嫉妬する社員を着る!
「お世話になりました」
低く、芯の通った声だった。
だがその響きに、どこか諦めが混ざっていた。
朝倉修平は、デスクに差し出された退職届の三文字を見つめながら、書いた主である男の顔をまっすぐ見つめた。
「これは、まだ預かるだけにしておこう...か」
一瞬、澤田誠也の目が揺れた。
だが、すぐに穏やかな笑みを作る。
「いえ。もう、十分です。俺には、戻る場所はありませんから」
彼の言葉には、憎しみも怒りもなかった。
ただ、やるせなさがあった。
まるで何かに負けを受け入れた者のような妙な潔さがあった。
澤田が営業部から軽作業課へ異動したのは、三ヶ月ほど前だった。
営業先で交通事故に巻き込まれ、右足を骨折。
現場復帰には時間がかかる。
それでも人事部は「社内のリソースを活かす」という名目で、軽作業課への一時異動を決めた。
軽作業課は元々、男だけの職場だった。
今年に入り女性社員3名が新卒で入り、空気が大きく変わっていた。
同時に社内ではその部署を女性主体に変えていくという話も水面下で進んでいたという。
「朝倉係長、俺がここに来たことでバランスが壊れたんです」
澤田は静かに言った。
「俺なんかがいなければ、皆さんはうまくやってたんです。余計なことをしてしまいました」
俺なんか?
その言葉に朝倉の眉がほんのわずかに動いた。
社内で完璧すぎる男とまで囁かれる澤田が、自らをそんなふうに表現することに引っかかりを覚えた。
「澤田」
朝倉は机に置かれた封筒の上に手を置いた。
「この退職届、内容をよく読むまでは俺が預かっておく。正式な手続きはまだ踏まない」
「はい」
「君の退職理由、精神的な疲労とあるが、具体的な経緯は書かれていない。俺は納得できないな。」
澤田は何かを言いかけたが、それを呑み込み、深く頭を下げた。
「申し訳ありません。朝倉係長」
なぜか、その謝罪の中に、「諦め」と「恐れ」が混ざっているように聞こえた。
会議室を出た後、朝倉はその足で人事データベースへと向かった。
澤田の異動先 グループ会社・東北梱包センター。
そこは体力勝負・機械設備老朽化・離職率高という噂が絶えない部署だった。
「わざわざ骨折した社員を、ここに?」
彼が送られたのは事故の後、わずか1ヶ月。
リハビリ中とはいえ、まだ杖をつくほどだった。
さらに数日後。
軽作業課の男性社員・斉藤賢吾が、体調不良を理由に長期欠勤に入った。
朝倉は偶然、休憩所で聞いた。
「斉藤、借金で首が回らないらしいよ」
「課長とか係長に金借りてるんだってな。そりゃ、言うこと聞くしかないわな」
次の日。
「もう、十分です。俺には、戻る場所はありませんから」
そう言った澤田の表情が、妙にあっさりしていたことが朝倉は忘れられなかった。
退職届はいまだ朝倉の机の右端に置かれたままだった。
未処理のままにして。
「戻る場所はある。俺がやる!」
朝倉は席を立った。
軽作業課。
久々に現場へ足を運ぶと、空気は妙に静かだった。
会話がないわけじゃない。
どこか「何かに触れたら壊れてしまいそうな」張り詰めた緊張感が漂っていた。
「朝倉係長…」
声をかけてきたのは、女性社員の一人・高山美羽。
「あの…澤田さんって、どうして来なくなったんですか?」
「体調不良、ということにしてある」
「じゃあ、本当は…?」
その問いには答えず、代わりに尋ねた。
「澤田と話したことがあるか?」
「はい…少しだけ。でも、すごく丁寧で、私がミスしたときも笑って『大丈夫ですよ』って…優しい人でした」
少しうつむいた彼女の横顔に、後悔のような表情がよぎった。
数歩離れた場所で、係長の榊原がこちらを伺っていた。
すぐに視線を逸らす。
目が泳いでいた。
この男も、何かを知ってる。
まずは「ある噂」をハッキリさせなければならない。
それが関係してることは間違いないはずだ。
朝倉は資料室へ向かい、社員証の認証履歴を精査した。
澤田のカードが最後に社内で認識されたのは3月22日17時23分。
場所は文書管理室の扉前。
この時間帯、入退室履歴にあったのは
・課長:北脇 勝
・係長:榊原 孝明
・社員:斉藤 賢吾
いずれも軽作業課の人間だ。
文書管理室に用などあるはずがない。
それに、澤田はこの日以降、社員証が使えず社屋に入れなかった。
翌日、朝倉は斉藤賢吾を呼び出した。
彼の態度は初めから落ち着きがなかった。
「お疲れ様。斉藤君。澤田の社員証の件で話があるんだが?」
「あー、あの件ですね。俺、何も知りませんよ。」
「本当に?」
「……」
「社員証が無くなった日、君は文書室の前にいた。誰もが不自然だと思ってる。俺もだ。君の後ろには、課長と係長の影がある。何か頼まれたんじゃないのかな?」
斉藤は一瞬動揺し、小さく震えた。
朝倉は無言の圧で返答を待った数分後...
「あ...あの……す、すみませんでした!朝倉さん!俺…金を借りてて…断れなかっただけなんです!」
聞き出したのは、こういうことだった。
課長と係長は斉藤に金を貸していた。
斉藤の生活はギリギリとは言い難いほどだったようだ。
その事は場所内では有名な話であり、その弱みにつけこむことはだれでも簡単だ。
そして、あの二人に呼ばれ、金を貸す代償として「社員証を処分してこい」と命じられたという。
「みんながあいつに迷惑をこうむってる。このままだと女性社員をまもれないかのうせいがある。あいつを異動させるにはそれが一番だって…」
社員証を紛失すれば、社内規定で再発行に3ヶ月。
澤田は即日入館権限を剥奪された。
そして他部署へ一時的に「追い出された」。
「なんでそこまでして…澤田を?」
斉藤は言った。
「澤田さんが来てから、女の子達が仕事以外のことで笑うようになったんです。課長も係長も焦ってた。このままじゃ職場の空気が乱れるって…」
朝倉は黙って聞いていた。
「士気が下がるって…課長は何度もそう言ってました。自分の手に負えない空気になる前に潰そうって…」
北脇課長は女の職場を嫌ったわけじゃない。
今の雰囲気が変わることを恐れた。
冴えない男達で静かに回っていた現場に、営業の花形でありイケメンの澤田が入った。
若い女子達の目線が変わった。
影響をうけ身だしなみに気を遣う男も出てきた。
係長と関係を持っていた女子社員も、澤田に好意的な言葉を漏らした。
それぞれの男性社員達のプライドが傷ついたというわけだ。
欲が動き、嫉妬が燃え、澤田は異物と見なす空気が出来上がっていった。
「くだらない話だ」
朝倉は書類を閉じた。
「しかし、職場を壊すにはそれで十分かもな」
翌日
「お前……これ、本気で出すつもりか?」
そう言って書類を受け取ったのは、人事部の審査担当・古川だった。
口調はあくまで穏やかだが、目の奥には明確な戸惑いがあった。
朝倉は淡々と答える。
「ええ。社内風紀と人事の透明性に関わる問題です。正式に監査依頼として上げます。内容に問題があるとは思いませんが?」
古川はしばし沈黙し、やがて静かにうなずいた。
「ただ相手が課長と係長だからな。社内の空気がざわつくぞ」
「既に澤田が飛ばされたことでざわついてますよ。正すべきことを見逃して、会社として何を守るつもりですか?」
その言葉に古川の表情が引き締まった。
「分かったよ。預かる。責任持って上に通す。朝倉にはかなわないな。」
会議室を出た朝倉の胸ポケットには、斉藤が直筆で書いた証言書のコピーが入っていた。
そこにはこう書かれている。
「私は軽作業課の北脇課長および榊原係長から『澤田誠也の社員証を廃棄しろ』と命じられ、社内規定に反してそれを実行した。理由は『職場の空気が澤田によって乱れる』『若い女性が澤田に関心を持ち、業務が滞る』と聞かされた」
朝倉が斉藤にこの文面を書かせたのは、逃げ場を与えるためでもあった。
斉藤を免罪するつもりはない。
しかし罪の大小ではなく、嘘を重ねる人間と、真実を話す勇気を持つ人間を分けることが朝倉のルールだった。
午後、朝倉は現場に足を運んだ。
軽作業課の空気は、以前にも増して緊張感があった。
斉藤が姿を見せなくなって以来、何かが崩れかけている。
男達は妙に落ち着きなく、逆に女性達はどこか張り詰めた均衡を意識している様子だった。
そんな中、朝倉のもとへ近づいてきたのは、女性社員のひとり、木村亜希だった。
「お疲れ様です。朝倉係長、少しお時間をいただけますでしょうか?」
人気のない備品庫で、木村は声を漏らした。
「澤田さんは?もう戻ってこられないんですか…?」
「なぜ、そう思う?」
「榊原係長が…もう関係ない人間だって。最近、あからさまに彼の話題を出すと嫌な顔をする人が増えてて…それって何か違う気がして!」
朝倉は思った。
この職場はすでに、澤田という異物を追い出したことを既成事実にしようとしている。
しかし、まだ退職はしていない。
なのに、いなかったことにする空気が既に醸成されつつある。
「木村さん。少しだけ教えてほしいんだ。この職場で澤田が浮いていたように見えたことはある?」
「えっ、い、いいえ。むしろ逆です!澤田さん、誰にでも丁寧で余計なことを言わないし、気配りもできて…。私達は、もっと一緒に仕事がしたいって思ってました」
「ん?そうだとするなら、なぜこんな雰囲気になったんだろうね?」
「男性陣が変わったんですよ。見た目を気にするようになったり、無駄に張り合ったり。女性が増えてもずっと穏やかだった職場に急遽、澤田さんが来たら急に、空気がギスギスしだしたんです。どうしようもない人達です。」
男たちは穏やかな日常に満足していた。
そこに比較される存在が来た。
無意識に生まれる嫉妬。
尊敬より先に排除したいという衝動が走った。
「もうひとつだけ聞いてもいいでしょうか?」
木村が口を開いた。
「高山さん…澤田さんのこと、本当に好きだったんです。でも、純粋に憧れみたいなもので、迷惑なんてかけてなかったのに…係長に余計な行動はやめろって注意されてたって…」
朝倉は無言でうなずいた。
やはり澤田を孤立させる空気作りは意図的に行われていた。
しかも、女性社員達を口実にもっともらしく正当化されていた。
翌朝。
朝倉は社内法務部の窓口を訪れた。
そこにいた法務担当・佐川は、書類を見て目を丸くした。
「これ、完全に社内規定違反だよ。社員証の意図的廃棄、それも組織的って…。再発行が3ヶ月かかるのは自然喪失を前提としてるからで、意図的な破棄は処分対象です」
「可能であれば、正式な懲戒相当案件として扱ってください。該当する規定条項はこちらのコピーを読めばわかります。」
事態は、いよいよ動き出した。
朝倉が証拠と証言を持って動いたことで、個人のいさかいが組織的排除の構造へと姿を変えていった。
最後に朝倉はひとつ、鞄から澤田の退職届を取り出して見つめた。
澤田、俺はまだこれを出していない。
だから君が諦めるのをやめるその時まで俺が預かっておく。
「ここからが、本番だな」
3月某日、月曜の午前10時。
会議室「C-4」のドアが閉じられた。
出席者は5名。
・人事部審査担当:古川
・法務部コンプライアンス室:佐川
・社内監査室:三原
・軽作業課 課長:北脇 勝
・営業第二課 係長:朝倉 修平
会議の名目は「社員証紛失に関する人事影響調査」。
しかし、実質は北脇課長・榊原係長に対する事実確認ヒアリングだった。
「それでは課長。澤田誠也君の社員証が紛失した日。文書管理室の前におられたと記録にあります」
佐川が淡々と資料を読み上げる。
北脇は鼻を鳴らした。
「文書の確認ですよ。古い業務手順書の棚卸し作業を任されてましたんでね」
「それは業務日誌には書かれていません」
「細かく報告するほどのことじゃないでしょう」
「榊原係長の同伴は?」
「たまたま、です。あいつもその時通りがかっただけだと思いますが」
「そして社員の斉藤賢吾君も?」
「彼も文書管理のファイル整理を」
朝倉が静かに口を開いた。
「斉藤君の証言によれば、あなたと係長から命じられ、社員証を廃棄したと明言しています」
その瞬間、空気が変わった。
北脇の目の奥がギラリと光る。
「ん? おい、朝倉係長、それはなんの冗談だ? 俺がそんな命令をしたって?」
「これは証言に基づいた調査です。斉藤君が作成した書面はすでに提出済みです」
「部下に借金があるのを利用して、命令したという記述もあります」
佐川が書類の一部を読み上げると、北脇は一気に顔を赤らめた。
「でっち上げだ! あいつは借金のことを隠すために俺達を」
「あなたが、斉藤君に金を貸していた事実は?」
「それはプライベートな話だ。会社のこととは関係ない」
「部下に金を貸すことは、利害関係と指揮命令系統の混同にあたり、社内規定で明確に禁止されています」
監査室の三原が口を挟んだ。
「ここまで明確な利益関係と不自然なログが揃っている以上、私達は懲戒案件として取り扱います。榊原係長の事情聴取も追って行います」
「ふざけるな!」
北脇が呟いた。
その声には焦りと苛立ち、そして予想外だったという動揺があった。
会議が終わると、古川が廊下で朝倉に言った。
「あの態度、完全にやってるな」
「ええ。証拠は揃ってます。あとは引き金を誰が引くかだけ」
「斉藤は?」
「保護対象として今は静養中です。事実上、彼は利用された側ですから」
数日後。
朝倉は社内チャットで、ある通知を見た。
《グループ会社 東北梱包センターから、営業本部へ人員一名復帰予定》
その名前は澤田誠也。
ついに戻ってくる。
当日夜。
朝倉は澤田に直接電話をかけた。
「朝倉係長…俺、いいんでしょうか?本当に戻って」
「俺は退職届をまだ出していない。会社も正式な異動通知を出してきた。つまり君はまだ戦力として扱われてるんだ!自信もて!」
「でも、あの空気の中に戻るのは、正直…」
「分かる。だが、君がいなきゃ分からなかったこともある。自分がどんな扱いを受けていたか、もう知ってるな?」
「はい」
「だったら、俺と一緒にあの職場を変えてもらうからな〜。澤田!君が戻ってくること自体が、彼らへの最大の一撃だ。まってるぞ。」
電話越しの沈黙のあと、澤田は静かにこう言った。
「分かりました。戻ります。もう逃げません!」
一方、軽作業課では
課長・北脇は日々呼び出され、係長・榊原には調査通知が届き、男達の空気は沈んでいた。
そしてある日、社員たちの机に社内報が配られた。
【特別監査報告】
軽作業課における不適切な人事介入・社員証管理違反について現在調査中。
確認が取れ次第、関係者には厳正に対処を行う。
朝倉はそれを見ながら、静かに呟いた。
「正しさは正義じゃない。しかし、正さなければならないことはある、か...」
4月初旬。
春の陽射しが緩く差し込む中、澤田誠也は社屋の自動ドアをくぐった。
3ヶ月ぶりの本社。
戻ってきたというよりも、呼び戻されたという感覚に近かった。
ネクタイを締める指先に汗が滲む。
彼にとってこの復帰は覚悟の一歩だった。
「おはようございます」
軽作業課のフロアで声をかけたが、返事はなかった。
目が合った者すらいない。
無視ではない。
だが意図的な無関心という空気が皮膚を刺した。
斉藤の机は空席のまま。
北脇課長は出社していたが、澤田を見ても一瞥すら寄越さなかった。
係長・榊原は席を外したまま戻らない。
異物。
澤田は、自分がそこにいてはいけない存在として扱われていると悟った。
業務開始から2時間。
一切、話しかけられることも、視線を向けられることもないまま、澤田は伝票整理と備品管理の確認に徹していた。
あまりにも静かすぎて、コピー機の駆動音さえ刺々しく感じる。
昼休み。
食堂へ向かうと、エレベーターに乗り込もうとしたそのとき、背後から聞こえた小声。
「マジで戻ってきたよ。空気読めっての」
「女ども、また変な空気になったらどうすんだよ」
その瞬間、澤田の歩みが止まった。
だが振り返らなかった。
その程度の言葉にいちいち反応していては、きりがない。
ただ、心が少しだけ鈍く痛んだ。
午後。備品庫で段ボールの積み替え作業をしていたときだった。
「おい澤田、それ逆。納品先と倉庫位置、入れ違ってるだろ?」
唐突に榊原が背後から声をかけてきた。
「すみません、指示書の更新が届いてなくて」
「は? そんなの自分で確認しとけよ。戻ってきたってんなら、少しは空気読む努力くらいしろや!」
言葉ではなく、言い方が悪意に満ちていた。
周囲の男性社員は見て見ぬふりをし、誰ひとり助け舟は出さなかった。
澤田は黙ってうなずき、指示書を確認し場をやり過ごした。
その日の夕方。
自席に戻ると、モニターに一通のチャットが届いていた。
From:朝倉修平
To:澤田誠也
お疲れ様。時間がある時に、こっちに来られるかな?
会議室に入ると、朝倉は黙ってコーヒーを2つ置いた。
「馴染めそうか?」
澤田は、ゆっくり首を横に振った。
「正直…キツいです。」
「それでも来た。それで十分だ」
「俺、本当にあそこに居ていいんでしょうか?」
「居ていいかなんてことを考えるのは、追い出したい奴らの視点だ。君は居るべき理由を持って戻ってきた。それでいいだろ?」
しばらく沈黙が流れた後、朝倉は静かに続けた。
「人事と監査は、いま詰めに入っている。君が黙っていても、やるべき処分は進む。だからこそ、君がその部署で変わらずに働き続けること。それが一番、彼らの心を抉る行動だと思わないか?」
澤田は黙って、湯気の立つコーヒーを見つめた。
「戦えってことですか?」
「いやいや、黙って耐えろってことだよ。いずれは必ず変わることになるんだ。それまでは変わらずにいることが一番強いし、やり続けることが正義なんだ。覚えておいてほしい。」
翌日。
澤田は同じ時間に出社し、同じ手順で業務をこなした。
何も変わらない空気の中で、誰とも目を合わせず、しかしひとつひとつの作業を手を抜かずに丁寧に進めた。
そして
昼休みの終わり際、一人の女性社員・高山美羽が、澤田の席に飲み物を置いた。
「あ、あの...コーヒー、好きだって聞いたので...」
小さな声だった。
それは確かに空気が揺らいだ瞬間だった。
澤田は少し目を見開き、静かに笑った。
「ありがとう」
その日の夕方、朝倉のもとに1本の連絡が入った。
「北脇課長の処分が決まりました。監督責任と業務命令の逸脱により、地方拠点への異動が正式に内定しました。榊原係長についても、懲戒相当の審査が進行中です」
朝倉はモニターに並ぶその文字を見つめながら、ゆっくりとタブを閉じた。
澤田が崩れなかったことが、最大の反撃だった。
澤田が営業部に戻ったのは、足の状態がほぼ完治した翌週だった。
軽作業課での短期配属は、会社としてはあくまでも「一時的なリハビリ期間」。
彼が正式に営業第二課のフロアに戻ると、かつての同僚たちが自然に迎え入れた。
「やっと戻ってきたな〜、澤田!待ちかねたぞ〜!」
「無理してたろ、あんな現場で〜!」
「顔色、前よりいいじゃ〜ん!おかえり!」
それは特別な言葉ではなかった。
だが澤田にとっては、何よりもありがたかった。
軽作業課では、異物扱いされ、空気で拒絶され続けた。
それでも彼は毎日、逃げずに通った。
声を荒げることもなく、目立つ言い訳もせず、ただ「丁寧に仕事をした」。
その黙って耐えた数週間が、彼を少しだけ強くしたのだと、澤田自身が感じていた。
週の後半。
朝倉は社内掲示板にひっそりと貼られた通知を目にした。
【社内監査室より】
軽作業課における社員証管理および一部人事措置に関する調査を継続中です。
関係者の皆様には、個別にご協力をお願いする場合があります。
名前こそ明記されていなかったが、読めば誰でも察する。
正式に社内の監査対象として認識されたのだ。
その掲示を一瞥した北脇課長が、無言のまま掲示板から離れていったのを朝倉は背後から静かに見ていた。
その目は、すでに詰んだ盤面を見据えるプレイヤーの目だった。
金曜の午後。
営業フロアに戻った澤田は、デスクで書類をまとめていた。
「ねーねー!軽作業課…社内報、見た〜?」
隣の席の椎名がタブレットを見ながら言った。
「見てませんけど。なにかありました?」
「社内風紀に関する注意喚起ってタイトルで、名指しじゃないけど、部署内での不当な圧力や排除について調査中だって〜!」
「そう、なんですね〜」
「まあ、ピンと来る人は来る。あの空気、異常だったって、今だから言えるって奴もいたってこと」
澤田は静かに頷いた。
誰もが口に出せなかったことが、少しずつ言える空気になってきている。
それだけでも大きな変化だった。
彼はその日、担当していた古い顧客の案件をひとつ片付けた。
戻ってきた自分が、本当に戦力として扱われていること。
それが実感としてようやく胸に落ちた。
社食で顔を合わせた同僚たちの「おかえり」のトーンが、少しずつ遠慮から歓迎に変わっていくのを肌で感じていた。
週明けの月曜日。
朝倉は軽作業課の現場に足を運んだ。
「あの...」
段ボールの整理をしていた木村亜希が、手を止め、小声で話しかけてきた。
「澤田さん、営業に戻られたんですね!」
「ああ、足も完治して正式復帰したよ。」
「あぁ!良かったです〜!!」
ほんの一言だったが、その目に浮かんでいたのは安堵と少しの後悔だった。
「何か伝えたいことがあれば預かってもいいけど?」
「い、いえいえ!そんな!…もう、言えることはありませんもの。私達は、何もできなかったんです...言える資格なんて私たちにはありません。」
「何もしなかったわけじゃないだろ」
「でも…助けたとも言えません。本当に申し訳ないことをしました。」
朝倉は黙って頷いた。
それでも彼女の目は、以前よりもまっすぐだった。
火曜日、社内監査室からの通達が更新された。
【人事通達:社内監査結果に基づく処分】
・軽作業課 課長 北脇 勝:懲戒処分(重大な服務規律違反)。
同日付で降格、最低評価帯へ。物流子会社へ左遷。
・同係長 榊原 孝明:パワーハラスメントおよび指導権の乱用により、懲戒解雇。社内報および全社掲示で処分内容を明示。
処分内容は社内報でも特集され、掲示板にもコピーが貼り出された。
その横で、人事部の若手職員が小さくつぶやいた。
「ここまで明記するの、初めて見ましたよ」
朝倉は横を通りすぎながら、静かに呟いた。
「言葉で説明する必要のない制裁。それが、本物の報いってやつ、か...」
処分翌日、朝の打刻の時間。
軽作業課の掲示板前で、榊原が最後の抵抗を試みていた。
「おい、ふざけるな! 俺がこんな処分受ける筋合いないだろ!?」
声を荒らげていたが、誰も返事をしなかった。
静かに人が離れていく中、総務部の職員が手続きを進める。
榊原は最後まで、「被害者は自分だ」と言い張り続けた。
だが、彼の声が誰にも届かないことに、彼自身が気づいていないだけだった。
北脇は荷物を片付ける背中を見せるだけで、誰とも目を合わせなかった。
机の引き出しに残された黒ずんだキーホルダーが、妙に虚しく見えた。
水曜、昼休み。
澤田は社食の隅で一人、昼をとっていた。
同じフロアの後輩社員がトレイを持って隣に座った。
「澤田さん、あの…俺、軽作業課の時、何も言えなかったの、ずっと気にしてて…本当に、本当にすみませんでした!」
「ありがとう。もう、気にしてないよ。よかったら一緒に食べない?ここからやり直そうよ。」
その一言で、後輩の表情が少しほぐれた。
「は...はい!」
誰かを責めない。
それが澤田が貫いた姿勢だった。
そしてそれこそが、周囲を変え始めていた。
その日の帰り際。 朝倉は澤田とすれ違いざまに声をかけた。
「おつかれ!よく耐えたな」
「いえいえ、朝倉係長がいたからこそです。感謝のしようもありません。」
「君が黙って耐えてくれたからこそ、俺が動けたんだ。二人の勝利だな!」
澤田は短く頷き、最後にひとことだけ返した。
「この会社、まだ捨てたもんじゃないですね」
そう思える自分が、少し誇らしかった。
朝倉は、それに答えるように小さく笑った。
その笑みの奥にあったのは、静かな肯定だった。
君がいれば、この会社はきっと変えられる!
言葉にはしなかったが、その思いは澤田にも伝わっていた。