狭間にたゆたう
目を開けるときらきらと輝く白雪にも見える真っ白い芝が揺らめいていた。唖然として周りを見てみれば一面が白くきらめいており、霞の奥に見える爛々としている太陽も決して暑くなく、実に心地良い。清々とした風が衛の全身を包んで芝生をざわつかせて消えた。吹き上がった芝が霞の向こうでなくなった。遠くに見える大樹が陽炎の如くに揺らめいて、震えていた。
ここはどこなんだろう?
こんな白い芝生の生えた場所など衛には見覚えがなかったし、聞いたこともなかった。もしかしたら風水的な意味合いを持つパワースポットなのかもしれない。人から化け物になった日から絶えず感じていた気だるさがなかった。肉体的な疲労がなくなったおかげか、心も軽くなっていた。地に足が着いていないような、蛇行しているうな、不思議な心地だった。
自分の手に目を落とすと、丸く鋭さのかけらもない爪があった。それは紛れもなく人間の物で、伸びる速度が早く、鋭利で尖っている獣の物とは違っていた。口に指を突っ込んでみれば、成長し出して幾分か尖っている犬歯は人間本来のものになっていた。
ふと視界の端によぎった影を見つけ、体ごと目線を動かすと、黒々と闇を体現した滑らかな毛並みの狼が虚空を見つめていた。真っ白な芝生を踏みしめる脚は引き締まり、筋肉質な体は逞しい。剣の如く鋭い爪と、顎下まで伸びた錐のように鋭角な野生の証の牙。風になびき、ふらふらと揺れる尻尾は長く、美しかった。まるで一枚の絵画のように佇む狼を凝視し、衛は息を飲んだ。そのままじっと見つめていると、狼は首を持ち上げ、空高く吠えた。衛はその遠吠えを耳にし、認識した途端に切なくなった。自分はここにいる、仲間はここにいる、と知らせようと狼に成って吠えた。しかしその瞬間、黒曜石のような狼は忽然と姿を消した。まるで夢をみていたように。そして我に帰る。
その美しさに見とれ、忘れていた。
そう、夢だ。これは夢だ。ひどく気持ち悪いものを見た気分になって、空を見上げて目を閉じた。光に満ちた白い空間が緩慢に闇に変わった。冷たくも柔らかい風がもう一度吹き抜けた。
重力に引かれるように、腕を掴まれて引き寄せられるように、魂が吸い取られるように、最初から現実味のない空間が、歪んで消えた。身に覚えのあるお馴染みの倦怠感がのしかかり、心も釣られて沈んだ。
あの狼はもう一人の自分で、なりたくもなかったもうひとつの姿。勝手に与えられた嫌悪の対象。
だから僕は人間の姿で……。
閉じた瞼に突き刺さるまばゆい光が眼球に焼き付いた。夢見心地のまま強烈に白ばむ視界を元に戻そうとして腕で目を覆って力を抜いた。
決して光に影響されない烏の濡れ羽色の黒髪がさらりと流れた。肩に届きそうな後ろ髪が左右に割れて、左側に錐で穴を開けたような傷跡が二つ並ぶ首筋が露わになる。
溶けるように視界が戻ると眠たげに顔を上げた。泣き腫らしたような夕日がガラス窓から強く差し込み教室を強く照らしている。酷く眩しい夕日を避けるようにもう一度机に突っ伏せば、つい先ほどまで自分が眠っていたことにようやく気付き、思わず嘆息を漏らした。
空気が漏れると同時に見た夢を思い出した。
壊れたプレーヤーの如く何度も繰り返し同じ夢を見せる自分が、質の悪い催眠術士に思えて自嘲した。