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Xジェンダーを斬る!

朝の社内。

総務フロアの空気は微妙に軋んでいた。


特に誰が何かをやらかしたわけでもない。

誰かが怒鳴っているわけでも、泣いているわけでもない。

ただ、全員が気を使っていることだけが妙に伝わってくる。


原因はひとりの社員、野上美沙のがみ みさだった。


30歳、中途入社。

細身で物腰は柔らかく、第一印象はおとなしくて繊細な人。

だが彼女は自らを「Xジェンダー」だと公言していた。


「学生時代、私は女だったからいじめられたんです」


「女の世界の圧が怖くて…今でもトラウマなんです」


「本当は男として生まれていたら、こんな苦しみはなかったかもしれない」


彼女はそう語る。


しかし、周囲の誰もが抱いていたのは「矛盾」だった。


野上は現在、男性と結婚している。

しかもその夫は、彼女の性自認について「よくわからないけど、そういうもんなのかもね」と曖昧に受け止めているらしい。


そして職場では女性社員には「怖い」「圧を感じる」と距離を置く


男性社員には


「お願いしてもいいですか?」

「助けてくださって本当に助かりました〜」


と甘えた声で話しかける


朝倉修平がその違和感に気づいたのは、ある日のお昼休みだった。


「係長、すみません…ちょっとだけ、愚痴ってもいいですか?」


同じ課の女性社員・杉田がそっと近づいてきた。


「なんだ?」


「野上さんのことなんですけど…」


杉田は少し声を潜めて続けた。


「この前、指導マニュアルを渡して説明したんです。そしたら後で女性に怒られてメンタルがきついって上に報告されてて…」


「怒ったのか?」


「いえ、普通に丁寧に説明しました。むしろ甘めに。なのに女性の声のトーンが無理って…」


朝倉は黙って話を聞いた。


「でも男性社員が同じ指導をしたら、優しくしてくれてありがとうございますって笑ってて…なんか、納得いかなくて」




「ね〜今川さん、この資料の整理の仕方、もう一度だけ教えてもらってもいいですか?」


「やっぱり男性って、こういうとき頼りになりますね〜」


朝倉が通りかかったとき、野上が男性社員・今川に話しかけていた。

声のトーンは1オクターブ高く、語尾はすべて伸びていた。


…ん?


その数分後、女性社員の山村に対してはこうだった。


「すみません…。その説明、ちょっと私には難しくて…」


「前に、女性に厳しくされた経験があって、怖くなってしまうんです…」


ある時、社内ミーティングで彼女がこう発言した。


「私、過去のいじめのせいで、女性の前では萎縮しちゃうんです」


「それに、女性の馴れ合い?が苦手で...」


周囲が凍った。

女性社員たちの表情が硬くなるのを朝倉は見逃さなかった。


「でも、男性には懐くんだよな…」


その日の帰り道。

営業の小野がぽつりとこぼした。


「係長、正直な話、俺も最初は野上さんのこと繊細な人なんだなって思ってたんですよ。でもあれ、完全に使い分けてますよ。甘える相手と、苦手ぶる相手」


「具体的に?」


「たとえば、俺がやることやったか?って聞いたときは、ごめんなさい、でもちゃんと確認はしました〜 なんですけど、女性社員から同じこと言われたらなんか、その言い方怖くて…ですからね」


「ふむ…」


週明け、社内で野上が中心となっていたLGBTQを考えるサークルの掲示が張り出された。


《あなたの性別は、あなた自身が決めるもの》

《差別や偏見に傷ついている人の声に耳を傾けて》


掲示の横には、野上の名前と一言メッセージ。


『私は女だったから傷つきました。もう誰にもそういう思いはしてほしくないです』

しかし、彼女は女の世界を切り捨てたようにしか見えない。


朝倉は静かに思った。

自分の辛かった経験を盾にして、誰かを排除するのは誠実じゃない

自分の性を主張することと、他人の配慮を強制することは別だ。


彼女は傷ついた過去を振りかざしすぎていた。

しかも、それは一方で武器になっていた。


男性には媚び、女性には怯え、Xを都合よく名乗る。

その言葉のすべてに、自分を守るための都合が見え隠れしていた。


月曜の午後。 営業部の打ち合わせ室では、総務課の一部メンバーも招いた全体調整会議が行われていた。


「この予算案、先に総務側で精査してもらわないと、うちは動けないんですよ」


営業部の主任・湯川が声を上げた。


「すみません…私、ちょっと数字の感覚にズレがあって…急にこれは現実ですって言われると、パニックになっちゃうんです」


その言葉に一瞬、空気が止まった。


口にしたのは、他でもない野上美沙だ。


「パニック?」


「はい…過去に、女性の上司に数字のミスを強く責められて、今でも数字を見ると、その声がよみがえるんです」


彼女の目にはうっすら涙の膜。


「申し訳ないんですけど…ちょっと、この作業は自分には向いていないと…」


湯川が目線を外した。


またか…


朝倉修平は、黙ってその様子を見ていた。


「係長、野上さん、また数字のトラウマって言ってきてたの聞いてましたよね?」


打ち合わせ後、杉田がこっそり朝倉に声をかけた。


「たしか数ヶ月前も別件で使ってたな」


「そうです。しかも前に教えてくれた女性の声が怖かったって、また女性社員を名指しして…」


「杉田、それ、記録残しておいてくれ」


「はい」


翌日。


朝倉は社内チャットのやりとりを確認していた。


【野上】 >○○さん(男性)、本当に助かりました〜! こういう時、やっぱり男性って安心感ありますよね…!


【野上】 >△△さん(女性)あの、すみません、ちょっと緊張しちゃってて、うまく聞けなくて…


朝倉は無言で画面をスクロールした。


【野上】

>Xジェンダーとして、性別で区切られない働き方を望んでいます。

>ただ、女性特有の空気に過敏に反応してしまうのは、過去のトラウマが原因なので、配慮していただけると…


トラウマという言葉が万能カードになっている



ある日。 庶務課の林がぼそっと言った。


「正直…しんどいです」


「何が?」


「野上さんと組むと、全部こっちの責任になるんですよ。女性にプレッシャーかけられたとか声が大きくて委縮したとか。いやいや、普通の会話ですからって言いたくなるけど…言ったらそれこそアウトっぽくて」


「ほかにも同じようなこと言ってる人はいる?」


「います。だけど、みんな言いづらいんですよ。だってXって言われたら、配慮しなきゃいけない空気、あるじゃないですか?」


配慮が脅しになってる、か...。


「しかも、綺麗な人や可愛い人に言われたら怖いっていうんです!唯一相談してくるのが私ってことは...ってなりませんか?あの人、私にも遠回しでバカにしてるみたいで、もう一緒にやって行けません!」


「……そうか、気持ちはわかった。報告ありがとう。」


翌週。

社内ラウンジで野上が後輩男性社員に語っているのを朝倉は偶然聞いた。


「前の部署では、女性の先輩に女としての気配りが足りないって責められたんですよ〜。 でも、私はXですし、そんな役割を期待されるのってキツくって〜」


「へえ…それでXってカミングアウトしたの?」


「はい〜。そうすれば、自分のことを守れるから」


自分のことを守れるから…?

朝倉は、心のどこかがピクリと動くのを感じた。



【朝倉の手帳・記録】

・Xと名乗る根拠が常に「自分の快・不快」

・男性にのみ甘え、女性を圧 扱いして拒絶

・被害者であることに固執し、「変われた自分」に酔っている ・過去のいじめを逃げの理由に変換



別の日、開発部との合同会議の席で


「この仕様、ちょっと厳しすぎません? 女性視点から見て無理がある気がします」


ある女性開発者がそう述べた瞬間、野上が割って入った。


「そういう言い方、ちょっとジェンダー固定な感じがして傷つきます」


会議室が静まり返った。

女性社員は困惑し


「あ、すみません」


と頭を下げた。

あれがジェンダー固定に聞こえるのか?

その日の午後、朝倉は小さく呟いた。


「…もう、限界だな」


水曜の朝、社内イントラネットに一本のブログ投稿が上がった。

タイトルは『本当の自分でいるために私はXを選びました』


執筆者は、野上美沙。


「昔から女の子の世界が苦手でした」


「女同士の無言の圧、空気の読み合い、容姿で上下が決まるあの文化」


「私は、そこにいられませんでした」


「だから、私はXなんだって思えるようになって、ようやく解放された気がしたんです」


文章は流暢で感情に訴えかける表現が巧みだった。

一部の読者には共感を呼んだようで、コメント欄には


《分かります…女性社会って本当に息苦しい》

《勇気ある発信に感動しました》


という声が並んでいた。

しかし、その記事を読んでいた、もう一人の人物がいた。


朝倉修平である。


彼の手元のメモには、静かに赤いボールペンが走った。

●「女の世界が嫌だった」→女を回避したい“動機”の告白

●私はXという言葉が逃避の免罪符に

●発信と実態がズレている(男性には愛嬌・女性には拒絶)


その日のお昼休み。

休憩室で総務課の若手社員・高木が同僚にこっそり耳打ちしていた。


「野上さんって、ぶっちゃけ女っぽさ全開じゃない?」


「わかる。なんか声も仕草も媚びてる感じするよね」


「なのに女の空気が苦手って…なんで男の前ではあんな甘えんのかね」


「ほんとのXって、ああいうことじゃないでしょって思っちゃう」


それを聞いた近くの女性社員が小声で言った。


「でも、本人がXですって言ってるなら、疑うのもダメなんじゃ?」


「そうなんだけど、なんか違和感すごくない?」


別の部署では、こういう噂も立ち始めていた。


「野上って、男の上司とだけランチ行ってるらしい」


「え、あの部長と?」


「うん、気にかけてくれてるんです〜って言ってた」


「それ、本当か?」


噂が広がるたびに、社内の空気はよどんでいった。

Xという言葉が人を黙らせる鎧になっている

朝倉は、社内で何人かの社員に個別にヒアリングを始めた。


「山村、ちょっといいか」


「はい」


「前に野上に業務指導したときのこと覚えてる?」


「あ…はい。私が書類提出の期限は守ってねって伝えたとき、急に怯えたふり?して女性に怒られると昔を思い出すって言われて…トイレに行ってしばらく帰ってこなかった時がありましたね。」


「怒鳴ったわけじゃないよな?」


「むしろ逆に、大丈夫?って聞いたくらいです」


「他に何か印象残ってることは?」


「私が何を言っても ごめんなさい、私、女性の声が怖くてって、怯えだして壁を作られて。次第に私の言葉、誰も拾ってくれなくなったんです。周りが山村が野上をいじめてるみたいになって…。そういうの上手い子なんだろうなって思いました。」


「開発の佐伯です」


「佐伯、野上について相談なんだ。前に一緒にプロジェクトやったよね?」


「はい。正直、あのときめっちゃくちゃ苦労しました!」


「何があったの?」


「議事録の確認依頼したら、数字が並んでるとパニックになるって…。でも、自分の発信したメッセージの中では納期把握してます!って書いてあって。何を信じたらいいのか分からなかったです。変わった人ですよね。」


複数の部署、複数の証言。

どれも配慮してはいけないとは思わないが、信用できないというニュアンスが共通していた。


その週の金曜日、朝倉はついにある一手を打った。

向かった先は、部長・上條がいる執務室だった。


「すみません。少しだけお時間をいただけますか」


「お〜、朝倉君。なんだい?」


「野上美沙さんの件です」


部長の眉が動いた。


「彼女が部長とはプライベートでも信頼関係があると社内で言っていたことをご存知ですか?」


「ん?」


「部長と定期的に食事に行ってる、私のことを一番理解してくれてるのは部長と、何人かの前で明言していたと」


上條の顔から血の気が引いた。


「いやいや…確かに過去に一度だけ外部講師を交えた研修の打ち上げで、野上さんを含めた何人かと食事をしたことはある。でも、二人きりでなんて一度もない」


「では、それ以外に個人的な食事は?」


「ない。誘ったこともないし、向こうからもない」


「だとすれば、彼女が部長の庇護下にあるという前提で、他の社員に圧をかけている現状は誤解を与えています」


上條は言葉を失っていた。


「誤解どころか、これは由々しき問題だな。私としても、彼女がそういう誤解をばらまいているのは非常に遺憾だ」


朝倉は頷いた。


「このまま放置すれば、現場の信頼構造が崩壊します。これまでにあの人に逆らえば部長に嫌われるという理由で声を上げられなかった者も少なくない」


「分かった。人事と連携して調査に入る」


朝倉は深く一礼した。


週明けの月曜日、総務課内に微妙な空気が流れていた。


「また野上さんが泣いてたらしいよ」


「え、また〜?なんで?」


「最近、周囲が冷たい気がする。あれこれ詮索されているって…」


「でもそれ、自分で撒いた種じゃん?」


「言えないんだよ、そういうの…。配慮しなきゃいけないからね〜」


「なんか、あの人だけ特別枠で動いてるみたいって言うか仕向けてるよね。」


小声でのやり取り。

それが一人、また一人と増えていく。

表立って誰も攻めていないのに、野上は自分が傷つけられていると感じていた。

それを裏付けるように、昼休みの社内チャットで彼女はこう投稿した。


最近、少し空気が重たいです。

私は自分の正しさと戦ってるだけなのに。

傷ついた過去を笑い飛ばして生きられるほど強くはないんです。


誰も、笑ってない

朝倉修平はその投稿を読みながら静かに目を閉じた。


「強くはないという免罪符を掲げる者ほど、実は周囲に強く干渉している」


火曜日。


部長・上條からの通達が社内に流れた。


『総務課内の一部業務に関し、公平性の観点から再配置を検討する』


その文言に多くの社員がざわめいた。

名指しはされていない。

野上という名前も性別も一切出てこない。

ただ、「公平に」とだけ記されていた。

それが誰のことを指しているかは、社員の多くが感じ取っていた。


その日の午後。


野上は、休憩スペースで誰にも話しかけられないまま座っていた。

スマホを見ては伏せ、また見ては伏せ。


彼女が背を向ける席の向こう側では、若手数人が小声で会話していた。


「なんかさ、彼女って…正しさをずっと求めてるけど、他人の正しさは見てないよね」


「そうそう。私のつらさばっかりで、人がどんなふうに努力してるかはスルーっていうか」


「男には甘えて、女には空気が怖いって、なんか…都合良すぎてさ」


「自分に甘いのに、他人には配慮が足りないって言うタイプ」


朝倉はそのやり取りを聞きながら、社内教育資料を一つ開いた。

そこには過去に行った職場トラブル事例の記録があった。


【ケースNo.14:自己定義による立場の固定化と周囲への影響】


・過去の被害経験を盾に、継続的に業務を免除される

・性自認・過去の経歴・社外活動を都合よく使い分け、指導を拒否

・他者の発言、態度をジェンダーハラスメントに変換

・その結果、教育・育成・評価のバランスが著しく崩壊


朝倉はつぶやいた。


「これだな、まさに」


水曜日。

朝倉は、野上のこれまでの発言と実際の行動を詳細にまとめた内部資料を作成していた。


その一部を抜粋すると


【主張】


「私はXジェンダーです。女性的な空気が苦手で、男性的な環境の方が落ち着きます」


【実際】


・男性社員には笑顔で甘える

・女性上司の指導は昔の記憶がよみがえると拒否

・Xジェンダーを盾に「業務免除」「異動希望」を繰り返す

・社内での性自認と、外部SNSでの発信内容が乖離


【外部発信例】


「女性として生きることに誇りを持てるようになった」


「今は、夫と暮らしながら家庭的な私でいられる。まさに奇跡で神からのギフトと主張。」


…?


朝倉の眉が動いた。


Xなのに、女性として暮らすことを誇りに? 夫?

社内掲示板で流れる野上の自己発信と、 外部での彼女のブログ内容に大きな矛盾があった。

それは彼女が本当に自分の正体を理解していないのではなく、 都合の良い仮面を使い分けているだけではないかという疑念につながっていく。


朝倉は手帳に書いた。


【野上美沙】


・被害の記憶を誇張・再利用し、立場を確保

・自己定義を変幻自在に操作して、優遇を得る

・外部では「幸せな妻」、社内では「Xとして生きづらい存在」


「これはもう個人の問題じゃない。 誤解させる力で周囲を操作する立派な職場リスクだ」


木曜日の朝、部長・上條から非公開メッセージが朝倉に届いた。


『昨日、人事と打ち合わせをした。野上の件、正式な内部ヒアリングを開始する』


朝倉は返信した。


『了解です。私の方でも最終確認を進めます』


そして

朝倉修平は社内のあらゆる記録と発言、態度、そして矛盾の全てを手に、 ついに野上美沙本人と対峙する決意を固めた。


金曜の午後。社内では通常業務が流れていた。

朝倉修平のデスクの上には、一通の封筒が置かれていた。

中身は野上美沙との個別面談通知。

人事部経由で正式に通達され、本人にも伝わっている。


場所は応接室。

時間は15時。


朝倉は記録用のメモとログ資料、外部SNSのスクリーンショットを一式揃えた。


「行こうか」


15時、応接室。


野上美沙は既に席についていた。

端正に整えられた前髪、淡いピンクのブラウス、そしてどこか不安げな表情。


「野上さん。時間を取ってもらってありがとう」


「いえ…。あの、何か…私、また誰かに迷惑を…」


「そういうわけじゃない。今日は事実関係の確認と、社内環境改善のためのヒアリング。人事からも依頼されている」


「…はい」


朝倉は、あえて柔らかな声色で切り出した。


「まず確認だけど、君はXジェンダーであると公表しているな?」


「はい…学生時代のいじめが原因で、女性の集団が怖くて」


「そのことは理解している。だが、最近になって一部の社員から接し方に困るという声が上がっていてね」


「それは…私が、悪いんですか?」


「悪いとは言ってない。だが、例えば」


朝倉は一枚の紙を取り出した。


「これは君が外部SNSに書いた内容の抜粋だ。今は夫と家庭的な私でいられるのが幸せとある」


「ええ、夫は、私のことを理解してくれてるので」


「Xジェンダーで、女性的な空気が苦手。けれど、外では家庭的な女性として生活している。この二つの言動に、ギャップがあると思わないか?」


「プライベートと職場では、別の面が出るんです」


「そうか。では次の点。部長・上條と定期的に食事してると社内で言っていたな?」


「はい。でも、それって別に…」


「本人に確認した。たまたま研修の帰りに一度だけ皆で食事をしただけだと。個人的な関係は一切ないと、かなり驚かれていた」


野上の顔がこわばった。


「私、そんなふうに言うつもりじゃ…ただ、信頼されてると感じていて」


「信頼と特権は別物だ。社内で部長の庇護下にあるという誤解が流れれば、それを盾に指導されない・優遇されると思う者が出てくる。実際、そういう状況になっていた」


「私は、ただ自分を守りたくて」


「自分を守ることと、他人を排除することは別だ。過去に傷ついた経験があるのは事実だとしても、それを今に免罪符として持ち込むことは、正当化されない」


野上は、震える手で口元を押さえた。


「私は…いじめられたことで…自分を信じられなくなって…でも、Xって言葉があって救われて…」


「それは、理解する。ただ、今の君の言動はLGBTQという枠を使って自分だけを守り、都合の悪い場面では女として苦手を理由に逃げているように見えている」


「……」


「周囲は気づいている。だが誰も口に出せなかった。それを言えば差別になるからだ」


朝倉は静かに書類を差し出した。


「ここに君の発言・行動・投稿・そして社員からの証言がまとまっている。嘘だと断じるつもりはない。ただ、君の中で整理されていない本音と建前が、人を傷つけているのは事実だ」


「そんなつもりじゃ…私は…私は…」


「君は都合のいい自分でしか動いてこなかった。 過去のいじめが原因だと言いながら、いじめのおかげで今の自分があると誇らしげに語ったこともある。まるで伝説のように。本当に苦しんでいる者は救われた経験を自慢話にはしない」


野上の目に、ようやく初めて恐怖ではない、羞恥の色がにじんだ。


「これからどうするかは君次第だ。 だが仮面を被ったまま誰かの信頼は得られない。周囲は君の性自認ではなく、君の行動を見ている」


応接室の空気が沈黙に包まれた。

やがて野上が震えた声でぽつりと呟いた。


「わかってるんです…自分が、ずるいって…でも、どうすれば、普通に…生きていけるのか、もう…わからなくて」


朝倉は立ち上がった。


「考えることから逃げるな」


そして最後に、こう言い残した。


「次に動くのは君じゃない。 俺達だ」


月曜の朝、社内には新たな通達が掲示された。


【全社員対象:ダイバーシティ運用と職場環境の見直しに関する研修の実施】


文面にはこうあった。


『多様性を尊重する社会の中で、個人の価値観と行動の整合性を問う機会を持ちます』

『性自認・過去の経験・精神的背景などを盾に、職務回避や特別扱いを要求する行為が、職場にどのような歪みをもたらすかを学びます』


その資料の中には匿名事例として、こんな一文も記載されていた。


《私はXジェンダーだからと発言しつつ、社外では夫と穏やかな女性として暮らす私と自己紹介していた社員の例》


《性自認を使い分けることで、自己都合の業務選別・上司の誤解を誘発し、他の社員に不信感と混乱を与えた》


その横には、小さくこう添えられていた。


『本件をきっかけに、LGBTQ当事者である複数の社員から私達の存在が誤解されるという懸念が寄せられました』


その日の午後。

朝倉は会議室で開発部の城嶋麻衣と面談していた。


「正直、怒りよりも悲しいですね」


「君のように覚悟を持ってカミングアウトし、行動で信頼を得た人間にとって、ああいう存在は...」


「裏切りです。私達は、言葉じゃなく態度で道を作ってきたのに」


城嶋は静かに語った。


「LGBTQの中でも、特にレズビアンの女性はよく言われるんです。いい男と付き合えば治るんじゃない?とか、性的トラウマ?とか。多くのレズビアンの子達はその何気ない言葉で傷つき、悔しくて、自分を責めて泣いています。」


「無知と偏見の塊だな」


「でもそれは、なんちゃってLGBTみたいな人達が都合の良い逃げ道として名乗るから。女性との人間関係が苦手→私はXです→でも男とは結婚…そうやって本気の私達がまた変な目で見られる」


「つまり、迷惑なんだな」


「はい。心底、迷惑です」


朝倉は頷いた。


「この研修、社外にも展開していく。都合のいいジェンダー演出が、どれだけ社会の本質を歪めるか、きちんと伝える」


その週の金曜日。


野上美沙は、異動を命じられた。

正式な理由は「業務適応性の低下および継続的な社内混乱の誘発」

異動先は文書管理室。

地下に位置し、他部署との接点は一切ない。

書庫の整理と資料のスキャン・電子保管が主な業務。


空調は最低限。

電話も鳴らない。

まるで時間が止まったような空間だった。


野上は転属初日に言った。


「私はこの場所でも必要とされてるって思いたい」


誰も返事をしなかった。

朝倉はその頃、社内掲示板に新しい言葉を投稿していた。


『誰かの声で生きない。自分の仮面にすがらない。信頼は裸の言葉にしか宿らないものです。』


社内は静かだった。

だが、その言葉は確実に響いていた。


その数日後

城嶋麻衣が社内研修の講師として壇上に立った。


「多様性とは、自分だけが楽をする権利ではありません。誰かのために譲った時間や、理解しようとする努力が積み重なって成り立つものです」


「そしてLGBTQの人間が一番傷つくのは、偽物の当事者が無責任にそれを利用することです」


「私達は、ただ静かに、真面目に働きたいだけなんです」


社内に拍手が起きた。

朝倉はその後方で誰にも気づかれぬように一歩だけ引いて立っていた。

彼は思っていた。

見抜いただけでは、まだ半分。

伝えること、残すこと、そして未来を変えること。

それが組織を守る者の責務だ。


数ヶ月後。

野上美沙は静かに退職届を提出した。


理由は「家庭の事情」


送別会は開かれなかった。

彼女がいたことを覚えている社員はもう少なかった。

彼女の残した傷跡は逆に組織を強くした。


朝倉の記録ファイルには、こう書かれていた。


『被害者の仮面は長くつけていると本性になる。本当に社会を変えるのは顔を出して向き合った人間だけだ』

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