獣戦
「おにーさんがこわいよ……」
その声が衛に届くことはなかった。ただ、一瞬だけ目が合ったのは気のせいだったのだろうか。
それを合図に、膠着していた状況は動く。
衛の気が逸れた一瞬を突いて突貫した大狐は体の輪郭がぶれるほどの突風の如き速度で肉薄し、木の幹のように太い右前足を薙ぎ払う。
あまりの速さに衛は反応できず、加えて気が逸れていてしまっていたこともあり、最低限の防御すらできずに丸太のような一撃を脇腹に受けて教室後方まで吹き飛んだ。大狐は薙ぎ払った腕を止めずにそのまま一回転する。すると一度吹き飛ばされ数の少なくなっていた机の残りが全て正面へ、つまり教室後方の衛に向けて発射された。
床を滑っていく衛は机の山に激突する。だがそれでも止まることはなく、机を巻き込んで転がる。直後巨大な弾丸と化した机が連続して降り注いだ。
それはたった数秒の出来事だった。
誰もが言葉を失うほどの苛烈な攻撃の直撃を受けた衛は自身の上に積もった机の足を掴んで押しのける。机が命中したのだろうか、その手の甲の中心はぱっくりと割れ血が滴り落ちていた。その他にも無数の傷が見受けられるが、衛は意に介さずふらつきながらも立ち上がる。直後机を一つ投擲した。
剛速球が大狐に襲い掛かる。だが大狐はそれを一瞥すらせずに衛を見据えたまま尻尾で叩き落とした。派手に音を立てる机が一回転した瞬間、衛は駆け出した。
だが一歩を踏み出した途端、殴られた脇腹に激痛が走った。僅かに顔を歪ませ次の一歩を踏み出そうとするががくりと膝が折れてしまった。
自身の砕けた思考とは別に体は正常なままだ。そのため防衛機能が知らずに働き衛の体を縛りつけた。
見下ろせば殴られたはずの服は切り裂かれ赤黒い血液に染まっていた。衝突の寸前に爪を伸ばしたのだろうか。それにしては切れ味が良過ぎる。動かない体に唇を噛み締めて顔を上げれば刃物のように尖り、鋭く研ぎ澄まされた剣ともいえる白い爪が視界に映った。その先端部分は赤く濡れていた。
未だに止まらない流血は徐々に増えているように感じられる。窓枠から差し込む仄かな月光に晒せば傷口は深く抉られ血に濡れた肉が露出していることがわかるだろう。下手をすれば臓器にすら届いているかもしれないほどの深さだった。たった一撃だが、既に致命傷を受けていた。この状態を見れば目の前で警戒する大狐がどれほどの強さなのか簡単にわかるだろう。
だが衛は唇を噛み切るほどに全身に力を入れ、防衛本能に抗い、傷を鑑みることなく立ち上がる。流れ出る血の量がますます増えるがその一切を無視した。
震える膝に力を込めて体勢を整える。しかしそれは異様に緩慢なものだ。やはり致命傷を受けたことが大きいのだろう。ようやく立ち上がって膝を伸ばしきったときには再び大狐の足に吹き飛ばされていた。
血塗れの体が水平に移動した刹那、想像を絶する衝撃が全身を貫いた。
遠のく意識を必死に繋ぎ止め、霞む視界に神々しいほどに純白の巨躯が光と影を交互に踏むのが見えた。
吐き気すら催す激痛に衛は、わずかに陥没した壁に背中を預けたまま動くことが出来ずにいた。したたかに打ち付けた後頭部がしっとりと濡れている気がする。
体中を駆け巡る痛みがなくならず、小さく呻いた衛はなんとか膝だけを曲げる。そのままずり上がって立ち上がろうとするものの肝心な膝に力が入らずへたり込んだまま動くことが出来なかった。
かろうじて動く首を持ち上げ、目を細めて前方を見る。もうすぐそこまで白い巨体が近づいていた。
真っ赤な口が開いた。
ずらりと並ぶ牙はこれ以上ないほど鋭く、触れただけでも裂けてしまいそうな鋭さをもっていた。
もしかして喰うつもりか?
ぼんやりとした頭で考えるがそれもすぐに霧散してしまう。顔を蒼白にして唇は真っ青、明らかに血液が足りないのだ。とめどなく溢れる血の所為でひどく寒い。
もう、限界だ。
その時、無造作に積み上がった机の一角が勢い良く崩れ、耳障りな音を立てた。
またなにか別のものが現れたのかと警戒するトーコとお稲荷様はそちらを凝視する。
足音を立てて近づくそれが何故か月明かりの手前まで歩いてくるとぴたりと足を止めた。
最上妹がせめてもの攻撃とばかりに黒い輪郭を睨む。
ゆっくりと明かりを踏むその姿が露わになった瞬間、誰もがため息を漏らした。もちろんそれは感嘆からのものではなく。
「やぁ、みんな。うん? マモルクンがボロボロじゃないか。どうしたんだい? ボクは知らないうちに怪我してて……。おおカレンチャン! 無事で良かったよ!」
何故か少女をお姫様抱っこした最上兄が髪をかき上げる代わりか、必死に前髪に息を吹きかけながらにやりと笑った。
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