激昂
薄ぼんやりとしか見えなかった町の中心部の明かりが、やっとくっきりと衛の視界に映りこんだ。途中から無心で走っていたようで、随分と長い距離を駆け抜けたにもかかわらず大した時間がかかっていないように思えた。しかし実際、衛の体は酷く熱を持ち、呼吸もやたら荒い。ぐっしょりと汗を吸った服が肌に張りついてくるのがこの上なく不快だった。
彼の後ろでは息一つ乱していない志倉夏美がいつの間にか灰色の狼から、人間の姿に戻っていた。狼になる前の黒い毛皮のコートにボーイッシュな服装だ。しかし衛の経験からすれば、狼になると体格自体変わるので服は脱げるが破れるするのだが、彼女の服装はなんら変わっていない。もしかするとわざわざ着替えでも持ってきていたのかとも考えられたが彼女は手荷物をもっていない。
つまり謎だ。
額に浮かんだ汗を拭い、後ろを振り返る。衛の視覚でももはや人間たちの姿は見えない。これで一安心だと。衛は一気に脱力した。
思わず腰を落としそうになり、慌てて膝に手をついた。どうやら自分が思うよりも遥かに疲労が溜まっているようだ。それに加え、極度の緊張感もあったのだ。そしてごちゃごちゃに絡まった感情も。
志倉夏美が現れたことで助かりもしたが、彼の心が追い詰められているのも確かなのだ。
衛は一刻も早く彼女から離れようと何も告げずに歩き出した。
膝はがくがくと震えみっともないが、感情のまま動くよりも多少ましだろう。
しかしそんな衛の意図に気付かない志倉夏美は、何故か衛の後を追ってくる。殊更衛は早足になるが、志倉夏美も何故か追従してくる。
珍しく衛は悪態をついた。
こっちは離れたいのに追いかけてくるなんてなんて嫌がらせだ、と心中で叫んだ衛は意気地になってさらに加速した。
もはやそれは早歩きなんて呼べるものではなくなり、全力疾走になるのは目に見えている。
と、奇妙な追いかけっこのまま大通りに入った二人は周りの奇異の視線に気付かずに、一人は必死に逃げ、一人は何故逃げるのかと追いかけていく。
振り返って志倉夏美が追いかけていることを確認した衛はぐんぐんと走る速度を上げながら入り組んだ路地に入り込んだ。この辺りは衛の縄張りといっても過言ではないほど熟知している。なにはともあれ決着をつけなければと思い立った衛は行き止まりに向かって迷路のような路地を進んでいく。
眼前には背の高いビルの壁。左右にも同じくビルの壁が道を塞いでいる。
困惑している志倉夏美に振り返り、この日初めて視線を合わせた。
「なにが目的なんですか」
酷く冷たい声色で衛は言う。
その言葉を聞いた志倉夏美は弱々しい笑顔を浮かべた。
「私を殺してくれない?」
「……なんだって?」
今までの我慢が全て吹っ飛んでいき、蓋をした劇場が一気に噴き上がった。だがここで感情のままに動いては話が進まないと自制した衛は黙って先を促した。
驚きが無いわけではないが、どんな話になるか覚悟していたため思いのほか動揺することはなかった。
眉根を寄せて禍々しそうに自分を見る衛に、志倉夏美は大きく息を吸った。そして崩れそうになる笑顔をもう一度作ってはっきり聞こえるように言った。
「私を、殺して」
精一杯の笑顔を浮かべて、志倉夏美は言った。その瞳の奥に激しい慙愧と自責の思いが揺らめいていることに、頭に血の昇った衛は気付き、それでもこの激情は抑えられそうになかった。
「ふざけるなっ! 本気で、本気で言ってるのか!?」
「本気よ。じゃなかったらこんなこと言わない。それに、もしかしたらきみは人間に戻れるかもしれない」
すぅっと衛の目が細くなる。
「……本当なのか?」
「五割でね。きみは今、私の眷属になっていると思うの。そうでもなければ狼になんてなれない」
だから、と志倉夏美は続ける。
「私を殺しなさい。そうすればきみは人間に戻れるわ」
かぁっと顔が熱くなった。強く握り締めた拳は血の気を失って真っ白になってしまっている。
衛はその拳を壁に叩きつけた。
「僕に、あんたを殺せっていうのか」
「そういってるわ」
あのときの清算だ、と言外に言っているのだ。
「確証もなく、人間を殺せといってるんだな」
「私は人間じゃないわ。分かるでしょう? だから、殺しなさい」
ぎりっと奥歯が鳴る。怒りで頭がどうにかなってしまいそうだった。
「ふざけるな……」
「……」
「ふざけるなよ。今まで僕がどんな思いで過ごしてきたと思っているんだ。今までどれだけお前を追いかけていたと思っているんだ」
目の奥が痛んだ。
自分の剣幕に志倉夏美がひるんでいるのが見えた。
「お前はそうやって逃げるのか! ただ一つの謝罪もなしで、自分が死ねば許されるとでも思ってるのか! ふざけるなっ!」
金色に輝く目で志倉夏美を強く睨み、衛は言う。
「絶対にお前を許さない」
呆然と立ち尽くす志倉夏美を押しのけて、衛はその場を後にした。




