変わる気持ち
顔つきと纏う空気が明らかに変化した衛に、張り詰めた頬に困惑を浮かべつつ肥満男は飛び退いた。直後、眼前に風を切って拳が飛び込み、豊満な腹にかすって白いボタンが一つ弾け飛んだ。
慌てた男はポケットに手を突っ込み、三枚の札を引きずり出すと真横の雑居ビルの壁に叩きつけた。難解な文字の羅列が連なった札が即座に燃え上がると札の中心から唸りを上げて三本の西洋剣が飛び出した。光を鈍く反射する剣を大人の背丈ほどの跳躍で飛び越して回避する。華美な装飾で彩られた西洋剣の切っ先が隣のビルに鋭く突き刺さるのを横目に見送って、そのまま速度を落とさずに固く握り締めた拳を腰下から突き上げる。
今度こそ、と思った瞬間、シルクハット男は左足を軸にして半回転。波打つ腹が止まらないうちに右足を軸にした射程距離の短い後ろ回し蹴りを繰り出す。足が短いといっても密着した状態ならば当たると思ったのだろう、しかし予想を裏切り、衛は深く膝を折って蹴りを避けるとシルクハット男の軸足を払った。鈍い音が鳴るほど強かに打ちつけたのだが木の幹に似た太さの足はぴくりともせず、驚愕した衛が慌てて飛び退くと振り下ろされた踵が眼前を通り過ぎた。
「ンーンーアッアー。かゆぅーいデスネー。ンア、ノンノン。いたぁーくないデスネー」
ぷくぷくと丸く肥えた指を燕尾服のポケットに入れ、一枚の札を地面に叩きつけた。するとアスファルトの地面が盛り上がり、周りの地面を使って分厚く平らな壁として急速に形を変えていった。壁と比例して真下のアスファルトがみるみるうちに窪みと化し、壁は背を高くしていく。視界が壁で覆われる直前に、シルクハット男が踵を返したことを見た衛は、軽い助走をつけて窪みの手前で跳び上がった。しっかりと縁を掴んだ衛は未だに丈を伸ばす壁を蹴りつけて一気に登り切ると、トーコを抱えたままビルの間に消えていくシルクハット男の燕尾服の尾を目視した。すぐさまシルクハット男の背後に取り付き、猛然と走る衛の顔には笑みさえ浮かんでいた。
自分の意志で、物の怪を助けようとしていることに力が際限なく漲ってくる。
衰えることをしらない衛に顔を引きつらせなシルクハット男はポケットから何枚もの札を鷲掴みにしてばらまいた。
空中で燃え上がった無数の札から鈍く輝く剣が弾丸の如く射出され、それが大量に向かってくる光景はホラー映画にも劣らない恐怖を与えることだろう。だがしがらみを振り切った衛にはその威圧感すらも意味を無くしてしまうのだ。
視界を埋め尽くす剣の群さえも、衛には届かない。
真っ先に飛び込んできた無骨な剣の腹を叩き折る。鈍色の欠片が降り散り、真っ二つに折れた刀身がアスファルトに叩きつけられて発した甲高い金属音を合図に全ての剣が降り注いだ。
全神経を眼に集中させて自らの体に当たる剣を払い、叩き、かわしていく。衛の周りにはひび割れした剣が砕けた剣が次々に音を立てて転がり、隣り合うビルの隙間から僅かに差し込む西日に反射して淡く煌めいた。
風切り音が止んで剣の雨が途絶えた頃にはアスファルトやビル壁に衛を中心にして放射状に突き刺さる数多の剣の束がはりねずみの容貌を再現していた。その誰もが息を飲む非常識な光景を息を弾ませながら一瞥すると、足元に突き立った剣を跳び越えてこの結界内のどこかにいるであろうシルクハット男とトーコの匂いを、鼻を鳴らして探索し出した。
人影も音もないこの結界は、トーコと出会った際の、眼を合わせた瞬間の現象に良く似ていた。トーコが使ったのはなんだったのかと考え、そのまま際どい記憶を再生して、走りながらも一瞬で顔を茹で上げた。途端に忘れていたはずの手の平の弾力ある触感が蘇り、思わず開閉を繰り返した。その無意識の行動に仰天し、煩悩退散とばかりに響くほど強く頬を叩き、邪な感情を払うと改めて集中する。
しきりに鼻をひくつかせて匂いを識別していく。移動しながら嗅ぎ分けていくうちに特徴的な匂いが一つ、続いていることに気づいた。辿りながらそれだけに集中していくと、どこかで嗅ぎ覚えのある甘い香りだと思い出した。
桃だ。桃の香りのするリップクリーム。
以前、トーコの顔がぐっと寄せられたときに嗅いだ匂いだった。
強気な笑みを浮かべると、鼻を鳴らして駆け出した。
そういえば三十話こえてますね。今気付きました。
これからもよろしくお願いします。




