さっきの敵は今のペット
薄い雲が途切れて闇の帳だった周囲を月明かりが弱々しく照らした。人工的な光源が一切ない小高い山の中で、木々の隙間から差し込む光を頼りに先に進む。
普段なら小さな羽虫が飛び交っていてもなんらおかしくはないのだが、鬱陶しい一匹も現れず、道中は快適の一言に尽きた。
虫たちの住処である山のそこら中でりんりんと鈴虫が涼しげな鳴き声を響かせていた。儚く浮かぶ欠けた月と相まってひどく幻想的な一幕だった。
ざわめく木の葉が一枚枝から離れて宙を舞う。先端を半月状に喰われた木の葉は暗闇の中を回転しながら重力に従ってひらりと落ちた。
着地地点は純白の体毛から覗く鼻先。
ふるふると首を振ってそれを落とすと、背中に乗るお稲荷様に振り返った。
乗るというよりも、全身でしがみついていると言った方が正しいだろう。風を切るほどのスピードが出ているわけでもなく、しがみつかなければならないほど暴れているわけでもない。最上兄妹の後をのしのしと重量感たっぷりの足音を想像させるほどゆったりと歩いているだけだ。お稲荷様は明らかに全身で大狐の柔らかい体毛を堪能したいがためにがっしりと抱きついているのだった。
どことなく呆れた視線で見遣るも、とろけた笑顔を浮かべて頬ずりを繰り返すお稲荷様は気づいておらず、ため息に似た呼気を漏らして尻尾で巻き付けて運ぶ衛を抱え直した。その後ろでトーコは絶えず上下に揺れる衛の体が傾くたびにあわあわと飛んで跳ねて落ち着きがなく、左右に揺れればあうあうとあっちからこっちへせわしなく動き回っていた。
一方、最上妹は羨ましげな視線で大狐の背に乗るお稲荷様と、尻尾に巻かれている衛を交互にみつめて唇を尖らせた。
「もふもふいいなぁ……」
不機嫌な呟きが兄に聞こえたらしく、苦笑を浮かべた兄を恨みがましく睨むとそっぽを向いた。だが向いたのも束の間のこと、じわじわと視線が白い狐に吸い寄せられてそれがまた兄の苦笑を誘うのだった。
踏み慣らされた獣道から、ようやく整備された山道へと出た。ここの坂道を登り切ればお稲荷様が住む稲荷神社なのだが、常に動き回っていたトーコはここでダウンしてしまい、仕方なく大狐は自分の背中にトーコを乗せた。
それを見た最上妹が余計に機嫌を悪くしてついにはぷくっと頬を膨らませて大狐の背に乗る二人を睨みつけた。お稲荷様は白い毛の感触を味わうことに夢中で最初から気付いておらず、トーコは後ろ向きに乗り揺れる衛を心配そうに見ていた。ますます不機嫌になる最上妹はなだめようとする兄を思い切り蹴り飛ばした。
教室での一件がなんとか終わり、気絶していた三人組を交番の前に置いてからようやく家に帰れるとよろこんだ一同はお稲荷様の家にお邪魔することになった。幸いにも三人組の彼女たちに怪我はなく、聞けば纏わりついていた白いもやが全ての怪我を肩代わりしていたようだった。
お稲荷様の通訳によれば、元々大狐は学校周辺を住処とする一匹の小さな狐の霊だったようで、コックリさんによって呼ばれた無数の他の狐の霊と融合してここまでの巨体になったそうだ。
ミキという少女の友人がおかしくなったのも複数の狐の霊が取り憑いた所為であったらしい。最初は遊び半分で呼び出した人間たちに取り憑いてこらしめる程度だったのだが、気付けば融合して巨大化なんてことになっていたようだ。
複数の霊が融合してこの姿になったのだが人格というものは一つに統合されており、二重人格者のように知らないうちになにかする、などということはないとのことだった。
顔色一つ変えずになかなかの急斜面の坂を登りきった最上兄とむくれっ面のままではあるが同じく顔色を変えていない妹に遅れて三人を乗せた白い狐が物珍しそうに辺りを見回しながら登ってきた。
ようやく我に帰ったお稲荷様の案内で社務所の一室に通された一同は思い思いの過ごし方で別室で寝かされている衛についていったトーコとお稲荷様を待つ。前回通された部屋とはまた違う部屋で広さも置かれている家具も違っていた。みる限りここは応接間なのだろう。接点があるとすれば和室ということだけだ。
色褪せたテーブル上のトレーに満載のお茶菓子に目を奪われ、全て食べてしまうのではないかという勢いで嬉々としてぱくつく最上妹はどこからか視線を感じた。口の中の菓子をしっかり咀嚼してから飲み込み、ゆっくりと緑茶で喉を潤してから振り向く。すると体がぶれて残像が見える速度で社務所の裏手の小さな庭が見える掃き出し窓に飛びついた。瞳を目一杯見開き純真無垢を体現するようにきらきらさせて鼻息荒く額を窓に押し付けて部屋の中を見ながら伸びをする大狐を凝視していた。
そろそろと指は鍵を開けようと上部へ伸びていく。指が鍵に触れるその瞬間、がらりと音を立てて部屋の引き戸が全開した。
びくりと肩を振るわせて恐る恐る振り返る最上妹。視界の端で苦笑いを見せる兄を見たが今は無視した。
特に刺客というわけでもなく、普通にお稲荷様とトーコが入ってきた。道中ずっと心配そうな表情を浮かべていたトーコだが、衛が大事ないとわかったことで胸を撫で下ろしているようだ。「おまたせー」と尻尾を揺らしながら部屋に入るお稲荷を一瞥してから、なんの躊躇いもなく窓を全開にした。びくりと怯える大狐に陶酔した表情で飛びかかる最上妹に一同は揃って苦笑いを浮かべた。
待ちに待った柔らかい大狐の体毛にご満悦の様子で頬ずりを繰り返す最上妹をくっつけながら全開になった窓から部屋を見る。でれっと顔を緩ませて近づくお稲荷様を確認すると大人しく頭を出した。
「えへへ……かわいい。そうだ! この子、ここに住まわせることにする!」
「おや、それはまた唐突だね。でもコンチャンがいいならそれでいいと思うよ」
「アタシもまた会いたいな」
と、概ね賛成らしい。最上妹は言わずもがな、もの凄い勢いで頷いていた。
「きみも、それでいいかな?」
大狐の目を見て問うお稲荷様は真剣そのものだった。この問いに頷き、よろしくとばかりに尻尾を左右に揺らした。
それを見たお稲荷様以下女性陣は歓声を上げて大狐に飛びついた。
「そうだ、名前はどうするんだい?」
「あ、じゃあアタシ決めてもいいかな?」
「だめだよ! この子の名前は私が決めるの!」
やんややんやと騒ぎ立てるお稲荷様とトーコに対して我関せずを貫く最上妹はこうしてもふもふできれば満足らしい。
すったもんだの末にじゃんけんで命名権を獲得したお稲荷は大狐の首に抱きついて声高らかに宣言する。
「きみの名前はシロちゃんだよ!」
ありふれた名前だと最上兄が思った途端、大人しく見守っていたトーコと最上妹が抗議の声を上げた。
またもやわーわーと騒ぐ三人の声に衛が起きやしないかと心配しつつ、キャットファイトに移行しそうな女の子たちを止めるべく、最上兄は男らしく間に入った。
刹那、三人から殴り飛ばされた最上兄がシロに慰められているのが三人娘に見つかり、とんでもない暴力を受けることになったのだった。




