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ミスをし続ける部下を斬る

火曜の午前十時半、会議室の空気が異様に重たかった。


誰かが怒鳴っているわけでもない。誰かが泣き叫んでいるわけでもない。

だがそこに座っていた全員が、まるで火のついた導火線を踏んでしまったような面持ちだった。


その中心にいたのが営業第二課係長、朝倉修平である。


40歳。既婚。休日の楽しみは酒と読書と静かなカフェ。

上司として部下に「甘い」と言われたことはないが、「冷たい」と言われたこともない。

表向きは穏やかで理論派、だが、人の悪意と本音を見抜くことに関しては異常な勘を持つ男だった。


「それで、この型番違いの発注はどういう経緯で?」


静かに問いかけられた声に、椅子に座っていた若手社員が少し身をすくめた。


「すみません、私が入力を間違えました」


そう言ったのは、入社3年目の西野 淳也。

顔立ちは整っていて、物腰も柔らかく、誰に対しても敬語と笑顔を崩さない好青年タイプだ。

だが問題は、彼がこの“型番ミス”を今月だけで三度もやらかしているという点だった。


「先週も型番間違いがあったな?」


「はい…その件も、申し訳ありません」


「そしてその前の週も同じようなミスがあったと記憶してるが?」


「…ええ、三週続けて…はい」


朝倉は手元の資料に目を落としながら、わずかに唇を引き結んだ。

怒鳴りもしない。

説教もしない。

ただ状況を確認するだけの進行。


しかし、その静けさこそが社内の人間には一番の緊張を与える。


「確認するけど、誰かに指示ミスされたわけじゃないよな?」


「いえ、完全に僕のミスです。入力作業の確認が甘くて…」


「甘くて...か」


言葉の余韻が冷たく空気に落ちた。

朝倉は会議を打ち切ると、参加者全員に軽く頭を下げ、ひとことだけ告げた。


「これ、ちょっと俺のほうで改めて確認しておく。みんな、今日はこの件、これ以上触れなくていい」


そうして会議室を出た彼の背中には、誰にも読めない静かな警戒心が滲んでいた。


その日の昼、朝倉は動き始めた。

まず最初に向かったのは隣のチーム 営業第一課の係長席だった。


そこには小早川真理子の姿があった。


39歳。

長身のスーツスタイル。

社内でも有名な「冷静沈着な女性係長」であり、美貌も相まって注目度が高い存在だ。


「小早川さん、今少しだけ時間あるか?」


「ええ。どうしました?」


朝倉は彼女の席の端に腰を下ろし、低い声で切り出す。


「ちょっと聞きたいことがある。…西野のことだ」


「ああ、また何か?」


「型番間違い。今月三件目。しかも全く同じパターン。誰かが代わりにやっても、また自分で戻ったタイミングでやらかしてる」


「私のとこでもあったわ。納品書の桁違い」


「それ、怒った?」


「ええ、静かにね。私なりに。これは業務妨害に等しいって伝えた」


「そしたら?」


「“すみません”って言ってたけど、どこか晴れやかだった」


「あぁ。やっぱりか」


「なに?」


「いや…まだ確信には遠い。けど、何かあるっていう感覚はあるんだ。正直、普通じゃない」


小早川は頷いた。


「私も、ミスが直らないこと以上に、ミスのあとの表情が気になってたの。…どこか、満たされた顔なの」


「…まさかと思うが、楽しんでる?」


「言葉にすると気持ち悪いけど、正直、そんなふうに見えたことが何度かある」


朝倉はその言葉を飲み込み、無言で立ち上がった。


午後、朝倉は自分の課の中堅社員に声をかけた。


「田口、今いいか。西野のことで、ちょっと話を聞きたい」


「えっ…あ、はい。なんでしょう」


「彼、最近ミス続きだよな。でも、君もフォローしてたろ? 何か気づいたことないか?」


田口は少し躊躇ってから、ぽつぽつと話し始めた。


「…西野くん、謝り方はすごく丁寧なんです。いつも低姿勢で、敬語も完璧で、すぐ申し訳ありませんって頭を下げる」


「だが?」


「んー...悪いと思ってる感じがしないというか、叱られるのが当たり前って顔してるんですよ」


「なるほど。反省ではなく儀式ってことか」


「そうかもしれません。しかもですね、以前コピー機の設定をわざと間違えて印刷を止めたことがあって」


「わざと?」


「いや、もちろん彼は間違えましたって言ってましたけど、そのあと、先輩もすぐ気づきましたねって、ちょっと笑ってたんです。…正直、ゾッとしました」


朝倉の頭の中に、重たい靄のようなものが立ちこめる。

これはミスの多い新人の域を超えている。


「…分かった、ありがとう」


彼は立ち上がり、次に向かったのは庶務の女性スタッフのデスクだった。


「すみません、ちょっといい?」


「はい?」


「西野くん、何かあなたに失礼なこととか言ってない?」


女性スタッフは小さく首をかしげてから、ゆっくりと答えた。


「いえ、特には。でも、以前コピーの順番を譲ったとき、“あ、小早川係長にまた怒られるかも〜”って、妙にうれしそうに笑ってたのが気になって…」


「なるほど。ありがとう」


その日の終業間際、朝倉はようやく自分のデスクに戻り、椅子に深く座り込んだ。

何かがおかしい。何かが、決定的に。


普通、人は怒られることを避ける。

だが西野はそれを繰り返す。

しかも対象が限定的。


怒られたあとの顔に充足がある。

フォローされても直らない。

「怒られること」が、彼にとって終点ではなく目的なのかもしれない。


…そんな馬鹿な話があるか


(まるで、怒られたいがために仕事をしてるみたいじゃないか)


そして、ふと脳裏をよぎった言葉があった。


「また係長に怒られるかも〜」


あの笑顔。あの調子。

そして、その対象が小早川。


まさか。


自分の中の常識が、少しずつ崩れていくのを朝倉は感じた。

だがまだ、この時点ではそれが何なのかはっきりと形を持っていなかった。


彼はそっと、自分の手帳に一行だけメモを残した。


「西野 → 小早川係長との接触パターン → 繰り返し」


その隣に、さらに小さな文字で。


「目的が怒られることの可能性?」


手帳を閉じ、朝倉は深く吐息をついた。


この会社には数十人の部下がいて、毎日膨大な数の案件が飛び交っている。

その中で、「ミスを繰り返す若手」なんて、どこにでもいる話だ。

だが、“理由”が常識の外にあるとしたら...


だったら俺はとことんまで調べてやるよ



朝倉修平はその日、会社を出て最寄り駅の喫茶店に足を運んだ。


煙草の煙が嫌われる時代だが、この店は数少ない分煙対応の老舗で常連のサラリーマンにとってはオアシスのような場所だった。

カップを一口啜りながら、彼は開いたノートに「西野の行動パターン」と書き出した。


・ミスの回数が異常

・ミスの内容に一貫性(数字・型番・入力)

・誰かがカバーするとまたやる

・怒られると晴れやかな顔をする

・対象が特定の人物に偏っている(=小早川係長)


朝倉は眉間に皺を寄せた。


「…ありえない、はずなんだがな」


怒られることが目的などという馬鹿な話、信じたくなかった。

だが、あの顔。

あのタイミング。

どうしても無視できない違和感があった。


彼は翌朝、社内でさらに三人の人物に聞き込みをした。

彼らはすべて西野と業務で接点のある人物だった。


最初に呼んだのは、後工程を担当する資材課の主任・川添だった。


「西野くん? うーん…正直、困ってます」


「ミス、多いか」


「ええ、入力ミス、納期ミス、あと部品の在庫問い合わせを無視したり。確認不足ってより、わざと途中で放り投げてる感じがします」


「それ、最近だけか?」


「いえ、僕が覚えてる限り半年前からですね。小早川さんが係長になったころくらいから、特にひどくなってきたように思います」


朝倉の手が止まる。


「つまり…小早川が昇進した時期と、西野のミス頻度が増えた時期が重なる?」


「ええ。偶然かもしれませんけど」


偶然...だが、それは偶然では済まされない符合だ。


続いて朝倉が呼び出したのは、総務課の女性社員・内田。

明るくて周囲の噂話に詳しい人物だ。


「西野くんのこと、どう思う?」


「え? あー…人当たりはいいんですけどね。なんか、距離感が変で。誰かに優しくされると一歩踏み込んできて、誰かに叱られると、ちょっと…うれしそう?」


「叱られてうれしそう、って?」


「うーん、あれは…怒られてるのに、怒ってくれてありがとうみたいな顔をするというか…。普通、へこむじゃないですか。でも、彼は気持ちが落ち着いてるように見えるんですよ」


やはり。

朝倉の中の仮説が、濃く、輪郭を持ち始めていた。


三人目は小早川のチームにいた若手社員、吉田だった。


「吉田、お前、小早川の下で西野と一緒に動いたことあったな?」


「はい。去年の年末商戦の案件で、2週間くらい同行してました」


「そのとき、西野の態度、どうだった?」


「…ちょっと、変でした」


「どう変?」


「いや、正直…気持ち悪かったです。小早川係長に怒られた後、席戻ってはあ…最高っすわって、笑ってたの見たんですよ。強がってんのかなって思いましたけど」


「最高って?」


「しかも、あの冷たい目、ゾクゾクしたって…。やばいですよね、強がりにも程がある。同期だから格好悪くてそういったのかもだけど、マジでキモいです。」


朝倉は目を閉じ、深く息を吐いた。


確定だな。


朝倉は手帳を閉じ、そっと呟いた。


「次は直接、本人に切り込むか...」


だが、正面から言えばセクハラ扱いで逆に撃たれるリスクもある。

だからこそ朝倉はまず証拠を揃え、本人の口から言質を引き出す作戦に切り替える。


これが「教育」ではないことは、朝倉自身が誰より理解していた。

これは...会社を騙し、自分の快楽のために、現場と同僚に迷惑をかけている人間を摘出する作業だ。


水曜日の午後、朝倉修平は自席に戻るなり、部署全体をぐるりと見渡した。


会話をしている者、パソコンを見つめている者、印刷機の前に立っている者。

その中で、ひときわ自然に混ざっているようで浮いている存在があった。


西野。


自分の存在に誰かが注目していることに無自覚な者と、自覚しすぎて演じている者との違い。

朝倉には、それが手に取るように分かった。


あいつは意図的な凡人を装っている

それがなぜなのかまだ分からない。

だからこそ、この日の朝倉は本人との対峙ではなく、もう少し外側から追い込むつもりだった。


午後三時。

朝倉はかつて西野の教育係だった平田を呼び出した。

真面目で理屈っぽいが、観察眼に長けた中堅社員だ。


「西野の件で、ちょっとだけ時間くれ」


「またミスですか?」


「そう。型番、納期、伝票の転記…毎回違うミスだけど、どこか共通のパターンがあるように思えてな」


平田は腕を組んで考え込んだ。


「…正直に言えば、やる気がないって感じでもないんですよね。むしろ、怒られてからの行動がやけにテキパキしてるというか」


「怒られてから?」


「はい。僕が叱った翌日は、仕事のスピードも早いし、報連相も完璧。でも、その翌週にはまたミスが起きる。…なんかワンセットみたいで、妙に気持ち悪かったんですよ」


朝倉はメモを取った。


「怒られた翌日だけ改善する…と」


「ええ。あと、気づいたのは怒られた相手によって態度の変化があるってことです」


「具体的には?」


「小早川係長に怒られたときは、異様にテンションが高くなる気がします。誰かと談笑してるときの顔つきが全然違う」


「そのときの表情、どうだった?」


「なんというか、自信を取り戻したような顔。逆に褒められた日は、むしろテンションが下がってたかもしれません」


朝倉はペンを止めてしばらく無言になった。

現段階では、まだ確信と呼べるものはない。

だが、状況証拠は少しずつ積み重なっている。


その日の夕方、朝倉は社内のゴミ箱をいくつかチェックしてみることにした。

通常ならありえない行動だったが、もはや普通の手段では埒が明かないと判断していた。


そして、ひとつだけ妙なメモ用紙が出てきた。


破られたノートの切れ端。そこには、稚拙な丸文字でこう書かれていた。


《MISSION1 次はもっとミスを自然に見せる》


《MISSION2 叱責の時間の引伸し 口角に注目。あれが最高》


《MISSION3 制限時間 今日も耐えた。あと15秒だった》


意味不明のようでいて、朝倉の中ではすべてが繋がってしまった。


これは、仕事メモではない


まるで、プレイのMISSIONか?


背筋が薄ら寒くなった。


あいつは間違いなく

怒られることに快感を感じている。

意図的な反復ミスと、特定の相手に対する反応の異常さと、奇妙なメモが揃ってしまった今、次にやるべきことは一つ。


本人を、追い込む

朝倉は静かに立ち上がった。


「もうひと押しだ」


翌日の昼休み、朝倉修平は一通の社内チャットを西野に送った。


《14時からB会議室、空いてたよな。少し話そうか。10分だけでいい》


反応はすぐに返ってきた。


《了解です!よろしくお願いします!》


いつも通りの無邪気な返信。

だが朝倉には、そこにわずかな隠された期待の匂いすら感じていた。


14時ちょうど、B会議室。ガラス張りの静かな個室に、西野が姿を現した。


「失礼します」


「座ってくれ」


朝倉はあえて書類を何も持たず、雑談のような空気を装った。


「まぁ、雑談だ。重く捉えるな。ただな、最近ちょっと気になることがあってな」


「……はい?」


「お前、最近よくミスが続いてるって話ししたよな?」


「はい。すみません…気をつけてはいるんですが」


「その割には、怒られた後の行動はめちゃくちゃ正確なんだよな。改善の仕方も速いし、反省してるようには見える。でもな...」


朝倉はゆっくりと目を細めた。


「同じミスを繰り返すってのは、無意識か意図的のどっちかなんだ」


「え…」


「もし無意識にやってるなら、それはそれで問題だ。ちゃんとしたトレーニングが必要だし、業務見直しがいる」


「はい…」


「逆に意図的にやってるとしたら、それは何のためだ?」


西野の目が一瞬、泳いだ。


「な、なんの…って、そんなつもりは…」


「お前、自分のこと変わってるって言われたこと、あるか?」


「…え、あ、まぁ、はい…学生時代に、ちょっとだけ」


「たとえば自分にだけ分かるルールで動いてるって、思ったことはないか?」


「…えっと…どういう…」


「たとえば怒られることを、自分の中でルールみたいに感じたことは?」


西野の顔から血の気がすっと引いていった。

朝倉はそこを見逃さなかった。


だが、それ以上は踏み込まない。


「お前さ、メモ帳、落としてただろ? “制限時間あと15秒だった”って書いてあったやつ」


「…あ、それ…あれは違います、ジョークっていうか、自分の中の…目標っていうか…」


「怒られるとスッキリするって感覚、ないか?」


「……」


「正直に答えていい。ここで嘘をついても、何も変わらない。ただ、お前がこのままでいたいなら、それは無理だ。理由が何であれ、俺たちは会社に迷惑をかけるわけにはいかない」


沈黙。


西野は何かを言おうとして、口を開いた。だが、音にならない。


「分かった。今日のところはこれ以上聞かない。だが一つだけ忠告する」


朝倉は椅子に背を預けて低く語った。


「誰にもバレてないつもり...でも、人の目はごまかせない。俺はもう、お前のやってることに“理由がある”と踏んでる」


「……」


「俺は上司だ。教育も指導もする。でもな、“仕事を使って快楽を得る”なんて、そんな馬鹿な行為を黙って見逃す気はない」


「ち…ちがいます!僕は…」


「だったら、行動で証明しろ。次の1週間、君の全行動を俺が見る。何か一つでも不自然なことがあれば本気で処理する」


西野は黙ったまま、深く頭を下げた。


「…わかりました」


朝倉は最後に視線を投げた。


「これは忠告だ。最後の、な」


翌週。


西野淳也の“観察対象”としての日々が始まった。


朝倉修平は業務の合間に、意識的に彼の行動を目で追った。声をかけず、干渉せず、ただ淡々と...だが鋭く、見ていた。


初日の西野は異様なほど完璧だった。

報連相、資料の作成、納期確認、全部が教科書通り。

まるで優等生のモデルのようだった。


だが、朝倉は思った。

良すぎるのは、それはそれで不自然だ


3日目。


午後2時すぎ、取引先への資料送信の確認をしていたときだった。


小早川係長のもとに、先方から電話が入る。


「ええ?申し訳ありません、それはこちらのミスで…いま確認します」


電話を切った小早川が、低い声で言った。


「西野君、またやったわ。添付ファイル、空だった」


朝倉はすぐさま西野を呼び出した。ふたりきりの会議室。


「送信メール、見せてくれ」


「はい」


西野が開いたメール画面には、確かに資料添付しましたの文面。

だがファイルは添付されていなかった。


「これ、どう説明する?」


「すみません…うっかりしてました」


「うっかりじゃ済まされない。しかも、このメール…」


朝倉はメールの送信時間に目を向けた。


「送信時刻、14時02分。小早川が会議室に戻った直後だな」


西野が一瞬、顔を上げかけて…そのまま視線を逸らした。


「わざとタイミングを合わせたんじゃないか? 小早川が“必ず対応する”時間帯を選んだ」


「ちがいます!」


「それに添付ミスで先方に謝らせるって、どう思う? それが怒られる導火線になるって、気づいてないわけないだろ」


西野は口をつぐんだままだった。


朝倉は言葉を切り替える。


「この1週間、お前が俺の目を意識してたのは分かってる。だから、お前は俺にはバレない範囲で小早川を狙った」


「…っ」


「その感覚、もう自分でも止められないんだろ」


西野の肩がわずかに震えた。


「正直に言え。怒られることで、満たされてるんじゃないのか」


「……」


「このまま逃げてもいい。だがその場合、お前がしてきた全ての業務記録を精査して、社内通報にかける。業務上の意図的迷惑行為として」


西野はゆっくりと頭を抱えた。


そして、小さく、声を吐いた。


「怒られると、スッとするんです」


「……」


「小早川係長に叱られると、すごく、自分がちゃんと存在してるって気がして…。だから…」


「だから?」


「だから、何度も…わざとじゃないんです、でも、無意識に…でも、ほんとは…」


そこからは言葉にならなかった。


朝倉は目を閉じた。


これが動機だった。


責任逃れでもなく、単なる能力不足でもない。


倒錯した欲望が、業務と倫理を飲み込んでいた。


そしてこれは、もう教育の範疇ではない。


「分かった。もういい」


朝倉は立ち上がり、会議室の扉に手をかけながらこう言い残した。


「次は、お前のやってることがどれだけ他人を傷つけてるかを教えてやる」


金曜日。

朝倉修平は一枚の社内通達を作成していた。


タイトルは


「職場における注意される快感依存と無意識行動の実例」


内容はこうだ。


過去にあった意図的ミスの傾向


怒られること自体が快感となり、再犯を繰り返す例


ミスを通じて他人に謝らせ、気づかれずに性的満足を得る異常行動


朝倉はこの資料を実名は伏せた上で全社員研修用の教材として総務に提出し、役員承認を取った。


その日、社内の複数の部署で一斉にその研修が始まった。


「こんなことが本当にあるのか?」

「…うわ、これ…あの時の件じゃない?」


西野本人にもその研修動画は届いていた。

見た瞬間、顔が真っ青になった。


自分のやってきたことが、会社の教材になっている。

しかも、文章の言い回しは誰が読んでも、あれは西野だと分かる。


朝倉は何も言わなかった。

だがそれは「怒らない」のではない。

もう怒る価値もないと見限った無視だった。


次に朝倉が取った手段は社内異動の決定。


「西野、君には来月から倉庫内管理室に異動してもらう。社外との接点なし。会話もほぼ発生しない」


「…っ、あの、それって…」


「怒られたいなら、誰にも怒られない場所に行ってもらう」


「……」


「これからは、君の存在は仕事の流れを静かに処理する機械のようなものだ。注目も、期待も、歓喜もない。ただひたすら黙々とやれ」


「…はい」



そして最後の処置。


小早川真理子には、完全なる対応マニュアルが渡された。


西野の発言には、一切感情を挟まない


声のトーン、目線、距離感を固定化し、人として接している感じを消す


「怒る」「誉める」「共感する」など、あらゆる情緒的対応を禁止


それは西野にとって、何よりも堪える仕打ちだった。


ある日、業務中に西野が小早川に話しかけた。


「すみません、この書類の確認だけお願いしても…」


「了解しました。指摘箇所は以上です」


目は合わない。

声にも温度がない。

まるで自動音声案内のようだった。


「あの…その…ありがとうございました」


「……」


無言で去る小早川。


西野は、自分の呼吸音しか聞こえない空間で、ひとり立ち尽くしていた。

彼のようなドMにはそれもプレイの一環かもしれないが。

それくらいの餌は必要だ。

そうでないと、こういうタイプの人間は頑張れないから。

ミスして他の社員に迷惑をかけるよりは遥かにマシだ。


夕方。

屋上。


朝倉と小早川が並んで煙をくゆらせていた。


「結局、怒られたい人には怒られないが一番効くんですね」


「そうだな。一番の地獄だ」


「最初は気づかなかったです。私の冷たい目がご褒美だなんて…」


「女性が真面目に叱るほど、興奮させてた。皮肉な話だ」


「でも、もう終わりですね」


「…ああ。もう彼の世界は壊れた」


その後、西野は辞表を出さなかった。

だが異動先でひたすら地味な作業に従事し、話しかける相手もなく、叱られることもない日々を過ごしていた。


その姿はまるで社会の中で、声を失ったまま働くロボットのようだった。


そして朝倉は、今日もまた社内のどこかに潜む違和感に、黙って目を光らせている。

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