さはそのまま受け継いでいて、どちらかというとただの狼女に近い存在だった。

 だからこそその身を隠して生きていかなくてはならず、彼女は当たり前のように根無し草を続けていた。

 たった一人でいつ現れるかもわからない降魔師から身を隠すためなのだが、彼女の心は冷たくなってしまった。それでも折れなかったのは、自分と同じ存在がいることを知っていたからだ。

 今日もどこかで自分と同じ物の怪が、自分と同じことしていることだけを頼りに、彼女は広い世界を渡り歩く。

 そんな彼女に転機が訪れた。

 たった一つの支えも毀れ、大切な両親の思い出さえも色褪せてしまいだしたときのことだった。

 彼女はふとした油断から、自分が狼の姿から人間に戻るところを見られてしまったのだ。

 慣れた諦観とともに、ようやく住み慣れ始めたこの場所から離れなければと頭の奥で考えながら、彼女は爪を男の首に突き立てていた。

 しかしその男は自分も物の怪だと慌てながら告白したのだ。

 拍子抜けだと指先を離してこの場を去ろうとした彼女の腕を、男は掴んだ。

 ――どうせ隠れるなら、二人の方が楽しくならないか?

 その男の一言で彼女は色褪せ始めた思い出と腐りかけた心が蘇った。

 それからの放浪は一人だったころに比べてずっと楽しいものだった。男の宣言どおりに何をするにしても二人一緒に動いた。

 そして彼女は男に恋心を抱いた。

 勇気を出して男に告白しようと、彼女は頬を染めながら前を歩く男を呼び止めた。

 いつものように柔和な顔に優しげな笑顔を浮かべて男は振り返った。

 そして、彼女は凍りついた。

 振り返った男が持っていたのは見覚えのある長方形の札。そう、それは偶然彼女を見つけた降魔師たちが使った魔よけの札だ。降魔師たちがよく使う札の幾何学模様が大きく違っていたがそんな些細なことはどうでも良かった。

 この男は物の怪でも何もなく、ただの降魔師だったのだ。

 走馬灯のように蘇る記憶の中に、男が物の怪の姿に変身した記憶はなかった。

 さび付いた諦観が久々に瞬いた気がした。

 男が彼女に額に札を押し付けて、彼女は意識を無くした。

 彼女はいつのまにか閉じていたまぶたを開いた。

 太陽は完全に昇りきり、週末の休日を楽しもうとする人間たちが行き交うのが路地の隙間から見えた。

 この場所が先ほどのように暗ければ、ちょうどあの日と同じだっただろう。

 幼い少年の喉に喰らいつき、彼女はようやく理性を取り戻した。

 体の内側から破壊しそうな、理性すら破壊してしまうどうしようもない喉の渇きが消えうせていた。

目の前に広がるのは倒れ伏した少年から零れ落ちる命の雫。

 彼女の虚空な心に残ったのは深い深い慙愧と自責の念だけであった。

 人間への憎悪さえも凍り付いてしまった彼女は、自らが嫌うことをしでかした彼女はその場から逃げ出した、

 人を呼ぶためではなく、恐怖からだ。

 何もかも投げ出して、彼女は走り去った、その背中に確かな視線を感じながらも。

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