邪魔する社員を斬る!
火曜日の朝。営業フロアの空気は、張り詰めていた。
その中心にいるのは、入社1年目の若手社員 鳴海悠真。
彼は営業部で前例のない記録を叩き出したトップセールスマンだった。
売上成績は全社1位、 顧客対応の満足度アンケートは常に満点。
毎月100件を超える定期顧客の状況を欠かさず把握し、クレームは1件もない。
それだけではない。
物腰は柔らかく、社内では密かにファンクラブまで立ち上がるほどの人気。
爽やかな笑顔に丁寧な言葉遣い。
まさに、誰もが「営業マンとして理想形」と評する存在だった。
だが今。
その鳴海が社内で孤立しつつあった。
「この資料初耳なんですけど?」
鳴海が尋ねたが、近くにいた先輩社員達は、視線すら向けなかった。
「さあ?俺知らない」
「あー、もう次の始めてるし、そっち後回しじゃない?」
わざとらしい声。
無視に近い対応。
鳴海は空気で察していた。
ここ最近、自分への態度が変わりつつあることを。
それは突然ではなかった。
社長が交代し、「やる気のある営業マンは周りに遠慮なく新規顧客と接点を持つことを許す」という方針へと変わった日を境に、 社内の営業スタイルは完全に自由競争へと移行した。
元々、接客ローテーションは公平を期すために順番制だった。
だが新体制では先着順、 つまり早く動いた者勝ち。
これにより鳴海の契約数はさらに伸びた。
彼の行動力と誠実さは、クライアントにも確実に届いていた。
だがそれは、同時に他の営業達の自尊心を削っていった。
「また鳴海くんか…」
「どうせあいつ、顧客のところに一日中張りついてんだろ」
「アイツのどこが営業の見本だよ。顔だけの中身なし。」
営業三課の休憩スペースでは、若手から中堅にかけての先輩達が日々小さな愚痴を積み上げていた。
だが、どれだけ陰口を叩かれても鳴海は一度も口にしなかった。
「今週末、〇〇社の御用聞き回りに行ってきます」
「A社、配送遅延あったらしいのでこちらから謝罪に伺います」
誰に言われたわけでもない。
ただ、彼は営業という仕事を徹底的にやっていた。
社員食堂では、誰とも目を合わせず、黙々と食事を済ませて席を立つ。
あいさつは欠かさないが話しかけられることも、もうない。
ある日、こんな出来事があった。
週明けの朝礼で前月の営業成績が発表された。
全社トップは、ちろん鳴海だった。
だが表彰状授与の際に営業部から誰一人、拍手を送らなかった。
「おめでとう」という声も「さすがだね」という言葉もなかった。
そして昼。
「鳴海くん、どこで食べるの?」
一人の女性社員がそう聞くと、 周囲の目が、彼女を無言で責め立てた。
「あ…やっぱ、後で食べよっかな...」
鳴海はその一部始終を見ていた。
そして、黙って屋上へ向かった。
風の音が、わずかに耳に残るだけだった。
営業部の中で最初に動いたのは、
中堅の先輩 片桐大志だった。
「お前らさ、鳴海ってどう思う?」
「どうって…?優秀で、まじめで…」
「それは表向きだろ?鳴海は会社に必要か? 俺らが何年かけて築き上げた客も、あいつがサクッと取ってってんだぞ?」
「確かになぁ」
「もう少し空気読めないなら空気でわからせるしかないよね?ルールに素直すぎるのもどうかと思うよ。」
その一言が、合図だった。
以後、彼らはさまざまな彼らなりの制裁を始めた。
・会議資料の共有をわざと送信しない
・配布物の順番を飛ばす
・挨拶への無視 ・作業手伝いの拒否
・鳴海の悪評を商品開発部やサービス課へ流布
社内掲示板には、来月の表彰式に関する掲示が貼り出された。
彼の名前は、そこになかった。
座席表に、鳴海悠真の席がなかったのだ。
「なんで?」
彼は呟いた。
その日、彼は黙って席を外し、どこにも姿を見せなかった。
朝倉修平は全てを見ていた。
だが、この段階では動かない。
彼の仕事は判断することではない。
証拠を蓄積することだ。
この会社には悪意を正当化する者が多すぎる。
感情を正義とすり替える者も多い。
それは変化を恐れるものが多いからだ。
しかし変化が日常化すれば、その変化は通常になる。
その体制が着くまでは、誰かのせい、何かのせいにしたがる。
その犠牲者が目立った鳴海というところだろう。
よくある話だ。
大抵のものは気づかないことだろうが...。
だからこそ朝倉は今日も静かにペンを走らせていた。
【片桐大志:主犯格。鳴海排除の発言・誘導】
【配布漏れ:意図的操作の可能性大】
【座席表不備:関係部署は営業管理課】
【鳴海:目立つ行動なし。耐性強。孤立深化】
まだ動くのは早い。
鳴海...耐えてくれ...。
朝の始業チャイムが鳴るより早く、朝倉修平はデスクに座っていた。
窓の外にはまだ眠たげな街が広がり、社内のフロアはコピー機の起動音と、コーヒーメーカーの抽出音だけが響いていた。
朝倉には日々のルーティンがある。
出社後すぐ、前日の報告書とフロアの雑談ログを一通り目を通す。
それが習慣だった。
「またか」
朝倉の机上には、業務メールの転送コピーが置かれていた。件名は「営業部 社内インタビュー日程の件」。
その対象は鳴海悠真。
「いい顔しすぎると敵を作る。若いってのは、そういうものか」
だが朝倉の目には、鳴海のやり方に一切のずるさはなかった。
朝7時には出社。
夜は誰よりも遅くまで残り、営業日報に目を通し、週次の業務改善案を必ず提出してくる。 営業においては顧客とのリレーションだけでなく、社内調整も一人でこなしていた。
「俺が新卒の頃、ここまでやれたか?」
そう思っても、嫉妬の感情は湧かなかった。
彼らの嫉妬の執着をまずは止めなければ...。
午前10時、営業部全体会議。
各グループから報告が上がる中、片桐大志が不自然な咳払いをした。
「えー...、ウチのグループでは、先週のクライアントB社で資料更新ミスがありまして。まぁ、誰とは言いませんが、ちょっと情報共有の徹底が甘かったかなと」
朝倉は無言でスライドを切り替えた。
だが、その目は片桐の表情を確実に捉えていた。
誰とは言わない、という言い回しで誰かを貶す。
典型的だな。
鳴海がその瞬間、小さく息を飲んだのを朝倉は見逃さなかった。
だが彼は口を閉じたまま、ノートにメモを取っていた。
会議終了後、朝倉はさりげなく声をかけた。
「鳴海、少し時間ある?」
「はい。何かありました?」
「いや。むしろ確認したいんだ。今朝の会議で名前こそ出なかったが、B社の件、実際には君が資料作成をしたのかな?」
鳴海は一拍置き、うなずいた。
「はい。更新日時は最新でしたが、旧レイアウトのテンプレートを使っていたようで…完全に僕の確認不足です」
「気づいてたの?」
「はい。先方の担当者が前のページ構成の方がわかりやすかったと仰って…そのあと、僕が差し替えをお願いしました」
「社内では誰に共有した?」
「片桐さんに、差し替えファイルを共有フォルダに入れたと伝えました。口頭ですが」
朝倉はうなずいた。
「これは叱るために聞いたんじゃない。俺は原因を精査している。社内で何が起きているかを、な」
鳴海は少し驚いたような表情を浮かべた。
「ありがとうございます」
「一つだけ、アドバイスをするなら君は正しいままでいろ。人に合わせて自分を曲げる必要はない。ただし、敵を作りやすい人間でもあることは理解しておけ」
「はい」
鳴海が頭を下げたあと、朝倉は小さく付け加えた。
「仕事をしている人間が、仕事をしていない人間から嫌われるのは、ある意味で名誉なことだ」
その言葉に鳴海の目が少しだけ潤んだ。
午後。
朝倉は別部署の人事課長・林に連絡を入れた。
「林さん。ちょっと確認したい案件があります。鳴海悠真の最近の社内評価、特に目立った異変がないか。そう、匿名報告とか」
「…ああ、ありましたよ。3件ほど、営業姿勢が過剰だのチーム意識が低いだの。具体性はゼロですけどね」
「記録に残ってます?」
「ありますよ。閲覧できるようにしておきますね」
「助かります」
朝倉は受話器を置きながら、静かに考えた。
仕事ができすぎる人間は、仕事をしていない者にとっての鏡になる。
そして、鏡の中に映るのは自分の怠惰だ
夕方。
コピー機前。
鳴海が積み上がった資料を抱えていた。
だが手が足りず、ファイルが床に落ちる。
「あ…」
だが誰も手を貸そうとしなかった。
通りかかった片桐は、書類を避けるように靴音だけを響かせて去っていく。
朝倉は、遠くからそれを見ていた。
そして深く吐息をついたあと、ゆっくり立ち上がった。
そろそろ記録から行動へ移る準備を始める時だった。
木曜日の午後、営業部の空気は一段と重くなっていた。
理由は単純だった。
鳴海悠真がまたしても契約を決めたのだ。
しかも今回の顧客は片桐大志が長年担当していたが、いつのまにか「顧客のほうから鳴海を指名」する形になっていた。
「なんでアイツに?」
社内のコピー室で、片桐は資料を乱暴に積み上げながら吐き捨てた。
「やっぱ顔だよな。あとあの媚びない感じも誠実に見えるとか思われてんだよ」
「客のほうもアイツのほうが話しやすいって言ってるらしいぜ」
これからも何かを奪われる恐怖
周囲の先輩社員たちは、形を変えた負け惜しみを吐くばかりだった。
だが朝倉修平は、そんな様子を正面から見据えていた。
彼は今朝、人事課長・林から受け取った報告書に目を通していた。
タイトルは
【匿名通報:営業部鳴海悠真について】
・自己中心的に顧客と直接コンタクトを取る
・チームでの連携を無視し、自分の成果だけを追っている
・他者のフォローをしないため空気が悪くなっている
完全な逆だな
朝倉は、ため息すらつかなかった。
怒りではない。
これは呆れだ。
鳴海がどれだけ細かく連携報告をしてるか、こっちは全部見てる。
むしろ他の誰より報告が早い
彼は当たり前のことを当たり前にしてるだけだ
特別なことは何一つしていない
あるとすれば情熱。
夕方、朝倉は社内のフリースペースに鳴海を呼び出した。
喫茶コーナー横の静かなブース。
「すまんな。呼び出して」
「いえ。何かありましたか?」
朝倉はタブレットをテーブルに置いた。
画面には営業部全体の進捗表と、今月のトップセールスレポートが並んでいる。
「君の数字だ。これが何を意味してるか分かるか?」
「はい。成果としては評価していただけてると思います」
「成果だけじゃない。君は、周囲が一切やろうとしない報告、連携、提案まで、全部やってる。俺はそれを見ている」
鳴海の目がわずかに揺れた。
「でも、周りは」
「嫉妬してる。単純にそれだけだ」
「嫉妬してるなんてまさか...」
「だが問題はそこじゃない。彼らは君の足を引っ張ることを正当化し始めてる。しかも倫理的に君が間違っているという空気を作ろうとしてる」
鳴海は驚いた顔で朝倉を見た。
「匿名通報が上がっててね。内容はひどいもので笑っちゃったよ。だが社内には、それを煙がないところに火は立たないと受け取る人もいる」
「そんなつもりは…」
「分かってるよ。だから俺が動くから安心して仕事に集中して欲しい」
朝倉は目を細め低い声で続けた。
「君のやってることは全部正しい。ただ正しさが敵を作る世界では、それを守れる力が必要だ。俺がその盾になる」
鳴海は目を伏せ、静かにうなずいた。
「ありがとうございます」
その後、朝倉は一人で営業三課のスペースを歩いた。
周囲にはまだ日報を書いている社員や、スマホをいじっている若手たちがいた。
「片桐、少し時間あるか」
朝倉の声に片桐が振り返る。
「あ、はい。なんでしょう」
「君の担当してたB社の件だが、顧客から担当変更がスムーズだったと感謝の連絡があった。報告書は見たか?」
「いえ…まだ確認してません」
「そうか。引き継ぎが礼儀正しく、好印象だったとのことだ。鳴海のことだろうな」
「そうですね」
「で、片桐。君は匿名通報の制度を知ってるか?」
一瞬、片桐の表情が凍る。
「ええ、まぁ…」
「制度は社内で公然と言えないことを告発するための仕組みだ。だがそれを私怨の発散に使う者がいるとすれば、それは制度の腐敗だ」
片桐は何も言えず黙っていた。
「君に関係があるとは言わない。もし心当たりがあるなら考え直して欲しいと思ってる」
そう言い残し朝倉は立ち去った。
その背中は静かで、圧力に満ちていた。
夜。社内の清掃が始まる頃、朝倉は人事課長・林と会っていた。
「今、君のところに通報文を残した者は何人います?」
「現時点で4名。ただし、そのうち3名は同じ文面のテンプレを使っていました。多分、口裏を合わせてるんでしょうね」
「それで十分です。全員を明日呼び出してもらえます?俺が話をしてみます」
「話って、まさか?」
「教育だですよ。正しさってのは、時に優しさの顔をして人を潰します。だから俺は教えるんです。人を潰す方法じゃなく、人と働く意味を」
朝倉の目が静かに鋭く光っていた。
制裁ではない。
それは限りなく最後通告に近かった。
金曜日の午後、月末恒例の全社表彰式が本社ホールで開催された。
壇上には、営業・開発・サポート・総務など全部署からの受賞者たちの名が読み上げられていく。
「では、続いて営業部門・顧客満足度調査の第1位、営業第二課、鳴海悠真!」
静かな拍手。
その中に混じって歯切れの悪い空気が漂っていた。
登壇した鳴海は、いつもの通り簡潔に礼を述べ、トロフィーを受け取った。
「いつもお客様に支えられております。これからも誠実に努めてまいります」
マイクの前で深く頭を下げるその姿に、拍手は再び鳴った。
ただし、営業部の一部を除いて。
「あれ? 鳴海の席、どこだ?」
式が終わり、着席形式のランチ会が始まった頃。
鳴海の名前札が営業第二課のテーブルに見当たらなかった。
他部署の社員がそれに気づいてざわめいた。
「え? なんでないの?」
「第二課じゃなかったっけ?」
「手違い?」
だが第二課のメンバーたちは誰一人、動こうとしなかった。
「鳴海のは特別席とかじゃないの?」
「たしかに!誰かが移したんじゃない?」
言い訳にもならない薄い返事ばかり。
朝倉は黙ってそれを見ていた。
だが鳴海自身は何も言わなかった。
少しだけ辺りを見回し、そっと自席に戻るように、会場の後ろにある空席に一人腰を下ろした。
周囲は気づいていた。
だが誰も声をかけなかった。
巻き込まれたくないのだろう。
昼休み、社員食堂。
複数のグループが賑やかにランチを囲む中。
鳴海は一人で窓際の四人席に座っていた。
手にはコンビニのサンドイッチと缶の野菜ジュース。
カチャカチャという箸とトレーの音。
その合間に、小さな囁き声。
「表彰5冠だってよ。どんだけだよ」
「逆に、気持ち悪いよな。全部持ってくとか」
耳元で言われたわけではない。
だが聞こえていた。
鳴海はサンドイッチを一口噛みながら、何も言わず視線を落とした。
俺はこんなことのために、努力してきたんじゃない
普通に仕事してた。
社内の気遣いはしてきた。
だけど、成果をあげなければ仕事じゃない。
仲良しクラブで会社は成り立たない。
自分を信じて努力してきたけど間違いだったのか?
手を抜いて職場の人達と馴れ合いをすればよかったのか?
その日、彼は定時ぴったりに退社した。
珍しいことだった。
夜。
朝倉は資料を開いた。
・鳴海悠真が顧客とのメールを独占的に処理している
・社内文書のフォーマットを勝手に書き換えた
・会議発言で他者を軽視する態度があった
タイトルは
【営業部人材評価フィードバック提案書】
その中には、今後の営業部チームビルディングの再編成と、優秀者に対するメンタリング体制の強化が書かれていた。
それはつまり、鳴海悠真のための盾を制度にするということだった。
朝倉はモニター越しにそっと呟いた。
「さて次は、彼らががどう出るか、だな」
翌週月曜、社内の空気はさらに冷え込んでいた。
朝礼では今月の業績見込みと営業部門の表彰振り返りが行われたが、鳴海悠真の名前が挙がった瞬間、その場に微かなざわめきが走った。
「はいはい、また鳴海くんね」
「完璧すぎて逆に怖いなぁ」
そんな声が、聞こえないふりをして耳に届いていた。
だが当の本人は変わらず朝早く出社し、顧客リストを確認していた。
「なんか、もう…疲れたな」
鳴海は誰にも聞こえないほどの声で呟いた。
昼休み、屋上。
空は晴れていたが、風は冷たい。
鳴海は一人、自販機で買った缶コーヒーを片手にフェンスにもたれかかっていた。
「孤立って、こういうことなんだな」
努力しても、結果を出しても、誰も味方をしない。
むしろ結果を出すほど、人が離れていく。
でも、仕事をサボったわけじゃない。
人を踏み台にしたわけでもない。
ただ真面目にやっていただけだった。
ふと、スマホの通知が鳴る。
《営業第二課LINEグループ:新プロジェクトのキックオフについて》
開いてみると、グループチャットの履歴には自分の名前が一切出ていなかった。
「そういうことかぁ」
彼はそれ以上、何も見ずに画面を閉じた。
その日の夕方、会議室でプロジェクトキックオフの説明会が開かれていた。
営業部から7名が出席。
そこに鳴海の姿はなかった。
「え、鳴海くんには連絡いってないの?」
「忙しいんじゃない? スーパースターだし」
誰かが苦笑交じりに言う。
だがそれを聞いていた朝倉は、黙ってタブレットを閉じた。
20時を回った社内で朝倉は一人、部署の照明を最小限に落とした中で書類を綴っていた。
だがその手元には、もうひとつのファイルがあった。
【証拠整理ファイル:営業第二課内 鳴海悠真に対する組織的排斥の構造】
・Slackログ:鳴海のタスクシートが第三者により削除されていた記録。削除時刻は6月12日 18:46、実行者:片桐大志
・Googleカレンダー:プロジェクト説明会の招集通知、鳴海の予定のみ意図的に除外されていた。操作者:営業第二課・黒沢直人
・開発部 白石主任の証言: 「片桐さんから鳴海が勝手に企画書出してきて困るって言われたけど、あの稟議書、ちゃんと課長ハンコありましたよ」
・社内録音端末による記録(休憩室): 「マジであいつ、もう少し潰そうぜ」 「次のローテも外すか?」 「課長には自主的に外れたって言っときゃいいだろ」
・匿名通報フォーム記録: 『一部社員が社内風紀を乱す存在として独断的な行動をとっている』という投稿。
だが文中の言い回しが片桐の業務メールとほぼ一致。
これらを一枚のシートにまとめ、朝倉は呟いた。
「整ったな」
その翌朝。
会議室B。
朝倉は片桐大志、黒沢直人、そして別の先輩社員・望月を呼び出した。
扉が閉まると同時に空気が緊張に包まれる。
「話があるんだが」
朝倉はそう切り出し、プロジェクターに証拠の一部を映し出した。
Slackの操作ログ、カレンダーの編集履歴、録音記録の文字起こし。
「これらの証拠について、説明してもらえるかな?」
片桐の顔がみるみるこわばる。
「…え、なんのことか…」
「片桐、お前が削除した鳴海の案件シート、6月12日18時46分。IPアドレスも一致している」
黒沢が椅子の上で身じろぎする。
「そして黒沢。君がGoogleカレンダーで、プロジェクト会議から鳴海だけを除外したのも記録に残っている。しかもその10分前、LINEで外す?と誰かに確認していた形跡もある」
望月が口を開きかけるが、朝倉が制した。
「そして、休憩室の匿名で俺に渡された録音だ。課長には自主的に外れたって言っときゃいい。これ、君らの声だよな?」
三人は沈黙。
「開発部の白石からも証言を取っている。片桐、君が鳴海が勝手にやったと言った企画、きっちり上長印入ってたそうだな」
片桐の手が震えた。
「俺は、そんなつもりじゃ…」
「じゃあ、どんなつもりだったんだ。営業という名の嫉妬ゲームか? それとも、優秀な奴は潰さなきゃやってられないってか?」
朝倉の声は低かった。
だが、そこに一切の甘さはなかった。
「これ以上、言い訳を続けるなら、懲戒委員会にかける。人事部ともすでに共有済みだ」
片桐が唇を噛んだ。
「すみませんでした」
黒沢と望月も続いて頭を下げた。
「謝って終わる段階はもう過ぎている」
朝倉は冷たく言い放った。
「君達には、正当な報いを受けてもらう」
その日の夜。 鳴海は再び朝倉の元を訪れた。
「朝倉さん、少しだけ、いいですか」
「もちろんだ。座って」
鳴海は目を伏せながら言った。
「僕、辞めようと思ってます」
「そうか」
「はい。やっぱり僕は空気が読めないんです。目立ちすぎたんだと思います」
「それが理由か」
「ええ。結果的に迷惑をかけてしまったようで…」
朝倉はゆっくりと椅子に背を預け、言った。
「鳴海。今すぐ返答はしない。ただ、一つだけ教えてくれ。お前は、仕事が好きか?」
鳴海は少しだけ視線を上げた。
「好きです」
「じゃあ辞めるな。好きなことを、嫌いな奴らのせいで諦めるな」
その言葉に鳴海の表情がわずかに崩れた。
「でも、誰も味方してくれない」
「いるだろ。俺がいる。あと、もう一人くらいなら増やせる」
「もう一人…?」
朝倉は静かに微笑んだ。
「明日の昼、一緒に飯を食おう。俺と人事の林課長と、あと一人、君を応援してる人を呼ぶ」
鳴海は驚いた顔で朝倉を見た。
「君が辞めるのはいつでもできる。だが、人間関係が原因で戦うことを放棄したら、今後、どこへ行っても同じ目に遭う。なら、ここで一度、跳ね返してみせろ。それでも無理なら辞めるしかないかもな。そんな会社なら俺も辞めたいよ」
鳴海は長い沈黙のあと、ようやく小さくうなずいた。
「分かりました」
「よし。じゃあ明日から反撃を始めるぞ」
その声は、静かで、しかし確実に戦闘の火蓋を切る音だった。
金曜朝8時。 社内通達で1通のメールが回る。
件名:【営業部人事措置に関する通達】
内容:
営業第二課における業務妨害・業務排除行為に関して調査を実施した結果、以下3名の社員に対し業務上の処分を決定いたしました。
●片桐大志(営業第二課) → 商品管理課へ異動(当面、対外接触業務から除外)
●黒沢直人(営業第二課) → 記録管理室へ配置換え(プロジェクト参加資格を凍結)
●望月秀樹(営業第二課) → 総務課付・備品担当(再教育対象)
鳴海悠真という名前はそこには一切書かれていなかった。
だが、読む者全員が理解していた。
これは罪の記録であり、制裁の幕開けだった。
同日正午。
社内カフェテリア。
朝倉修平、人事課の林課長、そして経理部の若手・若松が一緒に昼食を囲んでいた。
鳴海も、その輪にいた。
「君のことを、ちゃんと見てる人間もいるってこと、分かったか?」
「…はい」
「この世界にはな、努力する人間が笑われることもある。でも、努力してる人間が報われない世界は、腐ってるんだよ」
その言葉に林も小さくうなずいた。
「俺はな、配属初日の鳴海を見て、これは本物だと思った。地道に誰にも気づかれなくても顧客に通ってた。営業成績なんかよりも、そういう積み重ねを俺は評価したい」
鳴海は、わずかに顔を伏せて言った。
「ありがとうございます!本当に救われました」
「救ったんじゃない。君自身が、立ち上がろうとしたからだよ」
朝倉はそう言って、コーヒーを一口啜った。
午後。
会議室で臨時全体会議が開かれた。
社長以下、役員も同席。
主な議題は営業部の倫理再構築。
その中央に立ったのは朝倉だった。
「今回の一件で分かったことがあります」
プロジェクターに映されたのは、社内環境における排除の構造というスライド。
・業績優秀者への個人的な嫉妬
・グループによる排除行動の常態化
・誰も止めなかった空気
「鳴海悠真は、1年間で毎月312件の顧客先を1人で訪問しました。記録も残っています。 そのすべてに手書きのメモが添えられ、訪問日と課題が時系列で整理されていました」
「にもかかわらず、彼は無視され、排除されました」
会場が静まる。
「誰かが動くべきでした。私も、もっと早く介入すべきでした。しかし、今ここで伝えたいのは、ただ一つ」
スライドが切り替わる。
《優秀さを恐れた人間たちが犯した嫉妬の罪》
「鳴海君だけの問題じゃありません。これは組織全体の問題です」
朝倉は語気を強めた。
「今後、当社では組織的排除や陰口による評価操作を、重大な非倫理行為として処罰対象にします」
「言った者ではなく、黙っていた者も同罪です」
会場全体に沈黙と緊張が広がっていた。
そして最後に朝倉が静かに言った。
「なお、今期の営業最優秀賞は、改めて本人の希望により式典なしで贈られることになりました」
スクリーンには、鳴海の名前と、実績が静かに表示されていた。
だがその光景を今回は誰も嘲笑しなかった。
拍手もなかった。
沈黙のまま会は閉じられた。
だが、それこそが答えだった。
夕方。
旧備品庫に仮設された社内再教育室。
片桐、黒沢、望月の3人は、マニュアルに囲まれながら資料の束を仕分けていた。
誰も言葉を発しなかった。
話しかける者もいない。
まるで声を奪われた労働だった。
たまに覗きに来るのは総務の事務員だけ。
エアコンもろくに効かないその部屋には、午後の西日が容赦なく差し込んでいた。
翌週月曜。
鳴海悠真は変わらず静かに出社した。
しかし、その日。
彼のデスクには数枚の付箋が貼られていた。
《この前の報告書、分かりやすかったよ》
《顧客対応の件、参考にさせてもらいました》
《今度、是非同行させてください》
その文字の中には確かな歩み寄りがあった。
鳴海は付箋をそっと外し、スケジュール帳に貼り直した。
そして一言だけ呟いた。
「もう1度だけ信じてやってみよう」
彼の声は誰にも聞こえなかった。
だが、その背中に向けて朝倉修平は静かに頷いていた。