96話:鏡の湖と、映らぬ影
影が映らない湖。それは、心の迷いが形を取る“試練の地”でした。
第96話では、フィンが自分自身の“剣を振るう理由”に向き合う重要な転機が描かれます。セリアの問いかけ、心の迷い、そして答え。静かに進むエピソードですが、今後の彼の“在り方”を決定づける、大切な一話です。
いつも応援いただき、ありがとうございます。それでは――どうぞ、静かな湖のほとりへ。
朝靄のなか、丘陵地帯を抜けた先に、ぽっかりと現れたのは――まるで空が落ちたかのような湖だった。
「……綺麗……」
セリアが思わず立ち止まり、吸い込まれるように水面を見つめる。湖面は一片の波紋すらないほどに静まり返り、周囲の森、空、雲までもがそのまま写し込まれている。
「ここが、“鏡の湖”……?」
フィンもまた足を止めた。風はない。鳥の声も、虫の音もない。まるで時間ごと封じられたような、ひどく静謐な場所だった。
「湖なのに……音がまるでしないね」
「聞いたことがある。かつてこの湖は、神官たちが“心の映し”として使った聖地だって。水面に映る姿は、必ずしも現実のままじゃないらしい」
「それって……“心の鏡”ってこと?」
「そういうことだ」
セリアはそっと、湖の縁へと歩を進める。白いブーツが濡れることもなく、やわらかい土の感触だけが足裏に残った。
「……フィン。こっち、来てみて」
セリアの呼びかけに応じて、フィンも隣に立つ。そして、二人は並んで湖面を覗き込んだ――が。
「……え?」
セリアの声がかすかに震えた。
「私……映ってるよね?」
湖には、確かにセリアの姿があった。栗色の髪、透き通った碧眼、小柄な肩と真っ直ぐな背筋。全てが、鏡のように映し出されていた。
だが、その隣に――フィンの姿は、なかった。
「……俺の……影が、ない……?」
フィンは目を瞬かせた。立っているはずの場所には、水面に何も映っていない。ただ、風景の一部として背景だけが切り取られたように、ぽっかりと空白が広がっていた。
「おかしい……さっきまで……」
「フィン、体調は? ……もしかして、魔力の乱れ?」
セリアが心配そうに覗き込んでくるが、フィン自身には何の異変も感じられなかった。体は重くもなければ、視界もはっきりしている。だが、水面に“自分”がいないという事実が、次第にじわりと胸に重くのしかかってくる。
「……なんだ、これは……」
まるで、自分という存在が――この世界から“剥がされている”ような、そんな感覚。
「ねえ、フィン……もしかして、最近、何か悩んでた?」
セリアの問いかけに、フィンは無言で唇を閉ざす。悩み。確かに、ないと言えば嘘になる。強くなったはずの自分。それでも、戦うたびに胸をよぎる“ためらい”があった。
(この剣は……本当に、人を救えているのか?)
魔物を倒し、人々を助け、村を守り、仲間と共に旅を続けてきた。だが、斬ることに慣れれば慣れるほど、心のどこかに“ひび”のようなものが刻まれていくのを感じていた。
「セリア……俺は、間違ってるのかもしれない」
「え?」
「剣を振るうって、正しいことなのか……もう、分からなくなる時があるんだ。俺は、何かを“守ってる”つもりで、何かを“奪って”いるんじゃないかって……」
水面には、やはり影がなかった。
セリアは、じっとフィンを見つめた。少しの沈黙ののち、彼女は静かに口を開く。
「……フィン」
「……」
「あなたが振るう剣は……誰のためのものなの?」
その問いは、刃のように鋭く、だが不思議と温かさを含んでいた。
フィンは、はっとしたようにセリアを見返した。
「誰の、ため……?」
「誰かに教えられたわけじゃないよね。命令されたわけでもない。……じゃあ、それでも剣を抜いたのは、あなたが“守りたい”って思った人がいるからでしょ?」
「……ああ」
「だったら、それが“答え”じゃない?」
セリアは、にこりと笑った。
「影なんて、映らなくていいよ。だって、私にはちゃんと“あなた”が見えてるんだから」
その言葉に、フィンの胸の奥で、凍りついていた何かが溶けていくのを感じた。
(――そうだ。俺が剣を抜くのは、誰かを傷つけるためじゃない)
(守るため。信じたもののため。歩き続けるため)
風が吹いた。さざ波が走る。フィンがふたたび水面を見下ろすと――そこには、はっきりと自分の姿が映っていた。
「……戻った……!」
「フィン……!」
セリアが駆け寄って、思わず彼の腕を掴む。
「ありがとう、セリア。……俺、忘れかけてたよ。剣に込めた、最初の“願い”を」
水面に、今度はふたり並んだ影が揺れていた。
森の木々がざわめき、静寂だった湖畔に小さな変化が現れたのは、それから間もなくのことだった。
「……風?」
セリアが耳を澄ませると、草葉をくすぐるようなそよ風が吹き抜け、湖面にかすかな揺らぎが走った。
だが、それは自然の風ではなかった。空気がざらつき、温度が微かに下がっていく。
フィンは即座に剣の柄へと手を伸ばし、鋭く周囲を見渡した。
「気をつけて。……何かが近くにいる」
「魔物……?」
「いや、“気配”が違う。どちらかといえば……もっと静かで、冷たい……」
セリアがそっとフィンの背に寄り添う。そのとき、木立の向こう、湖の対岸に“何か”が立っていた。
黒い影。人のようでありながら、輪郭がぼやけ、光を呑み込むような存在感。
「……見えてる? フィン」
「……ああ」
フィンは息を呑んだ。そいつには――“顔”がなかった。
ただの影のように、全身が黒く塗りつぶされている。手足もあるが、動きは異様に滑らかで、まるで液体のように揺れている。
「……“映らぬ影”」
「え?」
「俺の影が湖に映らなかったのは……あいつが奪っていたんだ」
“影”は静かに一歩を踏み出す。水面の上を滑るように、こちらに向かってくる。
その動きに、フィンの背中に冷たい汗が滲んだ。
(近づいている……ただ歩いているだけなのに、こんなにも圧迫感があるなんて)
セリアがフィンの袖を強く握った。
「……あれ、なんだか、すごく……怖い」
「俺も、そう感じる」
“影”は感情を持たないはずだ。だが、そこにあるのは、まるで――人の“迷い”や“後悔”が、塊となって現れたような存在だった。
「……セリア、下がっていて」
「でも……」
「大丈夫。ちゃんと“思い出した”から」
フィンはゆっくりと一歩を踏み出した。剣を抜き放ち、地を蹴る。
“影”が動いた。水面を撥ねることもなく、滑るようにフィンへと迫ってくる。
剣と影がぶつかる。
ジャリ、と乾いた音。刃が何かを切った感触が、腕を通じて伝わってくる。だが――
(重くない……?)
斬った感触はあった。だが、手応えがない。次の瞬間、影の一部がゆらりと揺らめき、フィンの背後に回り込んだ。
「……っ!」
剣を返す。だが、影は刃を通り抜けるように霧散し、また一つに戻る。
「まるで、霧……? いや、幻か……」
“映らぬ影”は、どこかフィンの動きを“試して”いるようだった。攻撃を仕掛けてくるわけでもない。ただ近づき、姿を見せ、そして再び距離を取る。
――迷わせている。
「これは……心を乱す魔物、なのか?」
フィンは剣を構え直し、呼吸を整えた。だが、その刹那だった。
「フィン!」
セリアの叫び。
次の瞬間、フィンの視界が歪んだ。
世界が一転し、目の前の影が“人の姿”に変わる――。
自分と同じ顔、同じ髪、同じ瞳。
だが、その表情は沈痛で、目の奥は空虚だった。
「お前が、守れたものは……本当にあったか?」
「……!」
「剣を振って、何かが変わったか? 奪うばかりで、救えていないんじゃないのか?」
「やめろ……!」
“影”は、フィンの中の“迷い”そのものを映していた。
「お前の剣に、意味はあったのか?」
「――ある!」
フィンの叫びとともに、空気が破れたような音がした。
「意味は、あった……! 少なくとも、俺は、それを“信じた”! それで……進んできた!」
その瞬間、“影”の姿が大きく揺らぐ。
再び霧のようになり、今度はゆっくりと後退していく。光が差し込み、影が“溶けて”いくように消えていった。
湖の水面に――もう、異形の気配はなかった。
「……やった……の?」
セリアの問いに、フィンはゆっくりと頷いた。
「……ああ。俺の中の“迷い”を……断った」
再び湖を覗き込むと、そこにははっきりと自分の姿が映っていた。
「フィン、見えてるよ。ちゃんと、映ってる」
「……ありがとう。セリアがいてくれたから、俺は戻れたんだ」
その言葉に、セリアは照れたように笑い、そしてぽつりと言った。
「フィンの剣が、誰かを守るためのものなら……私は、それを信じてついていくよ」
フィンは静かに頷き、剣を鞘に納めた。
――鏡の湖は、再び静けさを取り戻し、湖面に二人の影をゆるやかに映し出していた。
湖面は嘘のように穏やかだった。
ついさっきまでそこに、“心の影”が巣食っていたとは思えないほど――風ひとつない、透明な水の鏡。
フィンは膝に手をつき、大きく息を吐いた。
「……少し、きつかったな」
「当たり前ですよ。あんなの、誰だって怖くなります」
セリアがそっと手を差し出してくる。
白くて小さなその手を、フィンはためらわずに取った。
「ありがとう。……支えてくれて」
「いえ……私、何もできなかった。フィンが全部、一人で……」
「違うよ」
フィンは静かにかぶりを振る。
「セリアがそばにいたから、俺は“自分”を取り戻せた。あの影が俺に見せたのは……本当のことでもあったから」
セリアは何も言わなかった。ただ、フィンの横に並んで湖を見つめていた。
空が高くなり、雲が流れていく。時刻は正午を過ぎ、光は真上から降り注いでいる。
「ねえ、フィン」
「ん?」
「……“自分の剣が、誰のためのものか”って、まだ答えは出てないの?」
フィンはゆっくりと視線を移した。湖面に揺れる自分の顔と、隣にいるセリアの笑顔。
「……前よりは、見えてきた気がする」
「それって……?」
「今は、“守りたい”と思うものがある。だから剣を振る。それだけでも、きっと意味はあるはずだって、信じたい」
セリアは目を細めた。
「……うん。私も、信じてる。フィンの剣が、これからも誰かを守るためのものだって」
「ありがとう」
二人はしばらく黙って湖のほとりを歩いた。
まるで“心の影”を払ったこの場所が、何かの節目であるかのように、空気が澄んでいた。
木々の葉擦れも、水面を撫でる風も、すべてが透明に思えた。
「ところで……セリア」
「なに?」
「どうしてさっき、“あなたの剣は誰のためのものか”って、あんなことを聞いたんだ?」
セリアはぴたりと歩みを止め、少し俯いた。
「……それは、私も、ずっと考えてたから」
「セリアも?」
「うん。私は“力”を持ってる。でも、それをどう使うべきか、いつも迷ってた。魔法も、知識も、歌も、癒しも……誰かを笑顔にしたいのに、どうしてか、うまく届かないことが多くて」
フィンは黙って彼女を見守る。
セリアの瞳には、かすかに揺れる不安が映っていた。
「でも、フィンを見てると……何て言うのかな……。迷っても、悩んでも、“それでも振るう”って決めた覚悟が見えるから」
「……俺は、まだまだ未熟だよ」
「でも、誰かにとっては、十分な“希望”になってる。……少なくとも私は、そう思ってる」
フィンの表情が、少しだけ和らいだ。
「そっか……。ありがとう。……本当に」
その言葉には、心の底からの響きがあった。
二人の間に、しばしの沈黙が流れる。
けれどそれは重いものではなく、心地よい風のような、穏やかな間だった。
そして――
「……さて、そろそろ行こうか」
フィンが言うと、セリアも笑って頷いた。
「うん。次の場所が、きっと待ってる」
「そうだな。“影”を越えた先には、きっと……光がある」
そう言って歩き出すフィンの背に、セリアはそっと一言、呟いた。
「……その光に、私も一緒に向かっていけたらいいな」
風がふわりと吹き抜け、湖面がきらきらと揺れた。
二人の影は並び、遠ざかる足音だけが、静かな湖畔に残っていった――。
湖畔を離れてしばらく、二人はゆるやかな山道を進んでいた。
霧が晴れたように、森は驚くほど静かだった。
枝の間からこぼれる光は柔らかく、昨日までの旅路の重さが嘘のように思えるほどだ。
「セリア。……俺、本当に“映らない影”に飲まれるところだったかもしれないな」
ぽつりと呟いたフィンの声に、セリアは小さく目を見開いた。
「でも、ちゃんと戻ってきた。自分の足で」
「……そうだな」
フィンは苦笑して、肩をすくめた。
「……あの湖は、きっと、俺に問いかけてきたんだ。“お前は何者か”って」
「うん」
「そして、答えられなければ、“影”のまま終わっていた。……だから、今こうしていられるのは、セリアのおかげだよ」
「……私、何もしてないよ?」
「そばにいてくれた。それだけで十分だった」
セリアは、少しだけ顔を赤くして視線を逸らした。
けれどその横顔には、ほんのりとした笑みが浮かんでいた。
ふと、風が頬を撫でる。
森の奥に差しかかると、苔むした石碑がぽつりぽつりと並び始めた。
「……何だろう、ここ」
「古い集落の跡地かな? 碑文が風化してて読めないけど」
二人は足を止め、ひときわ大きな石の前で佇んだ。
風の音が、まるで“ささやき”のように耳を撫でる。
――忘れるな。
そんな声が、確かに聞こえた気がして、フィンは目を細めた。
「……セリア。“記憶”ってさ」
「うん?」
「……持ってるだけじゃ、意味がないのかもな。誰かに伝えて、誰かと分かち合って……そうして初めて、“記憶”って、生きるんじゃないかって思った」
「……」
「だからこそ、あの“影”は孤独だったんだ。誰にも理解されず、誰にも知られずに、ずっとあの湖の底で……」
言いかけて、フィンは口を閉じた。
セリアは静かに頷いた。
「だから、私たちは歩くんだよ。記憶を、想いを、未来に届けるために」
「……ああ。忘れない。忘れさせない」
二人は石碑に向かって一礼し、再び歩き出した。
その背中は迷いなく、まっすぐに“旅の続き”を見据えていた。
やがて、道は開け、低い丘の上へとつながっていく。
その先に広がるのは、色づいた大地と、遠く霞む青い峰々――
「……綺麗だね」
「うん。……世界って、こんなに広かったんだな」
セリアがふと立ち止まり、背中の鞄をごそごそと探った。
取り出したのは、一冊の薄いノート。
「それ、何?」
「旅の記録帳。……私の視点で、この世界を綴ってるの。誰かがいつか読むかもしれないって思って」
「……いいな、それ」
「でも……」
セリアは笑った。
「字が汚くて、誰も読めないかも」
フィンもつられて笑った。
「大丈夫。俺が読み方を教えてやるよ」
「うん。じゃあ、そのときはお願いね」
丘の風が吹き抜ける。
その瞬間、どこか遠くで――風鈴のような音がした。
「……?」
フィンが振り返ると、丘の向こうにひとつの影が揺れていた。
「誰か、いる?」
「分からない。でも……たぶん、“次”の場所だ」
「うん。行ってみようか」
二人は小走りに丘を下った。
足音は軽く、草を踏む音さえも、何かを奏でるように響いていた。
それはまるで、“心の影”を越えた者だけが紡げる、新しい物語のはじまりだった。
――その剣は、誰のために。
その問いに、今なら答えられる。
“この世界に生きる、すべての人々のために”。
そして何より、“そばにいる、大切な誰かのために”。
ご覧いただきありがとうございました。
「誰のために剣を振るうのか」――これは主人公フィンにとって、旅の中で幾度となく問われ続けるテーマです。そして今回は、その問いに“初めて自分の言葉で”答えを出すことができました。
セリアとの絆も、また一歩深まった回だったと思います。
この物語は、派手なバトルだけでなく、“心の変化”を描くことを大切にしています。少しでも読者の皆さまの心に残るものがあれば、幸いです。




