93話:記憶を喰らう森と、声を忘れた少女
“記憶を喰らう森”と呼ばれる場所に足を踏み入れたフィンとセリア。
今回の物語では、戦いや剣の見せ場よりも、「失われたものをどう取り戻すか」「名前の持つ力とは何か」に焦点を当てました。
“声を忘れた少女”ルアとの出会いは、ふたりにとって小さな冒険であり、大きな問いかけでもあります。
誰かの名前を呼び続けること。それが、失われた記憶の光明になるというテーマは、今後の旅路にも大きく影響していくでしょう。
今回の森のエピソードは、セリアの内面やフィンとの関係性も一歩前進する回でもありました。
どうか読者の皆様にも、彼らとともに“名前を呼ぶこと”の重みを感じていただければ幸いです。
朝の陽射しが差し込む山道を、フィンとセリアはゆっくりと歩いていた。
谷を越え、丘をいくつも越えたその先に、“忘れられた森”と呼ばれる一帯があるという。
「この森……地図に名前がないんだね」
セリアが手元の地図を見つめながら、眉をひそめる。
「記されていないんじゃなくて、“記せない”んだって。通った者が、森を出る頃には“場所”も“道”も忘れてしまう。……記憶を喰われるって噂だ」
フィンが小さく答えると、セリアは少しだけ足を止めた。
風が止み、葉擦れの音もなく、森の入口だけが“黒く”見えた。
鬱蒼とした樹木は互いに絡み合い、日差しを遮っている。入口はまるで口を開けた獣のようで、通る者を呑み込もうとしていた。
「記憶を……喰われる?」
「誰かを想いすぎた人とか、大切なことに縛られてる人ほど、危ないらしい」
セリアの瞳が揺れた。
「それって、フィンが一番危ないじゃない……」
「かもな。でも、だからこそ行く価値がある。失いたくない記憶があるなら、それを背負って前に進むしかないんだ」
少しの沈黙が流れた後、セリアは頷いた。
「……じゃあ、私も行く。忘れたくないから。フィンとの旅も、出会った人たちのことも、全部……覚えていたい」
二人は視線を交わし、森の中へと足を踏み入れた。
◆
森の中は、まるで世界の時間が止まっているようだった。
葉のざわめきも、鳥の声も、風すら存在しない。
代わりに、聞こえてくるのは――「誰かの記憶の声」。
「……おかえり……ママ……」
「なんで僕だけ、置いてくの……?」
「忘れたくない……あの日の夕暮れを……」
その場に存在しないはずの声が、耳元でささやく。
フィンもセリアも、無意識に手を伸ばしそうになるたび、互いの腕を強く掴み合った。
「大丈夫。俺は、俺の名前を知ってる。俺は……フィンだ」
「私も、セリア……忘れない」
そう唱えることで、ふたりは自分の輪郭を保っていた。
しかし、数分進んだそのとき――
「……ん?」
茂みの向こうで、何かが動いた。
フィンはすぐさま身構えたが、現れたのは魔獣ではなかった。
ボロボロのマントに包まれた、小柄な影――
それは、一人の少女だった。
髪は肩ほどの長さで、薄汚れた金色。目元は隠れるほど伏せられており、裸足のまま立ち尽くしている。
そして――彼女は、声を発さなかった。
「……大丈夫?」
セリアがゆっくりと声をかけるが、少女は無言のまま首を傾げるだけだった。
怯えている様子はない。だが、自分の存在すら理解していないような、どこか“抜け落ちた”ような印象を受けた。
「……この子も、記憶を?」
フィンがつぶやくと、少女は彼をじっと見つめ、指で地面をなぞり始めた。
そこに浮かび上がったのは、一文字の記号。
――「リ」。
「……名前? リ……リナ? リィ……?」
少女は静かに首を横に振る。だが、どこか悲しげに、それでも思い出そうとしているような表情を見せた。
「たぶん……“名前”を忘れたんだ。だけど、覚えていたいんだよ」
セリアがそうつぶやいた時――
森の奥から、低いうなり声が響いた。
空気が震え、木々が軋み、何かが“目覚める”気配が森全体に満ちた。
「フィン……」
セリアの手が、フィンの腕を掴んだ。
そして少女は、突如としてセリアの裾を掴むと、震える指で指し示す。
――森の中心へと、導くように。
森の奥へと進むにつれ、光は徐々に吸い込まれるように失われていった。太陽の位置が変わったわけではない。ただ、木々の密度が異様に増し、枝葉が空を覆っているのだ。
「……おかしい。今、方角が変わってる」
フィンが足を止め、地図を確認する。しかし紙に記された道筋と、目の前の景色は明らかに違っていた。
「さっき、あの倒木のところを通ったはずなのに……また戻ってきてる」
セリアも周囲を見渡して頷いた。足元の地面には、自分たちの靴跡が重なっている。二人は間違いなく“同じ場所を”ぐるぐると歩かされていたのだ。
「やっぱり、ここが“記憶を喰らう森”か……」
かつて、古文書の中で読んだ伝承をフィンは思い出す。ここは“道を思い出せぬ者”が永遠に迷う森。人の記憶に巣食う魔性が棲む場所とされていた。
「……セリア、何か感じる?」
「うん、森の気配が重くなってきてる。まるで、誰かの視線が木々から降ってくるみたい……」
彼女の銀髪が風もないのにわずかに揺れた。
その瞬間、木の間から“何か”が現れた。
姿は少女だった。十歳前後の小柄な体。浅い色の髪と、感情の読めない瞳。だが、その目は真っ直ぐにフィンたちを見つめていた。
「……君、こんな場所で何してるんだ?」
フィンが優しく声をかけるが、少女は何も言わなかった。
「……名前は?」
無言。少女は小さく首を横に振った。
「……しゃべれない?」
セリアが一歩前に出て、しゃがみ込むように少女と目線を合わせた。
「声を、なくしたの?」
少女は、こくりと頷いた。
(……奪われたんだ)
フィンは直感した。この森の何かが、彼女の言葉、いや――“記憶”を喰らったのだ。
「手を、貸してくれる?」
セリアがそう言って手を差し出すと、少女はためらいながらも、その手を取った。
◆
少女を伴って再び森を進み始めた三人。
だが、森は依然として出口を示してくれなかった。むしろ道はますます混沌とし、同じ景色が繰り返される。木の幹には意味を持たない模様が刻まれており、見る者の心を揺さぶるような奇妙な囁きが聞こえる。
「この森、ただの迷宮じゃない……」
セリアが汗をぬぐいながら言った。
「記憶に干渉してるんだ。道だけじゃない。思い出や名前、声や感情まで……曖昧にして、喰らってる」
「まるで“自分が誰だったか”すら、分からなくなる森……か」
フィンは息を吐き、腰の剣を軽く抜いた。いつでも戦えるように。
「……なあ」
その時、セリアがぽつりとつぶやいた。
「さっきの子……ずっと、フィンの背中ばかり見てるんだよ」
「え?」
「怖いのか、それとも……思い出そうとしてるのか。なんとなくだけど……あの子、フィンに似てる」
その言葉にフィンはハッとした。
確かに、少女の髪色や輪郭は、自分の幼少期の面影に似ていた。だがそれは偶然なのか、それとも――
「……なあ、セリア」
「うん?」
「この森が“記憶を喰らう”だけじゃなく、“記憶を見せる”森だったら、どうする?」
セリアは目を見開いた。
「誰かの記憶の中に、入り込んでる……?」
「その可能性もある。もしかすると、あの子は俺の――」
言葉を遮るように、森の奥から“音”がした。
地面が低く唸り、木々の間を黒い影が這う。
「来る!」
フィンが叫んだ瞬間、地を這う霧のような魔性が現れた。
その姿は、明確な形を持たない“もや”だった。
が、それに触れた木々が、一瞬で朽ち果てていく。
「記憶じゃない……存在そのものを喰らってる……!」
セリアが魔力を展開し、風の障壁を作る。しかし黒い霧はその隙間を縫って、少女へと向かってきた。
「危ないっ!」
フィンが少女を抱きかかえ、すぐさま後方に跳ぶ。
「“守るための剣”……!」
抜き放った刃が、霧の一部を裂く。しかし手応えは薄く、霧はすぐに再構築される。
――このままじゃ、終わらない。
フィンは覚悟を決めた。
「セリア、俺に繋げてくれ。あの子の記憶に……!」
「分かった!」
セリアは精霊の力を媒介に、少女の手をとった。
次の瞬間、森の風が止まり、世界が静止した。
――そして、記憶の中の扉が、開かれた。
フィンの視界が、ゆっくりと色を失っていく。
次第に音も消え、時間の流れさえ曖昧になっていくような錯覚を覚えた。霧のような闇のなかに、彼はひとり、意識だけで浮かんでいた。
(……ここは?)
答えは返ってこない。だが――不意に、足元に“地”を感じた。
それは、柔らかい草の感触。次に目の前に広がったのは、陽だまりの丘だった。
小さな集落の片隅。風に揺れる洗濯物。木の枝に吊るされたおもちゃ。どこか懐かしい、けれど見覚えのない風景が広がっていた。
「……ここは、あの子の記憶の中……?」
誰の記憶なのか、はっきりとはわからない。ただ、ここが“心の奥”であることだけは直感的に理解できた。
と、そのとき。
木陰から、一人の少女が現れた。
あの、声を失った少女だ。
だが――この世界の中での彼女は、言葉を話していた。フィンが見ていたのは“過去”だ。
「……お父さん! 見て、見て!」
少女は、藁で編んだ手作りの小さな剣を掲げながら走っていた。その表情には、喜びと誇らしさが満ちていた。
(あの剣……)
フィンの記憶にも似たようなものがあった。幼いころ、落ち葉や棒切れで“剣士ごっこ”をしていた頃の記憶が蘇る。
しかし、そこで映った“父親”の顔は見えなかった。まるで顔だけが塗りつぶされたように曖昧で、声も聞こえない。
「……この記憶、“誰か”に消されてる……?」
それとも、喰われたのか――。
少女は、次第に言葉を失っていった。最初は小さな叫びや笑い声が、やがて呟きになり、最後には口だけが動いていた。
(記憶の浸食だ……!)
彼女の心の中で、声の記憶が蝕まれていった瞬間。
“闇”が、音もなく森の奥から現れた。
黒い霧。もはや生物の姿も形も持たないそれは、少女の思い出を貪るように周囲を包み込んだ。
「あの子の声を……返せ!」
フィンは叫びながら、一歩踏み出した。
すると、その声が“光”になって弾けた。
記憶の世界に、風が吹く。
霧が裂け、少女の“心の核”が浮かび上がる。
そこには、ひとつの名があった。
――〈ルア〉
(……君の、名前……!)
その瞬間、風が爆ぜた。
フィンの身体が現実の世界に引き戻される。
◆
目を開けると、再び森の中だった。
だが、霧は後退していた。少女――いや、ルアが、フィンの腕の中で微かに唇を動かす。
「……ル……ア……」
風が、囁いたように名前を繰り返した。
次の瞬間、森の奥から“気配”が現れた。
それは、木々と一体となったような“存在”だった。人の形をしていながら、その身体は樹皮に覆われ、風と葉を纏っていた。
「……森の、主……」
セリアが隣で声を上げた。
「あなたが、この森を守っていたの?」
森の精霊は答えなかった。ただ静かに、ルアを見つめた。そして、ゆっくりと膝をつき、地面に手を触れた。
その瞬間、森全体がわずかに震えた。
霧が消えていく。
迷いの声も、嘆きの木々も、静かに風と共に流れていった。
「……君の声、還ったね」
フィンがそう言うと、ルアは――かすかに、笑った。
小さな、しかし確かな“音”が空気を震わせる。
それは、記憶と名を取り戻した少女の“最初の一言”だった。
「……ありがとう」
風が、それを讃えるように森を渡っていった。
◆
森を抜けたあと、セリアは小さくため息をついた。
「……フィン」
「うん?」
「やっぱり、すごいなって思った。あの子の中に飛び込んで、名前を見つけて、救って……」
「俺ひとりじゃ無理だったよ。セリアが繋いでくれたからだ」
「ふふ、私がいなきゃダメってことね」
セリアはそう言って、満足げに胸を張った。
森の出口では、ルアが小さく手を振っていた。
その笑顔は、もう声を忘れた少女のものではなかった。
それは、“記憶を取り戻した”一人の人間の、真の笑顔だった。
森を抜けた丘の上、白く霞む空を背にして、ルアが最後に見送ってくれた。
その細い指が小さく揺れ、まるで風と会話するように空へ向けて舞った瞬間――彼女の笑顔は、森の霧と同じように優しく、確かな形で心に刻まれていた。
「フィン。ねぇ……ほんとに、よかったね」
丘の下を歩きながら、セリアがぽつりと口にする。
「うん。あの子の声、名前……全部、戻ってきた」
フィンの返事は静かだったが、その声にははっきりとした“確信”が宿っていた。
ルアという少女は、名前を取り戻し、言葉を取り戻し、そして“過去”を抱きしめた。その姿は、フィンたちにとって“何か大切なもの”を改めて教えてくれたのだ。
「……名前って、大事なんだね」
セリアが足元の小石を蹴りながら、遠くを見上げる。
「それがあれば、自分のこと……見失わなくて済む気がする。たとえ世界に忘れられても、たった一人が覚えていてくれたら、きっと“存在”は消えないんだ」
フィンはセリアを横目で見た。彼女はまだ子どもだが、その言葉には強さとやさしさが滲んでいた。
(……そうだな)
彼自身も、セリアに名前を呼ばれるたびに、立ち戻ってこれた。迷いそうな時も、記憶の檻に囚われそうな夜も、いつだってその“声”に救われてきた。
「……ねえ、フィン」
「ん?」
「私が“声を忘れた”ら、どうする?」
セリアの問いかけに、フィンは一瞬だけ立ち止まった。そして、冗談めかして、けれど本気のまなざしで答えた。
「そんなの、あり得ないよ。セリアが黙ってられるわけないだろ」
「えー、ひどい!」
セリアが頬を膨らませて抗議すると、フィンは笑った。久々に自然と笑えた気がした。
「でも、本当にそうなったら……?」
「その時は、“名を呼び続ける”よ。君が君であるように、忘れたって思い出せるように。何度でも呼ぶ。セリア、って」
「……うん」
セリアの目が細くなり、口元がやさしくほころぶ。
「約束ね」
「約束だ」
二人は再び歩き出した。
◆
森の外れに、小さな泉があった。
透明な水が、音もなく湧き出している。まるで“記憶”そのものが流れているかのように、泉の水面はどこまでも穏やかだった。
「ここ、綺麗だね……。なんだか、ルアちゃんの心みたい」
セリアがしゃがみ込み、指先で水をすくう。
「風の塔の頂上とは、違った清らかさだ」
フィンはその隣で、そっと手を泉に浸した。
(ルアの記憶は、たぶんこの森の“鍵”だった)
記憶を奪う森。けれど、本当に恐ろしいのは、記憶を失った“後”だ。
自分が誰で、何を望み、何に笑っていたのか。そうした一つ一つが失われたとき、人は“空っぽ”になる。
ルアは――その淵に立っていた。
「セリア。俺たち……これからも、こういう人に出会うんだろうな」
「うん。戦いだけじゃなくて、“何かを失った人”に」
「そういう人たちの“支え”になれるかどうか……それが、旅をする理由だと思う」
セリアは頷いた。
「私も、戦うだけじゃなくて……そういう誰かの“名前”を守るために、剣を振るいたい」
「うん。それがきっと、俺たちの旅の“意味”なんだ」
◆
泉の奥。ひとつの石碑があることに気づいたのは、セリアの視線がそちらを向いたからだった。
そこには古代文字が刻まれていた。風祈りの里で見たものに近いが、少し違う。
フィンはそっと手をかざすと、不意に剣が微かに共鳴した。
「……精霊語、か?」
「読める?」
「いや……でも、感じる。これは、森そのものの“記憶”だ」
風が吹いた。
その瞬間、石碑の周囲に浮かぶ文字が淡く光り、声にならない声が響く。
『風よ、記憶を運びしものよ。我を忘れぬ限り、森は道を示す』
「……これ、“約束”の言葉だよ」
セリアが、祈るように胸の前で手を組んだ。
「誰かを忘れない。それだけで、救われる記憶があるんだね」
◆
その夜、二人は泉の傍で焚火を囲んだ。
炎の揺らめきに照らされて、セリアがぽつりと呟く。
「ルアちゃん、今ごろ歌ってるかな」
「きっと、歌ってるよ。……名前を取り戻した声で」
「うん」
しばらく無言が続いた。
けれど、それは心地よい沈黙だった。
木々のざわめき、風の音、草の香り。そして、自分たちが“旅の途中”であることを実感させてくれる、静かな夜。
そのすべてが、確かに“生きている”ことの証だった。
そして、いつかまたルアのように、声を失くした誰かと出会うだろう。
けれど今度は、きっと迷わない。
その名を呼び、記憶を辿り、手を伸ばせる。
“旅人”とは、そういう存在であるべきだから。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
第93話では、新たな異常領域「記憶を喰らう森」の探索と、“声を忘れた少女”ルアとの邂逅を描きました。
過去を失っても、名前を取り戻せば、自分を取り戻せる──その思いが、フィンとセリアの剣や行動にも通じています。
実はこのエピソードは、読者の方から「戦闘以外で印象に残る話も読みたい」とご感想をいただき、構想したものです。
感情の機微や、言葉にできない心のやりとりを、ルアという少女に託して描いてみました。




