【Season2】怒られたい社員を斬る!②
ノックの音に、朝倉はペン先を止めた。
契約書の「悪意の余白」という赤字のすぐ横に、インクの小さな滲みができる。
「どうぞ。」
ドアが少しだけ開き、細い隙間から顔を出したのは、見覚えのない若い女。
「営業三課の矢口里奈と申します。少し、お時間よろしいでしょうか。」
名乗り方も、声の高さも、きっちりしている。
「来る場所を間違えた新入社員」ではなく、「来る場所を選んできた人間」の匂いがした。
「構わないよ。どうぞ。」
里奈はドアをきちんと閉めてから、一礼して中に入る。
椅子をすすめると、腰を下ろすまでの動きに無駄がない。
人前に座り慣れているタイプだ。
「で、営業三課が営業二課に何の用かな?」
出だしから冗談めかすことはしない。
こういう時、相手が欲しがる「優しい導入」は、たいてい本題から目をそらすクッションにしかならない。
「神谷の件でお話にまいりました。」
「ああ。」
朝倉の脳裏に、小会議室での希の顔が一瞬よぎる。
「怒られずに済む方法」を探す人間特有の、あの空っぽな目。
「本人の口からは、何も報告が行っていないようでしたので私が報告にまいりました。」
里奈は、言葉を選びながら続けた。
「そうか。はじめて。」
「はい。このままだと、コンプライアンス的にも、人事的にもまずいと思いまして。私の一存では抱えきれないので、課長にご相談に上がりました。」
言い回しだけ聞けば、模範的な報連相だ。
ただ、「まずい」という単語に、うっすらとした安堵が混じっているのを、朝倉は聞き逃さなかった。
(爆弾を見つけて、とりあえず上司の足元に置きに来た顔だな。)
「状況はどこまで把握してるの?」
「神谷さんとお客様とのLINEのやりとり、その内容が奥様に発覚し、『御社として許される範囲なのか』という問い合わせが来ていること。それを、神谷さんが自分の課ではなく、こちらに持ち込んだことまでは把握しています。それから...」
「ん?」
一拍置いて、朝倉が促す。
「午後二時までに、自分の言葉で謝罪案を書いて持って来いと指示を受けていたにも関わらず、現時点で画面が真っ白なこと、です。」
「真っ白?」
「考えた形跡も、打っては消した痕跡も、ほぼ皆無です。」
朝倉は、心の中で「やっぱりな」と舌打ちした。
(あの顔のまま戻ってくるとは思っていたが…戻ってくる以前の問題か。)
「君は、神谷さんにどう関わってきたの?」
問いの矢印を変える。
報告者の立ち位置を確認するための質問だ。
「同じ課で、同期です。仕事を教えることもありますし、雑談もする仲です。」
「今回の件で、君は何か助言をしたの?」
「状況整理と、『どこが奥様の地雷だったのか』の説明はしました。」
「案件も手伝ったの?」
「手伝ってはいません。書いてくれと言われましたが、『それはできない』と伝えました。」
「なぜ?」
「私が書いたものをそのまま持っていけば、神谷はまた何も考えずに、助けてもらえたで終わるからです。」
里奈の声には、わずかに疲労が混じっていた。
「そう言えるだけの距離感はあるんだな。」
「正直に申し上げると、距離を取ろうとしています。」
「理由は?」
「このまま近くにいると、私も同じ種類の人間に見られると思ったからです。」
その言葉に、朝倉の口元がわずかに緩んだ。
評価としては悪くない。
少なくとも、自分の位置取りを自覚している。
「で、その判断は、仕事として正しいと思うか?」
「感情としては正直です。でも、仕事としては、途中までは関わってしまった以上、ここで上に投げずに黙っているほうが不自然だと思いました。」
「だから来てくれたんだね。」
「はい。」
「ありがとう。」
朝倉は椅子の背にもたれ、矢口の表情をじっと見た。
目を逸らさない。
自分の言葉がどう評価されるかを、正面から受け取る覚悟のある顔だ。
「矢口さん。」
「はい。」
「君は、この件に何%関わっていると思う?」
「30%くらいでしょうか?」
少し考えてから、返ってきた数字は、案外、正直だった。
「その30%を説明してくれるかな?」
「神谷の『考えない癖』を、見て見ぬふりをしてきたこと。たまに手を貸すことで、結果的に延命させてしまったこと。」
「なるほど。」
「今日も、最初は一緒に考えると言いました。本当は、『まず自分で考えろ』と突き放すべき場面だったのに。」
「それが、君の責任か。」
「はい。」
即答だった。
(自己保身だけの報告ではなさそうだな。)
朝倉は、視線を契約書から矢口へと戻し、ゆっくりと立ち上がった。
「分かった。」
「…。」
「この件、君には二つ、役割を引き受けてもらう。」
「二つ、ですか?」
里奈の眉が、わずかに動く。
「一つ目は、報連相の経路を正しい形に戻すことだ。営業三課の南課長に、君から報告してもらう。」
「え?私からですか?」
「そうだよ。『コンプラ案件になりうるトラブルが発生していること』『本人が課を飛び越えて相談していること』『君がどこまで関わったか』。神谷さんの耳に入る前にしてほしい。」
里奈は、一瞬だけ顔をしかめた。
それが、この件で一番居心地の悪い工程であることは、彼女自身が一番よくわかっている。
「分かりました。」
「二つ目は?」
「二つ目は『神谷さんをかばわない役』をやってもらう。」
「…。」
「この先、神谷さんは、自分のズルさと甘えを直視させられる。たぶん、相当荒れるだろう。泣くかもしれないし、人を恨むかもしれない。そこで、『でも、希は悪くないよ』と言ってくれる聖母役を、君にはやってほしくない。」
「…。」
「それをやった瞬間、君は神谷さんの現状維持に加担する側に回るのはわかるね?自分で30%と認めた責任を、さらに上乗せする結果になることも。」
里奈は、唇をぎゅっと結んだ。
自分が普段、どんな役回りを無意識に選んでいたかを、図星で当てられた感覚。
「正直に申し上げていいですか?」
「どうぞ。」
「私、誰かのマシな比較対象でいるのが、楽だったんだと思います。」
言い終えた瞬間、里奈は自分で驚いたように目を瞬いた。
口から出た言葉が、思っていたよりも本音に近かったからだ。
「そうだろうね。」
朝倉は、あっさりと肯定した。
「はい。」
「しかし、それを続けている限り、君は一生『比較対象として優秀な社員』にしかならないよ。」
その言い方には、冷たさではなく、静かな現実だけがあった。
「どうするかは君に決めて欲しい。」
里奈は、深く息を吸い込んだ。
「私、自分の力で評価されたいです。」
「なら、今日がその一日目じゃないかな?」
朝倉は腕時計をちらりと見た。
「まずは南課長席に行きなさい。そのあとで、神谷さんと四人で話す場をもうけよう。」
「四人で?」
「私と南課長は会社を守る。君は自分の役目を果たす。神谷さんは自分のミスと向き合う。それぞれ、やるべきことが違うというだけだ。」
「分かりました。」
里奈は立ち上がり、深く頭を下げた。
その動きからは、さっきの「爆弾を置きに来た人間」の気配が消えていた。
ドアに向かう途中で、彼女は振り返った。
「あの、一つだけ、質問してもいいですか?」
「いいよ。」
「神谷さんは、変われると思いますか?」
一瞬の沈黙。
朝倉は、視線を机の上の契約書から、矢口の瞳に移した。
「まずは本人と話してみないとわからないな。」
「…。」
「変わらないままでいた時に、何を失うかを、ちゃんと見せることはできるとは思うけどね。」
その言葉に、里奈は小さく頷いた。
「ありがとうございます。」
今度の「ありがとう」は、逃げのための言葉ではなかった。
自分が担ぐことになる重さを理解したうえで、それでも受け取る人間の声だった。
ドアが閉まる。
再び、静寂。
(人の甘えを斬るのは簡単だ。難しいのは、そのあとで、自分の足で立たせること。)
ここから先は、部署全体を巻き込んだ「構造の問題」として、処理していく必要がある。
その覚悟だけを胸に、朝倉は内線電話の受話器に手を伸ばした。
「南課長をお願いします。」
―――
矢口里奈は、フロアを出て廊下に出たところで、ふと足を止めた。
(結局、私、また動いてるじゃん。)
胸のあたりが、じわっと重くなる。
「抱えきれないから上に投げる」
言葉としては正しい。
報連相としても、社会人としても、筋は通っている。
それでも、心のどこかで別の声がする。
(希の爆弾、また私が中継してるんだよね?)
さっきまでの自信ある口調が、内側から少しずつしぼんでいく。
朝倉に「聖母役はやるな」と言われた言葉が、妙に残っていた。
(私がここに来なかったら、あの子、本当に動いてたのかな?それとも、ただ黙って時間をやり過ごして、何も起きないことを祈ってたのかな?)
考えれば考えるほど、答えはひとつに収束していく。
たぶん、後者だ。
(ってことはさ…。)
里奈は、苦笑いを噛み殺した。
(これ、半分以上、希の手のひらで踊らされてるの、私じゃん。)
自分で口に出してみると、余計に情けなくなった。
怒って距離を取る、と決めたはずだったのに、結局は「代わりに上司のところへ報告しに行く役」を買って出ている。
(私、ほんと放っておけないタイプなんだな…。)
それが自分の美徳のように思える瞬間もあった。
でも今は、ただの便利な性格に見えて仕方ない。
(だったらせめて今日は、希のためじゃなくて、自分の責任のために動こう)
そう自分に言い聞かせて、里奈は営業三課に戻っていった。
―――
その頃、営業三課。
神谷希は、自分の席で椅子をくるくる回しながら、モニターを見ているふりをしていた。
画面には、さっきまで真っ白だった謝罪メールの下書き画面。
そこに打たれている文字は、たったの数文字だけ。
『お詫び申し上げます』
その一行を、何度も消しては打ち直し、結局そのままにした。
あとは続きの文章を考えるフリをしながら、頭の中は別のことでいっぱいだ。
さっき、視界の端で第二課のほうへ歩いていく里奈の背中。
胸の奥に、薄い安堵が広がる。
(里奈ってさ、なんだかんだで、最後は私のこと放っとかないよね。)
すぐカッとなり、もう無理って言いつつ、本当に切り捨てたことは一度もない。愚痴を言いながらも、提出物を手伝ってくれたり、締め切り前夜に一緒に残ってくれたり。
(助かるよ。里奈ちゃん♡)
南課長にも、何度か怒鳴られてきた。
きっと今日も、ドでかい声で怒るのだろう。
そこに朝倉課長まで加われば、さすがに胃はキリキリする。
でも。
(そこさえ乗り切れば、なんとかなるっしょ。)
怒られている時間は、たぶん一時間。
長くても二時間。
そのあいだは、思考停止してる中身のない顔をしておけばいい。
そうすれば、相手は痺れを切らして、自ら答えを教えてくれる。
あとで「ご飯奢るよ!」って里奈に言えば、きっと苦笑いしながらも許してくれるはず。
そうやって、「反省したかわいそうな私」と「それを見捨てない里奈」という構図にもどせたら成功。
嫌気をさされたら別の人を探すだけ。
(考えるのも行動するのも面倒なんだもん。)
心ではっている。
しかし「バカなやつ」と真正面から言われるのは怖い。
だからいつも、少しだけカッコつける。
怒られても平気そうな顔。
何を言われても動じてない笑み。
その薄っぺらい鎧が、いつしか本物になっていた。
本気で傷つかないための、安物の防具。
(本当にどうしようもなくなったら、また誰か怒ってくれて解決してくれる)
怒られるのは嫌いだ。
痛いし、恥ずかしいし、しんどい。
それでも、怒られている瞬間だけは、「自分にちゃんと向き合ってもらえている気がする」。
「怒ってくれるってことは、まだ見捨ててないし、愛してる証。」
昔、母親が言った言葉を、そのまま信じている。
いつも誰もいない家。
褒めてくれない。
話を聞いてくれない。
でも、テストで悪い点を取ったときだけは、ちゃんと向き合って怒鳴ってくれた。
それが、愛情の形だと誤解したまま、大人になってしまった。
(今日もきっと大丈夫。)
心のどこかで、そう信じていた。
怒られることで、やっと自分が「存在してもいい」と感じられる、自信のないタイプ。
その自分のパターンに、本人はまだ気づいていない。
「神谷。」
低い声が、真正面から飛んできた。
顔を上げると、そこには南課長が立っていた。
怒鳴る前の、あの独特の空気。
「は、はい。」
「会議室Bに今から来なさい!」
「はい。」
立ち上がる足が、自然と少し震えた。
でも、その震えさえも、「ああ、始まるんだな」とどこか安心している自分がいる。
その先の筋書きまで、無意識に用意しながら、会議室へ向かった。
―――
会議室B。
長机の片側に、営業三課の南課長。
その隣に、営業二課の朝倉。
反対側に、矢口里奈。
神谷希は、最後に入ってきて、ドアの前で小さく頭を下げた。
「失礼します。」
「座りなさい。」
南課長の声は、いつもの怒鳴り声よりも低かった。
むしろ、抑え込んでいるような温度だ。
希は、里奈の隣に座ろうとしたが、朝倉がそれを止めた。
「神谷さんの席はそこじゃない。」
朝倉が指し示したのは、長机の短辺。
三人の視線が正面から集まる位置。
「はい。」
そこに座らされたことで、希の喉がきゅっと鳴る。
(あ、これ、本気モードのやつだ…。)
「始めようか。」
朝倉が、静かに口火を切った。
「まず、状況の確認をしよう。神谷さん。あなたが取引先とどういうLINEのやり取りをしていたか、自分の口で説明してほしい。」
「えっと、その…。」
いつものように言葉が渋滞する。
脳内では「どうしよう」「怒られる」「逃げたい」がぐるぐる回るだけで、内容が全く整理されない。
「説明できないなら、私がしようか?」
南課長が、苛立ったように割って入ろうとした。
その声を、朝倉が手で制した。
「南課長、それはやめましょう。」
「…。」
朝倉は、希をじっと見た。
「神谷さん。これ、さっきも言ったよね?」
「…。」
「君は、分からないふりをすれば、誰かが代わりにしてくれる世界を作り上げてきた。だから今も、とりあえず黙っていれば、誰かが状況を整理してくれるのを待っているんだろ?」
図星。
希の視線が、テーブルの一点に固定される。
「それはもう通じないよ。」
朝倉の声色は、ほんの少しだけ固くなった。
「この場には、君をかばう人も、代わりに怒ってくれる人もいないんだ。」
里奈は、呼吸を飲み込んだ。
同時に「庇わない」という約束を思い出す。
「神谷さん。」
南課長が、低く声を出す。
「君は自分が何をやらかしたか、ほんとに分かってないのか?」
「怒らせてしまったことですよね?」
ようやく絞り出した言葉は、それだけだった。
「誰を?」
朝倉が重ねる。
「お客さまの…奥さまを。」
「それだけか?」
「それと会社に。」
「あとは?」
「...」
朝倉は即座に切り捨てた。
「君は、『怒らせた相手』しか見ていない。」
「…。」
「今回、君が踏みつけたのは、奥様の感情だけじゃない。相手の家庭と、それを見ないふりをして商売をしてきた、当社の信頼だ。」
南課長の拳が、テーブルの下で握り締められる。
「私たちはな、夫婦で来てくださる顧客に頭を下げてきたんだ。」
南課長の声が、低く震えた。
「見込み客じゃない。家族ぐるみで付き合ってくれる、大口のお得意様だ。そこに君は『彼氏みたいな安心感』だの、『妄想しちゃいます』だの、LINEを送ってしまった。」
希の肩がびくりと震える。
「怒らせるつもりはなくて...。」
希は、また同じ言葉を繰り返した。
それが、自分の唯一の免罪符であるかのように。
「怒らせるつもりがなかったら、何をやってもいいと思ってるのか?」
朝倉の声が、一段、冷たくなる。
「いえ。」
「じゃあ、なぜやった?」
沈黙。
いつものように、「わからないです」「そんなつもりじゃなかった」が喉元までせり上がる。
しかし、今日の空気は、それすらも飲み込みにくい。
(なに言っても、通じなさそう…。)
希は、内心でイライラしたが、顔だけは取り繕おうとした。
いつもの他人事の表情。
少し眉尻を下げて、口元にうっすら笑みを浮かべてる。
「その顔だ。」
朝倉が、ピシャリと言った。
「え?」
「その他人事の顔。」
希の頬が、一気に赤くなる。
「それが、君の思考停止の原因だ。」
里奈は、息を飲んだ。
(バレてるの?)
「神谷さん。」
朝倉は、言葉を選ぶことをやめた。
「君はたぶん、怒られることでしか愛情を感じてこなかったんだろう。」
「…。」
「怒られない時は、自分が無視されてる気がして、不安になる。だから、本当にまずいラインを越えても、その先に『怒ってくれる誰か』がいることを前提に動いていないか?」
言われた瞬間、希の背中を、冷水が流れ落ちたような感覚がした。
心の一番奥にしまっていた、誰にも触れてほしくなかった場所。
そこに、いきなり手を突っ込まれたような痛み。
「図星か?」
朝倉は、淡々と尋ねる。
「そう思われるなら、そうかもしれませんね。」
希は、かろうじてそう答えた。
「だから、怒られそうな状況を、自分で選んで作る。そのくせ、怒られてる間はずっと、『早く終わらないかな』としか思っていない。」
「…。」
「終わったら終わったで、『怒られるほど私のこと考えてくれたんだ』って勝手に解釈して、反省もしない。」
それを聞いた瞬間、南課長の表情が曇った。
希は、南課長の顔を見ることができなかった。
視界が歪んで、涙がこぼれそうになる。
(ここで泣いたら、かっこ悪い…。)
いつものように、「泣き顔で許してもらう」という逃げ道が、一瞬脳裏をよぎる。
しかし、そのルートも今日は封じられている気がした。
「矢口さん。」
朝倉が、里奈に視線を向ける。
「はい。」
「君はどう見ていた。」
「…。」
里奈は、しばらく希の横顔を見つめていた。
かすかに震える睫毛。
唇を噛みしめて、必死に涙をこらえている。
(ここで『でも希は悪気がなくて』って言ってあげるの、簡単なんだよな…。)
喉の奥まで出かかった言葉を、彼女は飲み込んだ。
「正直に言います。」
「うん。」
「希は人の感情を動かすのはうまいです。『助けてください』『どうしたらいいですか』と言いながら、最終的に誰かを動かして、自分はあまり動かないんです。」
希の肩がビクッと揺れる。
「でも、ありがとうは言わない。誰かの奪った時間も、労力も、当たり前みたいに受け取って、感謝もしない。」
言いながら、里奈の胸が少し痛んだ。
自分の中の苛立ちも混ざっていることを、自覚していたからだ。
「それでも、私は放っておけなかったんです。」
「なぜ?」
「希がいると、私がマシに見えるからです。」
その告白に、希の視線が、ゆっくりと里奈へ向いた。
「え?」
「仕事が遅くても、『神谷よりはできる』と言われる。報連相が甘くても、『矢口はまだマシだ』と評価される。そうやって、比較対象としての希に、私もずっと乗っかってきたんです。」
里奈は、真正面から自分の弱さも晒した。
朝倉は、静かに頷いた。
「いいだろう。」
「…。」
視線が、再び神谷希に戻る。
「神谷さん。」
「はい。」
「今から君がやることは、一つだけ。」
朝倉は、テーブルの上に一枚の紙を置いた。
印刷されたLINEのスクリーンショット。
その下に、空白のスペース。
「この場で、『自分が何をやらかしたか』を、自分の言葉で書いてもらう。」
「今、ですか?」
「今だ。」
希は、ペンを手に取った。
指が震える。
紙の上の自分の文章から、目を背けたい衝動に駆られる。
「怒られることで終わらせるのは、今日で終わりにしようか。」
朝倉の声音は、冷たく、しかしはっきりしていた。
「これから先、『分からない』『そんなつもりじゃなかった』で逃げるなら、君はこの会社に居場所はないと思った方がいい。」
「…。」
「怒られることでしか、自分の存在を確認できない人間を、会社は抱え続ける余裕はない。」
希の胸に、何かがドスンと落ちた。
怒られているのに、今日は、いつもの「愛情」の温度を感じない。
誰も、自分を「かわいそうな子」として扱ってくれない。
その現実が、じわじわと染み込んでくる。
「さあ、書くんだ。」
希は、ペン先を紙に落とした。
インクがじわりと広がる。
(逃げたい。全部忘れたい。でも、ここで逃げたら、ほんとに終わるんだろうな。)
初めて、「怒られることすら奪われる恐怖」を、はっきりと感じた。
ゆっくりと、文字が並び始める。
『私は、怒られずに済むことだけを考えて、お客様の家庭を踏みつける文章を送りました。』
その一行目を見たとき、里奈は、ほんの少しだけ息を吐いた。
庇うでもなく、責めるでもなく。
今日はただ——目撃者として、その場に立ち会うことを選んだのだ。
―――
会議室B。
時計の針が、三周目に突入していた。
希の前には、白紙の謝罪文。
朝倉も南も、すでに二時間以上、一言も口を挟まなかった。
これは待ちではない。
逃げ癖が本性を露わにする瞬間を、見届けるための時間だった。
希は、何度もペンを持ち替える。
何度も深呼吸をする。
しかし一文字も進まない。
(ムリムリ…どうやって書いたら?)
焦りはあるが、思考にはなっていない。
脳内では「どうしよう」「やばい」「帰りたい」だけがループする。
やがて希は、とうとう口を開いた。
「あ、あの…トイレに、行かせてください。」
南が眉間をさらに寄せた。
「今か?まだ何も書いていないだろ。」
「す、すみません…あの…。」
声がもう泣き声に変わりつつある。
しかし本気の涙ではない。
「逃げるための涙」だと、全員が気づいていた。
朝倉が静かに言う。
「行ってきなさい。」
希はすぐに頷き、席を立った。
逃げるように会議室を出て、廊下に消えた。
そして。
希は便座のふたに座り、震える手でスマホを取り出した。
(考えられない。どう書くのかも分かんない。でも、AIなら…。)
希はスマホを握りしめ、小声で早口に呟きながら文字を打ち込んだ。
「上司に提出する謝罪文を考えてください。私が悪かった感じで。でも怒られすぎないように柔らかくしてください。」
送信。
数秒後、スマホに文章が現れた。
《この度は私の行動により多大なご迷惑をおかけし、深くお詫び申し上げます。
誤解を招く表現を使用してしまったこと、また報告が遅れたことに反省しております。
今後は意思疎通の改善に努め、より誠実なコミュニケーションを心がけてまいります。》
希はそれを見て、安心して息を吐いた。
(さすがAI。これをそのまま書けば…。何とかなるはず。)
希は席に戻るなり、急いで紙に書き写す。
書き終えた瞬間、朝倉が静かに口を開いた。
「読んでくれるか?」
「はい。」
震える声で読み上げていく。
しかし、読み始めて数秒、
「ストップ。」
朝倉の声が、冷気のように落ちる。
「それ、どこから引っ張ってきた?」
希の顔が固まる。
「え…?」
「君が書いた文章じゃないよな?これは謝罪文のテンプレをそのまま貼った文章だ。」
三課の課長も呆れたように息を吐く。
「AIに考えさたせような文章だな。」
希の手が震えた。
「ち、違います!ちゃんと自分で1人になって考えたら閃いてきたんです!」
「うそつくな!!」
朝倉は即答した。
「この文章は、自分で責任を理解していない人間の典型文だ。TPOにも合ってない。誠実なコミュニケーションを心がけてまいります?なんだこれは?バカにしてるのか?これは、君の立場で書く文章じゃない!」
里奈が、静かに補足した。
「確かに定型文だけ。中身が空っぽの、それっぽい文章ですね。」
朝倉が淡々と告げた瞬間、希は自分の胸の奥を、冷たい指先でつままれたような感覚に襲われた。
唇を噛む。
涙がにじむ。
けれど、その涙に反応する者は誰ひとりいない。
「神谷さん。分からないふりすれば誰かが助けると思ったんじゃないのか?」
静かに落とされた一言は、逃げ場所を塞ぐかのようだった。
希には否定の言葉さえ出てこない。
(だって、考えるのも、やるのも、めんどいんだもん。)
その甘さは、彼女自身がいちばんよく知っている。
背後で南課長がぼそりと呟いた。
「この世代は、本当に終わってる。真面目に向き合ったほうが損をする。」
誰も反論しない。
重い現実として、その空気が会議室に沈殿していた。
「他人に丸投げ、自分の頭で考えない、責任も取らない。日本は、こんな大人を量産して何がしたいんだろうな。」
その言葉は刺すのではなく、切り落とすような静けさを持っていた。
希は、ただうつむくことしかできない。
朝倉は机の上で指を組み、淡々と宣告した。
「神谷さん。君にはノルマを与える。」
「ノルマ?」
「今日から一ヶ月、毎日100回ありがとうと言え。どんな小さなことでもだ。コピーを手渡された、資料を共有された、
ドアを抑えてもらった、相談に乗ってもらった、いわゆる些細なことから全部。」
希は呆然と目を見開いた。
「え〜、恥ずかしいですよ。なんか照れくさいし。」
朝倉はその笑みを一刀両断した。
「君は、未だにこの状況で笑えるんだな?その思考回路自体が問題なんだよ。」
冷たい声が続く。
「これは罰じゃない。防御の方法を教えているんだ。」
「防御?」
「ありがとうは、相手の時間と労力を尊重する最低限の言葉だ。それを言わない人間は、必ず嫌われる。無意識に人を疲れさせるからだ。」
里奈が小さく頷いた。
「わかる。希さん、本当に言わないもん。ありがとう。求めて終わり。」
希は反射的に口を開いた。
「そんなことないですよ!言ってます!」
「だろうな。」
朝倉は即答した。
「言わされたありがとうは、ありがとうじゃない。自主的に言ったことは、おそらく一度もないだろ。」
「そんなこと...」
「ある。」
里奈、南、朝倉。
三人が同時に言った。
希は息を呑んだ。
朝倉の声が、さらに落ちる。
「神谷さん。予言をしておく。君は最後に鬱ですと言って逃げる可能性が高い。」
希は身体を震わせた。
「そ、そんなこと…。」
「もし本当に鬱になったら、それは悪いことじゃない。」
朝倉は淡々と続けた。
「気を使われる側だけで生きてきた君が、初めて、気を使う側の重労働に触れた証拠だからだ。」
希の呼吸が止まった。
「裸の言葉をむき出しで放つのは子供。大人は、自分の言葉に衣を着せる。それが思いやりであり、社会人としての最低限の知性だ。」
里奈も静かに口を開いた。
「希さん、もし心が折れそうなら、それはあなたが今まで、どれだけ『気を使ってもらってきたか』を知らなかっただけ。ありがとうを100回言い続ければ、嫌でも気づくよ。」
希はとうとう涙をこぼした。
誰も慰めない。
誰も寄り添わない。
その孤独だけが、彼女の現実だった。
「いい加減、甘えを捨てろ。いい大人なんだから。」
朝倉は最後にそう告げた。
席が一斉に静まり返った。
南が口を開いた。
「君の処分は規律違反、コンプラ違反、重大な業務妨害。本来なら停職だ。」
希は体を強張らせた。
「しかし。」
南は大きく息を吸い、
「現場判断として、一ヶ月間の改善プログラムを与える。評価は朝倉課長と私でする。」
朝倉が付け加える。
「100回ありがとうと、報連相の徹底。これができなければ...わかってるよな?」
「はい。」
その声はかすれ、弱々しく、しかし完全に折れていた。
会議室を出た瞬間、希は崩れ落ちそうになった。
しかし、支える人間は誰もいなかった。
里奈は立ち止まったが、手は伸ばさない。
(今日だけは…庇わない。)
その決意のまま、里奈は一歩先に歩き出した。
朝倉は後ろ姿を見送りながら、胸の奥に複雑な重みを感じていた。
(救うとは、甘やかすことじゃない。突き放し、痛ませ、それでも前を向かせること。)
希の足取りは重く、泣き声は喉の奥に沈んでいる。
ここから先が、
彼女が人間になるか、逃げ癖で人生を終わらせるかの分岐点だった。
―――
翌日。
ASAホールディングスのオフィスは、いつも通りの朝を迎えていた。
しかし、神谷希にとってはまったく違う世界だった。
「100回…ありがとう、か...。」
そのノルマが、胸の奥で重く響く。
ありがとうなんて、人生でほとんど言ったことがない。
人を都合よく動かすための言葉を選んできた。
いつも「ごめん」その一言で、場を濁して、相手の善意に甘えてきた。
だから虐められてきたし、友達もいなかった。
でも朝倉に言われた。
ごめんは、人に気を使わせる言葉だ。
人の善意を否定し、距離をつくる言葉だ。
それが、今になって胸に刺さった。
デスクへ戻る途中、希はコピー用紙の束を抱えて歩いていた。
紙が少し崩れそうになり、それを3課の男性社員がとっさに支えてくれた。
「おっと、あぶない!大丈夫?」
「…」
喉がぎゅっと締まる。
心臓がバクバクする。
ありがとうを言わなきゃと思うだけで、顔が熱くなる。
(やば…。こんなに言えないもんなんだ。)
ゆっくり、深呼吸して。
勇気を振り絞って。
「あ、あ…ありがとうございます!」
言えた。
かろうじて。
社員は一瞬驚いた顔をして、すぐに、ふっと笑った。
「いやいや、全然。気をつけてね。」
その笑顔。
希はその笑顔を、ちゃんと見たことがなかった。
(え…。ありがとうって、こんな顔になるの?)
胸の奥で何かがほどけた。
ありがとうは許してじゃない。
構ってでもない。
その人が自分にくれた時間と手間に光を当てる言葉だった。
(ごめんばっかり言ってたのって、相手にもっと負担かけてたんだ。)
希は立ち止まり、
震える指先を胸の前でぎゅっと握った。
ふと、隣の席で淡々と仕事をしている里奈の横顔が目に入る。
ここ数日、ほとんど口をきいていない。
里奈は希を距離に置いたまま。
それが、痛いほど分かっていた。
(里奈…。今までいっぱい…助けてくれてたな…。)
部長への資料の修正、夜遅くまで残った日、朝イチで書類を取りに行ってくれたこと、締切前のメチャクチャな希の計画を整えてくれたこと。
思い出せば思い出すほど、
胸がじんわり熱くなった。
そして気づく。
(私、一回もありがとうって言ってなかった…。)
震える足で、里奈の席に歩いていく。
里奈は気配に気づき、眉を上げた。
「なに?」
希は、俯いたまま深呼吸した。
心臓が破裂しそうだ。
「り、里奈…。」
「ん?」
絞り出すように。
「今まで、いろいろ助けてくれて、ありがとう 。」
その瞬間。
里奈の目が、ふっと丸くなった。
驚き。
そして、ゆっくり、柔らかい笑みへと変わった。
「なにそれ。希がそんなこと言うなんて、珍しいじゃん。雨でも降るんじゃないの?」
くすっと笑う里奈。
希は、胸がぎゅっとなった。
(嬉しい。こんな小さなことで、人がこんな顔になるんだ。)
そこで初めて、ありがとうという言葉の意味を理解した。
自分が相手を見ているという証。
あなたがしてくれたことは当たり前じゃないという敬意。
ごめんでは絶対に生まれなかった表情。
希は小さく微笑んだ。
「これからは、ちゃんと言うからね。」
里奈は肩をすくめる。
「期待しないでおくよ。でも…まあ、嬉しいよ。ありがとう。」
その嬉しいが、
希の胸にまっすぐ刺さった。
温かかった。
生まれて初めて感じる、人間の関係の温度だった。
こうして、希は今日、初めて「ありがとう」の本当の意味を知った。
里奈へ小さく「ありがとう」を言ったあと、
希は少し迷いながら、営業二課の島へ歩いていった。
朝倉は書類に目を落としていたが、希の足音で顔を上げる。
「どうした?」
希は息を整え、胸の前でぎゅっと手を握った。
「あの…朝倉課長。昨日、色々ありがとうございました。」
たどたどしく。
でも逃げていない声だった。
朝倉は目を細め、微笑んだ。
「おう。がんばれよ!」
その短い返事の裏で、胸の奥に小さな震えが走った。
(ありがとうは…やっぱり、人を動かす。)
過去に何万回も聞いてきた言葉のはずなのに、たった一言で空気が変わる。
言われ慣れているはずの朝倉でさえ、なにか温かいものが胸に灯る。
そして静かに言った。
「人は、ごめんでは変われない。ありがとうを覚えて、初めて前に進めるんだ。」
希は小さくうなずいた。
朝倉はそれを見届け、
淡く微笑んだ。
「よし。やっと出発点に立ったな、神谷。」
冬の光が差し込むオフィスで、その言葉が静かに溶けていった。




