95話:山の都、囚われの歌姫
今回の舞台は、山岳都市“ルーミア”。
かつて音楽と祈りが息づいていた街は、今や沈黙の独裁政権に支配され、歌を封じられていました。
そんな中、癒しの声を持つ歌姫リュミエールが囚われているとの報せを受けたフィンとセリア。
彼らは人々の心に“音”を取り戻すべく、影の中へと踏み込みます――。
「音を奪うな、命を奪うな」――その言葉が胸に響く一話です。
山の背に沿って広がる階段都市――その名はルーミア。
霧に包まれたその街は、かつて“音楽の都”と呼ばれていた。谷を抜ける風に乗せて、詩が、歌が、笛の音が山々に響き渡っていたという。
だが今、その街は静寂に沈んでいた。
吹き鳴らされるべき鐘は黙し、祭壇にあったという聖なる竪琴は砕かれ、民たちは口を閉ざした。歌姫が囚われてからというもの、街にはひとつとして音楽が戻らなかったのだ。
「……確かに、妙だな。風の音すら、聞こえない」
フィンは山道を登りながら、振り返ってセリアにそう言った。
「うん、街が……“息”してないみたい。まるで凍った時間の中にあるみたい」
二人が立つ山道の背後には、広大な谷と雲海が広がっていた。その先には遥かな旅路と、越えてきた幾多の戦い。だが、この街の異様な静けさは、それらとは異質のものだった。
ルーミアの入り口には重厚な門があり、衛兵が二人、無言で警備に立っていた。だがその視線はどこか虚ろで、まるで“命令”という鎖で心を縛られているかのようだった。
「音楽は禁止だ。……入るなら、声を上げるな」
片方の兵が、機械的にそう言った。
フィンは無言で頷き、セリアと共に街へ足を踏み入れた。
◆
街の中も、また異様だった。
石畳の道。重ねた瓦屋根。高台には劇場跡らしき施設が見える。しかし、子どもが遊ぶ声も、商人の呼び声もない。ただただ、沈黙。
(これは、呪いに近い……いや、暴政か)
フィンは目を細め、街を見上げた。
都市の最上層には、一際大きな邸宅が建っている。そこに住むのが、この街を牛耳る“独裁者”であるという。かつては楽団の支援者だった男が、音楽を私物化し、やがて音そのものを支配する存在へと変貌したのだ。
「……ねえ、あれ」
セリアが小声で指差したのは、石壁の影に貼られた紙片だった。
『声を発することを禁ず』『楽器の保持、演奏は禁止』『違反者は塔へ』
そこに描かれたマークは、断ち切られた音符。フィンは思わず眉をひそめた。
「音が“命”である街で、音を奪うのは……」
「命を奪うことと、変わらないよね」
セリアの声は、ひどく静かだった。
◆
夕刻、二人は“沈黙の広場”と呼ばれる場所に辿り着いた。
かつて歌姫が民の前で歌った場所。今は見張りが常に立ち、誰もが目を伏せて通り過ぎていく。
「ここが……歌姫が歌っていた広場?」
「そうだ。星読みの文献にも記録がある。“癒しの声”を持つ者が、夜空に祈りを捧げた場所らしい」
「じゃあ、今は……その声を、ひとりの人間が奪ってるんだね」
セリアは拳を握った。音を愛する彼女にとって、この街の静けさは耐え難いものだった。
◆
夜が訪れ、街に灯がともる頃。
フィンとセリアは、裏手の谷道から邸宅へと忍び込んだ。
石造りの建物は厳重な造りだったが、セリアの気配遮断と、フィンの動きの軽さがそれを上回った。
中庭の先、灯りの漏れる小さな建物の中から、かすかに……歌のような音が聞こえてきた。
けれど、それは歌というにはあまりに……痛々しく、弱々しかった。
「……あれが、歌姫……?」
フィンは、静かに剣に手を伸ばした。
この街から奪われた“音”を、そして“命”を――いま、取り戻す時が来た。
中庭に面した回廊は、しんと静まり返っていた。
風の音さえも入り込まぬ石壁に囲まれ、まるで時間そのものが止まったかのようだった。フィンとセリアは足音を殺しながら、月明かりを頼りに進んだ。
「……この先、だね」
セリアが指さした先――小さな楼閣の扉から、かすかに声が漏れていた。声というより、息。それも、細く苦しげな。
「まるで、……泣きながら歌ってるみたい」
「行こう」
フィンはそっと扉に手をかける。
きぃ……と古びた蝶番が軋み、わずかに隙間が開く。そこから見えたのは、薄暗い部屋の中央に膝をついた、一人の少女の姿だった。
ぼろぼろのドレス。煤けた髪。手足には装飾と見せかけた拘束具が嵌められていた。
だが、その唇だけが、わずかに震えていた。
――ああ。
フィンは言葉を失った。
彼女が声を出しているのではない。喉が、唇が、震えているのだ。まるで、囚われた小鳥が、誰にも聞かれぬよう必死にさえずろうとするように。
「歌わされてる……独りで……誰にも届かない歌を」
セリアの瞳が、悔しさに滲んだ。
「これは、許せない」
その瞬間、背後に影が揺れた。
「誰だ、そこにいるのは!」
怒声が響き、複数の兵が一斉に飛び込んできた。
フィンは即座に剣を抜いた。月明かりが刃に反射し、床に白銀の軌跡を描く。
「セリア、頼む!」
「うん!」
セリアは素早く部屋に滑り込み、歌姫を庇うように立ちふさがった。
「もう、大丈夫。あなたを、閉じ込めたりしない」
歌姫の目に、涙がにじんだ。
◆
兵たちの剣が、フィンを包囲した。
だが彼は冷静だった。目の前の敵よりも、耳を塞がれ、声を奪われたこの街の苦しみに怒りが募っていた。
(声は、生きている証だ。それを奪うのは、命を殺すのと同じ)
「――音を奪うな、命を奪うな」
その言葉と共に、剣が閃いた。
ひと振りで二人を倒し、次の瞬間には背後の兵を振り返りざまに弾く。動きは滑らかで、一切の無駄がなかった。
驚き、たじろぐ兵たち。
「な、なんだこいつ……」
「侵入者だ、早く鐘を――」
「その鐘は、もう鳴らない」
振り返ったセリアの魔法が、鐘楼の上部に張り巡らされた“音封じの結界”を破壊した。空気がびり、と震え、封じられていた“音”の通路が解き放たれる。
「これで……この街に、音が戻る」
とたんに、少女が微かに声を漏らした。
「……たすけて……」
――それは、間違いなく“歌”だった。
◆
数刻後。
フィンとセリアは歌姫を連れ、街の外れにある古い劇場跡へと逃げ込んだ。
そこはかつて、千人以上を収容したという音楽堂だった。今は瓦礫が積もり、舞台も崩れている。だが、その中心だけは不思議なほど風が通り、天井の穴から星の光が差し込んでいた。
「ここで……あなたは、歌っていたんだね」
セリアが微笑むと、少女は小さく頷いた。
「……みんなが、笑ってた。……私も、楽しかった」
「もう一度、取り戻そう。あなたの歌も、この街の音も。全部」
フィンがそう言うと、少女はゆっくりと立ち上がり、口を開いた。
そして、今度は確かに――歌声が、広がった。
朧な旋律。震える声。だが、確かに“癒し”の力を帯びたそれは、崩れた劇場に新たな風を吹き込んだ。
街のどこかで、誰かがそれを聞いた。
黙していた子どもが、そっと口ずさんだ。
夜の静寂が、波紋のように揺れ動いた。
◆
劇場の階段に腰かけながら、セリアが言った。
「ねえ、フィン」
「ん?」
「私、あの子の歌を聞いてたら……不思議な気持ちになったの。なんだろう、“守られてる”っていうか、“許されてる”っていうか」
「それが、癒しの歌なんだろうな」
「うん。でも……私も、何かを“歌”で伝えられる人になりたい」
「セリアなら、きっとなれるよ。……君の声は、あの子を安心させてた」
セリアは照れたように笑って、夜空を見上げた。
星が、ようやく、音を取り戻した街を祝福するように瞬いていた。
歌姫の名は、リュミエールといった。
銀糸のような髪に、かつては光を宿していただろう瞳。だがその瞳は、長い沈黙の年月に閉ざされ、かすかな恐れと疑念をたたえていた。
それでも、彼女は歌った。
瓦礫に囲まれた舞台の上で、壊れた音響装置の前で、まるで自分の存在を確かめるかのように。
「……あの声、やっぱり不思議」
舞台袖の影からそっと見守っていたセリアが、ぽつりと呟いた。
「震えてるのに、届いてくる。悲しいのに、あったかい」
「それが、リュミエールの“力”なんだろう」
フィンもまた、舞台の隅に腰を下ろし、耳を傾けていた。
観客席に人影はない。けれど、確かにそこには“空気”があった。声を受け止める静けさ。目を閉じて感じる共鳴。そして、誰にも強制されない、自由な音の在り方。
セリアは、フィンの隣に腰を下ろし、膝を抱えながら言った。
「ねえ、もしも――あの歌が、街じゅうに届いたらどうなると思う?」
「沈黙していた人たちが、きっと……自分の声を思い出す」
「うん。笑い声とか、呼びかけとか、赤ちゃんの泣き声とか。あたりまえの“音”が、また町にあふれるんだよね」
「だからこそ、リュミエールは奪われたんだろう。……支配者にとっては、不都合すぎる」
フィンの言葉に、セリアは小さくうなずいた。
「でも、奪われたものは、取り返せるよね」
そのとき、リュミエールの歌が一瞬止まり、彼女がフィンたちの方を見た。
「……お願い、私に……“聴いてくれる人”を……連れてきてくれない?」
か細い声だったが、確かに届いた。震えながらも、彼女は自分から“外”に踏み出そうとしていた。
「わかった」
フィンは立ち上がり、剣の柄に手をかける。
「“歌”はもう、閉じ込めさせない」
◇
夜明け前――。
ルーミアの町に再び足音が戻りつつあった。噂は風に乗り、兵士の間にも広がっている。
“かつての歌姫が、劇場で歌った”
“封じられた音が戻った”
“空が、震えた”
その一つひとつが、支配者の恐怖と苛立ちを煽っていた。
「歌を止めろ。誰かが口ずさめば、耳を塞げ。誰かが笑えば、黙らせろ!」
命令を受けた衛兵たちが町を巡回する中、ひとつの家で、年老いた女が立ち上がる。
「……聞いたよ。あの子の歌を」
その声が、隣の家に伝わり、そこからまた隣へと。
誰かが口ずさむ。
誰かが続ける。
そして、とうとう町の中心――広場に一人、立ち上がる者が現れた。
若者だった。震える声で、リュミエールの旋律を真似て歌い出す。
「やめろ!」と兵が叫ぶ。剣を抜いて威嚇する。
だが、止まらない。二人目、三人目が声を重ねる。
それは、静かな反乱だった。
誰も叫ばない。血を流さない。けれど、確かに“奪われたもの”を取り戻そうとする者たちの、最初の一歩だった。
◇
一方、古劇場の裏手――。
フィンは屋根裏の梁に立ち、矢をつがえようとする敵の狙撃兵を素早く無力化していた。
「このままでは、また彼女が奪われる」
フィンは冷静に敵の数と位置を把握していた。
セリアが伝令のように劇場内を走り回る。
「フィン、南の通路に増援! あと二人、武器あり!」
「了解。そこは俺が行く。君はリュミエールを守って」
「任せて!」
セリアは杖を構えた。
あの穏やかな少女が、今は剣の仲間として動いている。
フィンは石壁を蹴り、窓から跳び出した。
街の風景が一望できた。夜明けの光が山の端に差し掛かり、雲を金色に染めていく。
その中に響いた――一陣の歌声。
「……あれは」
リュミエールだった。
強くなっていた。誰かに押しつけられたものではなく、自分の意思で紡いだ旋律。光と風と、あらゆる命の声を抱きしめるような歌だった。
「もう、閉じ込められたりしないんだね……」
フィンは呟き、剣を強く握った。
「なら、俺もやるべきことをやるよ。君の歌を、守る剣として」
その目に映っていたのは、倒すべき敵ではなく――守るべき音だった。
ルーミアの夜明けは、ゆっくりと訪れた。
長い間、雲に閉ざされていた空に微かな朱が差し、山間に静けさと共鳴する“音”が満ちていく。
囚われていた歌姫リュミエールの声は、すでに街の多くの住民の心を揺り動かしていた。それは一つの“光”であり、剣にも似た鋭さを持つものだった。
「歌姫が劇場で歌っている――」
「本当に……あのリュミエールなのか?」
「聞いたんだよ、あの声を。昔と変わらない……いや、もっと強くなってた」
民の声がざわめきとなり、ついに広場に集まり始める。表情のなかった顔に、希望と恐れが混ざる。支配者に睨まれたとしても、もう立ち止まってはいられない。誰かが歩き出したから、自分もその背中を追うのだ。
◇
一方、劇場内ではリュミエールが最後の歌に入っていた。
その旋律は、もはや囁きではなかった。
小鳥のさえずりのように優しく、それでいて春雷のような強さを持ち、言葉にできぬ感情を心に直接刻みつけてくる。
セリアは舞台袖で彼女を見守りながら、無意識に拳を握っていた。
「……届いてる、ちゃんと……」
その瞳には涙がにじんでいた。
(この歌は――癒すだけじゃない。思い出させる力だ。忘れていた笑顔や、閉じ込められていた想いを――)
彼女の背後、地下の通路から兵の足音が迫ってくる。
「来た……!」
セリアは素早く立ち上がり、杖を構えて通路をふさぐ。
「この場所には通さない。あなたたちには、聴かせない!」
風の魔法陣が地面に展開し、突進してきた兵士の体がふわりと浮かび上がる。動きを封じられたその隙に、別方向から現れたフィンが斬撃で無力化した。
「ナイスだ、セリア!」
「こっちも問題ないよ!」
二人は目を合わせ、頷き合った。
◇
その頃、支配者ハルド・グランは自身の私邸で苛立ちを隠さず机を叩いていた。
「なぜ止められんのだ! あの女の声を! この街は我が治める地だ! “音”すら従わせられぬとは何事だ!」
だが、外のざわめきはもう止められなかった。
人々は広場で足を止め、顔を上げて空を見ていた。かつて“音”を奪われた者たちが、その空間に身を置いていた。
――そして、音が満ちる。
リュミエールの歌声が、劇場を越え、風に乗って山の都全体を包み込んでいった。
「音を……返してくれて、ありがとう」
老いた老婆が、隣にいる幼い孫に囁く。
「これはね、昔この町にあったものなのよ。あたしたちが、忘れてしまっていた大切なもの……」
涙ぐむ人。笑う人。黙って聴き入る人。
そのすべてが、“取り戻す”行為だった。
◇
劇場では、最後の一節が響き渡っていた。
「……命を奪わないで。声を奪わないで」
そのフレーズを口にしたリュミエールの目に、確かな光が戻っていた。
フィンとセリアが、舞台袖に立つ彼女のもとへ歩み寄る。
「……守ってくれて、ありがとう」
リュミエールは言った。
「私……もう、歌えないと思ってた。でも……人が聴いてくれるって、あんなに心強いことなんだね」
「ううん、リュミエールさんの声があったから、みんな思い出せたんだよ」
セリアが答えた。
「私、ちょっと怖かったの。誰にも届かない声なんて、意味あるのかなって。けどね、あなたの歌でわかったよ。声は“届けようとする気持ち”があるだけで、きっと何かを動かせる」
リュミエールがそっと、セリアの頭に手を置いた。
「あなた、素敵な魔法使いね」
セリアが照れくさそうに笑う。
◇
そして、夜が明ける。
フィンは、劇場の屋根に立って、朝日に照らされたルーミアの街を見下ろしていた。
「……終わったわけじゃない。きっと、これからが始まりなんだろうけど」
セリアが隣に立つ。
「それでも、最初の一歩にはなったと思うよ」
「うん。誰かが歌い、誰かがそれを受け取る。それだけで、街は変わる」
「じゃあ、次はどこに行く?」
フィンは空を仰ぎ、答える。
「……星を追って、東へ行こう。音が戻った街の隣で、今も声を奪われている人たちがいる気がするんだ」
「……うん、行こう!」
朝の光の中、ふたりは新たな旅路へと歩き出す。
“声”は時に、剣よりも鋭く、火よりも温かい。
音楽を忘れた街に再び“響き”が戻るまでの物語を、最後まで読んでくださりありがとうございます。
フィンが振るう剣と、リュミエールの歌、セリアの魔法。
三者の力が重なったことで、街に光が差しました。
次回からは、さらに東へと向かう旅路が始まります。
新たな出会いと、次なる“記憶”の扉を、どうかお楽しみに。
物語を「面白い」「続きを読んでみたい」と感じていただけましたら、
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