【Season2】怒られたい社員を斬る!①
火曜日の午前十時。
ASAホールディングス本社のフロアには、エアコンの風とキーボードの音だけが、乾いた生活音のように漂っていた。
営業第二課の島で、朝倉修平は、取引先から届いた契約書のドラフトに赤ペンを入れていた。
条文の端に小さく「悪意の余白」と書き込み、自分で苦笑する。
(言葉ってやつは、書いた側の欲が必ずにじむ。)
そんなことを考えていたときだった。
「あ、あの、朝倉課長..。」
島の境界線、パーテーションの隙間から、おずおずと顔を出す影があった。
ベージュのカーディガンに、くすんだピンクのブラウス。
前髪は不自然なほどきっちりと揃えられ、目元には、寝不足の隈と厚いコンシーラー。
営業三課・神谷希、二十一歳。
入社二年目。
上から見れば「若くて愛想のいい子」。
横から見れば「なぜかいつも、誰かを疲れさせている子」。
「どうした、神谷さん。」
朝倉が視線だけを向けると、希は小さく肩をすくめ、周囲を見回した。
営業二課のメンバーは、それとなく視線をそらす。
その空気を察したのか、希はさらに声を落とした。
「あの…少しだけ、お時間いただけませんか?その…相談、というか…。」
「ここじゃまずい話か。」
「はい。できれば、個室で…。」
心のなかでため息をつきつつ、顔には出さない。
こういうタイプは、相手の表情の揺れに過剰に反応して、すぐに「怒らせた」と思い込む。
そして「怒られた」自分に酔い始める。
「会議室、今空いてるか見てくる。」
「い、いえ、あの…空きがなければ、どこでも大丈夫です。」
「空いていたほうが、君は話しやすいんだろ?」
一言で区切り、立ち上がる。
神谷はホッとしたように、しかしどこか不安げに、彼の背中を追った。
―――
小会議室C。
六人掛けの長机とホワイトボード、壁際には使われていないプロジェクター。
会議室特有の、若干こもった空気が漂っている。
「座ろうか。」
「はい。失礼します。」
希は椅子の端っこに、まるで叱られに来た小学生のような姿勢で腰を下ろした。
バッグからノートとスマホを取り出し、机の上にそっと並べる。
朝倉は対面に座り、腕を組んだ。
「で?相談というのは?」
「はい。」
希はしばらく唇を噛んでいたが、やがて意を決したようにスマホを操作した。
「これを見ていただけますか?」
画面には、LINEのトーク画面が開かれていた。
アイコンは中年男性の横顔。
トーク名には、苗字だけがカタカナで表示されている。
《後藤さん☆昨日は遅くまでありがとうございました✨ 後藤さんと話してると、時間があっという間で…。お仕事の話も、プライベートの話も、もっと聞きたいなって思っちゃいました(*^^*)》
《神谷さんがそう言ってくれると、俺も嬉しいよ。次は仕事抜きで会おうか。食事でもいこう。》
《え〜、そんなこと言ってくださるの、後藤さんだけです꙳⋆(lllᵔ⩌ᵔlll)౨♪そんな素敵な人に誘ってもらえるなんて、幸せ者ですね私。でも、奥さまに怒られちゃいますよね?笑》
《妻とはもう冷めてるから大丈夫。むしろ、君みたいな子といるほうが生きてる感じがする。本気で、今度ちゃんと話したい。結婚とかも視野に入れて考えてくれないかな。》
《えっ♪そんな、急に結婚だなんて…。でも、後藤さんみたいな人が旦那さんだったら、きっと毎日楽しいんだろうな〜って妄想しちゃいます。私なんかでよければ、これからもいっぱいお話聞かせてください。》
吹き出しに並ぶ、ハートではないが、似た温度の絵文字たち。
語尾を柔らかくする(笑)と(^^)と「妄想」。
どれも、本人が言うであろう「そんなつもりなかった」とは、真逆の温度を帯びていた。
「で、どこからどこまでが、仕事の話だ?」
朝倉は、画面から目を離さずに訊いた。
「え?」
「このやり取りの中で、営業三課として必要だった文面は、どこだと君は思う?」
「えっと…最初の、『昨日は遅くまでありがとうございました』とか…?」
「それ以外は?」
希は、視線を泳がせた。
「その…相手を不快にさせないように、会話を合わせたつもりで…。なんか、変でしたか?」
(変、という言葉で済ませようとしている時点で、もうアウトだな。)
朝倉は、スマホをテーブルの上に静かに置いた。
「まず状況を整理しようか。こちらのお相手は?」
「えっと…自動車ディーラーの後藤様です。三課の大口のお得意様で…。私が担当させてもらっています。」
「後藤様は既婚者?」
「はい。奥さまも、展示会で何度かお会いしてて…。」
「君は、何度そのご夫婦の前で頭を下げた?」
「え…?」
「契約のたびに、『今後ともよろしくお願いします』ってやってきたんだろう? その奥さんの前で。」
「あ、はい。」
「じゃあ、なんで、その顧客に『結婚とかも視野に』なんて文脈を投げ込む会話を、LINEでやっている?」
「わからないんです。」
「私、本当にそんなつもりなくて。なんか、こう…お客様って、ちょっと大げさなくらい褒めたほうが気分が良くなるかなって…。その、怒らせたくなくて…。」
「誰を?」
「え?」
「誰を怒らせたくなかった?」
一拍の間。
希は口を開きかけて、閉じた。
まるで、正解を探している生徒のように、天井を見つめる。
沈黙。
(出ないか。答えがないんじゃない。自分にとって都合の悪い答えだから、口に出したくないだけ。)
朝倉は、わざと話題を変えるような調子で口を開いた。
「で、その結果、どういうトラブルになった?」
「あの...。」
希は、ようやく次の画面を開いた。
そこには、別のトーク画面。
今度は、後藤氏の妻のフルネームが表示されていた。
《夜分遅くに失礼いたします。後藤の妻です。主人とメッセージのやり取りをされているようですが、これは、御社として許される範囲のコミュニケーションなのでしょうか?》
短く、冷静な一文。
だが、その奥にある温度は、火傷するほどに熱い。
「これ、いつ届いた。」
「き、昨日の夜です…。お風呂入ってたらスマホが鳴って…。」
「返事は?」
「まだ、してないです。怖くて…。」
「上司には?」
「その…三課の課長に言ったら、怒られると思って…。LINEのやり取りも『なんでそんなのを仕事で使ってるんだ』って絶対言われるし…。だから、そのASAの中で一番、話が分かりそうな人に相談したほうがいいかなって思って…。」
「それで、課も違う営業二課の課長のところに来たわけか。」
「はい……。」
希は、申し訳なさそうに眉尻を下げた。
その表情だけを切り取れば、「怒られ慣れている、それでも頑張ろうとしている若い社員」に見えなくもない。
しかし、朝倉の目には、別のものがはっきりと映っていた。
(怒られたくない相手から避難して、怒っても仕事を代わりに片付けてくれる相手を選んできただけだな、これは。)
「神谷さん。」
「はい…。」
「まず、一つ確認しておく。君は、何をしにここへ来た?」
「え?」
「怒られないためか?トラブルをなんとかしてもらうためか?それとも、自分がやったことの意味を、一緒に考えに来たのか?」
希は口を開いたが、すぐに閉じた。
目線だけが、机の上を泳ぐ。
ノート、スマホ、自分の指先。
どこを見ても、答えは書いていない。
「あの…どうすれば正解なのか、分からなくて…。」
「正解って言葉、便利だよな。」
朝倉は苦笑した。
「怒られない答えを正解と呼べば、自分で考えなくて済むから?」
ピクリ、と希の肩が揺れた。
だが、反論はない。
いつものように、沈黙が彼女のシールドになっている。
―――
朝倉は、机の上にあったホワイトボード用マーカーを手に取り、立ち上がった。
「状況を整理しようか。」
ホワイトボードに三つの丸を描き、それぞれに名前を書き込む。
【後藤様(夫)】
【後藤夫人】
【神谷】
その下に、矢印を引いた。
「まず、事実だけ。」
【夫 → 神谷】
《次は仕事抜きで会おう》
《結婚も視野に》
【神谷 → 夫】
《そんな素敵な人が旦那さんだったら〜》
《妄想しちゃいます》
「ここまでで、君は何回、『既婚者に対する線引き』を明確にした?」
「…線引き?ですか?」
「そうだ。『お仕事の関係で』とか、『奥様の前でも言える範囲で』とか、そういう文言を、一度でも打ったか?」
希は、記憶を辿るように宙を見た。
「…いえ。でも、その…最後に『奥さまに怒られちゃいますよね?笑』って入れたので、なんとなく、線引きしてる感じになるかなって…。」
「怒られちゃいますよね?は、線引きじゃない。」
朝倉は即答した。
「それは、バレたら怒られますよねって共犯者側の目線になる。線を引いているように見せかけて、一緒に踏み越えるための言葉にしか見えない。」
希の顔色が、じわじわと変わっていく。
だが、まだ黙っている。
自分の感情を、自分の口で言語化する気配がない。
(やっぱりな。)
朝倉は、丸の間にさらに矢印を描き足した。
【神谷 → 夫人】
《これは御社として許されるのか?》
「夫人は、会社に聞いてきている。君個人じゃない。」
「はい…。」
「つまり、これは恋愛トラブルじゃない。コンプラ案件だ。会社としてどう答えるかを、今、ここで決めなきゃいけない。」
ようやく、希の瞳に恐怖の色が浮かんだ。
「こ、コンプラ、ですか…?」
「そうだ。既婚者の取引先と、業務用アカウントで、プライベートに近い文面のやり取りをした。その結果、取引に影響が出そうになっている。これは、完全に業務上の問題だ。」
希は、両手を膝の上で握りしめた。
しかし、その口から出てきた言葉は、やはり同じだった。
「どうしたら、怒られずに済みますか…?」
その瞬間、朝倉の眉間に、わずかなシワが寄った。
(そこか。最後まで、そこなんだな。)
「怒られずに済む方法を探しに来た時点で、君はもう間違ってる。」
「え…。」
「君がここに持ってくるべきだったのは、怒られない答えじゃない。責任の取り方だ。」
希はしばらく黙っていた。
やがて絞り出すように言う。
「責任って、どうやって取ればいいんですか?」
「それを、私に聞いてる時点で、もう思考が止まってるんだよ。」
声の温度は、決して高くない。
だが、その冷たさは、ぬるま湯に慣れきった肌に突き刺さる。
「神谷さん。君は分からないふりをすれば誰かが答えをくれる世界で生きてきた。怒らせたくない相手の前では、相手が喜びそうな言葉だけを投げておけばいい。トラブルになりそうになったら、別の優しそうに見える大人のところに逃げればいい。そうやって、考えることからずっと逃げてきた。」
「そ、そんなこと…。」
反射的に否定しかけた口が、そこで止まる。
自分の中で、否定するための具体的な「例」が出てこないのだ。
自分を守るための言葉ってやつは、いつも中身がない。
朝倉は、椅子に深く腰を預けた。
「今からやるのは、トラブルの火消しじゃない。君の習性の解体だ。覚悟がないなら、ここで話を終わらせる。君の三課の課長に、このLINEと夫人のメッセージを全部見せて、『自分では対応できませんでした』と言ってこい。」
「…。」
希の顔が青ざめた。
ようやく、心の底からの恐怖が表情に出る。
だが、その恐怖の対象は、自分のしたことではない。
怒られたくない相手から怒られること。
その一点だけだ。
「やります。」
かすれた声で、希は言った。
けれど、その目はどこか空っぽだった。
自分の選択としてではなく、「やるしかない」と追い詰められた人間の目。
(考えてない。まだ、自分の物語として受け止めていない顔だ。)
朝倉は、机の上のスマホを指さした。
「まず、そのLINEを、スクショしてプリントアウトしろ。文面を文章で見直す。絵文字じゃなく、意味だけを取り出んだ。」
「意味だけ?」
「そうだ『妄想しちゃいます』を、『あなたとの結婚生活を想像しています』に変換してみろ。それを、夫人の前で声に出せるか、自分で確認しろ。」
希は、そこで初めて、心底うんざりしたような顔をした。
面倒くさい、という感情が、表情の端ににじむ。
そして、そのまま黙り込む。
(出たな、都合が悪くなると黙る癖。)
「黙ってても、誰も代わりにやってはくれないぞ。」
朝倉は淡々と言った。
「少なくとも、私はやらない。これは君のトラブルであり、君の習性の結果だ。私はやり方は教えるが、代行はしない。」
希は、小さく息を飲んだ。
「はい。」
その返事は、小さくて、薄かった。
感謝も、後悔も、ほとんど混ざっていない。
ただその場をやり過ごすためだけの、「はい」。
朝倉は、内心でわずかに苛立ちを覚えながらも、顔には出さなかった。
(本気で向き合っている時に、ここまで他人事の顔をされると、さすがにイラつくな。)
希は、怒られたくないくせに、怒る側の時間と労力を、当然のように消費していく。
そこに感謝はない。
「午後二時、もう一度ここに来なさい。」
「え…。」
「スクショを紙に出して、自分で赤ペンを入れてくるんだ。『この一文が、相手を勘違いさせました』と、自分で判定すること。その上で、返答案を考えてから来て欲しい。」
「返答案…。」
「そうだ。『どうしたらいいですか?』じゃなくて、『こう返そうと思うのですが、妥当でしょうか?』まで持ってくること。それが、相談する側の最低ラインだ。」
希は、しばらく俯いていたが、やがて小さく頷いた。
「分かりました。」
「分かってない顔だな。」
「え?」
「さっきからずっと、怒られずに済むかどうかしか考えてない顔だ。その顔のまま戻ってきたら、その時は、君をこの会社から追い出すことも選択肢に入れる。」
希の目が、大きく見開かれた。
「そんな…。」
「そんなじゃない。」
朝倉は静かに告げた。
「君みたいなタイプは、放っておくと、会社の信頼をじわじわ侵食していく。君を救うことと、会社を守ることが両立しないなら、私は迷わず後者を選ぶ。」
一言一言が、刃物のように冷たい。
だが、それは感情の刃ではない。
論理の刃だ。
「三課の課長は君に甘いのは知ってる。怒らせたくないって理由で逃げ続ければ、いつか、その甘さごと沈めることになる。私は、それを許さない。」
希は、震える指でスマホを掴んだ。
その手は、恐怖で震えているのか、怒りで震えているのか、自分でも分かっていないようだった。
「午後二時までに、また来ます。」
それだけ言って、彼女は会議室を出ていった。
ドアが閉まる音が、妙に軽く響く。
誰もいない空間に、ほんの数秒の静寂。
朝倉は、深く息を吐いた。
(ズルさを自覚させるのが、一番厄介な仕事だな。)
彼はホワイトボードに残った丸を見つめ、マーカーで新たに一行を書き足した。
【神谷希:怒られ回避型依存/思考停止傾向・重度】
その文字を見つめながら、心のどこかで思う。
(ズルさも甘えも、論破して黙らせろ。ただし、黙らせた先に考える静寂が生まれないなら、それはただのマウント。)
午後、彼女がどんな顔でここへ戻ってくるのか。
それで、この案件のすべてが決まる。
―――
午後一時すぎ。
営業三課の島に、静かな波紋が広がっていた。
机を挟んで向かい合う二人。
神谷希と、ひとつ下の同期・矢口里奈。
希のモニターには、朝倉から「午後までに考えて持ってこい」と言われた、あの謝罪メール案の下書き画面が開きっぱなしになっている。
ただし、そこには何も書かれていない。
眩しいくらいに、真っ白だった。
「え!?本当に何にも書いてないじゃん!」
斜め向かいの席から、矢口里奈が椅子をくるりと回した。
どこにでもいる「ちょっと仕事できる若手女子」のテンプレートみたいな見た目だが、その目はいつもどこか他人の感情の匂いを探していた。
「うん…まだ考え中。」
希は視線をモニターの端に逃した。
画面の左上には、さっきから点滅し続けるカーソル。
それは、彼女の「何も考えてない時間」を無言でカウントしているメトロノームみたいだった。
「てかさ、午後二時までって言われてたんだよね?」
「まあね。」
「今、何時だっけ?」
里奈はわざとらしく希の机の時計を覗き込む。
「一時十二分。午後って、けっこうすぐそこじゃない?」
心の中では焦燥がぐるぐる回っているのに、それを「考える」に変換する回路がどこかで断線している。
思考の代わりに、ただ「どうしよう」という言葉だけがループする。
「一緒に考えよっか?」
里奈は、優しい声で言った。
「いいの?」
「うん。最初はね。」
さらっと混ざる小さな刺。
だが、希は気づかない。
耳に届くのは前半だけだ。
「ありがとう…。」
そう口にしながらも、希の指はキーボードの上で止まったまま。
タイプするでもなく、キーの形を指の腹で撫でているだけだ。
「でさ、まずは状況整理しよ?そのお客さんの奥さんにバレた思わせぶりLINEって、どんな内容だったの?」
希の肩がぴくりと震えた。
「そんなに、変なこと言ってないよ?」
「見せて?」
「えっ…。」
希は一瞬、スマホに伸ばしかけた手を引っ込めた。
画面を見たくない。
あの会話を、改めて自分の目で直視したくなかった。
自分で撃った弾丸ほど、後から見るのはつらい。
しかも、どこに当たっているかよくわからないタイプの弾だ。
「大丈夫だって。私さ、そういうの得意だから。」
「そういうのって…?」
「人の地雷を踏む文章を見るの。自慢になんないけどね。」
里奈は冗談っぽく笑いながら、手のひらを差し出す。
観念したように、希はスマホを渡した。
LINEのトーク画面。
そこには、営業担当として対応している男性顧客とのやりとりが並んでいた。
『後藤さんがいてくれるから、私も頑張れます』
『後藤さんだけには弱音言っちゃいますね…内緒ですよ?』
『家庭大変そうですけど、私で良ければいつでも話聞きます』
お決まりの絵文字と、ちょっと脱力させる顔文字。
仕事の話から、いつの間にか生活や寂しさに話題が移り、最後には
『変なこと言っていいですか?後藤さんと話してると、彼氏みたいな安心感あります。』
と締めくくられていた。
「うわ...。」
里奈の口から、素直な感想が漏れた。
「え?そんなにおかしかった?」
「いや、これはさすがに、奥さんブチ切れるやつだよ?」
「え?普通に返しただけなんだけどな。安心感って言っただけで、好きとか付き合いたいとか、言ってないし。」
希は必死に言い訳を並べた。
それは、相手の気持ちを想像するためではなく、自分の心を守るためだけの言葉だった。
「彼氏みたいな安心感って言ったら、彼氏って言ってるのとほぼ同じだよ?」
「え…そうかな…?」
「じゃない?お母さんみたいな安心感って言われたら、ほぼ、お母さんって言われてるようなもんでしょ?」
希は一瞬、黙り込んだ。
しかし、その沈黙は「理解」のための静けさではない。
何一つ処理できないまま、言葉の列をそのまま頭の外に流しているだけの真空状態に近かった。
その前後の因果関係も、相手がどう受け取ったのかも、「なぜ自分がそう書いたのか」も、すべて空白のまま。
里奈は、スマホを返しながら少し身を乗り出した。
「なんでこういう文章、送っちゃうの?」
「なんでって、怒らせたくなくて…。ちゃんと対応しないと冷たいって思われないかなって…。」
希の声は、だんだん小さくなっていく。
そのたびに、過去の記憶が、フラッシュのように脳裏をよぎっていた。
黙ってると無視された。
はっきり断ると調子乗ってるって言われた。
嫌だと言えば、空気読めないと笑われた。
だから、いつしか彼女は「相手が欲しそうな言葉」を先回りして出すことだけに集中するようになった。
自分の本音よりも、相手の期待を優先する。
そのほうが安全だから。
ただし、その期待の中身を理解しているわけではない。
ただ、怒られなさそう、嫌われなさそうな言葉を、勘で選んで並べているだけ。
そこに冷静な距離感も、境界線もない。
「怒らせたくないから、彼氏みたいって言ったの?」
里奈の問いは鋭かった。
しかし、口調はやわらかい。
あくまで心配してますよという顔をしている。
「うん。いつも味方でいてくれる感じ、って伝わればいいかなって。」
「味方ってレベル通り越してるけどね。」
里奈は笑った。
だが、その笑いには温度がなかった。
「奥さんもそう感じてたから、LINE見たんじゃない?」
「そんなつもり全くなかったんだけどな...。」
希は小さく震えた。
その震えは罪悪感ではなく、バレたことに対する恐怖。
「で、奥さんから 担当変えてくださいって?」
「うん…それで、朝倉係長に、ね。」
「三課の課長じゃなくて、なんで二課の朝倉課長?」
里奈は首をかしげる。
それは知っていいながらの質問だった。
「だって、うちの課長、すぐ怒鳴るから、さ。朝倉課長は、なんか怖いけど、ちゃんと話を聞いてくれそうで…。」
「ふーん」
里奈の目が、一瞬だけ細くなった。
その「ふーん」の中には、いくつもの判定が混ざっている。
自分の課長には向き合う気がない。
でも、会社の便利そうな人には甘えていく。
怒られそうな相手は避け、安全そうな場所でだけ泣こうとする。
そういう人間を、里奈は昔からよく見てきた。
家庭でも、学校でも、バイト先でも。
だからこそ、人間関係の歪んだ甘えの匂いを嗅ぎ分けるのがうまい。
「で、朝倉課長から、なんて言われたの?」
「まず、自分で考えろって。午後二時までに、自分の言葉で案を書いて持ってこいって」
「で?」
里奈はわざと、そこから先を言わせようとした。
「何も、浮かばなくて、さ...。」
「ふーん。怒られたくないからって、ああいうLINEはスラスラ書けるのに?」
その一言は、希の胸に小さな突き刺さりを残した。
しかし、やはりそこから思考は動かない。
(そういうつもりじゃないのに)
口から出そうになる言い訳を、希は飲み込んだ。
それを言えば言うほど、自分が責任から遠ざかっていくことだけは、かすかに自覚していたからだ。
「ねー、里奈は、さ。どう書いたらいいと思う?」
その瞬間、里奈の口元がほんの少しだけ歪んだ。
だが、希はそれを見ていない。
(やっぱり来た。考え方じゃなくて、答えを取りに来た)
矢口里奈は、人の不幸の匂いがすると寄っていく。
ただし、慰めるためではない。
この人がいる限り、私はマシに見える。
この人を横に置いておけば、私はいつでもまともな側に立てる。
そういう計算が、ごく自然な習性として身についていた。
希は、比較対象としては最適だった。
仕事は遅い。
空気は読めない。
感謝も薄い。
それでいて、ある種の被害者ポジションだけは手放さない。
近くにいればいるほど、自分がよく見える。
そして、適度に情報をいじれば、周囲からも、希はちょっと……ね。
でも里奈ちゃんはしっかりしてるよねと言われる。
そんな位置取りを、里奈は無意識に選び続けていた。
「とりあえず、さ。」
里奈は、あえてため息をつかなかった。
代わりに、少しだけ肩をすくめる。
「彼氏みたいな安心感とか、彼氏って単語が出てくるところは、まず全部謝ったほうがいいよね。営業担当として、不適切な表現だったって。」
「え?そこまですんの?」
「そこまで、だよ。奥さんからしたら、浮気相手みたいに見えたんだから。希のつもりがどうであれ、事実として、そう読める文章を送ったの。」
里奈はゆっくりと言葉を選んだ。
あくまで正論として聞こえるように。
「それと、怒らせたくなかったからって理由も捨てたほうがいいよね。それ、理由じゃなくて言い訳だから。」
「じゃあ、どう書けば…?」
「それ、自分で考えろって言われたんじゃなかったっけ?」
にこりと笑って、里奈は突き放す。
しかし、その笑顔はどこまでも丁寧だった。
「私が考えたら朝倉課長はすぐ見抜くよ?」
「そうかもね。」
希は小さくうなずき、画面に向き直った。
カーソルが、また点滅を再開する。
しかし、頭の中に浮かぶのは、やはり「どうしよう」だけだった。
未来の不安がスクリーンを埋め尽くし、現実の文字が一行も生まれない。
時間だけが溶けていく。
里奈は、自分の仕事に戻ったふりをしながら、その様子をちらちらと眺めていた。
(やっぱりね)
予想どおりだった。
希は、「自分で考える」という行為そのものを、長いことしてこなかった。
黙っていれば、誰かが状況を整理してくれる。
泣きそうな顔をしていれば、誰かが代わりに答えを出してくれる。
わからないと言えば、誰かが説明してくれる。
そのパターンを繰り返すうちに、脳の「思考の筋肉」は見る影もなく萎えていた。
何も持ち上げられない。
文字ひとつ、打ち出せない。
「あの、さ。やっぱり私、悪くないよ。」
突然、希がぽつりと漏らした。
「え?」
「だってさ、後藤さんだって、奥さんとうまくいってないって言ってたし。そういう雰囲気、あっちからも出してたし。」
里奈は、心の中で「出た」と呟いた。
(自分から思わせぶりに行っておいて、最後は相手も悪いで割りきろうとするやつ)
「う〜ん。...で?」
「だから、その…。私だけ責められるのって、ちょっと納得いかないなって」
「ふーん」
里奈の「ふーん」は、さっきより温度が低かった。
「でもさ、今、朝倉課長に求めてるのって、誰がどれくらい悪いかの割り勘じゃないでしょ。どうやって会社として収めるかって話でしょ。」
希は黙る。
やはり何も考えていない沈黙。
普通なら自分でもう一度文章を見直そうとする。
それでも苦しくて、机の下で拳を握りしめたりする。
しかし希の顔は、どこか他人事。
自分の話を、自分以外の誰かのエピソードとして眺めている。
そんな距離感。
「里奈〜。今日仕事終わったら飲み行かない?」
その言葉に、里奈は内心で笑いそうになった。
だが、表情には出さない。
(この状況でそれ?)
「今そんなこと言ってる余裕ないよね?他人事として捉えてるの?それとも現実逃避?」
里奈は、さらりと言った。
「希がちゃんと考えようとするなら、いくらでも力になるよ。でも、現実逃避の言い訳を言ってるなら、私、もう無理だよ。」
「…」
「とりあえずさ、午後二時までに一行も書けてなかったら、もうそれは考えているとは言わないからね。」
時計の針は、じりじりと進んでいた。
―――
午後二時。
希の画面は、まだ真っ白だった。
カーソルだけが、相変わらず無邪気に点滅している。
「マジか」
里奈は思わず小声でつぶやいた。
「どうしよう…。時間、過ぎちゃった笑」
(え?なんで笑ってんの?こわ!)
「知ってるよ。一緒の島にいるんだから」
「うわー!怒るよねー。」
「誰が?」
「朝倉係長。笑」
「怒るんじゃない? 普通に。」
里奈は、淡々と言い切った。
(この人、完全に開き直ってんじゃん)
「一文字も書いてませんって、普通にナメてるでしょ。」
「な、なめてないよ〜。本当に、考えてたんだもん。ずっと。」
「それ、どうしようって思ってただけでしょ。それ、考えるって言わないよ。」
希の喉が、きゅっと鳴った。
図星だった。
それでも、彼女はすぐに反射で言い返してしまう。
「でも…。考えようとしてたんだよ。私、文章苦手だし…。ちゃんとしなきゃって思うと、余計に手が止まるっていうか…。」
里奈は、天井を仰ぎそうになるのをこらえた。
「またそれか」と。
そう言っている間、自分の書いたLINEを見直すこともできない。
相手の奥さんの気持ちを想像することもない。
ひたすら、「自分が今、どれくらい苦しいか」だけを見つめている。
「ねえ希。」
「ん?」
「ありがとうって、最近誰かに言った?」
希は目を瞬いた。
「え?」
「朝倉係長に相談乗ってもらって、ありがとうって言った?」
「どうだろ?」
記憶を辿ろうとして、すぐに諦めた。
あのとき、何を言ったかほとんど覚えていない。
ただ、怒らせないように、嫌われないように、恥をかかないように。
それだけを意識していた。
「私さ、ずっと思ってたんだよね」
里奈は、視線を希から外さなかった。
「希って、人を動かすのはうまいのに、ありがとうは言わないんだなって」
「そんなことないよ。」
「あるよ。助けてくださいも、どうしようも、私、ダメでも、傷ついてても、全部、私のために動けって意味になってるの、気づいてる?」
「そこまで、ひどく言う?」
「うん。今は、そこまで言わないと届かないと思ったから。」
里奈の声色は、いつもと変わらない。
しかし、その奥には、うっすらとした苛立ちと、飽きが混ざっていた。
「ありがとうって恥ずかしいって前に言ってたよね、希。」
「うん」
「でも、面倒なことは誰かにやってもらうのは恥ずかしくないんだ?」
希の喉が、再び鳴った。
言葉が連続で喉に詰まり、呼吸だけが浅くなる。
「ねえ、里奈…。私のこと、嫌いになった?」
その問いに、里奈は一秒だけ目を伏せた。
表情から感情を抜く、その一秒だ。
「ううん。嫌いって感情を持つほど、もう近くにいたくないかな。」
さらりと落とされた言葉は、ナイフより冷たかった。
「どういう意味?」
「簡単だよ。これ以上一緒にいると、私まで同じ種類の人間に見られるから。」
希の息が止まった。
「だから、もう無理。ここまで来て、恥ずかしいからありがとう言えないって人と、一緒に仕事はできない。たぶん、私がここで頑張っても、希は何も変わらない。」
それは、宣告だった。
「あなたを見捨てます」という、明確な宣告。
しかし、里奈の口調はやっぱり静かで丁寧だ。
まるで、仕事の引き継ぎでもしているかのように。
「ちょっと行ってくるね」
「ど、どこに…?」
「二課。朝倉課長のところ。もちろん状況説明。社会人として報連相は必須なのわかるよね?」
希は椅子から立ち上がりかけた。
「待ってよ!そんなの告げ口じゃん。」
「安心して。告げ口じゃなくて、報告だから。」
里奈は、にこりと笑った。
「これもう、私一人じゃ抱えきれないもん。人事的にも、コンプラ的にも。」
言い終えると、彼女は席を立った。
軽い足取りで島を出ていく。
残された希は、真っ白な画面と、点滅するカーソルと向き合ったまま、ひとり取り残された。
――――
営業第二課のフロアへと向かう廊下。
矢口里奈は、スマホをポケットにしまいながら歩いていた。
指先には、さっきまで希のLINE画面をスクロールしていた感触が残っている。
そこに写っていたのは、ひとりの若い社員の無自覚な爆弾処理だけではない。
怒らせたくない。
嫌われたくない。
傷つきたくない。
恥をかきたくない。
そのために、人の感情を過剰に撫で回し、境界線を溶かしていく言葉たち。
その結果、自分も相手も、どこまで踏み込んでいいのかわからなくなっていく。
(こういうの、放っておくと会社ごと燃えるんだよ)
里奈は、ドアの前で立ち止まり、小さく息を吐いた。
私はただの社員。
でも、ただの社員でもわかるラインがある。
そのラインを越えたら、もう私の手には負えない。
だから、バトンを渡しに来た。
この会社で唯一、ズルさと甘えを論破して黙らせる男のもとへ。
ノックの音が、第二課の静寂を叩いた。
「失礼します。営業三課の矢口です。朝倉課長、少しお時間よろしいでしょうか?」
里奈の声は、いつも以上に丁寧で、静謐だった。
しかし、その奥にはわずかな期待があった。
さあ、スーパー上司さん。
今度は、どんなふうに、この甘えを切り裂いてくれるの?
彼女の好奇心が、静かに笑っていた。




