【Season2】インバウンド幻想を斬る!②
火曜日の午後三時。
ASAホールディングス本社・経営企画室の一角。
壁際のフリースペースにある長机に、ノートPCが三台並んでいた。
画面の中で、青い鳥の亡霊のようなアイコンと、見慣れたX(旧Twitter)のUIが忙しなく更新されていく。
「エグいですね、これ。」
田島理久は、スクロールの手を止めた。
画面には、今朝からずっとトレンドに居座っているハッシュタグが並んでいる。
「#中国人観光客いなくて快適」
「#インバウンドいらない」
「#誰が補填すんの」
その下で、無数のポストが飛び交っている。
『中国人いない新宿、マジで歩きやすい。これが本来の日本やろ(拍手の絵文字)』
『静かでいいとか言ってるやつ、自分の給料の出どころ考えたほうがいいよ? デパートとドラスト潰れたら真っ先に文句言うくせに』
『「中国人いなくなれ」って言いながら、ボーナス減ったら政府叩くんだろ? 反中は勝手にやれ、でも補填のシミュレーションくらい出してから言え』
Xのタブの横には、まとめサイトとニュースサイト、匿名掲示板のスレッドがいくつも開かれていた。
「ドラッグストア店員の本音スレ…。」
田島が別のタブを開く。
『ぶっちゃけ中国人客いないとウチの店マジで終わる。でも路上でツアーバス停めるなって近所からクレームも来る。どっちの顔色見ればいいんだよって話。』
『インバウンドで給料上がるとかは全然ない。仕事量とクレームだけ増えてる。けど、売上落ちたら真っ先に切られるのは現場なんだよな。』
「現場、完全に板挟みになってますね。」
ため息混じりに呟いた田島の隣で、佐伯美羽も自分の画面を見つめていた。
「こっちは家電量販店の店長ブログです。」
そう言って、一つの記事を開く。
『客足が途絶えて、売上はガタ落ち。現場は正直、やっと息ができたと思ってる。毎日、段ボールの山と怒号に埋もれて、自分が何者かも分からなくなる。なのに本社は「数字を戻せ」と言う。じゃあ聞きたい。僕らの心をすり減らして積み上げたあの「爆買い」で、一体誰が幸せになったんですか?』
佐伯は、そっと画面から目を離した。
「現場の人も、別に中国人嫌いとかじゃないんですかね?多分、なにかの矛先?」
「うん」
田島が頷く。
「『中国人いない方が楽、でも、店が死ぬ』っていう本音なんだと思う。」
彼は、自分のノートにさらさらとメモを書き足した。
ネット世論は感情の両極端。
現場はしんどいけど、いないと困るという矛盾の中。
「反中でも親中でもなくて、仕事としてどう回すかって視点の声が、逆に少ないですね。」
「だからこそ、うちがそこを取りに行くんだろう?」
聞き慣れた声が、背後から飛んできた。
「課長。」
田島が振り向くと、朝倉修平が紙コップのコーヒーを片手に立っていた。
「集めてみてどうだ?」
「ん〜。なんて言うか...。地獄の縮図ですね。」
「褒め言葉として受け取っておくよ。」
朝倉は、二人の間に立って画面を覗き込んだ。
「X、掲示板、レビューサイト…静かで快適と、経済死ぬぞが同じタイムラインに流れてる現状です。」
田島が画面をスクロールする。
『中国人来なくなってから、心斎橋のドラスト、マジでガラガラ。あれ、テナント料払えるの? ってレベル』
『地方のアウトレット、インバウンド戻ってこなくて閉館検討ってニュース見た。「もうネットで買えば良くない?」って言ってた人たち、現地で雇われてる人達のこと一ミリも考えてないよね?』
「SNSって、極端な意見がバズるよね〜。」
佐伯が、慎重に言葉を選ぶ。
「中国人来るなとか経済終わるとか。本当はその間に、現場の人たちのリアルなニュアンスがあるのに、そこが、あんまり見えないのが辛いですね。」
「だから、現場を会議室に連れてくるんじゃないのか?」
朝倉は、自分のポケットからスマホを取り出した。
「だからこそ、ネットに溺れてる現場も、ちゃんと見ておくことも必要なんだよ。」
そう言って、一つのチャットアプリを開く。
グループ名は「地方小売ネットワーク(ASA系)」。
アイコンには、どこかの地方都市の商店街の写真が使われていた。
『八重樫社長の特別会議、どうだった?』
『またインバウンドの話ですか?正直、うちの店はもう限界ですよ。』
いくつかのメッセージが、既に流れている。
「課長、もう噂が回ってるんですね…。」
田島が苦笑する。
「上の会議の内容って、どこから漏れるんですか?」
「漏れてる、というより、期待が勝手に先走るんだろうな。」
朝倉は、画面を見ながら言った。
「『また本社は口だけだろ』っていう諦めと、『今度こそ何か変えてくれるかも』っていう、最後の期待と。」
「期待値、高いですね…。」
「それを裏切り続けてきたから、地方は疲弊してるんだ。」
朝倉は、チャットに短いメッセージを打ち込んだ。
> 『今日の会議は、店を守るために店の形を変えられるかという話をしました。詳しくはまだ言えませんが、地方の声を直接社長に届ける場を作ります。ご協力お願いします。』
送信ボタンを押すと、間髪入れずに既読がついた。
『え?本当に、現場の声を聞いてもらえるんですか?』
『どうせ都市の旗艦店だけでしょう? 地方はいつも後回しだし。』
悲観と自嘲が入り混じったスタンプが、いくつも飛んでくる。
朝倉は、少しだけ目を細めた。
「田島君」
「はい」
「現場の候補、三日と言われたが、一日で叩き台を出そう。ドラッグストア、家電量販店、アウトレット。インバウンド依存度と、地方への影響が極端に出ているところを、それぞれ一店舗ずつ選んでほしい。」
「了解です。データベースと売上構成をすぐ引っ張りだしますね!」
「佐伯さん。」
「はい。」
「ネットの声、現場の人間のものだけを抜き出すことはできる?。匿名でもいい。ブログ、X、転職クチコミサイト。『何に疲れていて』『何を捨てたがっていて』『何を守りたがっているか』を、全部拾って貰えないかな?」
「もちろんです!やってみますね!」
彼女は、不安そうにしながらも、目の奥には火が灯っていた。
「誹謗中傷とか、ただのヘイトは、スルーでいいですか?」
「全部保存はしておいて欲しい。ただ、議論のテーブルに載せるのは仕事の話だけにする。」
朝倉は、そう言って二人の肩を軽く叩いた。
「感情論の洪水の中には、必ず現場の本音が溺れているものだ。すなわち、私たちがするのは、その本音だけを救い上げる作業ということだね。」
―――
その日の夕方。
経営企画室の会議スペースには、仮のホワイトボードが立てられていた。
上部には太字で書かれている。
【インバウンド依存 × 地方小売の現実】
その下に、三つの枠が引かれていた。
ドラッグストア
家電量販店
アウトレット・百貨店
「まず、ドラッグストアから行きましょうか?」
田島が、自分のノートPCからプリントアウトした資料をホワイトボードの横に貼る。
「インバウンド比率が高くて、地方で、なおかつうちのグループか、強い取引があるところです。」
「条件多いな...。」
「それでも、結構あるんですよね。特に中国語表記だらけのところとか。」
プリントには、地方都市の駅前にあるドラッグストアの外観写真がいくつも並んでいた。
ピンクや青の派手な看板。
その下に、「免税」「TAX FREE」と大きく書かれたポップ。
中国語、韓国語、英語が入り混じっている。
「このあたりは、まだ観光地として人が来る分マシです。問題は…」
田島が、指で一枚を示す。
「ここです。北陸の福井県。駅前のシャッター商店街の中に、突然インバウンド仕様のドラッグストアが一軒だけ。」
写真の中では、周囲の古いシャッター店舗と、やけに新しい外観のドラッグストアが、不自然なコントラストを作っていた。
「なんでそんなところに?」
「数年前、北陸新幹線開通と、某国メディアで『穴場の温泉地』としてバズった影響で、中国人観光客が一気に増えたんです。そのときに爆買い目当てで出店したチェーンの一つが、うちの取引先です。」
「今は?」
「爆買いは消え、ツアーのバスも来なくなり、完全に地元の高齢者の薬と日用品だけで回しているはずです。」
「はず?」
「本社が怖くて、ちゃんとしたSOSを上げていないって噂です。『インバウンドが戻れば』っていう言葉を、お守りみたいに使ってるようです。」
朝倉は、しばらく写真を見つめた。
「店長の名前は?」
「ええと…。」
田島が資料をめくる。
「三条 紘一。四十七歳。もともと地元の薬局の二代目だった人で、ドラッグチェーンに吸収された形で店長になっています」
「あー。三条さん、か。」
名前を口に出してみて、朝倉は心の中で何度か繰り返した。
(三条紘一。薬局の息子が、インバウンドの店長になって、今は地元の老人の窓口に戻っている)
「ドラッグストアの現場代表は、その三条さんに当たってもらう方向で考えよう。」
「わかりました。すぐにコンタクトを取りますね。」
田島がメモする。
「家電量販店は?」
「こちらは、東北の中核都市です。」
佐伯が、少し緊張しながら資料を差し出した。
大きな交差点の角にそびえるビル。
その三階から上を丸ごと使っている家電量販店の写真。
「この店、コロナ前はインバウンド比率四割。今は、中国人観光客自体は戻りつつあるんですけど…。」
「爆買いが変質してるんだな?」
「はい。円安と越境ECのせいで、ここじゃないと買えない物が減っていて。ブログや口コミを見ていると、『高級家電をまとめ買い』から、『日本にしかない生活家電を一つだけ買う』に変わってきているみたいです。」
プリントの一つには、SNSのスクリーンショットが印刷されていた。
『以前はスーツケース二つほどをパンパンにして帰ってましたが、今はドラッグストアで薬とコスメをちょっと買って、あとは体験メイン。家電は中国でもいいやって感じのようですね。』
「店長のブログもありました。」
佐伯が、別の紙を指差す。
『正直、インバウンドの質が変わってきている。昔のように高額家電を大量に買ってくれるわけじゃない。でも、その代わりに、じっくり説明を聞いてくれて、日本の店員のサービスをSNSで褒めてくれる人も増えた。 ここから、どうやって店としての価値を作り直すか。本社は「もっと売れ」としか言わないが、現場はそんな単純な話じゃないことを肌で感じている。』
「この方、会議に呼ぶ価値あり、ですよね?」
田島が素直に言う。
「名前は?」
「白井 悠人。三十五歳。珍しく、ブログのプロフィールに元オタクで、今もガジェットオタクって書いてます。」
「いいな(笑)」
朝倉は、思わず笑った。
「オタクは、構造を理解するのに向いている。家電の現場代表は、その白井さんに当たってもらおう。」
「アウトレット・百貨店は...」
田島が、少し言葉を濁した。
「ここだけ、候補が多すぎて...。」
「一つに絞る必要はない。ただ、インバウンドで膨らんで、今しぼんでいるという象徴として、一番分かりやすいところを選んで欲しい。」
「じゃあ...。」
田島は、一枚のプリントを前に出した。
「郊外型アウトレットモールがよろしいかと。当社グループが一部テナントを出していて、中国SNSでも一時期『ブランド品が安い穴場』として拡散されていたところになります。」
写真には、広い駐車場と、欧米風の建物群。
快晴の空の下、人の波でごった返す光景の、はずだった。
「これはコロナ前に、旅行系インフルエンサーが撮った写真です。」
その横に、最近の写真が並べられた。
同じアングル。
同じ建物。
違うのは人の数。
ぽつぽつと歩いているのは、日本人の家族連れと、高齢夫婦。
かつての「人で溢れている」ほどではない。
「インバウンドは戻りつつありますが、越境ECでブランド品が買えるようになたことで、わざわざ来る理由が弱くなっている現状です。」
「テナント側は?」
「人は減ったのに、テナント料は下がらないって、かなり不満が溜まっているようです。匿名のクチコミで、『もう限界』『撤退したいけど違約金が』と書かれていました。」
朝倉は、そのプリントを静かに見つめた。
「アウトレット側の生の声も、拾っておく必要があるな。」
「誰を呼びましょう?」
「テナント担当マネージャーか、現場を知っている営業が適任かもな。ただ同時に、ここに連れてきた方たちを守る仕組みも考えないといけないよな。」
「たしかにそうですよね。本社を相手に不満を言ったら、自分の首が飛ぶ、って、それは思いますよね〜。」
佐伯の言葉に、誰も否定できなかった。
―――
そして、ホワイトボードの前に三つの名前が並んだ。
【ドラッグストア代表候補】
三条 紘一(北陸 駅前ドラッグチェーン店長)
【家電量販店代表候補】
白井 悠人(東北 家電量販店店長)
【アウトレット代表候補】
(調整中:テナント側マネージャー)
その下に、大きく一行。
『変化こそ、最強の防御』
「課長...。」
田島が、ホワイトボードを見上げながら言った。
「正直、構造の話だけしてる方が楽ですよね。」
「楽だな〜。」
朝倉は、あっさり認めた。
「現場の人間を会議室に連れてきて、本社の目の前で本音を話させるなんて、面倒しかないですよ。」
「炎上しますよね、社内的に必ず...。」
「するだろうな。」
それでも、と朝倉は続ける。
「構造を変えるってことは、誰かの仕事の意味を変えるってことだ。それを、図と数字だけでやろうとするから、人が潰れるんだ。」
佐伯が、そっとペンを握り直す。
「三条さんも、白井さんも、『中国人なんていらない』って言いたいわけじゃないのが、これを見てわかりましたよ。」
「そうだな。」
「でも、SNSにはそういう雑な言葉しか流れないのは本当に残念ですよね。」
「だから、俺たちがやるんだ。」
朝倉は、ホワイトボードのペンを取り、下の余白に新たな行を書き足した。
『理不尽の先に、答えがある』
「課長。これ、誰かの黒板の名言みたいですね(笑)」
田島が、半分冗談で言う。
「誰?」
「あの話題の高岩光春さんの兄である高校教師ですよ!」
佐伯が小さく笑った。
「あぁ、奥様が人気ポッドキャスの京花さん?」
「ええ、私あの方の大ファンなんですよ。今大変なことになってますけどね。」
教室の黒板に書かれる言葉と、役員フロアのホワイトボードに書かれる言葉。
場は違っても、やろうとしていることは似ているのかもしれないと、田島はふと思った。
その言葉を見上げる誰かの背中を、少しだけ支
りえること。
それが、今自分たちにできる構造の仕事なのだと。
―――
その夜。
地方の小さなドラッグストアの裏口で、一人の男がスマホの画面を見つめていた。
三条紘一、四十七歳。
北陸の駅前にある「ドラッグASA駅前店」の店長。
商店街のアーケードから漏れるオレンジの街灯。
シャッターを下ろした古い洋品店と、長年続く魚屋の間に、彼の店は挟まれている。
昼間は、杖をついた老人や、子ども連れの母親たちが、ゆっくりと買い物をしていく。
数年前まで、中国語を話すツアー客がスーツケースを引きずっていたとは思えないほど、静かな夜だった。
『今日の会議は、店を守るために店の形を変えられるかという話をしました。詳しくはまだ言えませんが、地方の声を直接社長に届ける場を作ります』
そのメッセージを、何度もスクロールしては戻り、三条はため息をつく。
(また、きれいごとじゃないだろうな)
心の中で毒づきながらも、すぐその後に、別の声が頭をよぎる。
(でも、本当に、何か変えようとしてるとしたら?)
彼は、自分の店のバックヤードを振り返った。
インバウンド全盛期に無理して増やした在庫棚。
「爆買い歓迎」と書かれた、色あせたポップ。
誰も触らなくなった免税専用レジ。
「あの頃は、あの頃で地獄だったんだけどな。」
苦笑しながら、三条はポケットからタバコを一本取り出す。
火をつけて、夜空に煙を吐き出した。
「中国人がいない今が、楽かと言われると、それはそれで、違うんだよなー。」
静かすぎる店内。
レジ前で世間話をする高齢客。
月末になると送られてくる、本社からの通達。
インバウンド需要回復を見据えた売り場づくりを。
「しるかよ。戻らねぇだろ...。あの頃の爆買いなんてよ。」
呟いた言葉は、白い息と一緒に宙に溶けた。
ポケットの中で、スマホが震える。
『 三条さん。ご無沙汰しております。営業第二課の朝倉です。さっそくですが、来週5日(月)、本社にてこれからの店舗運営を議論する場を緊急で設けました。きれいごと抜きの、現場のシビアな意見が必要です。三条さんには、ぜひ最前線の「生の声」をぶつけていただきたいと考えております。遠方からお越しいただくことになり大変恐縮ですが、どうかお力をお貸しいただけないでしょうか。詳細は以下の通りです。何卒、ご検討のほどお願い申し上げます。』
その文面からは、不思議と上から目線の匂いがしなかった。
何度も冷や水を浴びせられてきた地方店舗の店長としては、簡単に信用するわけにはいかない。
それでも。
(本社…にね...)
三条は、タバコを最後まで吸い切ってから、スマホの画面を見つめ直した。
店を守るために、店の形を壊す。
本社の会議室で書かれたその言葉が、まだ彼の胸の奥では遠い。
だが、今のままでは、「店の形」どころか「店そのもの」が消える未来しか見えないことも、彼は分かっていた。
ゆっくりと、返信の文字を打ち始める。
『条件があります』
指が止まる。
(どう書くか、だな)
彼は一度全て消して、打ち直した。
『一つだけ条件があります。私が話すのは「愚痴」ではなく「現場の真実」です。それを理由に弊店が不利益を被るような真似はしないとい約束ができますか?』
送信ボタンを押すと、すぐに「既読」がついた。
少し間を置いて返信が来る。
『お約束します。その話こそが、私たちが再スタートを切る上での「最初の一歩」だと考えています。当日は、堂々と現場の矛盾をぶつけてください。』
「最初の一歩、ね...。」
夜風が、ゆっくりと商店街を抜けていく。
シャッターだらけの通りの真ん中で、明かりが灯っているのは、もう三条の店とコンビニのみ。
その小さな光の一つが、遠い都心の役員フロアと、初めて細い線で繋がった瞬間。
―――
水曜日の午後一時。
ASAホールディングス本社を出た朝倉修平は、品川駅から北陸新幹線に乗り込んでいた。
向かうのは北陸の駅前商店街にある、三条紘一のドラッグ。
データは情報。
空気こそ、真実。
そう考える朝倉にとって、現場に行くのは当たり前のプロセス。
■ 北陸・駅前商店街
新幹線を降り、駅前のロータリーに足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
東京とは違う、湿り気のある冷気。
風の音が大きく聞こえるくらい、車も人も少ない。
(静かだな)
古い看板、錆びたアーケード。
昭和から時間が止まったような洋品店がシャッターを下ろし、その隣だけが妙に新しいドラッグストアになっている。
ガラスの自動ドアの向こうでは、三条紘一がゆっくりとレジを打っている姿が見えた。
「いらっしゃいませー。」
来店客は、杖をついた老人が一人。
ゆっくりと会計を済ませた後、三条は深く頭を下げた。
客が店を出た後、朝倉はドアを押した。
「三条さん、わかります?」
「はい?」
顔を上げた三条は、一瞬戸惑い、次に「ああ」と目を見開いた。
「ASAの…朝倉さん。」
「お忙しい中すいません。どうしても直接お話を伺いたくて、ここまで来てしまいました。」
「いや、お恥ずかしい限りですが、忙しいって訳でもないですから気を使わないでください。」
三条は、店内の空気を示すように手を広げた。
棚は整然と並んでいるが、人の気配は薄い。
中国語表示の棚札が、いくつか色あせて残っている。
(この空気。インバウンドが来ないと死ぬと、インバウンドが来てもしんどいの両方が混じってるな。)
朝倉は店内をゆっくりと歩きながら、まるで地形を見るように棚を眺めた。
「これ、全部?まだ残ってるんですね...。」
「ええ、あの頃の名残りです。外さないのかって本社は言うでしょうけど。」
三条は、少しだけ自嘲気味に笑った。
「外したら、本当に戻らない気がするんですよ。」
「戻らない何かを、信じてるんですね?」
「ええ。でも、こうして残しておいても戻ってこないのも分かってるんですよ。」
それが三条の苦しさの核心だ、と朝倉は感じた。
店の裏手にある小さなバックヤードに移動すると、三条は少し息を吐いた。
「社長さんが現場を見たいって言ってるって聞いた時、正直、冗談だと思いましたよ。」
「わかります(笑)」
「本当に地方を見に来るとはね。」
「ええ。誰を救うかではなく、どこで構造が壊れているかを見るために。」
三条は、朝倉を見つめた。
「あのメールの『約束します』って文面、嘘じゃないんですね?」
三条は静かに笑い、セルフサービスのインスタントコーヒーを紙コップに注いだ。
その動作には、長年の現場で培われた無駄のなさが滲んでいた。
「嘘だったら、ここに来ませんよ(笑)」
朝倉はすぐに答える。
三条はコップを一口飲み、本題に入った。
「うちの売上、もうあなた達も数字で見てるでしょうけど、正直…限界です。」
「店長として、一番きついのは売上じゃないんですよ。」
「なんなんです?」
朝倉は前のめりになった。
三条は、会議室の窓から遠く棚の方を指差した。
「店の意味が、揺らいでるんです。」
その言葉は、朝倉の胸に、前のめりになった姿勢ごと強く、深く刺さった。
「昔は地元の薬局として、お年寄りが世間話をしに来てくれて、症状を聞いて、合う薬を選んで渡す。それが私たちの誇りでした。でもインバウンドが波みたいに押し寄せてからは…棚は常に空っぽ。私は一日中、バックヤードで段ボールを開けて補充するだけ。薬剤師じゃなくて、ただの倉庫番にいつの間にかなってましたね。」
「…」
「中国人観光客がいなくなったところでさ、昔みたいな地元の相談薬局には戻れない。だって本社はインバウンドが戻る前提で大量仕入れの計画を組んでるし、棚の補充もバックヤード管理重視にシフトしたまま。でもその構造を壊すと、今度は本社の期待を裏切ることになるから、皆なにも言えない。薬じゃなく数字を渡してるだけなのに、誰もそれを変えようとしないんだよ。」
朝倉は視線を逸らさず、三条の言葉をすべて受け止めた。
(構造が壊れた時、最も苦しむのは、元の役割に戻れない現場だな。)
「もし、本当に在庫を店に置かないなんて、ドラスティックな話が通るなら…。」
三条は、決断を迫るように朝倉を見た。
「私は、この店を守れる気がします!」
その瞬間、朝倉は確信した。
三条こそ、変革の旗手だと。
―――
ビルの三階から上を丸ごと使った大型家電量販店。
エレベーターを降りると、店員の熱のこもった商品説明の声がフロア全体に響いていた。
「あ、朝倉さんですよね?」
声をかけてきたのは、熱意ある研究者のような風貌の男。
白井悠人。
「ブログ読ませてもらいましたよ。」
「やめてくださいよ恥ずかしい…。あれ、趣味でやってるだけですから。」
白井は照れながらも、その口調には確かな自負があった。
「現場の空気が、数字よりリアルに書かれていましたね。今日、実はここに来たのは、それが一因なんです。」
白井はフロアの奥へ案内しながら、苦笑を漏らした。
「うちは、インバウンド四割時代に工事部も倉庫も増やしたんですよ。でも今は…広い店内に、適度な客っていう状態。売上は許容ラインですが、あの頃の幻影を本社が消してくれないんです。」
「爆買いの後遺症、ですか?」
「はい。あと、SNSの影響がマジででかい。」
白井は、最近の中国SNSの投稿画面を見せた。
『日本家電は“買わなくても見に行く価値あり”。店員優しい、説明丁寧。でも買うのは中国でOK。』
「買いに来るじゃなくて、見に来るか...。」朝倉はつぶやいた。
「そうなんです。昔は商談だったのが、今は展示会になってる。」
白井は朝倉をまっすぐ見た。
「朝倉さん、店は展示、在庫はメーカー。その言い方、俺はめちゃくちゃ現実的だと思います。」
(白井さんも連れて行くべきだな。この社員は、すでに未来を見ている)
―――
最後に向かったのは郊外型アウトレットのテナント。
薄い風が吹く、客足が戻りきらない広場。
そして「売上が戻らないのに、テナント料だけは昔のまま」という不満が渦巻く従業員休憩所。
「はじめまして。ASAの朝倉です」
「聞いてますよ。店の形を壊す人だってね。」
出てきたのは、黒髪ひとつ結びの女性マネージャー。
中沢 萌。
三十代後半。
買い付けから販売まで全部経験した現場上がりのプロの目は鋭かった。
「SNSで『もうアウトレットじゃ買わない』って声、多いの知ってます?」
「もちろんです。」
「越境ECで海外ブランド買えるようになって、ここに来る理由が消えたんですよ。なのに本社は、人が戻る前提でテナント料を下げてくれない。」
中沢は、苦笑しながら腕を組んだ。
「私たち、ずっと時代遅れの設計の上でダンスさせられてる感じなんです。」
その痛烈な言葉で、朝倉は迷いを捨てた。
(この声こそが、変革の着火剤になる)
―――
本社へ戻る新幹線の中。
朝倉は、名簿を組み直した。
【現場の声・招集メンバー】
理由と役割
三条 紘一
地方の「店の意味の揺らぎ」を最もリアルに語れる、変革の覚悟を持つ者。
白井 悠人(家電量販店)
店は展示、在庫はメーカーという未来の構造を提唱する、デジタル時代のプロ。
中沢 萌
「時代遅れの設計」という構造的欠陥を冷静に言語化できる、現場上がりの論客。
そして最下部に、朝倉は自分への戒めとして、一行だけ、太字で付け加えた。
『彼らが本音を語っても首が飛ばない仕組みを、先に作ること』
構造改革は、誰かを犠牲にするものではなく、責任のあり方を組み替える仕事だ。
窓の外で、夕焼けが新幹線の窓を赤く染めていた。
(八重樫社長。これが、現場のリアルです)
朝倉はノートPCを閉じた。
次の戦場は、経営陣の前。
そして、その次は日本の小売全体だ。




