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慕われたい社員を斬る!

ある日、朝倉修平が「ストライダースポーツ 東関東営業所」へ向かった理由は、ただのグループ会社視察ではない深刻な理由があったからだ。

なぜ朝倉が選ばれたかというのは、営業の勉強会の講師として度々、顔を出していたことが理由だ。

社員達から警戒されない存在が必要というわけだ。


本社経理部から内々にこう伝えられていた。


「仕入れと売上が全く合ってないんだよ。特にアメフト用品に関しては、発注額のわりに売上が低すぎるのはちょっと...ね」


「不正会計の痕跡は?」


「そこまで明確ではないんだ。でも帳尻合わせが毎回遅れて提出される。決算書類も毎回ギリギリ。内部では棚卸しが下手なだけって済まされてるけど、ちょっと怪しいんだよな〜」


「つまり、確かめろってことか」


「察しがいいね〜!教育研修講師の名目で現場に入ってくれると嬉しい。」



ストライダースポーツは、ASAホールディングス傘下の小売部門。

全国に40店舗を展開しており、特に東関東営業所は売上は高いが利益が低い典型例だった。


社員数は5名。

・所長(40代、営業管理)

・経理・庶務(30代女性)

・店舗販売担当2名(20代)

・営業担当(30代中盤、アメフト用品専任)


朝倉は一人ずつ順番にヒアリングし、業務動線、在庫の流れ、帳簿の記載を確認していった。

所長と経理担当は


「人手が足りず、すべてを把握しきれていない」


と繰り返し、販売担当の若手2人は


「営業に直接関わる部分は知らない」


との回答。


だが、最後の一人 営業担当・堂島どうじま ごうだけは、朝倉の質問に妙な受け答えをしていた。


「スパイクの件ですが、発注書が未処理でした。どこに行ったんでしょう?」


「えーと…たぶん、あれは先方の部活から試供扱いってことで…」


「試供扱い? それ、書類あります?」


「いや、口頭だけだったと思います。あいつら、礼儀だけはいいんで」


「礼儀がいい=帳簿処理いらない、とはならないぞ」


「はは…いや、でもまぁ、現場感としては...ですね」


その受け答えは、何かをごまかすような余裕のなさと場慣れが交じっていた。

堂島の見た目は、スポーツマンというより背筋の丸い文系な外見の営業マンだった。

体格は標準、腕や脚も普通、動きに躍動感はない。

彼の言うアメフト経験に関する証拠もなく、大学時代の部活歴も不明瞭。

しかし、妙にアメフト部員と打ち解けているという点が朝倉の警戒を強めた。


「まるで慕われることが目的みたいだな」


初日の調査メモに、朝倉は赤字でこう書き込んだ。


【堂島 豪:棚卸し遅延、帳簿不整合、発注不記録 → 慣れている形跡あり】

【現場での慕われぶりが不自然 → SNS等調査対象】


こうして朝倉修平の静かな潜入捜査が幕を開けた。


「明日から、教育講師という形で堂島に現場同行してもらってくれ」


所長の言葉に、堂島豪はわずかに顔をしかめた。


「了解です」


堂島は本社の朝倉修平が調査目的で来ていることを知らない。

朝倉もそれをあえて伏せたまま、調査名目の教育視察として現場に入った。


6月下旬。

湿度の高い空気の中、朝倉と堂島は社用車で千葉南部の大学や高校のアメフト部を回った。

どの校舎も運動部特有の活気が漂っていた。

グラウンドからはホイッスルの音が響き、部員たちは礼儀正しく挨拶を飛ばしてくる。


「うっす!堂山!」

「ストライダースポーツさん、どうもーっす!」


朝倉にも、堂島にも、声はかかる。

部員達は、いわゆる体育会系の礼節を形式上は守っていた。

しかし、朝倉はすぐに気づく。

その敬意は表面だけだ。

部員たちの態度。

言葉の端々、堂島への接し方。

どこかで彼を「ナメている」のが明らかだった。

その事に堂島自身が気づいていない。

いや、むしろ舐められることすら「自分が親しみやすい証」と受け取っている節がある。


「この前のヘルメット、どうだった?」


「ヤバいっす!でも、もう一個、無料でつけてもらえると最高っす!なーんちゃって!」


「また今度な〜」


その笑顔。

普段、無表情で無口な彼の、唯一ほころぶ瞬間だった。


移動中、車内。

朝倉はさりげなく問いかける。


「さっきの大学、あれ、正式な発注はあったのか?」


「まだです。でも、あそこは大丈夫です」


「大丈夫の根拠は?」


「根拠?って何ですか?」


「……」


その口ぶりも曖昧だった。

言葉は平坦で抑揚もない。

何を考えているかがまるで見えない。

そして彼の提出した営業日報。


『〇大にいってテーピングくばり、感謝される』

『またつぎいくで話あわせたい』

『とくに問題なかたけど、若干もっていった数がたりなかったと思う』


助詞の抜け、主語の不在、時制の乱れ。

内容が伝わらないだけでなく、文法すら危うい。


「これは…読ませるつもりで書かれてないな」


顔立ちも、どこか異国感があった。

堂島の無表情、言葉数の少なさ、唐突な返答。

肌の色、目鼻立ち。 在日なのかと一瞬疑うが、入社時の書類には「日本国籍」とある。

だがその日本人離れした無表情は、どこか気味が悪いほど一貫していた。


ただし学生たちの前だけはすこし違った。


声に張りが出る。

顔が明るくなる。


「どう?俺のこと、かっこいいだろ?」と言わんばかりの自己演出。

彼は学生達のことを、明らかに顧客ではなく後輩として見ていた。


「俺、後輩たちの面倒はちゃんと見てるんです」


その言い方に、朝倉は強い違和感を覚えた。


「後輩?」


この男は営業をしているのではない。

承認されることが目的になっている。


朝倉は助手席でメモ帳を開いた。


【堂島:営業=顧客管理でなく、自己演出の場】

【発注・記録・文書=精度が低く、責任感なし】


この段階では、まだ確たる証拠はない。

だが、匂いは明確に出てきている。

彼の行動は間違いなく何かを隠している。


日曜日。

千葉市内の強豪高校で行われたアメフトの地区選抜戦に、堂島と朝倉は同行していた。

この試合は、堂島にとって営業最大のチャンスだった。

学生達はケガをしやすく、テーピングやサポーター、アイシング備品の需要が高い。

売上に直結する場であり、堂島はこの機会に備えて車の後部座席に段ボール3箱分の用品を積んでいた。

だがその日、堂島は妙に落ち着かず、終始そわそわしていた。


「今日って、教育視察ってことですよね」


「そうだ。営業活動もそのまま続けてくれて構わない」


「…はい」


だが堂島は明らかに動きが鈍い。

いつもなら率先して部員たちに声をかけ、雑談を交えながら商品を手渡し、必要があればその場で特別値引きの申し出までしていた。


しかし、この日はまったくそれをしない。

朝倉の存在が監視として意識されているのは明らかだった。

それに呼応するかのように、学生達の態度にも変化が出てきた。


「今日はいつもよりお堅いっすね〜」

「堂島〜!なんか上司来てんじゃん?怖ぇ〜」

「堂島さん、今日は大人しいじゃないすか〜」


彼らは朝倉を邪魔者と見なしている。

それは次の事件を引き起こした。


試合中。

朝倉は観戦席を離れ、校舎裏の駐車スペースで社用車の荷物を整理していた。


すると


「おい、こっち。バレないようにな」

「いつものヤツあったあった。テープ5本ね」

「お前、欲張んなよ。氷袋もいけんじゃね?」

「カラーベルトもいっとけ、いっとけ!」


5人の学生達が堂島の車のトランクを勝手に開け、中身を物色していた。

制服の上にジャージを羽織ったまま、ポケットに商品を詰め込む手つきは手慣れていた。

その瞬間、朝倉は静かに彼らの背後に立った。


「お前ら、何をやっている!」


「!!」


学生達は動きを止めた。


「それは、ストライダースポーツの所有物だ。勝手に持ち出した時点で窃盗だ。お前ら何をしてるか分かってるのか!」


「いや、でも、堂島が…使っていいよって…」


「だから貰ったんよ…」


「それ、本当に堂島が言ったのか? 盗っていいと?」


沈黙。


朝倉は一歩踏み出す。


「堂島が言ったとしても、それは正式な処理を経たものではない。勝手に持ち出した以上、お前たちの行為は犯罪だ」


全員、凍りついていた。


10分後。

試合が終わり、校舎裏で事情を聞いていた朝倉は、堂島を呼び出した。


「堂島君、君の車の中からテーピングやアイシング材、計15点以上が盗まれそうになっていた」


「えっ!? 俺は持ってけなんて言ってないっすよ」


「学生達はいつものことだと言ってた」


堂島は目を泳がせた。


「俺は言ってません」


「堂島君。正直に話してくれ」


朝倉の声が低く沈んだ。


「学生に媚びるために、自社の在庫を勝手に無料で提供していたんじゃないのか」


沈黙。


「サービスでは済まされない。これは業務上横領にあたる可能性がある」


堂島の手が震えた。

そして、ようやく口を開いた。


「俺のこと、先輩って呼んでくれるんです」


「先輩?」


「俺、友達とか、後輩とか、そういうの、学生時代いなかったんで…」


「……」


「アメフトやってるやつら、上下関係きついけど、俺が行くとちゃんと挨拶してくれて、笑ってくれて、すごく…なんていうか…俺、居場所っていうか…」


「それで?」


「だから、ちょっとくらい物をあげても、それで俺のこと慕ってくれるなら、いいかなって…」


朝倉はゆっくり目を閉じた。


「君のやっていることは、営業ではない。施しと引き換えに好意を得る行為だ」


「……」


「そしてそれは仕事ではない。自己満足だ」


堂島は黙って立ち尽くしていた。

朝倉は深く息を吐いた。

この男の承認欲求は想像以上に根深い。

その根は、過去の孤独と拒絶にある。


週明けの朝。


朝倉修平は本社に戻ると同時に、資料室の一角を占拠した。

デスクに並べられたのは、過去8年間の仕入れ伝票、売上データ、棚卸し報告。

調べるべき対象は、スポーツ用品グループ会社「スポライフ」の一部門。

大学・高校アメフト部門を担当する堂島明弘の仕事の痕跡だった。


朝倉は何時間もかけて数字を見比べていた。

明らかに不自然な年度がいくつもある。

仕入れ伝票は大量に出ている。

だが、売上報告が極端に少ない。

特に堂島が担当した地域では、月ごとの売上が10万円以下の月が頻繁に見られた。

それに対して仕入れは月60〜100万円分に達している。


また、年に数回、棚卸し提出が2週間以上遅れている記録もあった。

在庫調整報告、消耗品のロス分 不良品処理 破棄扱い

帳尻は無理やり合わせてあるが、整合性はまったく取れていない。


朝倉は静かにメモをとった。


《帳尻:粗い。整合性なし。計上漏れ? 故意?》


朝倉はその数字を元に、ざっくりと合計した。

堂島が担当した8年間で見かけ上のロスは900万円を超えていた。

これはもはや単なるミスでは説明がつかない。


昼、朝倉は人事課に掛け合い、応接室で堂島との面談を設定した。

堂島が入室すると、どこか所在なげな顔でペコリと頭を下げた。


「どうぞ」


「…はい」


無表情。

反応も薄い。

目は泳いでいる。


朝倉は、まずは資料を見せず、淡々と質問を始めた。


「堂島君。先週の現場同行のこと、少し聞かせてくれる?」


「この前喋りましたよ?」


「正直に言って欲しい。あの時、学生達が君の車から勝手に物品を持ち出していた。あれは事前に了承していたことか?」


堂島は目を泳がせたまま、沈黙した。


「見て見ぬふりをしていたように感じた。なぜ?」


「あいつら、がんばってるから…」


「君が販売ではなく無償提供していた可能性がある」


堂島は小さく瞬きをした。


「俺…あんまり、数字とか、得意じゃないんで…」


「得意不得意ではなく、何をしていたかが問題なんだよ」


朝倉はゆっくりと、用意した一枚の表を差し出した。


「この年、2019年9月。ショルダーガード、5セット。仕入れ金額52万円分。しかし、売上はゼロ。これはどういうことなのかな?」


堂島は視線を下に落としたまま、言葉をつまらせた。


「あの、あいつら…、ヘルメットとか、買えなくて…、でも、試合近くて…」


「渡した?販売ではなく?」


「サービスしました…」


「サービスとは、会社としての決裁を得た上での行為なんだ。君はそれを誰の許可で行ったのかな?」


「許可を受けてません」


朝倉は視線を鋭くした。


「なぜそこまでする? 自腹でもないのに、勝手に商品をばらまく理由があるのか?」


堂島は答えられない。

いや、答える言葉を見つけられない。


数秒後、ボソッと声が漏れた。


「嬉しかったんです…堂島さん、ありがとうございます!って言われるの…」


「ありがとうございますを聞きたいがために、会社の損失を出し続けたと?」


「なんか、居場所があった感じ、して…」


その言葉を聞いた瞬間、朝倉の表情がわずかに動いた。


「見返りが欲しくてやっていた、と言っているように聞こえるよ」


堂島は小さく首を横に振った。


「そうじゃないけど…カッコよくいたくて…」


「いくらで商品を渡した? 正確に答えてくれるかな?」


「ほとんど、無料とか…。時々、20円でいいよって言ったことも…」


朝倉は一瞬、呼吸を止めた。


「20円…? 定価十数万の防具を、20円で?」


「はい…」


静まり返る応接室。


朝倉は無言でペンを走らせた。


堂島:8年間で少なくとも約1000万円近い商品を無断提供・極端な値引き


そして、その横に一言

口頭伝票・記録なし・証拠なし


「君、自分のやってることの意味、わかってるか?」


堂島はかすれた声で「すみません」とだけつぶやいた。


朝倉はゆっくりと手元の書類を閉じた。


「次は正式に、監査と処分を進める。これまで君が出してきた帳尻合わせの在庫調整、すべて精査に入ります」


堂島はもはや返す言葉もなかった。

だが、まだ終わらない。


朝倉はメモにもう一行書き加えた。

目的=承認欲求の依存。

構造=常習的自己正当化


翌日、朝倉修平は社内にて緊急報告書をまとめ、人事部と経理部に共有した。


タイトルは

『グループ内仕入れ・売上不一致に関する調査報告(第一次)』

添付されたデータには、堂島明弘が担当してきた8年間の仕入れと売上の不一致、 計上されていない在庫調整の頻度、そして無償提供および極端な値引きの証言記録が詳細に記されていた。


社内が慌ただしくなる中、朝倉はもう一度堂島を呼び出す。


今回は人事部課長と監査室の担当者も同席。

堂島は椅子に沈み込みながら、どこか遠い目をしていた。


「今日は正式な聞き取りです。会社としての処分の前提として、君の行為の意図を確認します」


朝倉が静かに切り出すと、堂島はしばらく無言だった。

やがて、ボソボソと語り出す。


「自分、小さい頃から…ずっと、いじめられてて…スポーツも、やったことないんですけど…大学で、アメフト部の連中に初めて先輩って呼ばれて…それが嬉しくて…」


その告白に、室内が静まり返る。


堂島は続けた。


「あいつらに、必要とされるのが、すごく気持ちよくて…カッコいいっす!って言われるのが、唯一、自分が居てもいいって思える瞬間で…」


朝倉は目を伏せた。

それはあまりに幼く、そして重たい欲望の成れの果てだった。


「君にとって、学生達は顧客ではなかったんですね」


堂島は無言で頷いた。


「後輩だった。勝手にそう思い込んでいた」


「彼らに物を与えることで、自分の存在意義を作ってました。」


「だから無償で、時に極端な値引きで商品を渡し続けた。会社のものを、まるで自分の財産のように」


堂島は口をつぐんだ。


監査担当者が重い声で告げた。


「堂島さん、現時点で確認できている損失は、8年間で少なくとも1000万円を超えます。これは横領の構造に近い。あなたの意図がどうあれ、法的な責任の対象となります」


堂島の顔が蒼白になった。


「警察、行くんですか?」


「現時点では刑事告発は未定です。しかし、会社への損失補填については協議が必要です」


人事部課長が続けた。


「社としては、今後あなたに退職後も一定の返済義務を課す可能性があります。詳細は弁護士を通して」


堂島はがくりと肩を落とした。

その時だった。


「もう、ダメなんですよ、スポーツ業界なんて…」


誰も聞いていないのに、彼はつぶやき始めた。


「今の学生なんて、礼儀も、感謝もなくて…。やっても、舐めてくるだけ…もう、こっちがやる気なくなりますよ。いまどき、テーピング一本でも感謝しない」


その言葉に室内の空気が冷えた。

朝倉は静かに言った。


「つまり、君は感謝されないなら与える意味がないと?」


堂島は答えなかった。


「あの頃の彼らが好きだったと? 君に敬語を使って、必要として、礼儀正しく接してくるあの頃が。だから、それが崩れた今、君にとってこの世界はもう意味がないと?」


堂島はただ目を泳がせていた。

その顔には反省も怒りもなかった。

あったのは、ただの終わった人間の影だった。


会議が終わった後、朝倉は階段の踊り場で一人、手帳を開いた。


【堂島明弘】

・目的:承認欲求と存在価値の維持

・手法:自社資産を私物化し、与えることで感謝を購入

・結果:8年間で損失約1000万円

・責任:経済的横領に近い構造、顧客との信頼崩壊

・心理:自己正当化と逃避による発達傾向顕著


その下に、こう書いた。


『他人からもらった敬意を、自分の所有物だと勘違いした男の末路』


水曜日の午前。

社内調査報告と処分案が役員会議に提出された。


堂島明弘。

正式な社内処分は「懲戒退職」。

同時に、損害賠償請求および再発防止マニュアルのモデルケースに指定されることとなった。

これはただの事務手続きではない。

朝倉修平にとっては、企業倫理と人間の誤解の狭間に対するケジメだった。


堂島は退職届を提出し、社内への挨拶はなし。

最後まで目を伏せたまま、誰にも何も言わなかった。


1週間後。

スポーツ用品グループ全体での内部研修が開催された。


タイトル:

『信頼と資産 善意と横領の境界線』

講師:朝倉修平


プロジェクターには堂島の行為が匿名で再構成された事例が映し出される。


・顧客と人間関係を築くことが仕事の本質ではない。

・信頼は会社の資産であり、個人の人気取りではない。

・善意が暴走すれば、横領と見なされる。その典型例。


会場は静まり返っていた。

参加していたある若手社員が小さくつぶやく。


「堂島さんって、あれだったんだ…」


もうひとりが頷いた。


「自分を見てもらうために、全部壊しちゃったんだな…」


数日後。

朝倉は、かつて堂島が訪れていた大学のアメフト部に挨拶に出向いた。

責任者の監督は言った。


「堂島先輩って学生達が呼んでましたね。もう業者でも顧客でもなく、身内扱いだったんです」


「その扱い、彼が求めたんでしょうか?」


と朝倉が尋ねた。


「わかりません。ただ、うちの連中は、あれが普通だと思ってました」


「だからタダでテーピング持ってっても、悪いことしてるって思ってなかったんでしょうね」


朝倉はそこで深く頷いた。


「彼は施しの代償として、無限の感謝を求めていた。だけど人は慣れる。もらうことが当然になる。その瞬間、彼の価値観は壊れていった」


監督も、静かに言葉を継ぐ。


「それでも、一部の学生達は分かってたと思いますよ。彼の弱さに」


朝倉は帰り道、ふと遠い昔を思い出していた。

正しさではなく、見てほしさに支配される人間の危うさ。

彼は自分の手帳に、最後の記録を書き加えた。


【最終記録:堂島明弘】


・過去の孤立といじめの記憶により、承認欲求が肥大化

・業務と人格の境界が溶け、自社資産を自己演出に流用

・被害者なき加害。だが、会社にとっては致命的な裏切り

・最終的には誰の記憶にも残らない存在に成り果てた


翌月。


再構築された社内規程の文頭には、こう記されていた。


『好かれたいと思うならば、まずは信頼される人間であれ。会社は人気者を求めていない。信頼される社会人を求めている』


部下が何気なく尋ねる。


「朝倉さん。あの堂島って人、なんであんなふうになっちゃったんですかね」


朝倉は、短く答えた。


「与えられなかった人間が、与える人間に成ろうとした。その方法を間違えたんだ」


そして朝倉は再び椅子に深く座り、 手元の未処理案件に視線を移した。


信頼は今日もまた、誰かの目に見えない場所で崩れているのかもしれない。

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