【Season2】 知的怠惰の社員を斬る!
火曜日の午後三時過ぎ。
ASAホールディングス営業第二課のフロアには、都会の喧騒が薄くフィルターをかけられたような、奇妙な静寂が漂っていた。
窓の外では、晩秋の冷たく澄んだ陽光が、高層ビルのガラス壁に反射して鋭く輝いている。
空はどこまでも高く、群青色を深め始めており、季節の変わり目が持つ油断ならない透明感が、この空間を覆っていた。
課長に昇進した朝倉修平の視線は、その静寂の裏側に潜む、より根深く、そしてより厄介な毒、すなわち知的怠惰の発生源を鋭く捉えていた。
彼の視線の先にいるのは、入社二年目の社員、佐々木久美。
佐々木は、二十四歳という若さで、すでに組織の優しさという名の安全網を、最も巧妙かつ冷酷に利用する技術を習得していた。
業務上の困難や、朝倉のような指導者から具体的な指摘を受けそうになるたびに、決まってその細い首を不安げに傾げ、困ったように微笑んでみせる。
それは、周囲の反論や叱責を瞬時に封じるための、究極の「言葉の盾」を突きつける瞬間だった。
「私、ちょっと発達障害の傾向があるみたいで…。」
その言葉が発せられるたび、フロアの空気は凍りつく。
指導しようとしていた上司や先輩の口元はぴたりと閉ざされ、その瞳には「理解者であろうとする義務感」と「面倒なことに巻き込まれたくない」という自己保身が入り混じった、複雑な色合いが浮かぶ。
彼女にとって、この言葉は仕事の拒否やミスの免除を要求するための、倫理規定や社会の同情心を逆手に取った卑怯なスラングでしかなかった。
朝倉は、佐々木がこの言葉を、仕事をしたくない、責任を負いたくないという自己中心的な欲望を隠蔽するための、最も冷酷で、最も卑劣な武器として使っていることを見抜いていた。
―――
佐々木は、AIというツールを悪用することで、表面的には無難な仕事をこなしているように見せていた。
しかし、彼女の脳内では、思考や、考えること、覚えることの脳の思考が完全に停止しており、入社二年目にもかかわらず、一向に業務の基礎的な流れを覚えていなかった。
AIに訊けば、それっぽい答えは出るという安易な公式に頼り切った結果、彼女は、業務の「なぜ」や「本質」を理解することを放棄した。
当然、AIは万能ではない。
普通の社員であれば、要望や要件、現状を正確に整理し、それをインプットデータとしてAIに打ち込み、文章を作成させる。
そして、生成された文章が、現場の状況や、顧客の機微な要望に合っているかどうかを、自分の頭で厳しく検証する。
しかし、佐々木は違った。
彼女は、その現状の整理や、顧客の機微な要望を、どう解釈すべきかという、最も重要な思考プロセスすらAIに依存した。
「このクライアントは、本当に何が欲しいのか?」
「この案件の真のボトルネックはどこにあるのか?」
彼女の頭には、この違和感を生じさせる想像力が完全に欠如していた。
その結果、AIが生成した文法的には正しいが、現場の状況とは全くかけ離れた文章や文体を、彼女は完璧な答えだと判断し、そのまま現場や顧客に提出してしまう。
この判断能力の欠如こそが、現場に言葉の混乱を巻き起こし、無駄な作業と手戻りを発生させ、課全体の時間に多大な負債を負わせていた。
「この前の佐々木の報告書、意味がわからなかったぞ。全社的な意識改革を最優先で推進するって、うちの課長代理に何をしろっていうんだ?」
「彼女が書いた指示書通りに動いたら、完全に二重発注になるところでしたよ。多分、AIが過去の資料を適当に繋げたんでしょう。」
これらの声は、営業第二課全体の人間に迷惑がかかっている証拠だった。
佐々木の知的怠惰は、すでに組織的なコストとして機能し始めていた。
佐々木の知的怠惰の毒は、同期たちの間にも静かに、確実に拡散していた。
課の田中真実は、自分の頭で考えることを放棄しない、今の世代には珍しい、まともでデキる若手。
彼女は、佐々木個人の問題ではなく、その怠惰がチーム全体に実害を与えていることに、激しい怒りを覚えていた。
ある日の昼休み、田中は佐々木を喫煙所の裏に呼び出し、厳しい口調で警告した。
「久美。いい加減に気をつけないとダメ!あなたがAIに丸投げして完璧だと思って出してる資料、その後始末を誰がやってるか知ってんの?あなたのせいで、森山先輩が昨日、徹夜で顧客向け資料を全部書き直したの知らないでしょ?あなたの『完璧』は、『思考停止した人間の自己満足』でしかないんだよ!仕事を覚えるって、失敗して、怒られて、何が間違っていたのかを考えることからしか始まらないのがなんでわからないの?」
田中の言葉は、純粋な忠告ではなく、もはや公の場で怒鳴れない上司に代わって、個人の責任を厳しく問う「糾弾」だった。
しかし、佐々木は、すぐにいつものお気楽な笑顔を貼り付け、笑い飛ばす態度を取った。
「あはは!真実って、本当に考えすぎなんだから!みんな、許してくれてるよ。だって何も言われてないし。真実みたいに難しく考えてたら病むよ〜。面倒で時間もったいないしね。」
佐々木の何も考えていない、お気楽なはったりに対し、田中は激昂した。
「迷惑をかけていない?馬鹿なの?自分の思考を放棄して他人の時間を食い潰すのが、最も悪質なハラスメントだって、わからないの!?私はもう、あなたの素直な質問に答えるのは辞める。あなたの知的怠惰の尻拭いは、もうしないからね!マジで迷惑!」
この口論を機に、田中は佐々木に対し、業務に関する最低限の連絡以外は口を利かない間柄となった。
田中は傍観者に成り下がるという、苦渋の選択を強いられた。
そして、佐々木と思考の根っこが同じである斎藤健太や松本綾香といった若手たちは、「真実は優しさがない」「多様性を理解できない」と、正しいことを言った田中を冷酷に嫌煙し始めた。
朝倉は、佐々木のこの舐めた態度と、田中という「正しき人間」が孤立していく状況に、深い憂慮を覚えていた。
―――
「つくづく残念な世代だな...。」
朝倉は心の中で吐き捨てた。
朝倉は憤りよりも、諦めに近い感情を抱く。
実は、このAI依存による思考能力の欠如と、それに伴う判断ミスは、ASAホールディングス全体、特に若手社員の間で連続的に発生し、会社として社員の思考能力低下を緊急の問題として認識し始めていたところだった。
朝倉は人事部と連携し、この問題の構造的な原因を探るべく、密かに数名の若手社員と面談を行い、問題点を詳細に聞き取り、レポートにまとめている最中だった。
「AIの利便性は認めますが、人間がAIによって思考を停止させるというこの現象は、やがて企業としてのインテリジェンスの自壊に繋がるでしょう。」
朝倉は、自身のレポートにそう書き添えた。
彼の憂慮は、課内の問題に留まらなかった。
その日の夜、自宅で夕食をとる際、彼は自然と息子にも注意を促した。
「大地。あの、さ。まさか宿題をAIにやらせてはいないよな?笑」
「まさか!そんなことしないよー!失礼だなぁ。」
息子の返事を聞いても、朝倉の懸念は晴れなかった。
彼は、佐々木久美という一人の社員の思考放棄が、現代社会における楽な道の誘惑の象徴であるように感じていた。
「わるいわるい。AIってツールだろ?大地がAIに何でも考えてもらってたらって不安になったんだ。AIは便利なツールだけどさ、何を質問すべきかを考えるのが大地の役目だということを忘れないで欲しい。AIに頼りすぎると、なぜ忘れてしまうんだ。そうなったら大地はただの、情報を受け流す空っぽの器になるぞ。」
妻の菜々子は、朝倉が会社で相当なストレスを抱えていることを察し、静かに頷いた。
「今の子達ってAIに頼りすぎて思考が停止してるから簡単にSNSの投資詐欺に引っかかったりするらしいのよ。警察を名乗った電話詐欺も。近所の子供達が次々に騙されたらしいの。私も大地が心配だわ。」
「父さんも母さんもさ!俺がバイトの時の事件忘れてないんだ!そんなこと今更言うなよ!少しは息子を信じてくれよな!」
「ああ、すまんすまん。父さんが悪かったよ。」
「うちには騙されても何百万も出すお金なんてないからね。大地のこと信用してるけど、本当に気をつけてよね!」
「あーー!飯不味くなる。もうやめてくれよ!」
しかし、朝倉の心には「思考を放棄した人間は、知的詐欺師の最高の餌食となる」という、冷徹な仮説が、確信に変わりつつあった。
―――
その日の午後四時。晩秋の陽光が、フロアのデスクに長く影を落とし始めた頃。佐々木のプライベートのLINEに、一通のメッセージが届く。
差出人名:「警視庁生活安全課」
内容:『【緊急通知】あなたのオンライン口座が国際的な不正取引に利用されています。至急、本人確認および資産保全の措置が必要です。これはAIにより自動生成された正式な通知です。詳細は添付URLより速やかにログインしてください。』
佐々木は、この古典的すぎる、およそ警視庁という公的機関が使うはずのないフィッシング詐欺の文面に、一切の違和感を感じなかった。
彼女の思考は、そのメッセージの真実性を検証する前に、どうすればこれを乗り切れるかという自己保身のルートへと自動的にショートカットされた。
彼女が頼ったのは、当然、自分の思考ではなく、AI。
「警視庁からLINEが来た。どう返信すれば、一番誠実で完璧か?」
彼女がAIに求めたのは、安全の確保ではない。
その場をやり過ごし、自分が責任を負わずに済むための言葉の演出だった。
AIは即座に、相手の警戒心を解くための完璧な返信文を生成した。
佐々木は何の疑いもなくそれを送り、添付のURLをクリック。
画面にはセキュリティ強化のための緊急認証という、偽装されたウェブページが表示された。
そこに書かれた一文にこそ、彼女はここで止まるべきだった。
『ご協力感謝いたします。このシステムはAIの指示のもと稼働中です。添付URLより、社内用を含む全ての関連パスワードと、現在の利用状況を入力してください。あなたの誠実な対応が、この問題解決の鍵となります。』
社内用を含む。
この異常な要求に、彼女は一切の違和感を抱かなかった。誠実な対応という感情的な言葉と、AIの指示という技術的な正しさを信じ込んだ彼女は、そこに会社のリモートアクセス用のIDとパスワード、そして取引先の機密データへのアクセスパスワードまでをも、躊躇なく、すべて入力してしまった。
佐々木久美は、自分の頭で「なぜ?」を考え、情報を疑い、違和感を検知するという「人間の防御機能」を放棄した代償として、ASAホールディングスの心臓部へのマスターキーを、国際的なハッキング集団に、自らの手で献上したのだ。彼女の知的怠惰は、ついに会社の根幹を揺るがす、破滅的な現実となった。
静寂に包まれていたオフィスに、これから電子的な悲鳴が響き渡ろうとしていた。
―――
佐々木久美が、自らの手で会社のシステムへの認証情報を国際的なハッキング集団に献上してから、わずか数分後の午後四時五分。
営業第二課のフロアは、電子的な悲鳴と共に真っ赤な警告画面に染まる。
それは、国際的なハッキング集団「ゴースト・ナイツ」からの、冷酷な宣戦布告だった。
全社的なシステムダウンは、瞬時に情報システム部と経営層に伝達された。
朝倉は即座に緊急対応を指揮しつつも、この裏口から侵入された手口に、組織内部の人間が関わっている可能性を直感していた。
システムログに残された痕跡は、社内ネットワークから外部サイトを経由して認証情報が流出したことを示していたが、誰が、何を流出させたかは、まだ明確になっていなかった。
翌朝、現場は警察のサイバー捜査員とセキュリティ専門家が立ち入り、異様な緊迫感に包まれていた。
朝倉は、佐々木が普段から見せていた知的怠惰と、最近の若手社員に蔓延するAI依存の傾向から、社員の誰かの安易な行動が原因である可能性を最も重く見ていた。
朝倉は、この情報漏洩に繋がるような行動を取った可能性のある社員、特に佐々木を含めたAI依存の傾向が強い若手社員数名から、一人ずつ事情聴取を始めた。
斎藤健太は、「AIに報告書の作成を手伝ってもらっただけ」と顔面蒼白で答えた。
松本綾香は、「SNSで見た情報でPCの設定を変えたかもしれない」と曖昧な返答に終始。
そして、最後に佐々木久美が会議室に呼ばれる。
彼女は、システムダウンという破滅的な事態が起こっているにもかかわらず、全く事の重大性を理解できていなかった。
朝倉の前に座る佐々木は、むしろ平然を装おうと、笑みさえ浮かべていた。
「佐々木さん。昨日の午後、PC、またはスマートフォンで、業務に関わる不審な操作や、通常とは異なる行動を取った覚えはないかな?」
朝倉が鋭く問うと、佐々木は細い首を傾げた。
「ええ。特にない、と思いますけど...?」
と思いますけど。
この曖昧な返答に、朝倉の不快感が頂点に達した。
彼女は、自分が何をしたかという事実すら、すでに脳内から消し去っているようだった。
「何か悪いことをしたのかも、と思ってはいるが、それを認めたら格好悪い、責任を負いたくない」という自己愛が、彼女の思考能力ゼロの脳を支配していた。
彼女は、いつものように笑ってごまかし、言葉の盾でやり過ごせると信じているかのように、曖昧な笑みを浮かべ続けた。
その態度は、「この問題は私には関係ない」と宣言しているのと同じだった。
朝倉は、佐々木の過去の知的怠惰の行動パターンを思い起こす。
業務上のミスを「発達障害の傾向」でごまかし、考えるべき質問を「素直な質問」と偽って他人に依存してきた彼女の履歴こそが、最も怪しいフラグだった。
「佐々木さん。君のデスクのPCとスマートフォンの履歴は、今、セキュリティ専門家が復元作業を行っている。ごまかしは効かないよ。過去の業務態度を見る限り、君が最も情報を安易に扱った可能性が高いと私は思ってる。何か思い出さなきゃいけないことがあるよね?」
―――
佐々木の顔色が変わったことで、朝倉は確信を得た。
その数時間後、デジタルフォレンジック調査の結果が、朝倉のオフィスに届けられた。
報告書は、佐々木のスマートフォンに残されたLINEの履歴、そして詐欺サイトへの「社内用を含む全ての関連パスワード」の入力履歴を、冷徹に示していた。
佐々木がAIに「警視庁からLINEが来た。どう返信すれば、一番誠実で完璧か?」と質問した履歴も、すべて残っていた。
朝倉は、佐々木のデスクで、その知的怠惰の証拠を改めて見つめながら、昨夜、息子に語りかけた言葉を思い返していた。
佐々木は、違和感の感性を育むための「失敗し、恥をかき、怒られながら、自分の頭で答えを探した経験の積み重ね」をすべて放棄した。
その結果が、この数十億円規模の破滅。
ハッキング集団「ゴースト・ナイツ」は、佐々木の思考能力ゼロという「裏口」を突き、ASAホールディングスの心臓部に侵入したのだ。
この瞬間、佐々木の個人的な怠惰は、国家レベルの経済テロへと変貌した。
佐々木が原因であるという動かぬ証拠を携え、朝倉は緊急役員会議室に立った。
会議室の空気は、鉛のように重く、そして冷たかった。
佐々木は、極度の緊張と恐怖で、すでに泣き崩れる寸前だったが、朝倉は一瞥もしなかった。
「今回の事件は、佐々木久美個人の、極度の知的怠惰と、自己愛性ハラスメントによる責任放棄が原因です。彼女は、公的機関を騙る古典的な詐欺にすら『違和感』を抱けず、組織の生命線となる認証情報を自ら献上しました。」
朝倉は、感情を一切交えずに報告を続けた。
「しかし、この事件は、佐々木個人の愚行として切り捨てることはできません。これは、組織全体が、彼女の『知的怠惰』を許容し、それを『素直さ』や『優しさ』で包み込んだ結果です。組織の免疫システムが機能不全に陥っていた証拠でもあります。」
朝倉は、佐々木の依存を加速させた大塚係長、そして傍観者であった森山にも、容赦なく裁きを下した。
「大塚係長。君の優しさは、佐々木の思考停止を加速させた毒です。指導責任は極めて重いのをわかってるね?」
「森山君。君は、『面倒事には関わりたくない』という自己保身から指導を怠った。傍観者であった君の責任も、極めて重いのを自覚してるよね?」
彼らの「善意」や「怠慢」が、結果として組織にとって致命的な「悪」であったことを、朝倉は数十億円の被害額をもって突きつけたのだ。
―――
役員会議は、佐々木の処分と、流出した機密情報への対応で紛糾した。
朝倉は、佐々木に懲戒解雇を突きつけると同時に、ハッキング集団「ゴースト・ナイツ」に対し、断固たる姿勢で臨むことを主張した。
「彼らは、機密情報の流出をちらつかせ、必ず高額な身代金を要求してくるでしょう。しかし、ここで金銭的解決に応じれば、ASAホールディングスは、『金のなる木』として国際的なハッキング集団に永遠に狙われ続けることになります。」
朝倉は、法務部を通じて、「断固として要求には応じない。法的手続きを以て対処する」という『組織の覚悟』を公開するように指示した。
そして、佐々木に対する処分が最終決定された。
懲戒解雇。
その理由は、彼女の知的怠惰と自己愛性ハラスメントという言葉の悪用が、会社への重大な背信行為に繋がった、という極めてシンプルなもの。
彼女が選び続けた楽な道は、人生で最も苦い結末という形で清算されることになった。
―――
懲戒解雇の通知が決定した直後。
朝倉は、もはや涙も枯れ果て、恐怖と絶望で身体を震わせている佐々木久美を、隔離された会議室に呼び出した。
壁一面がガラス張りの、無機質で冷たいその空間は、まるで最終審判の場のようだ。
これが、彼女に対する朝倉の最後の「指導」であり、彼女の知的怠惰の神話を完全に打ち砕く、強烈な鍵となるはずだった。
佐々木は、もはや平然を装う仮面どころか、人間としての尊厳の破片すら持ち合わせていなかった。
ただひたすらに、自分が選び続けた「楽な道」の結末を、震えながら待っているだけの、魂の抜けた人形そのもの。
「佐々木さん。君が今回、会社に与えたのは、数十億円の損害ではない。うぬぼれるな。」
朝倉は、冷たい眼差しで佐々木の顔をまっすぐ見据えた。
彼の声は静かだったが、その背後には、会社の運命を揺るがした、氷のような合理性と怒りが隠されていた。
「君が真に会社に与えた損害は、『思考することの軽視』という、組織を内側から崩壊させる、最も危険な倫理的病原菌の存在だ。金銭は取り戻せる。しかし、社員の倫理観の崩壊は、組織の死を意味する。」
佐々木は、ただ俯き、床の木目を凝視するだけだった。
反論する「論理」も、言い訳の「言葉の盾」も、彼女の思考停止した脳からは、もう何も生み出されるわけがない。
「君が楽な道を選んで、今まで生きてきたのが手に取るようにわかる。自分で考える痛みを避け、『発達障害』というスラングを盾に、他人に依存した。その結果、君は『知識ある詐欺師』の最高の餌になってしまった。なぜなら、君の脳は、情報の真偽を見分ける『防御機能』を、優雅な怠惰によって停止させていたからだ。」
朝倉は、佐々木が入力した詐欺サイトの認証情報と、AIとの質問履歴を、彼女の目の前に広げる。
その青い光は、彼女の愚かさを嘲笑っているかのようだった。
「君が真実を掴めないのは、自分の頭で『なぜ』という疑問すら生じさせられなかった、思考の放棄が原因なんだ。違和感の感性とは、失敗し、恥をかき、上司に怒られながら、自分の頭で答えを探した経験の積み重ねからしか生まれない。君はそれをすべて放棄した結果がこれだ。」
朝倉は、冷徹な結論を突きつけた。
「君は、楽な道を選んだ結果、最も重い罰を引き寄せた。人間としての成長を放棄した『空っぽの器』は、悪意ある情報で満たされる。君の問題は、結果を出せないことではない。結果を生むまでのプロセスで、自分の思考を放棄したことにある。 ASAホールディングスに、君のような、人間としての最も重要な機能を放棄した人材は不要。よって、懲戒解雇を言い渡す。」
佐々木は、もはや一言も反論できなかった。
彼女が恐れていた罰は、自分の行動の結果が、自分の人生を完全に破滅させたという、動かしがたい冷酷な真実。
彼女の自己愛は、この瞬間、現実に完膚なきまでに叩き潰された。
―――
朝倉の裁きは、佐々木一人の懲戒解雇で終わるはずがなかった。
この事件に関わった全員に、それぞれの「罪」を与えることで、組織全体への強烈な教訓とした。
それは、個人の「善意」や「怠慢」が、組織にとっていかに致命的な「悪」となるかを、具体的なペナルティとして、痛みを伴って刻み込むためだ。
朝倉は、私的な感情を一切排した「倫理の番人」として、以下の辞令を、各当事者の前で容赦なく読み上げる。
【人事処分通達:佐々木久美、大塚係長、森山翔太、斎藤健太、松本綾香】
1. 佐々木久美:懲戒解雇(即日)
「佐々木久美。知的怠惰と自己愛性ハラスメントによる会社への甚大な損害に対し、懲戒解雇とする。」
2. 大塚係長:降格、地方子会社への異動
「大塚係長。君の優しさという名の自己満足が、佐々木の依存を加速させた。貴方は、部下の思考停止という病を育てた共犯者である。よって、係長職を解き、譴責処分とする。異動先は、東関東物流倉庫の子会社・ピッキング業務。貴方の甘い優しさが通用しない現場で、『責任の重さ』と『自分の頭で考えることの価値』を、肉体的な労働を通して血肉に変えて証明してきなさい。」
3. 森山翔太:減給、懲罰的窓口業務への配置転換
「森山翔太。君は、『面倒事には関わりたくない』という自己保身から、指導を怠った。同僚の知的自壊を傍観した罪は重い。よって、減給処分とする。新しい業務は、今回のハッキング事件による、全ての損害賠償請求と顧客クレームの窓口業務だ。会社と顧客からの怒りと不信を、君が一人で受け止めるんだ。面倒事を避けた報いを、その身で味わいなさい。」
4. 斎藤健太、松本綾香:譴責処分、特別思考矯正研修命令
「斎藤、松本。君たちのAI依存、SNS依存は、佐々木と思考の根っこが同じだ。本日より『特別思考矯正研修』に参加すること。研修内容は、『情報源が嘘だと証明できるまで、一歩も動かない』という、『疑う力』の養成プログラムだ。二度と『AIが言ってた』『みんながそう言ってる』という、他人の思考の残骸を口にしないこと。」
―――
処分決定後、朝倉は、誰もいなくなった営業第二課のフロアに、ただ一人立っていた。
晩秋の冷たい夕日が、窓ガラスを透かしてデスクの列を長く照らしている。
それは、役目を終えた劇場のように薄暗く、静まり返っていた。
彼は裁きを下したが、組織に残された「思考停止」という病は、まだ消えていないことを知っていた。
「朝倉課長...。」
「まだいたのか?」
「はい。なんかやるせなくて、課長とお話したいと思って伺いました。今、お時間よろしいですか?」
「構わないよ。」
朝倉は、佐々木の依存を加速させた大塚や森山の「罪」の根源を、最後の言葉に込めた。
「田中さん。君は正しかったと思う。けれど、正しさは、時として孤独な無力に過ぎないんだ。佐々木さんの行動を『危険』と判断したその瞬間に、上司を動かし、同僚を揺り動かす『行動力』が伴わなかった。君の罪は、正しさを証明する勇気を、優しさという名の沈黙に委ねたことだ。君もそこは反省しないといけないよ。」
田中は、朝倉の言葉に、知識と行動力の乖離こそが、組織を救えなかった真の原因だと痛感し、その場に立ち尽くした。
朝倉は、佐々木のデスクに戻った。
そこには、佐々木が使っていたAIへのチャット履歴が、無機質な青い光を発していた。
彼は、その冷たい光を手のひらで覆い隠すように、企業倫理の教材の最後に、今回の事件から導かれた最終結論を、自分の魂に語りかけるように加筆した。
『最終結論:人間が、自分の頭で「なぜ」を問うことをやめたとき、人は文明の利器の主人ではなく、利器に奉仕する、心なき自動人形となる。楽な道とは、常に「人間性」という名の「自己の定義」の放棄の別名である。思考の放棄は、小さな怠惰として始まるが、その代償は、個人の人生の全てと、組織の未来を巻き込み、破滅的な現実として清算される。』
彼は、ペンを置いた。
フロアは完全に暗くなり、外の街明かりだけが、窓ガラスに反射してちらついていた。
朝倉は、その窓枠に手をかけ、冷えた夜の空気を深く吸い込んだ。
―――
翌日の朝刊、経済面には『ASAホールディングス、機密情報漏洩事件の全貌を公表。
社員の「知的怠惰」を原因と断罪』という見出しが躍った。
記事は、佐々木個人の懲戒解雇処分だけでなく、大塚係長、森山先輩の降格・異動といった連帯責任までも詳細に報じ、社会に大きな衝撃を世論に与えた。
ASAホールディングスは、朝倉の指揮の下、以下の対策を完了させた。
データ復旧と損切り(データの損害賠償):
流出したデータはすべてバックアップ(オフライン・世代管理)から復旧を試み、暗号化されたサーバーは初期化し再構築を行った。
流出が確実な新製品特許情報については「市場への価値損切り」を宣言。
身代金の支払いは断固として拒否した。
セキュリティ体制の抜本的強化:
VPNに代わるゼロトラストセキュリティの導入を決定。
全社員の多要素認証(MFA)を必須化し、パスワードの使い回しを物理的に禁止するシステムを導入した。
「思考能力」の義務化:
「特別思考矯正研修」を全社員に義務化。
「不審な情報に触れた際の報告義務」を倫理規定の最上位に位置づけ、違反者を佐々木と同等に処分する旨を明文化した。
この組織の膿を出し切る対応は、一時的に株価を下げたものの、「危機対応能力」と「組織の倫理観」を明確に示したとして、市場や顧客からの信頼を劇的に回復させた。
朝倉は佐々木の「思考停止」を組織再生のための「最も痛い教訓」に変えた。
彼は静かに佐々木のデスクを去り、窓の外の夜景を見つめた。
街の光一つ一つが、誰かの判断と行動によって成り立っている。
朝倉修平という一人の男が下した裁きは、痛みと教訓を伴う、哲学的な勝利の記録として、ASAホールディングスの歴史に深く刻まれた。
そして、彼は知っている。
この「思考放棄」との戦いは、明日もまた、新たな形で続くのだと。
人間の尊厳とは、「楽」に流されず、「問い」続けるその苦痛の中にあるのだ。




