【Season2】営業出向問題を斬る!
午後三時ちょうど。
ASAホールディングス本社・営業第二課。
時計の針が定刻を指した瞬間、朝倉修平は立ち上がった。
机に置いた「倫理教育再構築プロジェクト」の分厚いバインダーが、紙の重さで微かに沈む。
付箋が何本も突き刺さったその山は、彼に「戻ってこい」と囁くが、今日だけは聞こえないふりをする。
(子会社から自発的に呼ばれた、か...。ようやく、現場のほうから風が来たな。)
胸の内側がほんの少し、弾む。
会議での勝利でも、重役の承認でもない。
現場が自分の言葉を必要としてくれた、その事実が彼をウキウキさせる。
少年時代、初めて地図のない林道を自転車で走ったときの胸騒ぎ。
あの感じに近い。
彼は電車ではなく、自家用車のキーを取る。
速度よりも「匂い」と「手触り」を拾いたいからだ。
地下駐車場でエンジンが目を覚ますと、低い鼓動が背骨に伝わる。
首都高へ乗り、切れ目の多い雲を追いながら、東関東自動車道へ。
防音壁が流れ、倉庫群が低く連なり、看板のフォントが都心のそれから地方のそれへと、ほんの少し野太く変わっていく。
窓をほんの指二本ぶんだけ開けると、土の匂いが混じった風が頬を撫でた。
(高岩は元気にしてるかな?成長を見るのが楽しみだ。)
ハンドルの微細な振動に、土地のリズムが混ざる。
料金所を抜け、県境を越えるたび空気の粒が粗くなる。
視界の左隅に薄い鉛色の水面、手賀沼が現れた。水鳥がひと筋、低く滑る。
車を減速させると、ラジオの声より先に、遠くの踏切のベルが耳に入ってきた。
今日の目的は二つ。
ひとつは明日の講習を最大化するための「裸眼調査」。
もうひとつは、我孫子店に出向している元部下、高岩光春に会うことだ。
高岩。
泥臭さを厭わず、勝っても弛まず、負けても言い訳を探さない。
朝倉が新人だった頃から目をかけてきた、数少ない「営業の骨」を持つ男だ。
彼の日報はいつも整っていた。
KPI、先行指標、見込み、フォロー予定。
帳面は白と黒で美しい。
しかし、そこに「湿り気」がなかった。
商談の温度、顧客の満足度、同僚との関係。現場の匂いが希薄すぎる。
午後四時前。
店舗から百メートル離れたチェーン喫茶に車を滑り込ませ、ガラス越しに店を観察する。
低層のガラス張り。
青い千葉トバリ自動車のロゴが西日に薄く光る。
試乗車が三台、顧客の車が二台。
週末にしては静かだが、風の通りは素直。
こういう日に、現場の癖はよく出る。
店内に入らず、動線だけを読む。
営業は三名。
全員若い。
背筋はまっすぐ、姿勢は正解。
しかし、正確すぎる角度には、しばしば「他人の視線への過敏」が潜む。
ピットには二人。
工具の音は一定で、置き方に迷いがない。
店長席には四十代半ばの男、佐川龍一。
肩幅が広く、視線は常に四人の背中へ。
鼓舞のつもりの眼差しが、ときどき監視に見える。
元トップセールスの自負。
しかし、トップと店長は別の職能だ。
個の爆発力と、チームで再現させる力は、似て非なる。
営業三人の輪郭を素描する。
伊藤(二十六)。
最も姿勢が正しく、机は美術館のように整う。
吸収は速いが、他者の成果に静かな緊張を溜めやすい。
プライドは高いが、矯正すれば伸びる素材。
吾妻(二十六)。
椅子に浅く座り、スマホへ落ちる視線がやや多い。
中立の衣をまとい、いざという場面で半歩ひく。
傍観で自分の潔白を守るタイプは、現場で一番扱いが難しい。
大谷(二十四)。
最年少。
感情の露出が薄く、失点を恐れるがゆえに「平静」を演じる。
勉強はする。ただし賢く見せるほうに力が流れがち。
若さゆえの微かな見下しが、瞳の端に滲む。
ピット側、影山と川野。
工具の置き方が綺麗だ。
段取りが体に入っている。
営業とサービスの仲は、概ねどの店舗でも良くない。
ここも例外ではなさそうだが、初見の印象は「特段悪目立ちしない平均」。
だからこそ危うい。異常の多くは普通の顔に潜むもの。
―――
喫茶店に戻り、コーヒーを飲みながら待機。
扉が鳴り、高岩が入ってきた。
「課長!お久しぶりです!!」
声は明るく、笑顔は正解の位置にある。
しかし、眼の奥に薄い翳り。
千葉の秋の空みたいな、低い雲が張り付いている。
「元気そうだな。いや、元気そうに振る舞っているが正確かな?」
その瞬間、仮面が一枚、音もなく落ちた。
視線が泳ぎ、水滴のように涙が先に落ちる。
「す、すみません…。課長の顔を見たら、ほっとして…。」
彼は謝るように泣き、泣きながら謝った。
二年分の「書けなかった行間」が、言葉より先に零れる。
朝倉はティッシュを差し出し、急かさない。
沈黙は、真実の輪郭を自分で浮かせる。
数分後、鼻をすすり、高岩が話し始めた。
「配属初日から、出向者を見る空気がありました。君は三年でいなくなる人の枠で扱われる。前任の出向者が無理な約束で負債を残した、という出来事が原因のようです。」
担当エリアは、我孫子と柏の境目。
古い団地と農地が混じる、誰も行きたがらないエリア。
買い替えサイクルは長い。数字効率は悪い。
それでも彼は、月一の全顧客への調子伺い、家族の近況メモ、微細な不具合の先回り、任意保険とCPCの丁寧提案で、黙々と信頼を積んだ。
やがて数字は県内上位へ顔を出す。
しかし、上がるほど空気は冷たくなった。
「書類紛失の濡れ衣、私車セキュリティアラームへの嫌がらせ、納車前の新車がなぜか柿の木の下に…。夏の陽で樹脂がやられて、コーティングにシミがついてとれません…。」
言いながら、彼は一度目を閉じた。
まぶたの薄闇の中で、二年分の我慢がすれる音がした。
「サービスも『前と同じやつ』という目で見られます。店長は諦めるな、できないと言うなの一点張りで...。」
「わかった。十分受け取った。話してくれてありがとう。結論から言う。君は順番を間違えていない。本当によく頑張ったね。」
朝倉はハガキ大のメモを取り出し、話の内容を箇条に落としていく。
朝倉は、喉の奥で小さく笑った。
「実はね、明日は千葉トバリ本社にて講義をやるんだ。でも、テクニックの見世物はやらないつもりだ。明日やれる一点に絞ろうと思う。君は後ろで見てなさい。空気が切り替わる瞬間を、必ず記憶するんだ。」
「は、はい。」
会計を済ませ、店外に出る。
夕風が、駐車場の白線をかすめていく。
朝倉は千葉トバリ自動車の店舗を一度だけ振り返った。
あの店は、まだ何も知らない顔をしている。
しかし、明日、最初の一音を鳴らす。
ハンドルを握る手が、ほんのわずか熱い。
心は冷えているのに、どこかウキウキしている。
この矛盾は、自分が「現場に間に合った」証拠だ。
「我孫子店はまだたち直せる。」
―――
千葉トバリ自動車株式会社 本社講堂。
午前十時。
県内各支店の営業職、店長、サービス責任者。
二百名近い社員が座席を埋め尽くしていた。
ざわつく空気の中心に、白いスクリーンが立つ。
その中央に、黒字でたった一行。
『トップセールスとは何か』
講師:ASAホールディングス 営業第二課 課長 朝倉修平
講堂の空気が微妙に揺れる。
「親会社の人間が何を言う」
「理想論だろう」
そんな囁きが、後方から細く漂ってくる。
しかし、朝倉が壇上に姿を現した瞬間、その雑音は吸い込まれた。
黒のスーツに黒のノート。
マイクも資料も持たない。
ただ、真っ直ぐに立ち、両手を演台に置く。
「皆さん。おはようございます。」
声は低いのに、空気を貫く。
笑っていた者が次々と口を閉じ、静寂が講堂を包んだ。
「今日、私は売り方の話をしません。商品知識でも、トーク術でもありません。腐った空気の中でどう生きるかの話をしようと思います。」
ざわ…と、誰かが息を飲む。
朝倉の目は、すでに全員を見渡していた。
「君たちは成績を上げるコツを探していませんか?しかし、トップのセールスマンはテクニックではなく、営業倫理を大切にしています。」
一瞬、会場が息を止めた。
朝倉は一歩前へ出る。
「私は昨日、ある店舗に立寄りました。そこに、一人の社員に目が行きました。誠実だけを武器に働き続けていることが見てすぐにわかりました。しかし現場では驚くことに、彼は笑われ、孤立していたのです。理由はたったひとつ。正しいことをしすぎたからです。」
スクリーンに一枚の写真が映し出される。
柿の木の下。
薄く染みの残ったコンクリート。
「これは、納車を待つ新車です。誰かがわざとこの木の下に駐車していました。落ちた樹液が夏の陽射しに焼かれ、ボンネットのコーティングの焼跡が数カ所あるのがわります。誰も見ていない。誰も名乗らない。でも、全員が知っていた。」
後方で腕を組んでいた男の肩が、わずかに動く。
「契約書類の一部が消える。あの人が触っていたと誰かが主張。証拠はありません。しかしら空気が犯人を決めてしまう。」
低く静かな声。
なのに、誰も動けない。
「営業とは、人の心を扱う仕事です。だからこそ、私たちをつまずかせるのは顧客ではありません。原因はいつも、社内の怠惰です。努力する者を笑う空気。それが、現場の誠実を蝕む最大の障壁です。」
前列の男が手を上げた。
「朝倉さん、それは理想論ですよ。現場じゃ正論だけじゃ通用しません。」
朝倉は即座に切り返す。
「理想を笑う人を、私は責めません。努力しても裏切られることはある。報われない日が続けば、誰だって笑いたくもなる。でも、それでも諦めない人間が、最後に現場を変えるんです。正論は通用しないと口にするのは、可能性を諦めた合図だと思います。通用させる努力を、もう一度取り戻せばいいと私は願います。」
講堂が静まる。
朝倉はその男の目をまっすぐに見た。
「疲れる日も、やり切れない日もあると思います。しかし、どうせ無理だの一言。それは、やがて希望を殺すナイフとなります。言葉は現場の温度を変えるんです。数字より先に、空気が腐るのはそのせいだと思いませんか?。」
数人が息を飲んだ。
佐川店長が座っている。
彼の顔にも、薄い汗が滲んでいた。
「私は昨日見た、孤立しても誠実を貫いた社員は顧客の家を一軒ずつ回り、少しずつ信頼を取り戻していきました。誰も見ていなくても、彼はやめなかったんです。結果、県全域の営業成績でトップに立った。けれど、その瞬間、誰も拍手をしなかった。」
朝倉は少し間を置き、静かに言葉を落とした。
「誠実な者が報われない職場。それを地獄と呼ぶんです。そして、その地獄を作っているのは、悪意ある誰かじゃない。見て見ぬふりをした、私たち全員なんです。」
誰も息をしない。
「営業マンタイプには三種類に分類されます。
一、誠実に結果を出す者。
二、誠実を時間の無駄と笑う者。
三、誠実な者を鬱陶しいと感じる者。
会社を腐らせるのは、間違いなく三番目です。」
最後列で笑っていた者たちの顔が固まる。
「笑うのは自由です。しかし、笑っている君たちは、近い未来には笑われる側に必ずなるでしょう。努力を怠った者の末路はいつだって同じなんです。気づいた時には、置いていかれるんです。」
その一言で、講堂の空気が一変した。
誰も動けない。
朝倉の視線だけが、鋭く光を放っていた。
「お客様は、嘘を見抜きますよ。営業の目が濁れば、契約書も濁るんです。心が曇った営業に、数字はついて来ません。」
スクリーンが切り替わり、白地に一行だけ浮かぶ。
『誠実は、最も強い戦略である』
照明が少し落ち、朝倉は静かに語った。
「例にあげた社員は、誰にも理解されず、孤立しても、約束を守ろうとしていたんです。その姿を見て思いました。正しいことを信じ続ける人間が、会社を、現場を、人の心を繋ぎ止めているんだと。その涙は、数字では測れないでしょう。あれこそが本当の営業の誇りと言えるでしょう。」
誰も拍手をしない。
静寂。
その中で、朝倉はマイクを置き、背を向けた。
扉が閉まる瞬間、講堂全体が息を吐く。
冷たい重圧のあとに残ったのは、「何かが始まった」という、言葉にならないざわめき。
『誠実は、最も強い戦略である。』
その日を境に、千葉トバリ自動車の沈黙は、音を立てて崩れ始めた。
―――
千葉トバリ自動車株式会社 本社・会議室
午後一時。
朝倉修平の講義が終わっても、講堂にはまだ冷たい余韻が残っていた。
出席者たちは誰もが無言のまま席を立ち、名刺交換も談笑もなく、まるで何かの告別式から帰るように会議室を後にしていった。
控室。
朝倉は、コーヒーの冷めた香りの中で一人、講義の余熱を整理していた。
机の上には、数枚のメモ用紙。
そこには、講義中に拾った社員の反応が殴り書きされている。
理想論すぎる
営業は数字だ
倫理で飯は食えない
その中の一枚、裏面には走り書きでこうあった。
現場にいない人間が語る理想は軽い
朝倉は、唇の端で小さく笑った。
「軽い、か。なら、重さを見せてやろうかね。」
―――
千葉トバリ自動車株式会社 本社 第七会議室
翌朝九時。
千葉トバリ自動車本社の第七会議室。
長机がコの字に並べられ、十人の店長たちが静かに腰を下ろしていた。
全員、昨日の講義を聞いた者たちだ。
重たい空気が、湯気の消えたコーヒーの香りと混じって漂っていた。
その中央に、朝倉修平がいた。
腕時計を外し、ノートを閉じたまま机の上に置く。
彼は一言も発さず、全員が落ち着くのを待った。
その沈黙だけで、会議室の湿度が上がる。
沈黙を破ったのは、我孫子店の店長、佐川。
腕を組み、強がるように口を開く。
「朝倉さん、昨日の講義、立派でした。ただ、現場を知らない人が語るには、少々、精神論が過ぎる気がしましたね。」
朝倉は顔を上げた。
声を荒げず、ただ穏やかに問い返す。
「精神論ですか。そう感じたのなら、あなたの現場には言葉が届かない何かがあるのかもしれませんね。」
佐川の表情が硬くなる。
「現場ってのは理屈じゃ動かないんですよ。部下を抱えてると、理想だけじゃ回らないことも多いんです。」
朝倉は、少しだけ笑みを浮かべた。
「理屈じゃ動かない、ですか。私も、昔はそう思っていました。でも結局、理屈じゃ動かない現場ほど、誰かが心をしっかり持って立て直すしかないんです。理屈も制度も、人の信頼がなければ動きませんからね。」
会議室に静かな呼吸音だけが残る。
佐川は何かを言い返しかけたが、言葉を探せずに口を閉じた。
その沈黙を待って、朝倉はようやくノートを開いた。
「我孫子店。納車前の新車を柿の木の下に置いた。樹液でコーティングが焼けた件。誰も報告しなかった。いや、上げさせなかったが正しい。数字ばかり追う職場では、間違いを報告する勇気が死ぬ。それが、あの現場に起きていたことです。」
佐川の指が震えた。
「現場には現場の事情ってものがあるんですよ。わかって貰えないと思いますがね。」
「わかっています。」
朝倉の声は柔らかかった。
「でも、わかっているで終わらせていい問題じゃない。あの車には、お客様の期待が詰まっていた。またこの店で買いたいという信頼が、ほんの一滴の怠慢で失われたんです。」
会議室の空気がわずかに沈む。
誰も顔を上げようとしない。
朝倉は続けた。
「私は叱りに来たんじゃありません。責任を探しに来たわけでもない。救いに来たんです。」
佐川が小さく息を呑んだ。
「救い?」
「そうです。腐った職場は叱責では直らない。恥を思い出すことでしか、再生できないんです。」
朝倉は席を立ち、ゆっくりと部屋を歩いた。
十人の視線が、自然と下を向く。
「昨日、講堂で笑っていた者たち。理想論だと切り捨てた者たち。私は責めるつもりはありません。笑ったのは、疲れている証拠です。でも、見て見ぬふりをしたままでは、次の被害者を生みます。沈黙は中立ではない。現状維持という名の加担です。」
誰かの椅子が軋む音がした。
朝倉は、視線を前に戻し、ノートを閉じた。
「この話は、ここで終わりにしましょう。 次は、現場で本当の声を聞かせてください。」
そう言って軽く頭を下げると、朝倉はゆっくりと会議室を出ていった。
彼の背中がドアの向こうに消えるまで、誰一人、コーヒーに手を伸ばす者はいなかった。
―――
千葉トバリ自動車株式会社 我孫子店
翌朝七時半。
開店前の駐車場に、白い朝霧が漂っていた。
まだ誰もいないはずの敷地に、黒いセダンが静かに入ってくる。
エンジンが止まると同時に、鳥の鳴き声がひとつ。
朝倉修平はドアを開け、冷えた空気を肺に吸い込んだ。
(昨日の講義を理想論と笑った者たちに、今日現場で答えを出す)
腕時計を見た。
7時28分。開店まであと九十分。
現場の空気は、営業時間ではなく、この沈黙の中に現れる。
誰がどんな表情で出勤し、どんな一言から一日を始めるのか。
やがて、軽バンが一台入ってきた。
降りてきたのは、サービス部の影山と川野。
二人は、黒い車を見た瞬間に立ち止まる。
「お、おはようございます!」
「おはよう!出勤が早いな〜。」
「い、いえ…その…。」
影山の喉が鳴る。
朝倉は笑わず、低く言った。
「ところで昨日の納車車両はどこに置いたの?」
影山は目を逸らした。
「どうだったかな?整理の途中で把握しておりません。」
「整理? 納車予定車を放置してるのかい?」
答えない二人を残し、朝倉は裏手に回った。
薄く熟した柿の実が、いくつも地面に落ちている。
その真下に、ボディの新しい車。
白い塗膜に、樹液が細く筋を描いていた。
朝倉は指先でそれをなぞり、無言で言葉を絞り出す。
「この一滴が、どれほどの信頼を壊すか、想像したことはあるのか?」
影山も川野も、俯いたまま動けない。
「自然の汚れ」ではなく、「人の怠慢」だと、誰もが分かっている。
朝倉は手を拭いながら言った。
「君たちが黙っている限り、この会社は腐る。黙るというのは、許すと同義だ。」
八時半。
店内の照明が一つずつ点く。
朝の点呼を取ろうとした佐川店長の声が、入口の自動ドアの開閉音に遮られた。
「朝の点呼、私も聞かせてもらおうかな。」
朝倉の声だった。
その瞬間、店内の空気が凍る。
伊藤、吾妻、大谷。
三人の若手営業が背筋を伸ばしたまま硬直している。
佐川の顔には、張り付いた笑顔。
高岩はことの成り行きを見守っている。
「おはようございます。昨日はお疲れ様でした。」
「おはようございます。現場は朝から始まるものですからね。ぜひ、店舗を拝見してみたいと思い、こさせて頂きました。」
朝倉はカウンター越しに彼らを見た。
「君たちは、昨日の講義はどう感じた?勉強のために聞かせて欲しいな。」
誰も答えない。
「ん?何も感じなかったのか?」
伊藤が恐る恐る言葉を探す。
「立派なお話でした。ただ、僕ら現場では...」
「またそれか。」
朝倉の声が低くなる。
「そんな返答は現場では通用しないだろ。それは、努力を放棄した人間が使う免罪符だぞ。」
吾妻が苦笑いを浮かべ、肩をすくめる。
「でも朝倉さん、ノルマがありますから精神論じゃ…」
「倫理が精神論?違う。倫理は戦略だ。誠実に動く者は、長期的に必ず報われる。数字だけを見る営業は、一瞬の勝利に溺れて沈むことになる。」
大谷が腕を組む。
「でも結果がすべてですよ。契約取れなきゃ意味ないでしょう。」
朝倉は静かに近づき、目の高さを合わせた。
「君の言う意味とは、数字?上司の評価? それともお客様の信頼?どれを指すんだ?」
沈黙。
大谷の唇が震える。
朝倉は演台のようにデスクの前に立ち、声を落とした。
「数字を追うだけの人間は、数字に追われる奴隷になる。」
その言葉に、全員の表情が固まった。
店の中の空気が、音もなく張り詰めていく。
佐川が立ち上がり、割り込んだ。
「朝倉さん、部下たちのことは私の責任です。彼らなりに努力しているんです。結果が出ないのは、環境の問題です!」
「環境とは?」
朝倉が一歩前へ出る。
「環境は管理職が作るんです。君の言葉は、自分の責任を放棄する宣言だと思いませんか?」
佐川が声を荒げる。
「理想通りにはいかないんですよ!」
「理想通りにできないと口にした瞬間、理想から遠ざかります。佐川店長の発想が、出向者へのいじめを生んだんです。」
その一言で、佐川は黙った。
伊藤、吾妻、大谷も顔を伏せる。
ピットで工具が床に落ちた。
響いた音に、影山の手が震える。
「影山君、昨日の柿の木の下の車、誰が置いた?」
「…わかりません。」
「いい言葉だな、わからない。責任を取らない人間がよく使う言葉だ。」
影山の目に涙が滲む。
朝倉は声を少しだけ柔らかくした。
「気づいた者が止めることもできた。黙っていた者も同罪だ。」
その瞬間、我孫子店の空気が完全に止まった。
朝倉はゆっくりと息を吐き、静かに告げた。
「明日、全員を集めます。倫理の再構築を、体で理解してもらいます。」
言葉は冷たくも穏やかだった。
しかし、そこにはもう警告ではなく、宣告の響きがあった。
その夜、我孫子の風は重たかった。
街灯に照らされた店のガラスに、五人の影が映る。
沈黙がそれぞれの胸の奥で、不安と後悔を反芻していた。
翌日、この店に訪れる変化を、まだ誰も想像していなかった。
―――
千葉トバリ自動車株式会社 本社講堂
翌日。
午前十時、千葉トバリ本社講堂。
全営業所の代表者二百名が並ぶ。
壇上に立つのは、ASAホールディングス営業第二課課長――朝倉修平。
空調の風すら息を潜め、重たい沈黙が会場を満たしていた。
朝倉はマイクを持たず、ただ声だけで語り始めた。
「まず、言っておきます。この講義は数字の話をしません。人の話をしようと思います。」
その一言に、ざわめきが止む。
彼の眼差しは、ひとりひとりを正面から貫いていた。
「我々営業は、車だけを売っているわけではありません。『約束』も売っているんです。」
その言葉に、全員がわずかに息を呑む。
「納車とは、契約の終わりではなく、信頼の始まりです。家族が車を囲んで笑うその瞬間までが仕事です。しかし、その笑顔を奪った者達がいました。それは我孫子店で起きた納車損傷事件です。」
朝倉は、ゆっくりと一枚の写真を掲げた。
柿の木の下、ボンネットに樹液が垂れた新車。
「これは偶然じゃありません。故意に屋根のない場所へ移動させられた。お客様は、納車を家族で心待ちにしていた。その期待をある営業マンへの嫌がらせで壊したんです。この行為は犯罪です!」
講堂が凍りつく。
朝倉の声が一段低くなった。
「営業とは、お客様の時間を預かる仕事です。その時間を奪う行為は、人の心を殺すのと同じ。どんな理由であれ、顧客の信頼を傷つけた時点で、職業倫理は崩壊します。」
一番後ろの列から、小さな息の音。
朝倉は視線を巡らせ、ホワイトボードに三文字を書いた。
報告
連絡
相談
「報連相とは、形式ではありませんよ。信頼を繋ぐ命綱なんです! もしあの時、誰かが、おかしいと報告していれば、車も、信頼も、救えた。報連相を怠るというのは、責任を他人に押しつける行為です。」
前列の副店長が手を上げた。
「でも、上が動かなければ、何も変わりません。」
朝倉は間髪入れずに答える。
「だから、君からまず、動くんです。誰かの責任で何かを成し遂げようとはしないこと。上が動かないという言葉は、顧客の不幸を黙認してたことについての免罪符になりませんよ。報連相は命令系統じゃありません。お客様を守るための伝達なんです。」
講堂の空気が震える。
誰もが、自分の職場を思い浮かべていた。
報告をためらった瞬間。
違和感を飲み込んだ日。
それらの記憶が、胸の奥で痛みに変わる。
朝倉は続けた。
「ゴールは会社の数字ではありません。顧客の笑顔です。営業もサービスも清掃も、同じゴールを見ていなければならない。会社の都合で動かない!お客様の安心のために動いて欲しいんです!」
壇上の照明が、朝倉の額に薄い光を落とす。
「私はASAから来ましたが、今日は親会社の人間としてではなく、一人の営業として話しています。我孫子店の出来事は、この会社全体の問題です。 顧客の信頼を失うということは、ブランドの魂を失うということ。」
誰かのボールペンが落ちる音が、会場全体に響いた。
朝倉は、一歩前に出る。
「報連相は、上司のためでも、会社のためでもない。お客様の笑顔を守るためにあるんです。『迷惑をかけるかもしれない』と思った瞬間に、声を上げる勇気を持ってください。その一言が、会社を救うんです。」
静寂。
二百名の社員が一斉に立ち上がり、深く頭を下げた。
拍手はない。
この場は感謝ではなく、覚悟の場だった。
朝倉は壇を降り、出口へ向かう。
廊下に出ると、冷たい秋風が吹き抜けた。
ポケットの中に入れていた一枚の紙を取り出す。
それは高岩光春の日報の写し。
『納車延期、顧客対応済み。再施工完了。お客様は笑顔で「ありがとう」と言ってくれた。』
朝倉はその一文を見つめ、静かに呟いた。
「そうだ。ありがとうを言わせるために、俺たちは働いているんだ。」
千葉トバリ自動車本社の看板の下、
風がゆっくりと旗を揺らしていた。
それは、この会社が再生へ向かう最初の風だった。
―――
千葉トバリ自動車株式会社 本社・役員室
翌朝。
ガラス張りの社長室。
背を向けて窓の外を見つめるのは、千葉トバリ自動車の社長・有馬貴仁。
彼の机の上には、昨日の講義資料と「我孫子店納車損傷報告書」が置かれていた。
「おう、朝倉君。」
有馬は背を向けたまま口を開いた。
「昨日の講義、報告を受けたよ。評判は真っ二つだな。称賛と恐怖の両方だ。」
朝倉は一歩進み、まっすぐ立った。
「恐怖でも構いません。無関心よりは、よほど健全です。」
有馬はゆっくりと振り返った。
その眼差しには怒りと共に、わずかな安堵の色もあった。
「我孫子店の件は、一店舗の事故ではない。報連相の麻痺、倫理の形骸化、顧客軽視。組織全体の病だ。私は、これを社内犯罪として扱うことにしたよ。」
朝倉はうなずいた。
「ありがとうございます。私も同じ考えです。ですが、処罰ではなく再起を目的にして頂けますか?」
有馬は眉を上げた。
「再起?」
「はい。罰だけでは人は変わりません。恥を知った時、人は初めて動く。それをこの会社に植え付けたいんです。」
有馬は数秒沈黙し、机上の書類を一枚取り上げた。
そこには懲罰委員会通達案の文字。
「では、君に任せよう。処分を執行する権限を、全て委譲する。誰を罰し、誰を救うか判断は君に託すよ。」
朝倉の目が静かに光った。
「承知しました。有馬社長。必ず、この会社を立て直しましょう。」
―――
千葉トバリ自動車 本社会議室
一週間後。特別懲罰委員会。
朝倉修平が中央に座り、六人の社員を前に置いた。
佐川龍一店長。
営業の伊藤・吾妻・大谷。
サービスの影山・川野。
全員が俯いたまま座っている。
朝倉はゆっくりと口を開いた。
「私は君たちを責めに来たのではない。正すために来た。だが、正さねばならない現実がある。」
テーブルの上に置かれた書類。
有馬社長印の入った懲罰決定書。
朝倉はそれを読み上げた。
【懲罰決定】
佐川龍一(店長)
懲戒降格。
営業職への転属。
管理職資格の停止。
理由:部下の不正黙認および指導放棄。
伊藤・吾妻・大谷(営業)
懲戒停職一ヶ月。
復帰後、倫理研修および再教育課程受講。
理由:同僚への嫌がらせ、報連相の怠慢。
影山・川野
譴責処分。
整備部より異動。
理由:業務上不正の黙認および職務怠慢。
高岩光春(出向社員)
ASA本社へ栄転。
営業功労賞授与。
理由:困難な環境下での顧客信頼維持、および構造的問題の報告功績。
静まり返った会議室。
朝倉は書類を伏せ、ゆっくりと全員を見渡す。
「この処分は終わりでありません。始まりです。処分を受けて終わるなら、それは烙印。しかし、ここから変わるなら、それは証明になります。君たちは今日から、顧客の立場で自分を見直すこと。」
佐川は震える手で顔を覆った。
「申し訳ありませんでした。」
その声は、かつての威圧的なものではなく、一人の人間の声だった。
伊藤、吾妻、大谷も順に頭を下げ、涙を落とした。
影山と川野も、小さくうなずいた。
朝倉は言った。
「謝罪の言葉は顧客のものです。私に言っても無意味というものです。懲罰とは、人を切るためのものじゃありません。人を戻すためにあるのです。君たちがもう一度、顧客と向き合う日を、私は信じていますよ。」
その言葉に、有馬社長が席の後方で静かに立ち上がった。
「見事だ、朝倉君。 この件をもって、君を倫理教育再構築プロジェクトの責任者に任命する。」
朝倉は一礼した。
「ありがとうございます。必ず、正しい者が報われる会社を創ってみせます。」
有馬は微笑み、短く言った。
「期待してるよ。」
―――
千葉トバリ自動車株式会社 本社・応接室
懲罰委員会から数日後。
全ての処分が正式に発令され、社内には再出発の気配が満ちていた。
朝倉修平が応接室で最後の書類を閉じると、
静かなノック音が響いた。
「失礼します。朝倉課長。」
そこに立っていたのは、高岩光春。
スーツの袖には整備場の埃。
しかし、その顔には迷いがなかった。
朝倉は微笑み、言った。
「高岩君。君の名前が本社通達に載ったぞ。おめでとう!営業功労賞だ。ASAに戻る準備はもうできているのかい?」
高岩は一瞬うつむき、そして真っ直ぐに顔を上げた。
「課長。そのことでお願いがあってまいりました。」
「なんだ?どうしたんだ?」
「私を、あと残りの一年。千葉トバリ自動車株式会社にいさせて貰えないでしょうか?」
朝倉の眉がわずかに動いた。
「うむ。理由を聞こうか。」
高岩は深く息を吸い、はっきりと答えた。
「私は営業マンとして、お客様の信頼を裏切れません。二年でようやく掴んだ信頼を今手放したら、また出向者は逃げたと思われます。私は、お客様と我孫子のチームの信頼を守りたいんです。」
朝倉は静かに頷いた。
「君らしいな。ちょっと感動したよ。成長したな高岩君。」
朝倉はペンを取り、特別延長辞令を差し出す。
「これで正式に、あと一年。お客様の信頼を守る営業として、残れるよ。」
高岩は、受け取った紙を胸に抱き、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。必ず、お客様が選びたい店、そしてメーカーにします。」
朝倉は笑い、言った。
「楽しみにしてるぞ。応援してる。」
―――
我孫子店・翌朝
秋風の中、駐車場の白線が朝日に光る。
高岩は、そこに再び立っていた。
ピットから顔を出した影山が驚いたように声を上げる。
「高岩...戻ってきたんだ?」
「ええ。まだ約束が沢山、残ってますからね。」
影山は笑顔で頷き、作業に戻った。
店舗の奥で、店長職を降格された佐川が整備記録を書いている。
高岩はそっと声をかけた。
「佐川さん、私はもう一年ここで営業をやります。沢山のお客様が笑うその日まで。」
佐川はペンを止め、ゆっくりと顔を上げた。
「そうか。なら、俺も一緒にやり直す。」
高岩は頷き、空を見上げた。
手賀沼の方角から、柔らかな風。
それは、あの日納車を待っていた家族の笑顔が再び吹かせた風のようだった。
営業とは、モノを売ることだけではない。
人と人との約束を守り続けることこそが鍵なのだ。
高岩光春は歩き出した。
その足音の先には、まだ数え切れないありがとうが待っていた。




