【Season2】 腐敗したウィッグ業界を斬る!
午後七時五十七分。
春の湿った風が新宿の摩天楼をすり抜け、夜の帳がビルの谷間を流れていた。
光が多い街ほど、闇は濃くなる。
朝倉修平はそう思った。
ASAホールディングスのロゴが遠くにかすみ、目の前にはホテル併設のラウンジ「ヴェルサイユ・クラウド」。
最上階近く、照明を落とした個室には、二人分の影が静かに揺れていた。
ひとりは朝倉修平。
もうひとりは、高坂沙織。
都内で複数のラウンジ、ガールズバー、そして近年は美容系サロンまで展開する女社長だ。
「朝倉さん!課長昇進おめでとう!」
「ありがとうございます。これも高坂社長のおかげです。」
「あの、ね。また、朝倉さんの力を貸してほしいの。あなたしか頼れる人いないのよ〜。お願い!!」
「またまた〜。上手いな〜高坂社長。今の私があるのは昔も今も高坂社長のおかげなんです。私ができることなら、なんでも仰ってください。」
「あの、ね。私の新しいプロジェクトをどうか救ってほしいの。」
静かな声だった。
ジャズのリズムがグラスの氷を震わせる。
その響きの中で、彼女の言葉だけが異様な現実感を放っていた。
「あぁ!あのサロンですね?私に任せていただけなかった笑」
「意地悪言わないでよ笑」
「はは。すみません。で、いったい何が、起きているんですか?」
朝倉は、テーブルに置かれたグラスを静かに傾けた。
成功と苦労の両方を知り尽くし、男社会を生き抜いてきた高坂。
しかし、今はその顔にわずかな疲れが滲み、指先が震えていた。
「実は今、いちばん誇りにしている事業、シークレット・ヴェールはウィッグ専門のサロンなの。」
「ウィッグ、ですか。」
「ええ。ただの美容室じゃないわ。薄毛や抗がん治療で髪を失った人、脱毛症、心の傷を抱える人たちが、もう一度、日常を取り戻すための場所。髪を纏う鎧を届ける。そういう意味を込めて作ったブランドなの。」
彼女の言葉に、朝倉の視線がわずかに揺れた。
鎧という言葉。
それは、彼女がいつも口にしてきた生き残るための装いという哲学に通じていた。
自分を守るのは、肩書きでも金でもなく、信念と誇り。
その象徴が髪なのだと、彼女は何度も語っていた。
「最初の十店舗までは順調だった。口コミも良く、スタッフの質も高かった。でも、二十店舗を超えたあたりから、全部が狂い始めたの。」
「例えば?」
「人よ。教育が追いつかないの。私は現場を見なくなった。忙しすぎて、店長たちに任せた。その上にエリアマネージャーを置いたけど、今度はその層が疲弊した。報告は上がるけど、現実とは乖離している。どの店舗も形だけの数字で動いていて、空気が死んでるの。」
高坂はバッグから封筒を取り出し、テーブルに置いた。
封印シールに「法務部転送済」と印字されている。
彼女の指が震えていた。
「これは、通常のクレーム報告じゃないの。法務経由の二次被害報告書よ。」
朝倉は静かに封を切った。
白い紙に、手書きのような文字で並ぶ苦情の数々。
「ウィッグが不自然すぎて、外に出られない。」
「スタッフに似合ってますと嘘をつかれ、泣きながら帰った。」
「髪を取り戻すために来たのに、余計に病人扱いされた気がした。」
文末には「もう誰も信じられません」という一文があった。
朝倉は、紙をそっと伏せた。
その手に、わずかに怒りの気配が宿った。
「これは、技術ではなく倫理の崩壊ですね。」
「そう。きれいにするはずの場所で、人を傷つけることが起きている。そんなの、あっていいわけないじゃない。」
沈黙。
その重さが、部屋の空気を変えた。
窓の外、都庁のネオンが遠くで瞬いている。
朝倉はその光を見つめたまま、静かに口を開いた。
「灯を思い出しますね。」
高坂がわずかに笑った。
笑みというより、苦笑に近い。
「また、同じことを繰り返してるのかもしれない。灯の時もそうだった。派閥、裏切り、そして倫理の崩壊。救ってくれたのは、あなたよ。」
朝倉は視線を戻した。
かつて『灯 -AKARI-』を再建したとき、彼がやったことは単純だった。
人を裁かず、構造を裁いた。
組織が人を歪ませる。その構造を再設計すれば、人も変わる。
それが、彼の流儀。
「高坂社長。シークレット・ヴェールの理念は素晴らしい。しかし、理念を支えるのは共感力です。ウィッグを買いに来るお客さまは、商品ではなく希望を買いに来ています。その希望を扱う人間が、倫理を欠けば、それは詐欺に近い...。」
「詐欺、ね...。」
「ええ。善意の皮を被った暴力です。」
高坂は、長い沈黙のあとでうなずいた。
目の奥が濡れていたが、それを拭おうとはしなかった。
彼女の中で、経営者としての矜持がまだ消えていないことを、朝倉は感じ取った。
「私、どうすればいいと思う?」
その問いに、朝倉は即答しなかった。
代わりに、報告書を閉じ、指先で軽く叩いた。
まるでリズムを取るように、冷静な声で言う。
「構造を見直すことから始めましょう。店舗数の拡大で教育の質が下がりました。教育を支える仕組みが、理念を支えられなくなったんです。つまり、システムの倫理を設計し直す必要があります。」
「システムの倫理?」
「はい。倫理は、人の性格ではなく構造の設計で守るものです。現場の怠慢は個人の問題に見えますが、根本は管理構造の疲労。今の『シークレット・ヴェール』には、店長層の上にエリアマネージャーがいて、その上にあなたがいる。その多層構造が、報告の歪みを生んでいる。問題は、見えていない部分にあるんです。」
高坂は息をのんだ。
その言葉が、今の自分の盲点を突いていることを悟ったのだろう。
「やっぱり、あなたね。 あの時もそうだった。灯が沈みかけた夜も、あなたは同じ顔で言ったわ。『誰かを責めるより、仕組みを変えろ』ってね。」
朝倉の表情は動かない。
しかし、その沈黙こそが答えだった。
「わかったわ。現場を見て来てくれない?私の誇りを汚したものが何なのか、あなたの目で確かめて。」
「承知しました。ただし、一つ条件があります。」
「条件?」
「信じるという言葉を、現場で一切使わないこと。信じているという言葉は、確認を怠る口実になる。経営者が信じていると言い出した時点で、現場は腐りますから。」
高坂の瞳がわずかに動いた。
それは、鋭い一言に刺された時の表情だった。
しかし、彼女は何も言い返さなかった。
「ふふ。あなたって、ほんとに嫌な人ね。」
「仕事ですから。」
二人の間に、小さな笑いが生まれた。
それは戦友のような、緊張の中のわずかな救いだった。
「では、お願いね。今回は一店舗じゃないの。二十店舗全部よ。店長も、エリアマネージャーも、全員に会ってほしいの。このブランド全体を再生させましょう。」
朝倉は、ゆっくりと頷いた。
「わかりました。構造を治すには、全体を見なければなりません。ひとつの店を救っても、上層が腐っていれば、また同じことが起きる。今回は根治の仕事ですね。」
「根治。いい言葉ね。」
高坂の微笑みが、再び自信を取り戻した女性のそれに変わっていった。
朝倉は軽く頭を下げ、グラスを置いた。
「では、明日の午前。新宿店から始めましょう。順に、全エリアを見て回ります。」
「ええ。 現場の空気、きっと感じると思うわ。美しさを扱う場所が、どれほど醜くなっているかを。」
ラウンジを出ると、夜風が頬を撫でた。
街のざわめきが戻り、車のライトが交差点を照らす。
その光が、まるで無数の鎧のように見えた。
人は誰もが何かを纏い、何かを隠して生きている。
朝倉のその瞳には、すでに戦う者の光が宿っていた。
―――
数日後。
午前八時を少し過ぎた頃、ASAホールディングス営業第二課の会議室は、まだ夜の静けさを引きずっていた。
照明の光が冷たく、書類の上でだけ白く輝いている。
朝倉修平は腕時計を見て、七瀬裕也が現れるのを待った。
ドアが開く。
七瀬が現れた。徹夜明けの顔をしているが、その目は冴えていた。
彼の手には、小さな録音機と封筒。
「潜入、終わりました。」
声は掠れている。
朝倉は頷き、無言で椅子を勧めた。
「シークレット・ヴェール新宿店。午後一時から五時。担当は野口美咲。二十代半ば。技術的な問題もありますが、本質は言葉にありました。」
七瀬はメモを取り出す。
「客の不安を慣れで片づける。今日だけの特典、即日対応、絶対バレない。どれも契約を急がせるための決まり文句です。 生え際が不自然でも、ライトを強くして誤魔化してました。『自然ですよ、誰にも気づかれません』って。でも家の照明で見たら、境目が一発でわかる始末です。」
社員の一人が苦い顔をする。
朝倉は七瀬を見た。
「ウィッグの製品自体は?」
「悪くありません。問題は、扱う人間の方です。彼らは自分を美容師だと名乗りますが、髪や頭皮のことをほとんど理解していません。他メーカーのウィッグの会社を転々とする人間ばかりのようです。他メーカーでクビになったというより、同じような業界を行ったり来たりしてる。そこでしか生きる場所がないのでしょう。そして、そんな人たちが新人を教えるんです。結果、現場はどんどん濁っていく。」
朝倉はメモに赤線を引いた。
「なるほど、再生不能な教育構造か。」
「はい。まともなセンスや志のある人は、今も美容室や理容室で働いてます。でも、ここにいるのは、そこに戻れない人たち。彼らは『お客様のため』なんて口では言うけど、日々技術を磨くことなんてしません。いくら商品がオーダーメイドでも、技術がなければその価値は消えます。頭皮を診る目もなければ、髪の知識もない。それでプロを名乗っているんです。まったく、あきれますよ。」
朝倉はペンを止めた。
「人材の流れも歪んでる、と?」
七瀬はうなずいた。
「人が足りないから、新人採用は専門学生が中心です。美容師免許を取る予定がある、または勉強中というだけで雇われる。だからシャンプーもまともにできない。カットも染めるのも当然できない。クレームの大半はここにあります。」
「つまり、未熟な現場に未熟を教える構造?」
「その通りです。店長でさえ技術に自信がない。だからクレームが来ると、お客様を問題客に仕立てるんです。もう来ないでくださいと。そして全店舗に情報が回る。結果、声を上げた顧客だけが排除される。」
朝倉は小さく息を吸った。
「顧客満足どころか、自己防衛の連鎖だな。」
「はい。お客様ファーストなんて、存在してません。」
室内に重い沈黙が落ちた。
朝倉は立ち上がり、七瀬の肩を軽く叩いた。
「ありがとう。これで方向が見えた。」
―――
昼。
シークレット・ヴェール新宿店。
ガラス扉の向こう、白い花とシャンデリア。
しかし、どこか湿った匂いが漂っている。
清潔なのに息苦しい。
朝倉は、静かなフロアを歩きながら言った。
「清潔と誠実は違うな。」
奥の店長室。
狭い空間に、書類と備品が乱雑に積まれている。
その中央に、安斎拓海が座っていた。
「朝倉さん…七瀬さんですね?お待ちしておりました。」
「報告は読んだね?」
朝倉の声は平坦だった。
安斎はうなずく。
「全部、本当です。いや、まだ甘いくらいです。」
「続けてください。」
安斎は一瞬迷い、壁の時計を見た。
秒針が音もなく進んでいく。
「原因は三つ、あります。」
「はい。」
「まず、歩合給です。高額な報酬を与えれば努力すると思ったんです。でも違ったんですよ。彼らは売上に関係しない仕事を切り捨てるようになりました。お客様の話を聞くことも、安心させる言葉も、全部、時間の無駄という意識に変わっていきました。結局、金が鏡になってしまった。」
「二つ目は?」
「個室です。本来はプライバシー保護のための構造でした。でも、誰にも見られない空間は、怠け者には天国です。彼らは、同じようなウィッグ店を転々としながら食いつないでいます。もう、美容師や理容師として現場に戻る道はない。だから、ここに居座る。そんな人たちが新人を教えるんです。
技術も倫理も伝えられない。新人は客の恐怖を利用するやり方に味を占めてしまいました。」
安斎は苦く笑った。
「これじゃあ、腐る一方です。」
「三つ目は?」
「即日対応という嘘。スタッフのシフト的に、そんな対応はできません。でも、やりますと言わないと評価が下がる。
だから嘘をつく。そして、それを注意すれば、数字を下げるつもりですか?とエリアマネージャーに怒られる。お客様を守ることより、KPIを守ることの方が大事になってしまったんです。」
朝倉は黙って聞いていた。
七瀬がペンを止める。
そのタイミングで、ドアがノックされた。
「失礼します。」
声の主は、灰色のスーツ姿の男。
エリアマネージャー、蒲原将司だった。
薄く笑っているが、目の奥は凍っている。
「あなた、朝倉さんですね?勝手に困ります!覆面調査?やりすぎですよ。スタッフも頑張ってますし、多少の営業トークなんてどこでもあるでしょう。」
朝倉は視線を動かさずに言った。
「あなたが今月のKPIを設定しましたね。三件に一件をフルか増毛に?」
「ええ。上からの方針です。売上を維持しないと雇用が守れませんからね。」
「それで何人の客が、トラウマとなり外に出られなくなったかわかります?」
蒲原は鼻で笑った。
「理想論ですね。現実を見てください。客の気持ちまで背負ってたら、誰も営業なんてできませんよ。」
七瀬が堪えきれずに言った。
「でも、その現実のせいで、人がトラウマを抱えて鏡を見られなくなるんですよ?」
蒲原の口元が歪んだ。
「君、若いね〜。理想で給料はもらえないんだよ。」
「理想じゃないでしょ、センシティブな人の問題ですよ。」
七瀬の声が震えた。
朝倉は椅子を引き、静かに立ち上がった。
「蒲原さん。あなたの評価基準は今日で終わりです。これからは売上ではなく、顧客満足度で見ます。」
蒲原が目を細める。
「そんなもん、数字にならない。」
「数字にできないものを数字にするのが、管理職の仕事です。わかりますよね?」
静寂。
蒲原は短く笑い、背を向けた。
「理想で会社が回るなら、誰も苦労しませんよ。」
ドアが閉まる。
部屋の空気がやっと動いた。
七瀬は深く息を吐いた。
「本当に、どうしようもない業界ですね...。」
安斎が立ち上がり、深く頭を下げた。
七瀬は静かにその姿を見ていた。
朝倉は窓際に歩き、外を見た。
午後の陽射しが高層ビルの隙間を縫い、街のガラス壁を照らしている。
「この街の光は、罪を隠すには眩しすぎるな。」
その言葉に、二人は黙って頷いた。
新宿店の空気が、ようやくわずかに動いた。
―――
午後七時。
新宿の街に夜の帳が落ちる頃、ビル最上階のラウンジに高坂沙織の姿があった。
昼間の喧騒を忘れたような静けさ。
窓の外に、街の光が流れていく。
向かいの席に、朝倉修平が座っていた。
七瀬は少し離れたソファに控え、資料を束ねている。
「現場の調査は、すべて終わりました。」
「どうだったの?」
「結論から言います。あなたの誇りだったはずの全店は、完全に麻痺しています。保身に走るスタッフ、責任を避ける店長達、数字しか見ないエリアマネージャー。それが現実です。」
高坂の表情が強ばる。
「そんな…でも、私はちゃんと教育も...。」
「教育ではなく、命令になっていたんです。」
朝倉の声が少し低くなる。
「誰もあなたを信じて動いていない。指示を守れば怒られないというルールで動いているだけです。」
沈黙が落ちた。
高坂は唇を噛んだ。
七瀬が静かに資料を差し出す。
クレーム報告書、覆面調査、顧客アンケート。
どの紙にも、スタッフの怠慢、即日対応の虚偽、担当変更を拒否の文字が並ぶ。
「想像はしていたわ。」
高坂の声がかすれた。
「設備は素晴らしい。空間設計も配慮が行き届いている。安心を形にするという高坂社長の理念は正しい。しかし、問題は中身です。オリジナリティがない。他メーカーの成功事例を真似ただけの仕組み。理念が模倣の鎧に変わっています。」
高坂が顔を上げた。
「模倣の鎧ですって?」
「高坂社長が安心を与えようとして作った設備や制度は、他社のコピーに過ぎないんです。心が宿っていない。」
静かな言葉だったが、鋭く胸に刺さる。
高坂は黙ってグラスの水を飲んだ。
その手がわずかに震えていた。
朝倉はファイルを閉じ、身を乗り出した。
「高坂社長、対策の提案をします。」
「聞かせて。」
「まず、バレないウィッグという幻想を終わらせましょう。」
高坂の眉が動いた。
「終わらせる?」
「そうです。バレない商品など存在しません。ウィッグは、バレるものだと、最初から公表するんです。その上で、バレにくいように自然で、自信を失わないための方法を、アドバイザーと顧客が一緒に作り上げる。そのシステムを構築するんです。」
七瀬が静かに補足した。
「顧客の不安を共に共有する。アドバイザーが寄り添い、何通りもの方法で、お客様の予算に合わせた商品を提案し自然に見せる。それが本当の安心だと思います。」
「バレることを認める?そんな商売、成り立つの?」
高坂の声には、わずかな恐れが混じっていた。
「むしろ信用が生まれます。」
朝倉の答えは即答だった。
「誠実な企業だと受け取られる。アドバイザーへの信頼が上がれば、顧客は心強い味方を得たと感じる。結果的にリピートも紹介も増える。ネットの評価も自然に上がるでしょう。
安心を売るのではなく、作る。それが対面販売の本質です。」
高坂は、じっと彼を見つめた。
その目に、少しだけ光が戻っていた。
「続けて。」
「次に、人材の見直しです。」
朝倉は資料をめくる。
「いまの採用は、安く雇える学生やバイト感覚の美容師が中心。これでは、何も変わりません。これからは、プロを採るべきです。」
「プロ?」
「個人のヘアメイクアーティスト、産後で現場に戻れない美容師、主婦でも確かな技術を持つ人。社会保障のない妻を養えない美容師。休みが欲しい美容師。そういう人材を引き抜く。給与を上げ、環境を整える。その代わり、結果を顧客満足度で評価する。リピート率、紹介件数、再来店時の笑顔。数字ではなく、信頼をインセンティブに変えるんです。」
朝倉は続けた。
「そして、社員を守る仕組みを作る。家族や大切な人を守れない職場に未来はない。どんなライフスタイルになっても、
アドバイザーを会社の仲間として守る体制をつくること。守られている社員は、必ずお客様を守ります。それが本当の顧客満足に繋がります。」
七瀬がうなずく。
「今のアドバイザーには、外部の講師を雇って、業務後に二時間は技術研修を設けるべきです。技術が伴わなければ客前には出せません。ただ、シャンプーなど補助業務はできるはずです。円滑なコミュニケーションのための営業教育は、僕が担当します。」
高坂の目が七瀬に向く。
その若い瞳の奥に、真剣な光が宿っていた。
「それから...。」
朝倉が静かに言葉を継いだ。
「若い世代へのアプローチです。最近は、二十代でも薄毛に悩む人が増えています。そうした若い顧客にも、ヘアライフを諦めさせない仕組みをつくる。髪を隠すためではなく、楽しむためのウィッグとして発信する。増毛システムも良いが、価格が高すぎる。だからこそ、美容室で扱っているシールや編み込みタイプのヘアエクステも採用するべきです。将来の顧客を今から育てることが、最も確実な投資です。」
高坂は少し笑みを見せた。
「あなた、本当に現場を見てきた人なのね。」
朝倉は表情を変えずに答える。
「現場にあるのは、人の生活です。数字じゃない。」
高坂はゆっくりと頷き、グラスを置いた。
「続けて。」
「最後に、韓国の植毛専門医と提携します。植毛を、ウィッグと並ぶもう一つの選択肢にするんです。アドバイザーがアテンドとして同行し、韓国で施術を受ける顧客を支え、その後も心や髪の相談に寄り添う。施術の有無を超えてパートナーであることが大事です。提携美容外科と専属契約を結び、
多機能型サロンとして新たな信頼を築きましょう。」
高坂が目を見開いた。
「植毛まで?」
「ええ。逃げ場ではなく選択肢を増やすんです。それが、次の『シークレット・ヴェール』の形です。」
ラウンジの静けさの中で、高坂は長く息を吐いた。
ワイングラスの中の赤が、わずかに揺れる。
その反射が、彼女の瞳に映った。
「あなたって人は、本当にすごい人ね。」
「それでは、再建の計画書を三日でまとめます。」
高坂は、静かに微笑んだ。
「あなたの言葉、少し怖いけど、不思議と安心するのよね。安心を作るって、こういうことなのかもね。」
朝倉は短く会釈した。
七瀬がファイルをまとめ、立ち上がる。
窓の外には、夜の街。
新宿のネオンが雨上がりのアスファルトを照らし、
その光が、まるで新しい始まりを予感させるように揺れていた。
「夜は明るすぎるくらいがいい。嘘が隠れられなくなる。」
朝倉の言葉に、高坂は小さく笑った。
「その光、うちの店にも取り込みたいわ。」
静かな夜の中で、再生の第一歩が始まった。
―――
午前十時。
ASAホールディングス本社・第一会議室。
ガラス越しに冷たい朝の光が長机を切り分ける。
そこに全店舗からやって来た社員達が座っていた。
ため息が連なり、スマホの画面が机の上で小さく光る。
蒲原将司は相変わらず腕を組み、皮肉めいた微笑を浮かべていた。
入口の影に、高坂沙織が控えている。
彼女は会場には入らず、扉の傍で静かに様子をうかがっていた。
依頼主としての立ち位置だ。
聞く者として、見守る者として。
ドアが静かに閉まる。
場内のざわめきが一瞬だけ減る。
朝倉修平は、黒いノートを片手に、肩肘張らずに立っていた。
「始めます。」
朝倉の声は低い。
会場は無音にならないが、確実に耳を傾けさせる力を持っていた。
「ここにいるあなた方に顧客の声を読んでもらいます。私達がリサーチした本当の顧客の声です。人が傷ついた記録は見逃せません。今日はそれを、あなたがた自身の耳で聞いてください。」
七瀬に合図を送ると、机の上のファイルをめくり、数枚の紙を取り出した。
そこには、実名こそ伏せてあるが、赤字で強調された短い行が印刷されている。
七瀬が一つ目を読み上げる。
内容は生々しい。
「『鏡の前で泣きました。誰にもわかってもらえないと思った。店を出てからというもの、照明が全部怖くなった。子どもの授業参観に行けない』」
小さなグスッという音が出る。
誰だか分からない泣き声だ。
しかし、会場の空気が変わる。
スマホを下に置く者、視線を落とす者。
無頓着だった冗談が、急に薄く感じられる。
七瀬は続ける。
「『即日対応しますと言われたのに対応してくれない。電話しても折り返しなし。店を頼れなくなり、半年前から外出を控えています』」
次の一行が、さらに重い。
「『担当が言った。慣れですって。泣きながら言った私に、そう言った。帰されてから鏡の前で本当に泣いた。二度とこの店には行けない』」
誰かが短く、嗚咽を漏らす。
言い逃れようのない言葉が硬い会議室の床に落ちる。
「まだあります」七瀬が紙をめくる。
「『クレームを言ったら、全店舗で問題客と共有され、どの店でも断られた。相談したはずが、居場所を奪われた』」
その瞬間、会場の一角で小さなざわめきが走る。
誰かが眉をひそめ、目を逸らす。
「最後に一つ」七瀬が言った。声が震える。
「『完全オーダーをうたっているのに、既製品の寄せ集めを売られた。家の照明で見たら境目が分かる。説明は慣れと特典だけだった』」
会場の机が微かに軋む。
蒲原の表情が硬くなる。
彼が袖で口元を覆うようにして、短く言い放った。
「そんな顧客の声なんて、どこの会社でもあることだろ。ここで大げさに...」
朝倉は蒲原を見るが、詰問する様子はない。
むしろ冷徹に、事実だけを向ける。
「ネット上の声だろうと生の声だろうと、痛みは痛みです。あなた方の店名が関係しようがしまいが、そこにあるのは『人が泣いた』という事実。あなた方は、顧客の心の苦しみに、知らないうちに圧をかけ、脅してきた。それに気づいていないんですか?」
会場の誰も、すぐには答えられない。
朝倉は、顧客の側になって問いを続ける。
「想像してみてください。誰にもバレたくなくて、ようやく勇気をふりしぼり来店され、頼ってこられたお客様を。『ここならわかってくれる』と思って来たのに、『慣れろ』と放り出され、排除され、居場所を奪われた。逆らえば、他店でも嫌がらせを受けるかもしれない。雰囲気で黙らされる。それは立派な脅しです。君らはそれを、まだ業務だと言えますか?」
一人の女が、手で顔を覆った。
小さな息が漏れる。
胸の奥で何かが崩れる音だ。
言い訳の盾が、静かに壊れていく。
「技術を磨くことも、客のニーズを理解しようとすることもしてこなかった。気づかないのではない。気づかないふりをしてきたんです。あなた達は、ずっと『都合のいい現場』を維持するために目を閉じてきたんです!」
場内に、黙り込む音だけが広がる。
誰かが鼻をすする。
人は、自分がしてきたことの本質に露わになったとき、たいていまず沈黙する。
七瀬が、もう一度顧客の言葉を読む。
「『帰ってから鏡を見て、どうしようもなくなった。私の居場所が消えた』と。この帰ってからが一番重いんです。ウィッグをつけて外に出てからが生活の始まりなのに、あなた達は、つけたら終わりにするような対応をしてきていた。ほんとうにありえない行為です。」
それに対して、最初に反発した若い男が顔をあげる。
「でも、忙しいんです。シフトはカツカツだし。急に言われても対応できませんよ。」
「わかります。」
朝倉は即答する。
「忙しいのは事実でしょう。人手不足も事実。しかし、忙しいが無責任の言い訳になるのか?答えはノーです。忙しいときこそ、どう手を回すかがプロの腕の見せどころじゃないですか?。誰かに電話をかけさせる。別の店と連携する。アテンドを立てる。やり方は多々あるでしょう?でも、やる気がなければ、あなたの主張は言い訳という解釈で終わるます。」
言い訳をしようとしていた数人の肩が縮む。
朝倉は声を落として断言する。
「これは仕事の問題ではありません。人に対する態度の問題です。ウィッグを売るだけなら自動販売機で十分。しかし
君らは、誰かの生きる場を扱っている。今日ここにいるあなた方は、その重さを背負ってますか?背負えるなら、まず自分のしてきたことを悔い、謝罪してください。顧客の前で謝るのは間違いじゃない。むしろ誇りです。」
数人の目が光り、静かに涙が落ちる。
謝罪の言葉が、まず口先でなく、身体から出てくる。
「申し訳ありませんでした。」
それは小さな声だったが、会議室に確かに響いた。
いくつかの「すみません」が続いて、やがて本来なら無かったはずの「後悔」が広がっていった。
彼らは自分たちが押し付けてきた圧の重さを、紙の上ではなく、肌で感じている。
高坂は扉の影から一歩前に出る。
顔は紅潮し、目に涙を溜めていた。
「あなたたちを守るために、私はお金も時間も出す覚悟です。でも、まずはお客様に謝ること。人を追い出したこと、黙らせたことを謝りなさい。お客様が私たちを信じて頼ってくださったことを、絶対に忘れないで欲しいの。」
場内のいくつかの胸がまた震える。
謝罪は続く。
声にならない息遣いが会議室を満たす。
蒲原は腕を組んだまま黙っている。
彼の頬に、表情の硬さが走るが、口は固い。
朝倉は最後に静かに言う。
「後悔はリセットではありません。行動に変えなければ嘘になります。明日からの行動を変えていきましょう。技術を学ぶんです。顧客の生活に寄り添うんです。居場所を奪ってしまった顧客に戻ってきてもらいなさい。後悔はそこで生かされるんです。わかりましたね?」
「はい。」
声はやがて力を取り戻す。
泣き顔のいくつかが、決意に変わっていく。
会議室の空気は、あの冷たさから、少し濃度を変えた。
涙と悔恨の湿り気が、言葉を実行へと押し出すように。
会議室の片隅で、蒲原が小さくつぶやく。
「これで本当に済むのか?」
しかし、その声は自分への問いかけに聞こえた。
扉の外で、高坂は息を吐く。
彼女の肩が、わずかに下がる。
朝倉は立ち上がり、静かに締める。
「今日は謝罪と後悔の記念の日です。顧客の生活は、店の営業時間で終わりませんよ。そこを忘れないでください。」
―――
翌日・午後一時。
高坂のオフィス。
高坂沙織、朝倉修平、記録係として七瀬裕也、そして法務の担当者。
向かいに座らせたのは、三人。
新宿店長・安斎拓海。
担当スタイリスト・野口美咲。
エリアマネージャー・蒲原将司。
ほかの店長たちはオンライン接続で待機している。
壁の時計が、一分を二分に感じさせる沈黙を刻む。
最初に口を開いたのは高坂。
「まず、経営者としてお詫びします。私の判断ややり方が、結果的にお客さまの居場所を奪ってしまいました。でも今日は、その罪をただ責めるために集まったわけじゃありません。会社として責任を果たすことと、それぞれが、どう向き合うかの責任を、ここで分けて考えます。立て直しの中で守りたいのは、誠実にやり直そうとする人だけです。もしも今のやり方に居直るつもりなら…ここで降りてください。甘えや逃げでは、お客さまの信頼は取り戻せません。」
法務が淡々と議事の目的を読み上げる。
①「問題客」共有運用の即時廃止・顧客への謝罪
②「即日対応」等の虚偽表示撤去、
③店舗と個人の処分、
④是正計画の確定。
「……私、安斎は新宿店の店長として、責任を取ります。『問題客』の共有も、面倒な客を排除する空気も、すべて私が止められませんでした。本当は怖かったんです。お客さまの声に正面から向き合って、店の過ちを認めたら、スタッフが辞めていくんじゃないか、店が崩れるんじゃないか…。そう思っていました。だから、逃げました。結果として、守るべき人を追い出した。弱さを理由に、人を傷つけました。本当に申し訳ありませんでした。」
高坂は頷くが、情に流さない。
「謝罪はスタートです。処分を伝えます。」
処分1:安斎拓海(新宿・店長)
・店長職を即時解任。三ヶ月の降格(顧客回復チーム)。
・給与一時減額(規定範囲内)。
・謝罪同行の担当に指名。過去三ヶ月の苦情顧客へ全件訪問、検証灯下での再調整・返金判断を現場で実施。
・再登用条件:外出可率の改善、担当変更時の満足度80%以上。
安斎は深く、頭を下げる。
七瀬が記録し、次に視線を野口へ移す。
彼女は顔を上げられず、指先だけが震えている。
「『慣れです』『絶対バレません』『今日だけの特典』あの言葉がどれほど人を傷つけるか、わかっていませんでした。本当に、愚かでした。申し訳ありませんでした。」
処分2:野口美咲(新宿・スタイリスト)
・30日間の現場停止。復帰条件として夜二時間×四週の技術研修(外部講師)と対話実習の修了。
・復帰後三ヶ月は客前での単独担当を禁止。シャンプー・準備・観察・記録に専念し、謝罪同行に同席。
・禁止語違反(絶対/全く/今日だけ/即日対応)再違反で配置転換。
野口は嗚咽をこらえ、頷く。
そして、視線は蒲原へ。
彼は椅子にもたれ、組んだ腕をほどかない。
「ずいぶんと感情的ですね。涙で会社を回すのはやめましょう。『三件に一件』の件は、上の指針です。私個人の独断ではない。現実に必要なKPIです。」
朝倉は淡々と返す。
「数字を追うのは悪いことじゃありません。でも、その数字を何のために追っているのかを考えなければ意味がない。売上を伸ばすためにスタッフを無理に動かすのか。それとも、スタッフやお客様を守るために数字の力を使うのか。あなたが立っているのは、どちらの現実ですか?」
高坂が口を開く。
「蒲原さん、処分を伝えます。」
◇ 処分3:蒲原将司
・職務停止(30日)および査問委員会付託。
・三件に一件のKPI強要・虚偽表示黙認・苦情の店舗横断排除の実態調査。
・調査中はエリア権限を凍結。代行は別任命。
・復帰条件:KPIを再来時の外出可率・紹介率・継続率へ全面切替し、店長・現場の合意を得た評価表へ改定。
・不誠実な指示が再発した場合は解任相当。
蒲原の笑いが消えた。
「社長。そこまでやる必要が?人が辞めますよ!」
「残ってほしいのは、誠実な人だけです。」
高坂の声は穏やかだった。
穏やかだが、撤回の余地はない。
「私はこの会社を、もう一度、人が誇れる場所に戻します。そのために、給料も、休みも、研修も、全部整えます。でも嘘はやめてください。弱い人の声を黙らせるのも、もう終わりにします。ここで働く意味を、私たちの手で取り戻しましょう。」
法務が次の議題を告げる。
是正措置だ。
もう処罰だけの日では終わらせない。
◆ 是正1:「問題客」リストの全削除と謝罪
・システム上のタグ・共有メモを即時廃止。バックアップも削除。
・該当顧客へ謝罪連絡+無償再調整or返金の選択肢を提示。
・店長が表に立ち、顔を出して謝ること。メールで済ませない。
◆ 是正2:「即日対応」等の表現撤去
・HP、予約サイト、店内POPから当該文言を24時間以内に削除。
・代替表現は「一緒に最適な方法を探します」。
・検証灯常設・色見本・テンプレート携行を明文化。
◆ 是正3:評価の切替
・束数・単価→外出可率 恐怖温度の変化 紹介率へ。
・週例で七瀬が巡回し、会話実地の録音・文字起こしでフィードバック。
・教育の柱は「言葉で追い詰めない」「選択肢を一緒に作る」。
◆ 是正4:謝罪同行と「ミラー・デイ」
・全店で月一回「ミラー・デイ」開催。検証灯下での無料調整会。
・バレるものであることを前提に、バレにくい生活導線を共に組み立てる。
・若年層向けにシール/編み込みエクステの導入、価格階段の設定。
◆ 是正5:選択肢の拡張
・韓国の植毛専門医と提携交渉を開始。アドバイザーは渡航アテンドと術前後の伴走を担う。
・「隠す」のみでなく「増やす」「楽しむ」を並行提示できる体制へ。
読み上げの最中、画面の向こうの店長たちが、次々と息をのむ。
誰も言葉を挟まない。
彼らは気づいたのだ。
これが罰ではなく、やり直すための最後のチャンスなのだと。
楽ではない。
だが、その分だけ、やる意味がある。
その空気が、無言のまま全員に伝わっていく。
「異議は?」と法務。
沈黙。
やがて安斎が手を挙げる。
「ミラー・デイ、先頭切らせてください。」
野口も顔を上げる。
「謝罪同行、全部すべて行かせてください。」
画面の幾つかの小窓でも、同様の声が上がる。
蒲原だけが黙っている。
視線は落ちたままだ。
朝倉は、最後に自分の役割を確認する。
「計画を三十・六十・九十日の三段に分けて出します。
三十日:禁止語撤去、タグ削除、謝罪同行開始、検証灯全設置。
六十日:評価指標の完全切替、夜二時間研修の仕組み化、若年層導線立ち上げ。
九十日:再診・再会の物語を作る。外に出られた人の声を、次の人の勇気に変える。
私は命令しません。提出し、測り、支えます。決めて動くのは、あなた方です。」
高坂が立ち上がり、深く礼をした。
「私は、この会社で働くみんなを守ります。でも、守られて当たり前と思う人は、守れません。守られるためには、まず、お客さまを守ろうとする強さが必要です。ここは、弱さを隠す場所じゃない。お客さまのために強くなる場所にします。その強さを、私たちの誇りにしましょう。」
議事は淡々と締めくくられた。
処分通知にサインが入り、電子承認が走る。
紙が一枚、また一枚とカバンに収まる音がする。
軽い音だが、軽くはない。
退室のとき、蒲原が小さくつぶやいた。
「数字は裏切らない。最後に笑うのは、いつも数字だ。」
朝倉は立ち止まらない。
返事もしない。
高坂がだけ、振り向いて言った。
「ええ。だからこそ、数字に人の回復をちゃんと載せます。
もう売上だけの数字は見ません。あなたが本当に戻ってきたいなら救った人の数を、その手で見せてください。」
扉が閉まる。
廊下の先に、午後の光が細く伸びている。
七瀬が小走りで追いつき、息を整えた。
「やれるでしょうか?」
「やるんだよ。」
朝倉は短く言う。
「罪悪感じゃ、組織は立ち直らない。反省だけで変わるなら、誰も苦労しない。本当に変えるのは、仕組みだ。でもな、人を動かす燃料は、昨日の涙だ。あの涙を忘れなければ、結果は必ずついてくるはずだ。」
高坂が横に並ぶ。
「明日、謝罪同行に行ってみるわ。最初の一軒が、何より大事よね。」
三人は頷き合った。
新宿の空は低いが、風は変わっていた。
懲罰は終わりではない。
ここからが再建だ。
店の照明は、もう隠す光ではない。
暴く光が、いちばん優しい。
そう信じて、扉を開けた。
―――
半年が過ぎた。
ASA本社の営業第二課には、かつてのような焦りの気配はもうない。
机の上に散乱していた報告書は整理され、朝倉のデスクの上にはたった一冊のノートだけが残っている。
そのノートには、シークレット・ヴェールの再建計画のすべてが記されていた。
「顧客に誠実であること」
「数字は心の証明であること」
その原則を、彼らは半年間で形にした。
七瀬は週に三日、全国各地を巡回した。
講師を連れ、夜の技術研修を続け、若手の育成を怠らなかった。
やがて、スタッフたちの表情にかつての硬さはなくなり、代わりに責任を負う顔が増えていった。
シークレット・ヴェールは、「隠す美容」ではなく「共に生きる美容」を掲げ、広告を刷新。
「バレないウィッグ」ではなく、「自然に生きるためのデザイン」その言葉が評判を呼び、半年で業績は過去最高を記録した。
そして一年後。
シークレット・ヴェールは、全国五十店舗を展開する一大ブランドに成長していた。
競合他社が模倣しようとしても、根底にある顧客との信頼の仕組みだけは再現できなかった。
単なる商品販売ではなく、生活の伴走。
その理念が、業界の常識を塗り替えたのだ。
高坂沙織は、朝倉の前で報告書を閉じる。
静かに微笑み、右手を差し出した。
「約束どおり、ASAさんにすべて、仕入れなどを任せます。シークレット・ヴェールも、新しい灯火の新規店も。あなたたちがいなければ、ここまで来られなかったわ。本当にありがとう。」
「社長、それはあなたが現場と正面から向き合ったからですよ。」
朝倉はそう言いながらも、視線を横に向けた。
七瀬が、少し照れくさそうに立っている。
「社長、出来たら彼を今回の担当にして貰えませんか?」
「え?七瀬さんを?」
朝倉は頷く。
「私は課長として、全体を見るべき立場になりました。ただ、顧客にとって誰が課長かなんて関係ないのはわかります。必要なのは、信頼できる担当です。私は七瀬を、あなたの担当に据えたいんです。現場で学び、現場を信じて動く。彼には、私にはない柔軟さがあります。」
高坂は一瞬黙り、やがて頷いた。
「ええ、喜んで。あなたが選んだ人なら、間違いないわ。」
七瀬は、深々と頭を下げた。
「必ず、期待を超えてみせます。」
高坂は笑った。
「超える必要はないわよ。ただ、あの時あなたが読んだ、お客さまの声を忘れなければ、それでいいのよ。」
その瞬間、朝倉の胸の奥で何かがほどけた。
成績はもう関係ない。
だが顧客にとっては、結果だけが信頼の証だ。
そのために七瀬を連れてきた。
自分が築いてきたものを、次の世代の手で未来へと繋ぐために。
窓の外、夕陽が西の街を金色に染めていた。
ASAのガラス壁に、都会の光が反射している。
その光の向こうには、再生した五十の店舗と、再び灯る「灯火」の看板がある。
かつて崩れた信頼を取り戻し、今は信頼を売る会社として立つその姿は、朝倉の構造改革の答えそのものだった。
七瀬が小さく息を吐く。
「課長。私は、いつか、課長みたいになれますかね?」
朝倉は笑う。
「はは。なるなよ。私みたいな人間は、いつも孤独だ。でも、顧客に寄り添える人間にはなれ。そうすれば、君は私を越えるだろうな。」
七瀬はその言葉に小さく頷いた。
背筋を伸ばし、ASAのバッジを見下ろす。
光を受けて、その金色が少しだけ強く輝いた。
その一年後、社内表彰で名前が呼ばれたのは、七瀬裕也。
全国営業ランキング第1位。
壇上で七瀬は賞状を受けとり、深くお辞儀をした。
高坂沙織は拍手をしながら、静かに涙を拭った。
信頼という名の炎は、もう消えない。
「灯火」グループ新店、開店の日。
入口のガラスドアに、白い文字が貼られていた。
《完璧ではなく、正直であること。》
七瀬はその言葉を見つめ、深く息を吸った。
ドアを開ける。
そこには、新しい顧客たちの笑顔と、かつて涙を流した人たちの再会があった。
髪を纏う鎧は、もう隠すためのものではない。
生きるためのものになったのだ。
そしてその日、朝倉は窓の外からその光景を見つめていた。
微笑みながら、誰にも聞こえない声で呟く。
「これでいい。」
最も静かなその一言が、新しい時代の始まりを告げていた。




