深まる夜
この町唯一の図書館で一人本を読み耽っていた衛は窓越しの空がすっかりと暗くなっていることにようやく気付いた。そのまま目を動かして壁の時計見ると時刻は六時二十七分。あと三分で閉館のアナウンスが壁隅のスピーカーから流れるところだった。
衛の正面で同じように読書をしていた人も既におらず、固まった骨を小気味良く鳴らしながら衛は席を立った。少し遠くの本棚に向かって歩く衛はふと見知った顔を見かけた。のだがひどく集中して熱心に読書をしているようで、声を掛けることに躊躇した衛は彼女の後ろを通って本棚に『マイナー妖怪五百選!』という本を戻すと一度横目で西野桃花を見遣ってから図書館を出た。本当にもう少しだけ時間があるのでそっとしておくことにしたのだ。
組んだ手を上に伸ばして体をほぐしてから歩きだす。久しぶりに穏やかな休日が過ごせた衛はご満悦なようで表情も明るいものだ。
陽が落ちてすっかりと暗くなった町に、自動車のヘッドライトが街灯の光と混ざり去っては消えていく。
衛と同じように帰宅途中なのか、寒そうに手を擦る人がそこかしこに見られた。
途中、仲睦まじく腕を組むカップルのような西洋人形に似た風貌の知り合いの兄妹を見かけたが、こちらにも触れないことにしてみなかったことにした。どうせなら寝るまで静かに過ごしたい。
タイミング悪く目の前で赤に変わった信号機の下で同じように青に変わるのを待つ人に紛れて空を仰いだ。
濃紺の空の隙間を埋めるように浮かぶ灰色の雲、気分が重くなるような曇天だ。隣で同じように空を見ている中年男性が「雨が降りそうだ」と呟いた。何か悪いことが起こらなければいいんだけど、と一人ごちて衛は軽快な音とともに色を変えた信号を見て、横断歩道の白線を跨いだ。
あれほどの人込みももう既にまばら、というかほとんどいなくなっていた。とはいえ、いま衛がきているここは元から人影の少ない場所で盛んに行き交っていた自動車の姿もほとんど見なくなっていた。それもそのはず、この辺りに目立ったものといえば小高い山一つしかなく、見上げるほどのデパートや、あちこちに建てられた雑居ビルの姿もない。明かりのついている民家もごくわずかしかないところを見れば辺鄙で寂れた場所だとすぐにわかるだろう。なぜ衛はこんなところにいるのかといえばお稲荷様の住居に向かっているのだ。この寂れ具合をみれば、稲荷神社に参拝にくる客が少ないのも簡単にわかるだろう。
町の中心部とは大違いな田舎風景、というよりはゴーストタウンのようなここは見た目に違わず設備が少ない。街灯ですらほとんど見当たらないのだからその辺鄙っぷりは推して知るべしだ。
電気が通ってるのかすらわからないが一応民家には明かりが灯っているのでそこは安心だろう。この辺りで電気が通っていることを考えるとお稲荷様も人間の機器を使っているのだ。確証はもちろんないし、機械が苦手なお稲荷様はもしかしたら社務所の電灯を使っているのは衛たち客人がきているときだけなのかもしれない。普段は蝋燭を光源にして生活しているということも考えられた。
一人寂しく蝋燭の心もとない明かりの前で油揚げを齧っているお稲荷様を想像した衛はこれから稲荷神社に行って社務所に薄ぼんやりとしたオレンジの光が見えたら電気の使い方を教えないといけない。
もっとも、これから向かうと連絡もいれてないので既に寝ているのかもしれないが。
何故衛がお稲荷様の家に向かっているのかといえば、なんとなくだ。ふと思いついただけのことなので既にお稲荷様が寝ていてもなんの問題はない。
そんなことを考えながらろくに整備されてない道を歩いているとずっと遠くの街灯の明かりの下に人影が見えた。
居地が縮まるにつれてぼんやりとした黒い輪郭だった人影がはっきりとしていく。
スーツを着た二十代後半くらいの男のようだ。脱力したように肩を落としているように見えるが、それにしてはちっとも動かない。仕事帰りにこんな辺鄙な場所に来るとは思えないが自宅がこの辺りなのだろう。衛は特に気にせず通り過ぎようと地面を照らす丸い光の中に入らないように男の脇を通る。瞬間、ぴくりとも動かなかった男は鉤爪のように揃えた腕を衛に振り下ろした。眼前を通り過ぎた爪は異様に長く、なにか鉄でできているように鋭いものだった。
前髪の何本かが切り飛ばされたが衛の被害はそれだけで、大きく飛び退って距離を取ると油断なく男を睨みつけた。
若干顔色が悪い点を除けば特におかしいところはないのだが、男の表情は虚ろで瞳に生気が宿っていないように思えた。それよりも先程男が腕を振ったときから感じる異臭だ。何の匂いかは分からないが嗅いでいて気分の良いものじゃない。
男は脱力したまま覚束ない足取りで一歩踏み出す。まるで人形のようだと衛は思った。
二歩目を踏み出そうとし、男はがくりと膝をついた。
更に警戒を強める衛はじりじりと男から離れていく。もう一度大きく飛び退ろうと膝を軽く曲げた途端、男は半ば飛び込むようにして衛に近づくと今度は両腕を左右から交差するように振った。男の腕をくぐって間一髪で避けた衛はしゃがみ込んだ体勢で膝を使い、男の顎を固く握った拳で打ち抜いた。
右腕を下敷きにして倒れた男は自身の腕が発した音を意にも介さず立ち上がるとゆらゆらと左右に体を揺らしながら衛に近づいていく。
あらぬ方向に折れ曲がった男の腕を見遣っていよいよ気味の悪くなった衛は男の正体が物の怪の類だと考えて本格的な戦闘態勢に意識を切り替えた。




