98話:灯火の村と、“星なき夜”
「灯火の村と、“星なき夜”」――
今回は一風変わった“心の闇”を扱ったお話です。
星が見えない。
未来が信じられない。
それは、単なる気象現象でも、魔法の仕業でもなく、
人々が心のどこかで“希望”を失いかけていたからこそ、起きた出来事でした。
そんな夜に、火を灯したのは――かつてフィンに救われた小さな子どもたち。
彼らが誰かの“言葉”と“火”を引き継ぎ、未来を照らそうとする姿を描きました。
静かだけど確かな希望の灯りを、どうぞ見届けてください。
夜空は、黒い布で覆われたかのようだった。
星のひとつも瞬かず、月もその姿を隠している。かつては「星見の里」と呼ばれていたという村の空には、名残のように建つ石塔だけが、静かに闇を見上げていた。
「……まるで、空が未来を拒んでるみたいだね」
セリアがぽつりと呟いた。フィンの隣で、彼女はマントの端を握りながら空を見上げている。
風が冷たい。山に囲まれたこの土地では、夜になると寒さが骨にしみる。だがそれ以上に、この村には“希望”が足りなかった。
「昔はね、星の並びで作物の出来や人の運命を占ったそうだよ。けど、数年前から星が一つも見えなくなって……それ以来、占いや神官も姿を消したって」
村の古老からそう聞かされたフィンは、空を見上げたまま静かに息を吐く。
「信じるものがなくなると、人は立ち止まってしまう。進むべき道が見えなくなるんだ」
「でもフィン。星が見えなくても、夜は過ぎていく。朝が来ることは、わかってるんでしょう?」
「……わかってる。けど、朝を迎える力が残っていなかったら?」
問いかけに、セリアは黙る。かつて自分自身が“光のない日々”にいたことを思い出していた。歌も、希望も、信じられなかった頃。そんな自分を救ってくれたのが、目の前の男だった。
◇
村には、灯りがなかった。
家々は朽ちかけ、農具も錆びつき、畑には雑草がはびこっていた。人の気配はあるのに、誰も声を発さず、まるで世界全体が“沈黙”しているようだった。
「子どもたちの姿も見えない……」
セリアが呟いたその時だった。
トントン……と、細い足音が近づく。木の陰から、小さな顔が覗いた。かつてフィンが旅の途中で助けた、あの子――ミーナだった。
「ミーナ?」
声をかけると、彼女は目を輝かせて駆け寄ってくる。
「やっぱり……やっぱりお兄ちゃんだった! ずっと、もう一度会えるって信じてた!」
「ミーナ……元気だったか?」
フィンは膝をつき、彼女を抱きしめた。痩せ細っていたが、瞳には確かな“光”が宿っていた。
「星が見えなくなって、みんな元気なくなって……でも、私だけは信じてた。あの日、フィンお兄ちゃんが言ってたこと。『灯りは自分で灯すんだ』って」
ミーナの手には、小さなランタンが握られていた。割れたガラスを補修し、油ではなく火の石と草の芯で火を灯す、手作りの灯火だった。
「この村には“未来”がないって、大人たちは言う。でも私は、火をつければ、少しだけ前が見えるって知ってるよ」
その言葉に、セリアが顔を伏せる。
「……ごめんなさい、フィン。私、信じることを怖がってたかもしれない。誰かの光にすがることを、弱さだと思ってた」
「でも違うよ、セリア」
フィンはゆっくりと立ち上がり、ミーナの手からランタンを受け取る。
「灯火は誰かが最初につける。でも、それが周りを照らして、また誰かが自分の火を灯す……そうやって広がっていくものなんだ」
「星も、そうなのかな……」
「星は見えない。けど、空にあることは誰もが知ってる。じゃあ、俺たちは“信じること”を諦めちゃいけない」
フィンはランタンを高く掲げた。薄暗い村の広場に、橙色の光がふわりと広がっていく。
◇
「……火が灯った?」
「誰か、ランタンを……」
家の奥から人々が少しずつ顔を覗かせ、ざわつき始めた。
「お願い、こっちに来て!」ミーナが声を張る。「灯火を分けてあげる!」
子どもたちが次々に現れ、火をもらっていく。セリアはそれを見ながら、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていた。
「星がなくても……これだけの光があれば、夜は越えられる。そういうことなんだね、フィン」
「うん。未来は空から降ってくるもんじゃない。手で灯して、進むもんだ」
橙の光が、ひとつ、またひとつと村の中に増えていく。影が和らぎ、足元が見えはじめる。
やがて、星を模した小さな紙細工が空へと掲げられる。それは“手で作られた星”。けれど、誰よりも明るく、強く、希望を灯していた。
ぱち、ぱち……と。
静まり返っていた村の夜に、焚き火の音が鳴る。小さな炎は風に揺れながら、確かにそこに“生きている”という存在を主張していた。
ミーナの灯火に続くように、子どもたちが作った手製のランタンが次々に点火されていく。粗末な道具で作られた光源は、まるで闇の中に咲いた花のように、ほんのりと周囲を照らしていった。
最初は誰も近づこうとしなかった村人たちも、いつしか戸口から出てきていた。頬に皺を刻んだ老婆が、腰を曲げた老人が、手を引かれた幼児が、ぽつりぽつりと集まってくる。
「……火を灯すのなんて、いつぶりだろうね」
セリアがつぶやいたその声にも、温かさが混じっていた。焚き火の明かりが、彼女の横顔に橙の色を添えている。
フィンは村の中央、かつて祭祀を行っていたという円形の広場に立ち、子どもたちとともに火を囲んでいた。焚き火の上では、小さな鍋がぐつぐつと音を立てている。
「今日だけでも、温かいものを食べよう」
そう言って差し出されたのは、旅の途中で手に入れた根菜と干し肉で作った簡素なスープだった。けれど、その香りは驚くほど豊かで、冷え切った体と心をじんわりと包み込んでくれる。
村人たちは最初こそ遠巻きに見ていたが、空腹と寒さに耐えきれず、ひとり、またひとりとフィンのもとに近づいてきた。
「……食べても、いいのかね?」
「もちろんです。お腹が空いてるのに遠慮はしちゃだめですよ」
ミーナが明るく笑いながら、老人に椀を差し出す。その笑顔は、夜の寒さすら打ち払うような力があった。
◇
人々が食事を取り、火の周りに座り始めると、自然と小さな会話が生まれていった。
「……久しぶりに、あったかいな」
「うちの畑、まだ少しだけイモが残ってるかもしれん。掘り返してみるか」
「子どもが笑う声、こんなに嬉しいもんだったんだな」
焚き火の灯りが人の輪を作り、その輪がじわじわと広がっていく。声が交わされ、笑いが生まれ、やがて誰かがぽつりと昔話を始めた。
それは、星がまだ空に輝いていた頃の話。占いで選ばれた村の守人が、収穫祭で祈りを捧げたという、今では信じられないほど希望に満ちた日々の記憶。
「空が見えなくなった夜、神官様はこう言ったんだ。“星は私たちを見捨てた”って」
とある老婆がそう語ると、場に沈黙が落ちる。だが、次に言葉を発したのはフィンだった。
「見捨てられたんじゃない。たぶん、試されてるんだと思います」
彼の言葉に、皆が顔を向ける。
「空が見えなくなったのは、未来を他人任せにしていたからかもしれません。でも、こうして火を灯せば、前は見える。手を伸ばせば、温もりがある。ならば、星が見えない夜は、“自分たちが星になる”ための夜なんです」
その言葉に、子どもたちが歓声を上げた。
「星になる!」
「僕も!」
「私も光になる!」
声が重なり、火の周りに手作りの紙星が持ち寄られる。それらは棒の先につけられ、火の明かりでほんのりと透けるように光っていた。
セリアがその様子を眺めながら、フィンに近づく。
「……こんなに希望に満ちた夜が来るなんて、想像できなかった」
「星がなかったから、空の広さを知れたんだ。灯火があったから、誰かがそばにいるって気づけた」
フィンの言葉に、セリアはうなずきながらふと夜空を見上げる。
「ねえ、フィン。あれ……見える?」
空にはまだ星はなかった。けれど――
焚き火の明かりが映った村人の瞳が、まるで星のようにきらめいていた。
「見えるよ。たくさんの星が、目の前に」
◇
その夜、村には歌が戻った。
ミーナが口ずさむ素朴な子守唄に、セリアの清らかな声が重なる。やがて村人たちも手拍子を打ち、和らいだ調べが夜に溶けていく。
“未来は見えないけれど、信じることはできる”
その気持ちが、言葉を越えて村全体に広がっていくのが、確かに感じられた。
星がなければ、自分たちが灯せばいい。
空が暗ければ、手を取り合って進めばいい。
その答えを、村の人々が手に入れた夜だった。
夜が更けてきても、村の焚き火は消えなかった。
子どもたちが交代で火の番をし、村人たちはその輪の中で寄り添い、互いのぬくもりを頼りに語り合っていた。
だが――。
その静かな空気を引き裂くように、突如、村の外れで重たい風が鳴った。地を這うような、低く濁った音。夜気を伝ってくるその気配に、誰もが身を強ばらせる。
「……来たな」
フィンは立ち上がった。かすかな霧のようなものが、村の外れの森から這い寄ってくるのが見える。
セリアも隣に立ち、魔具を手に構える。
「これは……“影”?」
「ああ。希望を失った村人たちの想念が、形になったんだ。――“星を諦めた心”の集合体だ」
フィンが目を細め、剣を手に歩み出す。焚き火の明かりを背に、彼は村の外へと踏み出した。
◇
霧は音もなく広がり、やがて黒い人影のような形を取り始めた。それは、人のようでいて人ではなく、輪郭は滲み、瞳も口もない。
“闇”そのもの――それがフィンの前に立ちふさがる。
「お前たちは……誰だ?」
フィンが問いかける。
答えはない。だが、無数の影たちは、まるで心の奥底の嘆きを代弁するかのように、呻き声のような囁きを吐いた。
《信じても、裏切られるだけだ》
《未来など、どうせ壊れる》
《誰も救えない》
フィンは眉ひとつ動かさず、剣を静かに構えた。
「それが、お前たちの答えか」
霧のような影が、咆哮をあげる。まるで“諦め”そのものが怒りを纏ったような、凍てついた風が吹き荒れる。
フィンの足元の草が、瞬く間に凍りつく。
だが、彼は動じなかった。
「俺は……俺の目で見た。星がなくとも、光を灯す人々の姿を。焚き火の火を囲み、希望を語り、明日を選ぼうとする小さな子どもたちの目を」
剣がわずかに光を帯びる。影の世界に、細い一条の風が吹き抜けた。
「“未来”は、奪われるものじゃない。――自分で選び、信じ、掴み取るものだ!」
叫ぶと同時に、フィンの剣が影へと突き刺さった。風が逆巻き、焚き火の光が遠くから届く。
その一撃は、影の群れの中心に風の渦を生み出し、悲鳴のような声を巻き上げながら、影たちの形を崩壊させていった。
◇
闇が吹き飛んだ。
気がつけば、星が――空に、ひとつだけ瞬いていた。
それは、まるで見守るように、村を見下ろしている。
「……やっと、見えたな」
フィンが呟いた時、彼の背中から足音が聞こえた。
「フィン!」
セリアが駆け寄り、彼の隣に並ぶ。
「消えた……あの影」
「ああ。あれは、希望を諦めた人たちの心の残滓だ。でも、誰かが灯火を絶やさなければ、あいつらはもう戻ってこない」
夜風がやさしく吹いた。空の星が、もうひとつ、またひとつと姿を現していく。
セリアが空を見上げながら、ぽつりと漏らした。
「――ねぇ、フィン。あなたは、誰のために戦うの?」
問いは唐突だった。けれど、フィンは迷わず答える。
「みんなのために……って言いたいけど、違うかもしれない」
セリアが顔を向ける。
「俺は……“信じてくれた人”のために戦ってる。俺を信じて、笑ってくれた人。俺の剣に未来を見た人。……それを裏切りたくないだけだ」
言葉のあと、フィンはゆっくりとセリアに目を向けた。
「それに、セリア。お前がそばにいるから、俺は剣を振るえるんだ」
その言葉に、セリアは驚いたように目を瞬かせ、すぐに照れ隠しのようにそっぽを向いた。
「――それって、ずるい言い方よ」
「……そうかもな」
ふたりの間に、焚き火の光がまたひとつ揺らめいた。
◇
村の広場では、子どもたちが紙星を掲げながら星空を見上げていた。
「フィンお兄ちゃんが、闇を追い払ってくれたんだ!」
「空、光ってるよ! ほら見て!」
村の人々も、誰からともなく空を見上げ、涙を拭いながら囁いた。
「……また、信じていいんだろうか」
「いいんだよ。だって……星が戻ったじゃないか」
星のない夜に、火を灯す者たちがいた。
その火は、やがて人の心を温め、夜空を取り戻した。
それは、小さな村の、小さな奇跡。
けれどその奇跡は、確かに未来へと繋がる――
“希望”という名の道標だった。
夜明け前の空に、星がいくつも瞬いていた。
村を包んでいた霧のような闇は、すっかり消えていた。代わりに残されたのは、地面に横たわる湿った草の香りと、焚き火の煙が混ざった穏やかな空気だけ。
フィンは、まだ火のぬくもりが残る広場の真ん中に腰を下ろしていた。火の番をしていた子どもが毛布を差し出してくれる。彼は笑ってそれを受け取り、肩に羽織った。
「……星って、こんなに明るかったんだな」
呟いた言葉に、そっと背中越しの返答が届いた。
「ほんの少し前まで、見えなかったのにね。闇が、空も、心も、覆っていたから」
振り返ると、セリアがいた。椅子代わりの切り株に腰かけ、魔具の調整をしながら微笑んでいる。
「セリア……寝てなかったのか?」
「ううん、少しだけ。けど……あなたが夜通し村を守ってたのに、私だけ眠るわけにもいかないでしょ?」
彼女は魔具の小さな音叉のような部品を持ち上げ、光に透かす。
「それに……この村が、もう闇に呑まれないって分かったから。安心してるの」
フィンは、焚き火の灰の中にそっと木の枝を差し込みながら答えた。
「この子たちが火を灯したおかげだよ。俺の力だけじゃ……到底、闇は払えなかった」
その時、広場の奥から子どもたちの笑い声が聞こえた。誰かが木の枝を星形に組んで、それを灯火のように掲げていた。
「“未来の星”だってさ」
フィンは目を細めた。焚き火の炎よりも、小さなその光が、心に響いた。
◇
数時間後、村の広場では小さな集会が開かれていた。村の長老らしき老女が、子どもたちと共に壇上に立っている。
「この子たちが、わしらに教えてくれた。星は空にあるだけじゃない。火を囲んで、言葉を交わす――そんな“ひとの営み”こそが、未来を照らすんじゃ」
村人たちが拍手を送る中、子どもたちのひとりが一歩前に出た。
「ぼくたち、灯火隊になる! どこの村でも、星が見えなくなったら火を届けに行く!」
「焚き火と、星の話と、そしてフィンお兄ちゃんの剣のことを話すよ!」
「“未来は手で掴むもの”――って!」
その言葉に、セリアがふっと口元を緩めた。
「……あなたの言葉、ちゃんと届いてるね」
「……ああ、俺よりずっと、あいつらの方がよく伝えてるかもな」
焚き火の跡地に、新たに設置された木製の柱。その上に置かれたのは――一枚の金属板。
《この地に、かつて星なき夜があった。だが、希望を灯した者がいた》
《この光を絶やすな。火を囲め。星は、手の中にもある》
それは、フィンと子どもたちの名前を連ねた“碑文”だった。
◇
その日の午後、フィンとセリアは村を発った。
荷車に背負い袋をくくりつけ、土道を進んでいくふたり。背後からは子どもたちの声が追いかけてくる。
「フィンお兄ちゃん、また来てねー!」
「セリアお姉ちゃん、次は星の歌、教えてよー!」
フィンは振り返って手を振り、セリアも帽子を軽く掲げた。
「いい村だったな……」
「そうね。ああいう場所が、もっと増えればいい」
セリアが木漏れ日の中でふと呟く。
「けど、きっと、あの子たちなら星を渡せる。“誰かの手”を通して、未来を信じる火が次の場所へ移る」
「……星を渡すか。いいな、それ」
ふたりは、まるで星座の導線のように、誰かの火を次へ、次へとつなぐ旅を続けていく。
この世界に“星なき夜”がまだある限り――
フィンとセリアの旅は、終わらない。
ご覧いただきありがとうございました!
“星なき夜”を打ち払うのは、勇者の剣でも大魔法でもありません。
一人ひとりが灯す、ささやかな火――
その積み重ねが、やがて星になる。
第98話では、そんなテーマを軸にしました。
フィンが直接何かをするというより、かつて彼の言葉に救われた子どもたちが立ち上がる。
そして“灯火隊”という存在になって、これから各地へと火を届ける――
物語としては小さな転機かもしれませんが、
“星を渡す”というテーマは、この先の展開にも大きく関わっていく予定です。




