謝らない社員を斬る
朝の業務開始直後、社内のグループチャットが静かにざわついた。
すみません、提出遅れました。事故に巻き込まれまして
送り主は小日向あかり。
入社2年目の総務課所属。
どこか箱入り娘の雰囲気を持つ社員だった。
今回のトラブルは、急ぎの契約書類を客先に届けるため、彼女が会社の自転車を使っていた途中で発生した。
「えーとですね、自転車で交差点を渡ろうとしたんですけど、横から車が来てぶつかって…で、私は赤信号で止まってたんです」
そう彼女は報告した。
だが、すぐ後に警察から連絡が入り、事実が判明する。
交差点に設置された防犯カメラの映像により、自転車側の信号が赤であったこと、そして車の進行方向が青であったことが確認された。
つまり、車は正当な通行であり、小日向が交差点を無断で横切ろうとしたことになる。
「とはいえ、彼女は信号が赤だったとはっきり言ってるんですよ」
「それが余計に問題だよ。赤を止まれじゃなく進めだと思ってるような報告だったぞ」
朝倉修平は、そのやりとりを静かに見つめていた。
「赤だったので止まっていたのに、車にぶつけられた…? だが、ぶつかったのは交差点内。自転車が進んでいたからぶつかる」
止まっていたという本人の主張と、交差点内での接触という事実。
まったく噛み合っていない。
事故報告ミーティングが開かれた。
朝倉は直接、小日向に話を聞いた。
「まず、体は大丈夫か?」
「はい、大丈夫です! でも、自転車がすごく曲がっちゃってて…前輪のところがぐにゃっと」
「そうか。それで…赤信号だった、というのは事実か?」
「はい、ちゃんと赤だったのを確認しました」
「では、なぜ交差点に進入した?」
「…え?」
小日向は、ぽかんとした。
「赤信号で止まっていたなら、ぶつかることはない。だが、カメラ映像では、君が横断中に車が接触している。つまり、赤で進んでいる」
「でも、私は赤でした」
「それは信号が赤だったという意味ではなく、赤を見たというだけか?」
「はい。でも、赤だったから気をつけて渡ったんです」
「止まった”のではなく、渡った? 赤で?」
「あのとき赤でした。でも、車もゆっくり来てたので、進めると思ったんです」
朝倉は言葉を失った。
彼女は、信号が赤”であることと止まる必要があるという基本的な因果を理解していなかった。
「結果、書類は遅れた。謝罪は関係者や周りの社員にしたのか?」
「私は事故に巻き込まれた側です。悪いのは車の人じゃないですか? 急いでて…」
「書類が遅れたことで相手企業に迷惑がかかった。それについて謝る気持ちはあるか?」
「うーん…私のせいじゃないんですけど…謝るってことは、私が悪かったってことになりますよね?」
朝倉は深くため息をついた。
責任と悪意の区別がついていない…
社内では、小日向の対応に困惑の声が上がっていた。
「なんで、あれで謝らないの?」
「誰も悪意があったなんて言ってないのに」
「結果として迷惑かけたなら、それを詫びるのが普通でしょ」
だが小日向はそれを聞いても、首をかしげていた。
「でも、私の気持ちとしては正しかったんです…」
彼女にとって、自分がどう思ったかがすべての判断基準だった。
さらに後日、事故に関する報告文の提出を求められた際も、彼女は私は正しかったという観点でのみ記述。
「事故の原因は、車が減速しなかったことであり、私は周囲に注意して安全に渡ったと感じていた」
「結果として書類は提出に間に合いませんでしたが、私は最大限の努力を尽くしました」
「私は信号を認識していましたし、反省すべき点があるとは今も思っていません」
文章は整っていた。
敬語も丁寧だった。
だがそこには社会人としての謝罪や責任の所在という観点が欠落していた。
ある日、ランチ休憩の場で若手社員が小声で話していた。
「小日向さんって、悪い人じゃないんだよな」
「でも、自分は悪くないって顔されると、こっちが何かしたみたいな気持ちになる」
「そう、起きたことより、私は正しかったんですって説明ばっかりされると、謝ってほしい気持ちも消えるよな…」
その夜。
朝倉は自宅の机に座りながら、記録ファイルを開いた。
【小日向あかり:自他の境界不理解傾向あり。感情と論理の分離不能。判断は記憶と感情に依存】
そしてその下に、一文を加えた。
真実とは、本人の記憶でしかなく、事実は社会が動く根拠である。
彼女はそれを理解していない。
朝倉はペンを置いた。
次は現実を見せる番だ
その週の中頃、総務課では小さな混乱が続いていた。
会議室のホワイトボードには「来月以降の契約書配送フロー再構築について」という議題が書かれていた。
事故の件以降、小日向あかりには配送業務を外すという案が浮上していたが、問題はそれだけではなかった。
彼女の一連の対応が、他部署にも波紋を広げていたのだ。
「すみません、件の書類が遅れたことで、先方から本当に今後この会社で大丈夫かって言われまして…」
営業部の若手社員が、小声で朝倉に報告していた。
「先方は謝罪を受けてはいるが、責任者が謝るばかりで、肝心の担当者からのコメントが一切なかったことを不誠実と感じたようです」
「小日向から直接、謝罪文や連絡は出していないのか?」
「はい…私は事実を曲げられませんのでと、拒否されました」
朝倉は無言でPCを閉じ、社内ネットワークで小日向の提出文書を確認した。
タイトル:「事故に関する説明と心情」
文面には、事故当日の詳細が数行にわたり綴られていた。
「私は信号を確認しました。私が赤を見たことは間違いありません」
「相手車両の動きに不審な点がありました。結果として衝突したのは本当ですが、私には落ち度がありません」
「謝罪という行為が、私の気持ちを裏切ることになるため、今回は控えさせていただきます」
読んでいた朝倉の眉が、ほんの僅かに動いた。
昼休み。
朝倉は小日向を食堂脇のベンチに呼び出した。
「報告書、読ませてもらった」
「はい。何か問題ありましたか?」
「謝罪は自分の気持ちを裏切ることになると書かれていたな」
「そうです。私は間違っていたとは思っていませんし、誤解を与えたかもしれませんが、それを謝るのは不誠実だと思うんです」
「では、謝罪とはどういうものだと考えている?」
「えっと、悪いことをしたと認めることですよね? だから私は謝れません」
「迷惑をかけたことは、どう捉えている?」
「それは…事故は不可抗力でしたし。私としては誠実に行動してました」
朝倉はうなずいた。
「つまり、結果ではなく自分の気持ちに重きを置いているんだな」
「気持ちというか、私の見たものと覚えていることが、真実です。嘘はつきたくありません」
「だが社会は記憶ではなく、記録で動いている。君がどう思ったかは二次的だ」
「でも、私の気持ちを無視されるのも変じゃないですか?」
「誰も無視はしていない。ただ、気持ちの正しさではなく、起きた出来事に責任を取るのが仕事だ」
その日の午後、社内連絡板に謝罪文化と責任感についてという匿名コラムが投稿された。
筆者不明。
だが内容からして、明らかに朝倉の影響だった。
《私たちはよく謝ったら負けという感覚に囚われるが、実は謝ることで社会との繋がりを取り戻している》
《自分の真実がどうであれ、迷惑をかけたという事実は他者にとってのリアルである》
《自分を守るために謝らない選択をした瞬間、人は孤立し始める》
その夜、小日向はひとり社内チャットを眺めていた。
誰も彼女の投稿に反応していない。
以前は、
「あかりさん、文章きれいですね」
「説明助かりました」
と言ってくれていた後輩も既読スルーだった。
その静寂に彼女は気づいていない。
いや、気づこうとしていなかった。
「私はちゃんと伝えた。嘘は言ってない。それでいいはず」
彼女の中で正しさとは誤解されても変えないことだった。
翌日、朝倉は再びメモを開いた。
【小日向あかり:社会的共感力に重大な欠落あり。事実と責任の認知不能。周囲との断絶進行中】
彼は静かに、次の準備に取りかかっていた。
木曜の朝。
総務課に届いた社内便のひとつが、静かに場を凍らせた。
宛先は
「業務管理責任者 朝倉修平」
差出人は
「取引先A社 営業部 井上」
その内容は、淡々と、しかし明確に綴られていた。
『先日の書類提出遅延について、御社より正式な謝罪と説明は頂いておりますが、担当者本人からの一言が未だにありません』
『私たちは、社員一人ひとりの誠実さも含めて、企業との信頼関係を築いております』
「来たか」
朝倉は、その封筒を丁寧に折りたたんで、机に置いた。
そして、そのまま小日向あかりに内線を入れた。
「はい、あかりです」
「今時間あるか? 第三会議室に来てくれ」
「わかりました」
10分後、会議室。
机には一枚の紙と、一冊のノートが置かれていた。
「これ、取引先からの書簡だ」
小日向は封筒を受け取り、静かに目を通した。
読み終えたあと、彼女はぽつりと呟いた。
「私、悪いことしてないのに」
「その感覚は、わかった。だが、君が悪くなかったことと、迷惑がかかったことは、両立する」
「でも…事実じゃないことを認めるなんて、私には無理です」
「誰も嘘をつけとは言っていない。だが、君の真実と相手の受け取った事実は、同じとは限らない」
「私は…謝るって、自分の正しさを捨てるみたいに感じるんです」
「逆だ。謝るとは、相手の立場を尊重するという最も成熟した行動だ」
会話が進むにつれ、小日向の表情は次第に曇っていった。
「私は正しいと思って行動してました。だから、謝ったら、自分が嘘をつくことになるんです」
「君が正しいということは否定しない。ただ、それが結果として人に迷惑をかけたこととは別問題なんだ」
「でも事実を曲げてごめんなさいって言うの、すごく苦しいです」
その日の午後。
社内の業務改善提案会議で小日向の発表順が回ってきた。
彼女は準備していたスライドを表示し、淡々とプレゼンを始めた。
だが、全体のトーンには妙な違和感があった。
「今回、私が担当した契約書配達において、不測の事態が発生し、結果として納期が遅れました」
「しかし、私は安全確認を行った上で走行しており、信号の色も認識していました」
「したがって、この件は私個人に責任があるというより、交通設計の不備に由来する可能性が高いと考えております」
朝倉は、プレゼン中の彼女の目をじっと見ていた。
まだ、自分の中に閉じこもっている
プレゼンが終わった後、ざわついた空気が会議室を包んだ。
誰も声を上げなかった。 誰も拍手をしなかった。
そして誰も、彼女の発表にコメントを残さなかった。
夕方、朝倉は再びノートを開いた。
【小日向あかり:論理的説明に見えるが、自己中心的な視点に終始。外部評価ゼロ。孤立化進行中】
彼女が言葉を持っていても、他者と共有する土台がなければ、それはただの壁だった。
その晩、小日向は自宅でモニターを見つめていた。
SNSには、
「今日のプレゼンすごかった!」
「わかりやすかったよ!」
という、外部の知人たちの声があった。
だが、社内のグループチャットには何もなかった。
誰も、私の話をちゃんと聞いてくれない
その言葉を心に浮かべた瞬間
彼女は、自分の中に深い穴のようなものを感じた。
朝倉は静かに記した。
「この先、彼女が社会と繋がり直すには、言い負かすことではなく、信頼されることを学ばねばならない」
金曜日の朝。
朝倉は一枚の資料を手に、社内会議室の端でじっと考えていた。
その資料とは、ここ半年間の小日向あかりが関わったクレーム案件一覧。
すべての件に共通していたのは
「本人は一度も謝罪していない」
・クレーム①:電話応対で相手の名前を聞き返しすぎて不快にさせた →「私が聞き取りづらかったのは事実です」
・クレーム②:業務メールの誤送信 →「確認画面に表示されてなかったのは私の端末のせいです」
・クレーム③:社内会議で配布資料の順番が逆 →「私は印刷順に正しく並べて出しました」
どの案件も、私の中では正しかったという論理で固められていた。
彼女にとって謝ることは、自己の存在を否定する行為に等しいんだ
その日、朝倉は彼女を呼び出した。
場所は、普段あまり使われない応接室。 二人きりの、重い空気が流れる空間。
「はい。あの…まだ何か…?」
「率直に言う。君は、自分を正しい人間として守り続けてきた。だが、それが君を誰からも信頼されない人間にしている」
「…え?」
「誰も君を責めていない。君が悪いと言っているわけじゃない。迷惑をかけたときに、どう行動するかを、皆は見ている」
「私は、自分の正しさを曲げたくなくて…一生懸命仕事しました。そこに事故で遅れてってだけです。あの事故がなければ間に合ってました。」
「その正しさが、他人にとっては迷惑になることもある。そこに気づいてほしい」
小日向は。
「迷惑とか正しさ以前の問題です。私が事故に合って遅れたことをみなが配慮すべきです。あれが無ければ問題は起こらなかった」
「そっちか...」
午後。
社内ワークショップ「信頼される報連相とは?」が開催された。
朝倉はあえて、小日向をグループのリーダーに任命した。
他メンバーは戸惑った。
が、朝倉は言った。
「信頼とは立場で得るものではない。行動で得るものだ。小日向さんがそれを示せるか、見せてくれ」
彼女は動揺しながらも、グループの中心に立った。
ワークショップ中。
あるメンバーが言った。
「報連相って、やっぱり素直に謝れるのが一番大事だと思うんです」
空気が張りつめた。
誰も小日向の方を見ようとしなかった。
彼女は震える手でメモを取りながら、ポツリと呟いた。
「謝るのって、怖くないんですか?」
その言葉に、メンバーが一瞬顔を上げた。
「怖いですよ。すごく。でも、怖いってことは、自分の評価を大事にしてるってことでもあると思います」
「……」
小日向は、ノートを閉じた。
翌日。
朝倉は、廊下ですれ違った小日向に声をかけられた。
「朝倉さん。あの…私、先方に手紙を書きました」
「そうか。どんな内容だ?」
「私は事故の責任を取れるほど大人ではなかったってことだけ書きました」
「それでいい。謝るとは過去を捨てることじゃない。未来を開く行為なんだ」
小日向は、ほんの少しだけ笑った。
だが朝倉の目には、まだ鎧が見えていた。
それは正しさという名の見えない防具。
彼女が心から他人の立場に立つことができない限り、それは脱げない。
月曜の朝、小日向あかりの机に一通の社内便が置かれていた。
差出人は朝倉修平。
封筒の中には、印刷されたメールの写しが一枚。
『御社の対応は形式的であり、誠実さに欠けていたとの印象を受けました』
『担当者からの直接的な謝罪や説明がないことに、弊社内では不信感が残っております』
取引先からの再度の苦言だった。
小日向はそれを読み、しばらく動かなかった。
そして昼休み、彼女は食堂にいる朝倉の元を訪ねた。
「私、やっぱり謝ったほうがいいんでしょうか」
朝倉はゆっくりと箸を置いた。
「謝るべきかどうかを考える前に、誰が困ったのかを考えろ」
「先方、ですか」
「そうだ。相手は説明を求めているんじゃない。誠意を見せてほしいと思っている」
「でも私は、誠意を込めて…」
「誠意というのは、自分が誠意を込めたと思うことじゃない相手が受け取れる形で初めて意味を持つ」
翌日、彼女は自ら再度の報告書を提出した。
タイトル:再確認報告書
本文はこうだった。
『今回、私は事故に巻き込まれたと感じていました。しかし、結果として業務に支障をきたし、相手企業に不安を与えてしまったことは事実です。私の認識と周囲の現実が異なっていたとしても、その差が生まれていたこと自体に責任を持つ必要があると気づきました』
それは、確かに言葉の選び方に小日向らしい「防御」が残っていた。
だが、初めて周囲の感覚を見ようとする文面だった。
その報告を読んだ朝倉は、ほんの数秒、目を閉じた。
「ようやく、社会の感覚に手を伸ばしたか…」
だが同時に浮かぶ不安もあった。
謝るという行為が、彼女にとってただの自己保全で終わらないか)
社内掲示板には、朝倉の名前で一文が投稿された。
『他人の立場に立つ力。それが誠意と呼ばれる』
『謝罪とは、自分の正しさを手放すことではない。他人の痛みに触れようとする勇気だ』
それは誰に宛てたとも書かれていない投稿だった。
だが社員たちは薄々気づいていた。
その夜。
小日向は同期の社員とのLINEのやり取りでこう打っていた。
『やっぱり私、間違ってなかったよね?』
『ただ周囲がうるさいから、形だけ合わせただけ。
謝ったらラクになるなら、それでもいいかなって』
言葉の最後に、絵文字と軽い笑いの記号がついていた。
それは本音とも、軽口とも、無意識の防御とも取れる文面だった。
そして、そのLINEのスクリーンショットは、翌朝には社内ネットワークの非公開グループに流出していた。
「本人なのか?」
「日付もタイムスタンプも合ってる」
「形だけ謝ったって…どういうことだよ」
人の言葉というのは、発信したその瞬間から責任が伴う。
小日向の正しさは、再び試される局面に入っていた。
火曜の午後。
総務課に不穏な空気が流れる。
「あのLINE、ほんとに本人の?」
「形だけ合わせたって……」
「本気でそう思ってるなら、もう何を信じればいいのか」
同僚の視線が、小日向の背中に突き刺さる。
彼女はうつむいたまま、パソコンに向かっていた。
表情は静かだった。
いや、無表情に近かった。
だが、その両手はわずかに震えていた。
私の主張は正しかったのに…
私は嘘をつかないって、決めてた。正直な心でいたい
なんで、こんなふうに私を責めるの
昼の会議で朝倉はこう語った。
「誠実な人と自分に誠実なだけの人は、違う。後者は誰のことも見ていない」
「謝罪とは、その人の痛みに触れましたという、唯一の接点だ」
「もしそれを形だけで済ませたとき、人間関係は壊れる」
その言葉に数名の社員がそっとうなずいた。
誰も名前は出さなかった。
だが全員が、ひとつの沈黙を共有していた。
夕方。
朝倉は再びノートを開き、記した。
【小日向あかり:謝罪行為を操作の一環と捉える傾向顕著。根本の共感欠如。矯正不可】
そしてその下に赤字で一行だけ。
最終段階へ移行する
そのペンは迷いなく走っていた。
翌朝、社内メーリングリストに一通の告知が届いた。
件名:【社内倫理教育再構築プロジェクト 発足のお知らせ】
本文には、こう記されていた。
『新たな人材育成の一環として、責任、誠意、信頼の意味を問う教育企画が立ち上がります』
『初回モデルケースの検証には、特定の業務事例を使用させていただきます』
差出人は朝倉修平。
その名を見て、多くの社員が気づいた。
次のステージが始まる。
社内に一枚の回覧資料が流れた。
タイトル:ケーススタディ教材 第1号 副題:「誠実な対応とは何か」
内容には、以下のようなある社員の業務報告文が抜粋されていた。
事故による書類遅延報告
再提出された再確認報告書
内部SNSに流出した、謝罪に関する本音発言
すべてが匿名化され、役職や部署は伏せられていた。
しかし、社員たちの多くはそれが小日向あかりの件であることを直感した。
数日後、会議室に全社員が集められた。
「社内倫理教育 再構築プロジェクト」の第一回。
その中心に立っていたのは朝倉修平。
「このケースにおいて、誰が間違っていたという議論は不要だ。
重要なのは、なぜ信頼が失われたのかだ」
プロジェクターに映し出された文面。
『私は誠意を込めて対応したつもりでしたが、結果として相手に不信感を与えました』
『謝罪という行為が自分を否定するように感じ、最後まで踏み出せませんでした』
そして最後に
『やっぱり私、間違ってなかったよね?』
社内が静まり返った。
朝倉の声が響いた。
「正しかった自分を守ることに必死になった結果、彼女は誰の信頼も得られない人になってしまった」
「これは特殊な人の話ではない。誰の中にも自分は間違っていないと思いたい瞬間はある」
「だが、それを口にした瞬間、対話は終わる。信頼は沈黙の中に宿る」
その週、小日向あかりは「社内教育補佐職」へと配置転換された。
正式な職務名は、「業務姿勢再教育モデルモニター」 業務内容は以下の通り:
全社員研修のモニター役
ロールプレイ教材の受け役
謝罪対応訓練の実演ケースにおけるロールモデル
配置先は本社3階・倉庫跡の仮設教育室。
そこでは、毎日
「謝るとは何か」
「誠実とは何か」
「社会とは何を求めるか」
の教材と向き合うことになった。
社内の人々は口に出さないが、彼女が隔離されたことを知っていた。
彼女は最初「これは訓練だから、いつか戻れる」と思っていた。
しかし、3週間目。
誰も彼女の部屋に入ってこなくなった。
研修の演習も録画で済まされ、報告書はデジタル提出。
孤独だけが真実だった。
ある日、彼女はノートにこう書いていた。
『私は正しかった。ずっとそう思ってた』
『でも、誰も私の正しさなんて見てなかった』
『私が見てたのは私だけだった。誰のことも、見てなかった。人は私の真実じゃなくて事実の謝罪を求めていた』
そのノートは朝倉のもとに届いた。
彼は一読し、静かに一言だけ呟いた。
「遅かったな…でも、間に合ったかもしれない」
その翌週。
社内に「謝罪と信頼構築」という新たな教育資料が公開された。
真実を語る人は強い。
でも、事実を認められる人はもっと強い。
その表紙には匿名のまま
かつて誰よりも自分に正直だった社員の記録が使われていた。