獣人変化
深呼吸を一つ、それから衛はおもむろに靴を脱ぎだした。右手で靴を持ち、左手で同じように脱いだ靴下を握って衛は目を閉じた。
そうしてから強く思い描くのは一つのシルエット。筋肉質な体を包む深く深くどこまでも黒く、夜の闇を凝縮した体毛。尻尾の先まで暗闇色の体は当然頭まで、いや鼻先まで黒く染まっている。三角耳がぴんと立ち、細長い顎の先にぽつりと浮かぶ星のような金色の小さな輝き。
鋭い爪と牙を武器にするその動物は狼。
その狼は自分だ。
強く思い浮かべたもう一つの姿を今の人間の体に投影していく。
その瞬間、足の先が激痛に叩かれた、小さく呻いて衛は脂汗を垂らした。
衛は今、自分の足を狼のそれに変えようとしているのだ。骨格から始まり、筋繊維や血管まで無理やり変化させている。それは一度足を粉砕して作り直しているようなもので想像を絶する痛みが衛を苛む。しかしそれでも今使わなければここで死ぬだけだと衛は判断したのだ。
傍らでどこか悲しげな表情をして自分を見つめる志倉夏美を完全に意識の外に追い出し、衛はひたすら痛みに耐えた。
断続的に骨が軋み、それがようやく止むころには衛の体は汗でいっぱいだった。しかし自分の足を見下ろせば人間には程遠い真っ黒で毛むくじゃらの足。膝から下の骨格がすっかり変わってしまっていて、歩くのにも一苦労するだろう。
足を変化させることに時間を食ってしまって、もう周りには人の輪ができていた。そのどれもが虚ろな瞳で宙を見つめている。衛はすぐにここから逃げようとぐっと膝に力を入れる。そこでふと、志倉夏美がいることを思い出した。
「……逃げないのか?」
「きみが逃げるなら私も逃げるわ」
衛にしては酷く乱暴かつぶっきらぼうな物言いだが、以前ならば口も聞けなかった関係だ。しかし衛は頑なに志倉夏美と目を合わせようとしない。
彼女の言葉に反応しない衛はもう一度足に力を込める。
背中に視線を感じるが完全に壁を作って衛は、一歩だけ難しそうに助走をつけてから一息に飛び上がった。
その跳躍は誰もが目を見張るもので、人間を背を軽々と飛び越すものだった。
上空から見下ろした人間の輪は三重にもなっていた。どれだけの人間を集めたのかという疑問よりも、これだけの人間を操る技量がある何者かがいることに衛は空恐ろしいものを感じた。
長い長い滞空を終えて、三重にも広がる人間の輪のずっと離れた地面に着地した衛は一度だけ振り返った。
空を駆けるように飛び上がる灰色の狼。
筋肉質に引き締まったしなやかな体は濃紺の空に浮かぶ雲のように、その狼の体がこの空を駆けていてもなんら不思議ではなく思えるものだった。
絵画にも見える狼の麗姿は誰もが目を奪われ、魂を揺さぶられるその優美な光景に、衛は不覚にも見惚れていた。
軽やかに着地した灰色の狼――志倉夏美は上の空で自分を見つめる衛の視線に首を傾げた。
はっと我に返った衛は頭を振ると小さく舌打ち。よほど見惚れていたことが気に入らなかったのか歯軋りまで鳴らした。
背後では人間たちが緩慢な動きで衛を探しているがもう意味はないだろう。
毛むくじゃらの足でよたよたと歩きながら、意識の大部分で狼を遠ざけていく。煙を晴らすように狼のシルエットを四散させ、霞に溶けて消えた。
すると不気味な音と激痛を発しながら衛の足は元の人間の脚部に戻っていく。
くぐもった呻き声を上げながら、それでも衛は足を止めなかった。いつ人間に戻ったのかわからないが、志倉夏美が心配そうな面持ちで衛を見ていた。しかし彼はそんな視線を感じないとでも言いたげに背中を向け続けた。
ようやく元通りに歩けるようになり、後ろの人間たちから逃げる為に全速力で駆け出した。あわよくばこのまま志倉夏美も振り払えればとも思ったが、案の定彼女は事もなげに追従してきた。
くそっ、と思わず舌打ちも漏らし、衛は思いのほか自分が苛立ちを感じていることに気付いた。
代わり映えのしない景色をぐんぐんと追い抜いて、あるいは置いていき、衛はただ無言で駆け抜ける。
背後に軽やかな足音が続いてくる。
彼の心中を察することなど、誰にもできるものではないだろう。
活動報告のほうに更新間隔のことを書きました。よかったら覗いていってください。




