【Season2】精神科医を斬る!
ASAホールディングス営業第二課の夜は、時計の針が21時を過ぎてもなお明かりを失わない。
ガラス張りのフロアの向こう、都会の明滅する光が反射して、まるで街そのものが監視者のようにこちらを覗き込んでいた。
課長・朝倉修平は、残業する社員たちのざわめきを背に、ひとりデスクに残った。
彼の机の上には、二つの報告書が重ねられている。
一つは「営業報告書の整合性欠如」。
もう一つは「業務時間外アクセス記録」。
どちらにも、同じ名前が記されていた。
中村加奈子。
朝倉はページをめくり、眉間にわずかにシワを寄せた。
報告書の端には、総務部による補足文が赤字で記されている。
「対象社員は精神科に通院中。睡眠導入剤の服用により、深夜の行動は無意識下である可能性が高い。 産業医・桐生慎一の診断書添付済。」
その一文を見た瞬間、朝倉の喉の奥に苦いものがこみ上げた。
病気...。
その言葉が、組織を腐らせる免罪符に変わるのを、彼は何度も見てきた。
デスク横のブラインド越しに、オフィスの夜景が映る。
光の粒が無数の誰かの言い訳のように、無機質に瞬いていた。
「また境界案件か…。」
呟きは冷たく、しかしどこか自嘲を含んでいた。
―――
翌朝、会議室の扉が静かに開いた。
「課長、おはようございます。」
入ってきたのは、産業医・桐生慎一。
白衣ではなくスーツ姿。
桐生は嘱託産業医であり、同時にASAホールディングスが契約するメンタルクリニック「桐生メンタルサポート」の主治医でもある。
診断書と意見書の両方を会社へ提出できる、やや特異な立場にあった。
眼鏡の奥に浮かぶ瞳は柔らかく、どこか善人を演じるような笑みを絶やさない。
「昨日の件でご報告に上がりました。中村加奈子さんの件です。」
朝倉はコーヒーを一口飲んだあと、黙って彼を促した。
「彼女は精神的なストレスがかなり強く、睡眠導入剤、サイレースを処方しています。副作用で、無意識の行動や記憶の断絶が見られる場合もあります。したがって、深夜のアクセスログや報告書の不備については、病状による可能性が高いと判断します。」
「ん?つまり、責任は問えないと?」
「ええ。医師の立場から見ても、彼女を追及することは、症状を悪化させるリスクが高いと思われます。」
朝倉は、資料を閉じた。
そして、ゆっくりと顔を上げる。
「桐生先生。あなたの優しさが、彼女を壊しているかもしれないと思ったことは?」
「え?」
「薬を出す前に、原因を断つ努力をしていますか?まさか、組織で生きる人間のストレスを、薬で帳消しにできると思ってはいませんよね?」
桐生は一瞬、口を閉じた。
「彼女は、自分の行動を薬のせいにしています。しかし、その背景には、金銭の問題、職場の信頼関係の欠如、そして...依存にあると私は考えます。それをあなたが医師の権威で守っている状況だと思いませんか?」
「課長、それは言い過ぎでは?」
「私は事実を言っているだけです。」
会議室に、緊張が張りつめた。
桐生は小さく咳払いし、書類を整えた。
「彼女は今も通院中です。会社としても、安全配慮義務があるはずですよね?」
「ですね。しかし、安全とは組織の崩壊を黙認することではありませんよ?その違いは分かりますね?」
朝倉の視線が、冷たく彼を射抜いた。
―――
その日の午後。
営業フロアでは、小さな異変が起きていた。
「黒崎主任、また財布から千円札がなくなったらしいですよ。」
「えっ? 昨日もじゃなかった?」
噂は瞬く間に広がる。
しかし誰もが口を閉ざした。
誰もが、おおよその犯人を知っていた。
しかし、その名前を出すことは、社内でタブーになっていた。
中村加奈子。
彼女は、黒崎にとって守るべき後輩。
仕事でミスをすれば庇い、提出が遅れれば「繊細だから」と笑って許した。
それが、朝倉の言う組織を腐らせる優しさ。
朝倉は、その構造を冷静に観察していた。
加奈子が黒崎に依存し、黒崎が彼女の弱さを正義と錯覚する。
その共依存が、部署全体をじわじわと侵食していく。
まるでウイルスのように。
―――
数日後、朝倉は非公式の報告書を受け取った。
差出人は総務課の社員。
そこには短く、こう記されていた。
「営業部にて、小額窃盗が頻発。被害者は複数。防犯カメラ要確認。」
添付されたメモの中には、被害一覧があった。
黒崎学主任:千円札2枚
経理・鈴木:図書カード1枚
営業・大島:五千円札1枚
朝倉は、ペン先でメモを叩いた。
黒崎、鈴木、大島。
どれも、加奈子の身近な相手。
彼女が「好意的に接してくれる人」ばかりだ。
盗みの動機は金ではない。
承認だった。
「盗むことが、関係を確かめる手段になっている…か。」
彼は静かに呟いた。
―――
午後、オフィスの静寂を破るように電話が鳴る。
表示には「桐生 慎一」。
「課長、例の件で少しご相談が。」
「なんでしょう。」
「中村さん、薬の調整を行いました。サイレースを増量しています。眠りが浅いようなので。」
「増量? あの状態で?」
「ええ。ただし医療的には安全な範囲です。本人の希望もありまして。」
朝倉は電話を握る手に力を込めた。
「先生、あなたは本当に彼女を見ているんですか? それとも、彼女の言葉だけを見ているんですか?」
「どういう意味ですか?」
「依存の本質は、助けを求める演技にあります。その演技を見抜けない医者は、彼女に間違った逃げ道を与えるだけですよ。」
電話の向こうで、沈黙が落ちた。
やがて、桐生の硬い声が返ってくる。
「課長。私は医師です。感情ではなくデータで判断しています。」
「え?データですって?あなたは精神科医であり感情をケアする仕事ですよね?」
「なら、あなたのデータを見せてください。彼女がどの薬を、いつ、どれだけ処方されたのか。そして、その結果どんな行動をとったのか。治療の名のもとに、彼女が破壊した現実の記録を。」
桐生は息を呑む音を立てた。
そして、無言のまま電話を切った。
―――
夜。
オフィスの照明が一斉に落ちた後、朝倉はひとり残っていた。
窓際に立ち、都会の灯を見下ろす。
デスクの隅には、加奈子の報告書と、桐生の診断書が並んでいる。
その並びはまるで共犯関係の証拠のようだった。
「病気と薬。どちらも逃げる場所にしてしまったら、もう人間は戻れない。」
その呟きは、誰に聞かせるでもなく、夜に溶けていった。
朝倉の脳裏に浮かぶのは、組織の中で蔓延する配慮という病。
見て見ぬふりを正義と呼ぶ上司。
責任を薬に預ける社員。
そして、その全てを黙認する医師。
「構造汚染…。」
その言葉を呟いたとき、朝倉の目は、獲物を捉える捕食者のように鋭く光った。
彼はゆっくりと椅子に戻り、ノートに一行を書き込んだ。
【中村加奈子:倫理汚染の兆候。桐生医師との連動要調査】
その文字の下で、ペン先が止まった。
これは、ひとりの社員の病気ではない。
組織そのものの病だ。
そして彼は静かに立ち上がり、照明を落とした。
闇の中で、デスクの上の二つの書類だけが、蛍光灯の残光を受けて光っていた。
その瞬間、朝倉修平の中で構造解体のスイッチが入った。
―――
金曜の午後六時。
ASAホールディングス本社のロビーは、退勤ラッシュの社員でざわめいていた。
だが、そのざわめきの中を、ひとりだけ逆方向に進む男がいた。
産業医・桐生慎一。
白衣を脱いだ姿は、医師というよりもビジネスマンに近い。
手に提げた黒いレザーのブリーフケース。
その中には、数十人分の社員カルテと処方履歴。
そして会社が守るための盾が入っていた。
「桐生先生、今夜も遅くまでご苦労さまです。」
受付の女性が声をかける。
桐生は、にこやかに微笑んで軽く頭を下げた。
その笑顔には、何一つ乱れがない。
だが、誰も知らない。
その笑顔の裏で、彼がいくつもの沈黙を買ってきたことを。
―――
一方そのころ。
営業第二課の奥、課長室。
朝倉修平は、古いタイプのノートパソコンを開いていた。
画面には、ひとつのフォルダ名が点滅している。
その閲覧は、社長決裁によって設けられた「内部倫理監査タスク」の正式権限によるもの。
朝倉は監査室立会いのもと、閲覧記録を残しながら作業を進めていた。
「医療報告書:桐生慎一」
総務部の非公式ルートから入手した内部共有データ。
社員の体調報告、薬剤処方履歴、診断メモ。
通常なら人事以外が閲覧できない極秘データだった。
朝倉は、指先でスクロールした。
そこに並んでいたのは、加奈子を含む約20名の社員の名前。
《サイレース》《デパス》《マイスリー》《リボトリール》
同系統の薬が連続して処方されている。
処方量、通院間隔、効果報告。
そのどれもが、同一テンプレートで記載されていた。
まるで、コピー&ペーストのように。
「同じ文章、同じ病名、同じ理由...。これは診療じゃない。まったく...これじゃあ、生産工場だ。」
朝倉は低く呟いた。
桐生の診断書には
「精神的ストレスに配慮を要す」
「職場環境の改善が必要」
という言葉が必ず添えられている。
しかし、それは彼が社員を守った証ではなく、会社が社員の不正を庇う口実だった。
「医師が書き、会社が利用する。それを安全配慮と呼ぶのか?」
彼はノートを閉じ、深く息を吐いた。
これは病ではない。
制度を悪用した倫理の取引だ。
―――
土曜の夜。
新宿・歌舞伎町の奥、雑居ビルの3階にあるホストクラブ「EPISODE」。
シャンパンタワーの光が乱反射し、
笑い声と音楽が混ざるその中に、中村加奈子の姿があった。
化粧は濃く、口紅は深紅。
職場の姿とは別人だった。
彼女の左手首には、高級ブランドのブレスレット。
だが、それは彼女の給料では到底買えない代物だ。
「加奈子ちゃん、今日も来てくれたんだ。」
ホスト・涼が笑顔でグラスを差し出す。
その瞬間、加奈子の表情がゆるむ。
そこに、会社では見せない幸福の残骸があった。
「ねえ、涼くん。私って、変なのかな。」
「なにが?」
「昼は真面目に働いてるのに、夜になると全部どうでもよくなるの。」
「みんなそうだよ。昼の顔と夜の顔、どっちも本当なんだって。」
加奈子は笑いながら、テーブルに置かれたサイレースの薬を指で転がした。
「これ飲むとね、全部消えるの。」
「大丈夫なの、それ?」
「平気。先生がくれるんだもん。会社の先生だよ?」
涼が一瞬、言葉を失った。
しかし、加奈子は気づかない。
グラスの底を覗き込みながら、ぼんやりと笑っていた。
―――
翌週月曜の朝。
営業第二課では、小さな騒ぎが起きていた。
「黒崎主任が体調崩して休むって。」
「え、また? 最近多いね。」
「昨日まで元気だったのに。」
朝倉は、フロアの声を聞きながら静かに立ち上がった。
黒崎のデスクに近づくと、引き出しの鍵が開いている。
中には、空の財布と、薄い紙片が一枚。
《やっぱり、彼女を信じた俺が馬鹿だった》
朝倉は、唇の裏を噛んだ。
想定どおりだった。
だが、ここで動くわけにはいかない。
黒崎が倒れた理由は単純だった。
信じていた人間に裏切られたからだ。
ここ数週間、黒崎は加奈子を庇い続けていた。
報告書の不備も、取引先への遅延も、すべて自分の責任として処理していた。
「彼女は繊細なんです。」
「無理をさせないでください。」
そう言うたびに、周囲の視線は冷たくなっていった。
先週の金曜、黒崎は昼休みに自分の財布が空になっていることに気づいた。
それでも、彼は何も言わなかった。
「彼女がそんなことをするはずがない。」
そう信じたかった。
しかし翌日、机の上に小さな封筒が置かれていた。
中には、加奈子の筆跡で書かれた一枚のメモ。
「ごめんなさい。どうしても必要だったの。」
その瞬間、黒崎の中で何かが音を立てて崩れた。
怒りでも、悲しみでもない。
信じるという行為そのものが、無意味に思えた瞬間。
それから彼は食事をとらず、ほとんど眠れなくなる。
社内では「黒崎さん、少しおかしい」と囁かれ、上司のすすめで産業医・桐生のカウンセリングを受けることになった。
面談室で、桐生は優しく微笑んだ。
「眠れないのはストレスのせいです。薬を飲めば、すぐに楽になりますよ。」
彼が手渡したのは、サイレースとデパス。
強い睡眠導入剤と抗不安薬だった。
黒崎は、渡されたままの量を飲んだ。
初日は深く眠れた。
だが、翌朝、頭の中は鉛のように重く、言葉が出なかった。
それでも不安に思った黒崎に桐生は言った。
「効いてる証拠です。もう少し続けましょう。」
三日後、黒崎は業務中に突然、笑い出した。
何もおかしくない場面で。
同僚たちは凍りつき、誰も声をかけられなかった。
その夜、彼は自宅で倒れた。
診断は薬物による意識混濁。
会社には体調不良とだけ伝えられた。
朝倉は、開いたままの引き出しを静かに閉めた。
優しさが毒になる。
そして今度は、医者の配慮が追い打ちをかけた。
善人が、構造に二度殺される。
それが、今この会社で起きている現実だった。
彼の目的は、罪を摘発することではなく、構造を暴くことだ。
善人が犠牲になる構造を。
―――
昼休み。
本社カフェテリア。
ガラス越しの陽射しがまぶしい中、桐生が誰かと話している。
その相手は人事部の課長、坂本。
「先生、今回も診断書ありがとうございます。助かりますよ。」
「いえいえ、こちらこそ。上層部の判断が早いので助かってます。」
「うつ傾向って文言、やっぱり効きますね。あれ入ってると、法務も何も言えなくなる。」
「はは、企業防衛の基本ですよ。無理な人に無理をさせない。ただ、その裏では少し守りすぎてる気もしますけどね。」
「守りすぎ? どういう意味です?」
桐生は笑って言葉を濁した。
しかし、隣のテーブルから、その会話を聞いていた者がいた。
朝倉修平。
彼はコーヒーを飲み干し、立ち上がると二人の前に歩み寄った。
「いい話をされてますね、先生。」
「か、課長。」
「守りすぎとはつまり、社員の不正も守っているという意味で間違いないですか?」
「い、いや、そういうつもりじゃ...。」
「あなたが診断書で配慮と書いた社員のうち、何人がその翌月に問題行動を起こしているか、知っていますか?」
桐生は固まる。
「私はすべて知っていますよ。」
人事課長の坂本が、慌てて話を逸らそうとした。
「まあまあ課長、ここは...。」
「坂本さん。あなたも同罪ですよ。病気の社員を守るという言葉の下で、倫理の崩壊を放置してきた。守るべきは人ではなく、まずは原則であるべきです。」
桐生の表情から血の気が引いた。
「あなた、どこまで知っているんです?」
「十分すぎるほどに知ってますよ。」
朝倉はそう言い残し、その場を去った。
しかし、その瞬間から桐生の心には恐怖が芽生えていた。
彼が築き上げた診断による支配構造を、朝倉は嗅ぎつけていたのだ。
―――
同日夕方。
総務の石原が朝倉の部屋をノックした。
「課長、これ見てください。」
彼女の手には封筒。
中には、社内監視カメラの静止画数枚。
「いつの映像?」
「昨日の深夜。夜勤清掃が入る前です。中村加奈子さんが、黒崎主任のデスクに…。」
朝倉の目が鋭く光る。
画像には、加奈子が黒崎のデスクを開け、財布を取り出す一瞬が映っていた。
彼女の表情は、無意識ではなかった。
むしろ確信に満ちていた。
「夢遊行動ではないな。」
「でも、彼女、精神科の診断で…。」
「その診断が、いまや最大の隠れ蓑だ。」
朝倉は立ち上がった。
―――
翌日、彼は静かに動き出した。
部内の監視データをすべてセキュリティ課へ提出。
分析対象は「指の動き」「触れた位置」「滞在時間」。
彼の調査方針は徹底していた。
感情ではなく、証拠。
それが朝倉の信条。
一方で、彼はある罠を仕掛けた。
桐生に一通のメールを送ったのだ。
件名:【相談】中村加奈子さんの症状に関する見解
本文:
先生、私も彼女の行動を心配しています。
もしよろしければ、彼女の服薬量を減らすことをご検討いただけませんか?
これ以上の増量は業務上の判断力を著しく欠く恐れがあります。
(社内共有のためBCCに人事課長を含みます)
そのメールは、わずか30秒後に開封された。
そして、2分後。
桐生から返信が届く。
件名:Re: 中村加奈子さんの服薬量について
朝倉課長
ご連絡ありがとうございます。
中村さんの服薬管理についてですが、現状の処方量は、厚生労働省のガイドラインにおける「短期的ストレス反応への標準投与量」の範囲内にあります。
ご指摘の問題行動については、薬物性の副作用というよりも、心理的防衛反応の一種と考えられます。
いわゆる解離性行動に分類されるもので、治療過程では一時的に表出することがあり、本人の意志によるコントロールは困難です。
したがって、服薬量の調整は現段階では推奨しません。
投薬を急に減らすことで、リバウンド(反動性不眠や情緒不安)が強まる可能性があり、むしろ業務遂行に支障をきたすリスクが高まります。
私どもとしては、引き続き本人の自己申告とメンタルチェックシートの結果を基に経過観察を行う方針です。
ご理解のほどお願いいたします。
桐生 慎一
ASAホールディングス 産業医・精神科専門医
(精神保健指定医・日本産業精神衛生学会所属)
そのメールを読み終えた瞬間、朝倉の口元に、わずかに冷たい笑みが浮かんだ。
やはり、言葉の選び方がすべてを物語っている。
「心理的防衛反応」「リバウンド」「標準投与量」
どれも治療を装いながら、責任の所在を巧妙にぼかす言葉。
桐生は医師としての倫理ではなく、制度の安全圏の中に自分を隠した。
朝倉はゆっくりと椅子にもたれ、目を細めた。
「完璧だ。」
医師が本人の申告だけで増薬を正当化し、さらに、その判断をガイドラインのせいにした。
これは単なる証拠ではない。
構造そのものの自己証明。
桐生は、見事に自分の論理で自分を罠にかけたのだ。
―――
翌週、社内会議。
桐生はそこに呼び出されていた。
朝倉、人事部長、法務課長が揃う中、会議室の空気は重たい。
「桐生先生。」
朝倉の声は冷ややかだった。
「あなたが診断した社員のうち、複数が業務不正を起こしています。にもかかわらず、あなたは本人の申告だけを信じ、薬を増やした。その結果、会社資産へのアクセス不正、金銭窃盗、書類改ざんが発生している。」
「そ、それは私の責任ではないのでは?」
「では、誰の責任だと?」
静寂。
「病気だから責任を問えないという理屈が通るなら、この会社に倫理は不要です。もはや、あなたは医者ではなく、免罪の製造者です。」
桐生の顔が歪んだ。
その瞬間、人事部長が席を立った。
「朝倉課長、言葉が過ぎるぞ。」
「お言葉を返すようですが、過ぎていません。むしろ、これが現実なんです。」
朝倉は机に書類を叩きつけた。
それは、桐生が過去1年間に出した診断書のコピーだった。
その末尾に共通して書かれた文言。
「精神的ストレスに配慮を要す。勤務上の配慮を求む。」
「あなたの一文が、社員の罪を覆い隠してきた。そして、会社はそれを利用してきた。医者も会社も、同じ穴の狢だと私は思います。」
会議室の空気が凍りつく。
桐生の額に汗がにじむ。
朝倉は続けた。
「桐生先生。あなたの処方記録は、すでに第三者監査に提出しました。その結果が出る前に、何か申し上げたいことはありますか?」
沈黙。
時計の針の音だけが響く。
「まったく、何様なんです?あなた。」
「私は倫理の監査官ですよ。」
そう言って、朝倉は席を立った。
その背中には、迷いも怒りもなかった。
ただ、冷徹な信念だけが残っていた。
―――
その夜。
朝倉は一人、社内の資料室でファイルを開いていた。
タイトルは【倫理再構築プロジェクト/準備案】。
ページの最上段には、こう書かれていた。
『薬を理由に責任を放棄する文化を終わらせる。配慮と甘えの境界線を、明確に可視化すること。』
朝倉修平は、次の一手を打つ準備を始めていた。
次は加奈子本人だ。
―――
二日前の夜。
午前二時十七分。
加奈子の部屋。
薄暗い照明の下、ベッドの脇には散乱した薬のシート。
空になったサイレースの箱、デパス、マイスリー、アルコールの缶。
その中で、彼女は虚ろな目でスマホを握りしめていた。
画面には、朝倉課長からのメール。
「君の行動について話がしたい。明日10時、会議室へ。」
加奈子は、震える指で返信を打ちかけ、途中で止めた。
画面に浮かぶ文字は滲んで消えた。
「どうせ、もう終わりなんでしょ。」
声にならない呟き。
涙ではなく、乾いた笑みが頬をかすめた。
その手が、再び薬のシートを破る。
深夜、遠くの救急車のサイレンが、ゆっくりと彼女の意識を遠ざけていった。
翌朝。
総務課から一本の電話が朝倉に入った。
「課長、中村加奈子さんが病院に搬送されました。」
短い報告に、朝倉は一瞬だけ目を閉じた。
驚きでも動揺でもない。
むしろ、予期していたような静けさがそこにあった。
「場所は?」
「市立第三病院です。意識はありますが、薬の過剰摂取の疑いです。」
「わかりました。対応は私が引き取ります。」
電話を切ると、朝倉はスーツの上着を羽織り、静かに部屋を出た。
その背中に、部下の誰も声をかけられなかった。
―――
病院の白い廊下。
雨音がガラス越しに遠く響く。
病室の前で立ち止まり、朝倉は静かにドアをノックした。
返事はない。
だが、中から微かに薬の匂いが漂ってきた。
ベッドに横たわる加奈子。
腕には点滴。
顔はやつれ、唇は乾いている。
それでも、その瞳はまだどこか正気の光を宿していた。
「あ、課長...。いらしていただいたんですね。」
「迷惑だったか?」
「どうして、そんな顔されてるんです?」
「君が病気という言葉を、盾にしたからだ。君が一番よくわかってるはずだがね。」
加奈子の目が揺れた。
そして、笑った。
壊れたように、声を震わせながら。
「だって、楽だったんですもん。病気ですって言えば、誰も怒らないし、全部許してくれる。上司も、医者も、みんな仕方ないねって。」
「許されたかったのか。」
「いえ。忘れられたかったんですよ。」
加奈子は、虚空を見つめた。
その視線の先に何があるのか、誰にもわからない。
だが、朝倉だけは理解していた。
彼女は、もはや罪悪感という感情の感覚を失っていたのだ。
「中村さん。」
「はい?」
「君を守る診断書を書いた桐生先生は、いま査問を受けているんだ。君の薬の量、記録、通院間隔。すべて調べが進んでる。」
「そう、ですか...。」
「君の行動が、彼の処方で生まれたものなら、それは君の罪ではなく、構造の罪だ。」
加奈子の唇が震えた。
その一言で、彼女の目に初めて涙が浮かんだ。
それは後悔ではなく、解放のようだった。
「それ、誰も言ってくれなかったかも...。」
「だから言いに来たんだよ。君は、使われたんだ。」
朝倉はベッドの脇に立ち、静かに言葉を続けた。
「でも、君が選べるのはここからだ。病気の被害者として終わるか、構造の証人として立つか。どちらかを選ぶんだ。よく考えてから返事をくれ。」
その声は、穏やかでありながら、鋭く切り裂くような強さを持っていた。
―――
その翌日。
本社の会議室に、重い扉が閉じられた。
議題はただひとつ。
「ASAホールディングスにおける精神疾患対応の適正性について」
桐生は、白衣ではなくグレーのスーツを着ていた。
顔色は悪く、目の下には隈。
彼の前には、朝倉が提出した資料が積まれている。
処方履歴、診断書のテンプレート比較、被処方者の不祥事データ。
全てが整然と並んでいた。
会議は、人事部長の乾いた声から始まった。
(※置換版:会議の核心部分)
朝倉は三枚の資料を並べた。
一枚目 診断書テンプレートの比較表。
文面一致率:98%。
二枚目 診断書提出翌月の不正発生率グラフ。
三ヶ月以内の不正率:62%。
三枚目 診断書発行社員の「職務免責」ログ。
「桐生先生、これは治療じゃない。免責の配分です。」
桐生は顔をしかめた。
「偶然の類似です!」
「では偶然でこれほど整う統計を、どう説明します?」
静寂の中で、グラフの棒だけが赤く光っている。
室内がざわついた。
法務部長が眉をひそめる。
「では、この病名をどう説明しますか?」
朝倉が次のスライドを開いた。
プロジェクターに映し出されたのは
《軽度うつ傾向/投薬管理下にて経過観察》
同じ文言が20名にわたって並んでいた。
「これらは、すべてあなたが診断した社員です。そして全員が、社内では問題社員として報告されている。あなたは薬を出すことで、彼らの問題を病気のせいに変えた。 会社はその診断書を盾にして、責任を回避した。」
「朝倉君!やめたまえ!!」
「やめません!さらに、その病気の診断を利用して、彼らを障害者雇用枠に組み込み、雇用率の数字を満たした上で国から助成金まで受け取っていた。つまり、人間の不調が、この会社にとって利益になっていたんですよ。」
「これ以上はやめたまえ!後悔するぞ!」
人事部長は血相をかえた。
「そして、先生。あなたにも報酬があった。診断者として契約更新が優遇され、企業顧問医という肩書きのもと、年数百万のコンサル料と講演依頼。会社が病人を増やすほど、あなたの診療実績は伸び、学会での発表テーマまで手に入った。」
「あなたの診断は、治療じゃない。企業と医者の間で取り交わされた、数字と名誉の取引材料だったんですよ。」
桐生の顔から血の気が引いた。
口を開こうとしたが、声が出ない。
その沈黙の中で、朝倉が続けた。
「この会社は、病人を利用していた。優しさという言葉で、怠惰を制度化していた。そして、医師がその構造を補強してきた。」
人事部長が、震える声で呟いた。
「き、君は何をしようとしているのかね!」
「もちろん、構造の浄化です。」
「 部長、あなたも先生から謝礼金を貰っていた疑いもあります。すべて報告させてもらいますよ。」
朝倉は立ち上がった。
その目は、鋭くも澄んでいた。
会議室に沈黙が落ちた。
誰もが息を呑み、朝倉の言葉の行方を見守っていた。
「私は、もう優しさという言葉で誤魔化すつもりはありません。病気であっても、人は責任を持たなければならない。そして、医師もまた、責任という薬を処方しなければならないんです。」
その瞬間、法務部長が口を開いた。
「桐生先生、これ以上弁明は不要です。あなたの処方履歴と社内での判断は、明らかに不適正。契約解除の方針で進めます。」
桐生の拳が震えた。
しかし、反論の言葉はなかった。
その場で彼は立ち上がり、黙って部屋を出ていった。
扉が閉じたあと、会議室には深い静寂が残った。
誰も言葉を発しない。
ただ、朝倉の書類だけが静かに机上に残された。
―――
会議の翌朝。
全社メールが配信された。件名は簡潔だった。
【通達】産業医契約の即時解除と精神科対応の全面見直しについて
本文の末尾に、追記の一文があった。
併せて、診断書運用・助成金申請・障害者雇用率算定の一連の手続きについて第三者監査を実施します。
送信者は社長室。
差出人名の後ろに、小さく「作成補佐:朝倉」とあった。
社内チャットは騒がしくなったが、騒音はすぐに引いていった。
いつも通りに戻ろうとする惰性を、文面の硬質さが押し返していた。
昼休み、カフェテリアの窓際。
人事部長・坂本はトレーを持ったまま立ち尽くしていた。
彼の端末には、内部監査からの呼び出しが点滅している。
着席した朝倉に、広報の三輪が小声で訊いた。
「ここまでやる覚悟、最初からあったの?」
「覚悟なんて、後から追いかけてくるものでしょう。」
「あなた、ほんと可愛げがないのね。」
「可愛げで直る構造なら、誰も苦労しません。」
三輪は肩を竦め、紙コップを傾けた。
「じゃあ、広報は言い訳じゃなく、説明で行くね。あなたの言葉を借りるからね。『配慮は免罪符ではない。再起の条件だ』。で、いい?」
朝倉は短く頷いた。
―――
午後三時。
会議室B。
黒崎学がゆっくりと入ってきた。
青白い顔色、乾いた手。
椅子に腰を下ろすと、視線を落としたまま言った。
「私の優しさは、彼女をダメにしたんでしょうか?」
朝倉は首を横に振った。
「違う。君の優しさは構造に利用された。罪は、見えないところで増えるルールにある。ただ...。」
少しだけ声を和らげる。
「君が、あのメモを机に置いた気持ちは、会社全体で引き受けるべき痛みだ。隠さないで、共有していこう。」
黒崎はゆっくりと顔を上げた。
空洞の中に、かすかな熱が戻る。
「私は会社に戻って来ても、いいのでしょうか?」
「戻ってきてくれ。キミの優しさの意味を、ここから上書きしていこう。」
黒崎は深く頭を下げた。
涙は落ちなかった。
落とすべき場所が、やっと見つかったのだ。
―――
夕刻。
第三病院の廊下に、スニーカーの足音が近づく。
ドアが開き、加奈子が静かに会釈した。
頬の血色がわずかに戻っている。
付き添いの看護師は、短く笑って退室した。
「ベッドを抜け出して、すみません。どうしても、言っておきたくて。」
加奈子は深く息を吸った。
「証言します。私が何をしたか、どうしてそうなったか。それから…診断書の使われ方も。怖いですけど、やりたいんです。」
朝倉は頷き、薄いファイルを差し出した。
表紙に手書きで書かれている。
《構造証言:中村加奈子》
「これは君の物語じゃない。君を通して見える構造の記録だ。傷は消えない。でも、傷は羅針盤になる。」
加奈子は表紙に触れ、小さく笑った。
「私、やっと自分のせいだけじゃないって思えました。でも、言い訳にもしたくない。両方、持ったまま進みます。」
「おう。それが責任だ。」
―――
同じ頃、監査室。
モニターに映るのは、桐生の過去二年の処方履歴と、助成金の受給記録、就労実態の乖離グラフ。
法務部長が淡々と確認印を押していく。
静かな判子の音が、終わりの鐘のように部屋に響いた。
「見事だったね、朝倉君。正義で殴らず、仕組みで止める、か。」
「殴ると、個人の物語になりますからね。ですが、止めると、会社のより良い更新になると思いました。」
法務部長は苦笑し、朱肉の蓋を閉めた。
「これで、取締役会も逃げられないだろうな。」
―――
夜。
屋上のフェンスの向こうに、街が広がる。
冬を待つ空気は、肺を締めつけるほど澄んでいた。
三輪が手すりにもたれたまま言う。
「記者会見は、謝罪の前に再発防止策を出すことにしたよ。謝るだけじゃ意味がないからね。」
「頼みます。」
「あなた、本当に喜ばないのね。」
「喜びは、すぐに過去形になりますから。」
「名言っぽい風に言わないでよ。」
三輪は笑い、少しだけ真顔に戻る。
「朝倉。あなたは、どこまでやるつもり?」
「病気を免罪符にする文化が会社のどこにも置かれていない、という確認が取れるまで。かな。」
「ふーん。それって永遠に終わらなそうね。」
「終わらないものに、毎日終わりを与えるのが仕事でしょう。」
三輪は小さく笑った。
「じゃあ、私たちは毎日、今日を終わらせる人たちってわけね。」
「ええ。終わりを設計する仕事です。」
風が吹き抜け、街の灯がその言葉を持ち去った。
二人の間に、短い沈黙。
都会の明滅が、まるで新しい拍動のように足元へ反射していた。
―――
翌週。
社内掲示板に、新しい枠が追加された。
【E.D.D.(Ethical Design & Discipline)室】
目的:配慮と責任の境界線を設計し直す
業務:診断書運用、助成金・雇用率算定の検証、再教育プログラムの設計
室長:朝倉修平
監査担当(外部アドバイザー):中村加奈子
掲示板の前で、数人が足を止める。
「え?戻ってくんの?」
「いや、外部枠らしいよ」
「でも、ちょっと救いだな。」
雑音は、珍しく優しさを含んでいた。
甘やかすのではなく、支える方向へ、音階が変わっていた。
同時刻、朝倉のデスク。
黒崎がノックし、入ってくる。
彼の手には封筒。
「課長、これ診断書です。産業医が変わってました。減薬方針、行動療法推奨って言われました。」
「いい処方だ。」
黒崎は照れくさそうに笑った。
「あの…。結局、甘えてたのは私のほうでした。許すことで自分を守ってたんだと思います。本当は、ちゃんと向き合う勇気がなかっただけなんです。」
朝倉は少し間を置いて、静かに答えた。
「優しさってやつは、時々、自分を麻痺させるんだ。でも、逃げないで認めた今の君は、もう違う。許すんじゃなく、理解していけばいい。それが、本当の意味で守るってことじゃないかな?」
黒崎は深く頷いた。
「そろそろ、戻ります。引き出しには、今後はちゃんと鍵をかけますね。」
冗談めかした最後の一言に、ふたりは少しだけ笑った。
―――
その夜。
朝倉は、誰もいない課長室でノートを開いた。
最後のページに、ゆっくりとペンを置く。
【倫理報告書】
件名:構造汚染の臨界点
結語:
病気は免罪ではない。
優しさは麻酔ではなく、再起の条件でなければならない。
我々は免責の制度を終わらせ、再起の制度を設計する。
書き終えてペンを置くと、
窓に映る自分の姿が、わずかに軽くなって見えた。
机の端には、加奈子のファイル。
その上に、青い付箋が増えている。
「第5章:再教育のデザイン(仮)」
照明を落とし、扉へ向かう。
ガラス張りのフロアには、まだいくつかの灯りが残っていた。
誰かが遅くまで、明日の終わりを仕込んでいる。
エレベーターホールで足を止め、
朝倉は小さく呟いた。
「病気の時代を、終わらせる。」
扉が閉じ、箱が静かに降下する。
都会の明滅が、遠くへ滑っていく。
その光は、監視者ではなかった。
見届け人だった。
ASAホールディングス営業第二課の夜は、相変わらず遅い。
だが、灯りの意味は変わった。
「配慮」という甘い麻酔ではなく、
「責任」という苦い薬を自分たちで処方する、
新しい時代の灯りへと。




