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91話:聖なる谷と祈りの歌

今回の舞台は“風祈りの民”が住まう谷――風の塔を経てなお、風の精霊との繋がりが色濃く残る、静かな場所です。

 止まぬ風に悩まされる村。セリアが“巫女”たちと心を通わせる中で、風の歌を取り戻す儀式が始まります。

 そして、フィンの持つ「風の剣」が再び共鳴する時、少年と少女の旅は静かに、新たな段階へと踏み出していきます。


 祈りとは何か。風の流れと心の通い。その重なりをご堪能ください。

風の塔を後にし、フィンとセリアは、その麓に広がる谷へと降りていった。


 そこは“風祈りの民”が代々暮らす、聖域のような場所だった。


 山々に囲まれた盆地には、石造りの家々が静かに並び、無数の風車がくるくるとまわっている――はずだった。

 だが今、その風車はひとつも回っていなかった。


 「……風が、止まってない」


 フィンがそう呟くと、横にいたセリアも、顔を曇らせる。


 「風が吹きすぎて、止まらないの。谷の奥から吹き続けてる……止まる気配もないよ」


 確かにその通りだった。

 通常の風とは異なり、谷を渡る風はうねるように重く、耳を切るような音を立てていた。葉は揺れ、窓は軋み、洗濯物はちぎれるほどに揺さぶられている。


 「フィン、この谷……苦しんでる」


 セリアが耳を澄ませ、石畳の路地を見渡す。


 人の姿はまばらだった。外に出る者も、頭巾を深くかぶり、風に逆らうように歩いていた。

 子どもたちは家の中に閉じ込められ、かつてこの地にあったという“風祭”の装飾も、今はすべて外されている。


 やがて二人は、谷の奥にある集会所のような建物へとたどり着いた。


 そこにいたのは、浅黒い肌に白い刺繍の入った衣を纏う年配の巫女だった。腰にかけた銀の鈴が、風に合わせてわずかに揺れている。


 「……あなたたちは?」


 声はかすれていたが、確かに通る音色だった。


 「旅の者です。この谷に伝わる“風祈りの祭”について話を伺いたくて」


 フィンが頭を下げると、巫女は驚いたように目を見開いた。


 「……あなた、その剣……」


 彼女の目は、フィンの背にある黒鞘の剣――風の塔で精霊の力を宿した“風の剣”に向けられていた。


 「その剣……風の塔の遺構から戻ってきたのですね」


 「……はい」


 巫女はそっと微笑むと、背後の戸を開けた。


 「中へ……来なさい。風が、あなたたちを運んできたのですね」


     ◆ ◆ ◆


 集会所の内部は、石と木を基調にした静謐な空間だった。

 中央には、風を象った祭壇と、木彫りの風の精霊像が飾られている。


 「かつて、この地では“風の祈り”という歌を捧げて、季節の移ろいを告げていました。ですが、数年前から風が止まらなくなり、祭は中断されました」


 巫女の説明に、セリアがそっと口を開いた。


 「その歌……今も、どこかに残っていますか?」


 「……ええ、でも私たちだけでは再現できません。あの歌は、本来“風の声”を聴く巫女たちが響かせていたもので……いま、その役目を担える者は……」


 そのとき、セリアが一歩前に出た。


 「私、聞けるよ。少しだけ……風の声が。塔で教わったの。だから、やってみたい」


 巫女はしばらく目を伏せたまま考えていたが、やがて、祈るように両手を胸の前で組んだ。


 「……では、今夜。風が最も強くなる刻に、“祈りの歌”を捧げましょう。あなたの中に、風が答えてくれるかもしれません」


 セリアは小さくうなずき、フィンの袖をそっとつかんだ。


 「……フィン。やってみるね。もし……できたら、風がやさしくなるかもしれないから」


 その瞳に宿る光は、幼いながらも凛としていて、風の流れに逆らう小さな意志の炎のようだった。

夜が近づくにつれ、風はますます強さを増していった。


 谷の空は濃い藍色に沈み、雲が矢のように流れていく。石畳をなぞる風は音をまとい、まるで誰かが遠くで笛を吹いているような、物悲しい旋律を繰り返していた。


 セリアは小さな祈祷所の一室にいた。床には精霊を象った文様が刻まれ、四方に風の印をあしらった布が垂らされている。


 彼女は衣装を着替えていた。


 淡い青と白の糸で織られた儀式用のドレス。その肩と裾には風の羽根を模した飾り布が軽やかに揺れ、耳元には銀の鈴が小さく鳴る。普段の旅装とはまるで異なり、まるで風そのものに祝福された“風の巫女”のような佇まいだった。


 フィンはその姿を見て、しばし言葉を失っていた。


 「……似合ってるよ、セリア」


 「へへっ、そう? でも、ちょっとすーすーする……」


 そう言って、セリアは照れくさそうに頬を赤らめる。

 普段は理知的で落ち着いた口調の彼女だが、こうした時だけ見せる年相応の表情が、フィンの緊張を和らげた。


 「大丈夫、無理はしなくていいから。何かあったら、すぐに戻ってきて」


 「うん。……でも、ちゃんと歌えたら、きっとこの谷も元気になるよね」


 セリアはまっすぐにそう言って、風の音に耳を澄ませた。


     ◆ ◆ ◆


 儀式は、谷の中央にある“風見の丘”で行われた。


 丘の上には古びた祭壇が設けられており、その周囲には集落の人々が静かに集まっていた。

 年寄りも、子どもも、皆、風に目を細めながら、どこか希望を託すようにその場を見つめている。


 風はなおも唸りを上げ、空の雲を裂くように吹き荒れていた。


 セリアはその中心に立った。


 銀の鈴が、衣の動きに合わせて微かに響く。風は彼女の髪を激しく揺らし、足元の草花をざわめかせた。


 フィンは、祭壇のすぐ下から見守っていた。

 何かあればすぐに駆け寄れるように、剣の柄に手を添え、目を離さない。


 セリアは一度、深く息を吸い込むと――


 静かに、唇を開いた。


 風の音に重なるように、その歌声が空へと解き放たれた。


 最初はか細く、風に消されそうな音だった。けれど、次第にその声は澄み、谷の空気を包み込んでいく。


 「……風よ、風よ。眠れる流れを、紡ぎて帰れ……」


 それは、風を鎮める古の歌だった。


 民に伝わる神話では、風の精霊が怒るとき、この地には災厄がもたらされるとされていた。その怒りを鎮めるのが、選ばれた巫女の祈り――その役目を、今セリアが担っている。


 彼女の声は風と共鳴し、空を震わせる。

 そして不思議なことに、風が――ほんの少しだけ、弱まった。


 ザァァァァァ……という絶え間ない音が、ふと、さざ波のようなリズムへと変わっていた。


 人々がざわめき始める。


 フィンは、風の剣にふと視線を向けた。


 鞘に収めたままのその剣が、ほんの微かに震えていた。空気の流れが変わったのではない。

 剣が、セリアの歌に応えている。


 (まさか、こんなふうに力が……)


 セリアの声がさらに高まり、風の流れが旋律を刻む。


 それはまるで、谷全体がひとつの楽器になったようだった。風が鳴り、葉が揺れ、雲が形を変えていく。


 そして――風が、止んだ。


 静寂が訪れたのだ。


 風見の丘を取り巻いていた絶え間ない流れが、まるで眠るように鎮まった。


 セリアの歌が終わると、人々は息を呑んだまま立ち尽くしていた。

 風の音がない谷など、誰一人として覚えていなかったのだ。


 やがて――ひとりの老人が、涙を流しながらひざをつき、頭を垂れた。


 それに続くように、次々と人々が跪き、祈りの手を胸元に重ねた。


 「ありがとう……風の巫女よ……」


 セリアは小さく微笑み、そして真っ先にフィンの方を見た。


 「……やった、よ……フィン」


 その声に、フィンもまた、静かにうなずいた。

風の止んだ夜――

 その静けさは、谷に生まれて以来、誰も知らなかったものだった。


 星々は空にくっきりと浮かび、雲はすでに遠く彼方へ流れていた。月光が谷の斜面を照らし、静まり返った木々の葉がかすかに輝く。今まで風の音にかき消されていたささやかな自然の音――虫の声や小川のせせらぎさえ、まるで新しい音楽のように響いていた。


 その夜、セリアは祭壇の奥にある“風の巫女の間”に招かれていた。


 儀式の成功を称えられ、里の長老たちが感謝と祝福の言葉を贈る。その傍ら、控えめに立っていたフィンにも、多くの言葉が向けられた。


 「風の剣士よ。そなたの剣に、我らの風が宿った」


 「風を導いた巫女と、それを守った者……かつての神話に似ているのう」


 その言葉に、セリアが恥ずかしそうに微笑む。

 フィンは特に何も返さなかった。ただ、彼女が少しでも楽になればと、そっと背中に手を添えた。


 その夜、ふたりは祭壇から少し離れた丘の上に腰を下ろしていた。


 「……今日のセリア、すごく綺麗だったよ」


 「ふふ。そう言ってくれるの、フィンだけだと思うよ。村の人たち、みんな私のこと“神様みたい”って目で見てたし……ちょっと恥ずかしかった」


 セリアは白い脚を抱えて月を見上げる。儀式の装束を脱ぎ、今は旅の軽装に戻っているが、まだどこか巫女の気配が残っていた。


 「でも……」


 「でも?」


 「みんな、安心してた。……風が、止まったことも。それが“ちゃんと自分の世界”に戻ったって思えたのかも。……そういう顔、してたから」


 フィンはしばし黙り、風の剣を取り出す。

 月の光に照らされたその刃には、うっすらと風紋のようなものが浮かんでいた。まるで剣の中に、小さな空のような世界が宿っているかのように。


 「……この剣、変わった気がする」


 「うん、私も思った。祈りの最中、剣が共鳴してた」


 「まるで……俺たちの旅そのものが、少しずつ、世界を変えてるみたいだな」


 「世界は……変わるんだよ。ほんの少しずつ、でも確かに。だってね……」


 セリアは月を指さす。


 「風が止まった空、初めて見た。こんなに月が綺麗だなんて、知らなかった。風がずっと吹いてたら、この夜には出会えなかったんだよ」


 その言葉に、フィンは小さく頷いた。

 “知らなかった景色”というものに、旅の価値が宿るのかもしれない。たとえそれがほんの一夜限りの奇跡であっても――


 「……ありがとう、セリア。無理、してなかったか?」


 「少しだけ疲れたけど……大丈夫。フィンが見ててくれたから」


 ぽつりと、そんな言葉をこぼす。


 彼女の小さな肩に、そっとフィンは上着をかけた。

 夜の冷気は、風が止まった今、谷にゆっくりと満ちてきていた。


     ◆ ◆ ◆


 翌朝。


 “風祈りの民”の村は、まるで生まれ変わったかのように活気づいていた。


 谷の子どもたちが走り回り、久方ぶりに焚かれた祭りの火が煙を上げる。風が穏やかな今、里では“風の歌”を再び奏でるための準備が始まっていた。


 「フィン、ほら、これお土産!」


 セリアが抱えてきたのは、小さな風鈴だった。


 青いガラスでできたそれは、谷の風の音を封じ込めるための“精霊鈴”と呼ばれるもの。

 「剣に結んでおくと、旅の無事を祈ってくれるんだって」そう説明しながら、セリアが器用に剣の柄の根元に結びつける。


 「ほら、似合うでしょ?」


 「ちょっと可愛すぎるかもな……」


 「ふふっ、だからいいんだよ」


 ふたりの笑顔に、村の老人がひとり近づいてきた。


 「そなたらが去った後も、この村は歌い続けよう。風を信じ、空を仰ぎ……この夜の静けさを忘れぬように」


 それは、感謝と誓いの言葉だった。


 谷を出る道すがら、風鈴が小さく、涼やかに鳴った。


 その音にセリアが振り向き、最後に谷を見下ろす。


 「また来ようね、いつか。……風のない夜に、今度はゆっくりと」


 「うん、約束だ」


 そう言って、ふたりは次なる旅路へと歩み出す。

その朝、谷の空は晴れていた。

 雲ひとつない蒼穹が広がり、風は緩やかに頬をなでてゆく。まるで昨夜までの騒がしさが嘘だったかのように、谷には穏やかな空気が漂っていた。


 風祈りの民の長老たちが、村の中央に並んでいた。フィンとセリアを見送るためだ。


 「風は再び、正しい道を歩み始めた。我らの祈りは、そなたらの旅と共鳴したのだろう」


 年老いた巫女がそう言うと、彼女の傍にいた若い巫女たちも、胸の前で手を組んで礼を捧げた。昨夜、共に祈りを捧げた少女の巫女が、恥ずかしそうにセリアに手を振る。


 セリアはその手を振り返し、最後にそっと村に向かって一礼をした。


 「みんな、ありがとう。……私たち、また来るね」


 彼女の瞳は、まだどこか潤んでいた。

 昨夜、風の歌を取り戻す儀式を終えた後も、巫女たちと語り合い、幼い精霊たちと遊び、夜更けまで過ごしたという。


 ――旅の途中でできた、小さな絆。それは、決して地図には描かれない宝物だった。


     ◆


 谷の外れにある岩道を、フィンとセリアは並んで歩いていた。背後には村の風鈴の音が、微かに鳴っている。


 「……少し寂しい?」


 フィンが問いかけると、セリアはふっと笑う。


 「うん、少しだけ。でもね、次の旅も楽しみだから、大丈夫」


 その言葉に、フィンは軽く肩の力を抜いた。


 「……俺も、そう思えるようになったかもな」


 「昔は思えなかったの?」


 「最初の頃は、ずっと不安だったよ。何も分からなくて、誰も知らなくて……」


 「でも今は?」


 「今は……セリアがいるから」


 フィンの言葉に、セリアは少し驚いたように彼を見つめた。


 「ふふっ、それって……告白?」


 「ち、違う! いや、そういう意味も……じゃなくて!」


 焦るフィンに、セリアはからかうように笑う。


 「冗談だよ。でも、そう言ってくれると……私、嬉しいな」


 いつもより少しだけ大人びた笑顔を見せたセリアに、フィンは何も言い返せず、黙って前を向いた。


     ◆


 昼過ぎ、二人は風の谷を越え、さらに東の丘陵地帯へと足を進めていた。


 その先にあるのは、地図にも明記されていない小さな村。

 戦乱や災害で住処を追われた人々が、草原の只中に自分たちの手で築こうとしているという。


 「……ここ、確か“流民の村”って呼ばれてるんだよね?」


 セリアが問いかけると、フィンは頷いた。


 「ああ。まだ正式な名前はないけど、国境を越えてきた人たちが住み始めてるって。けど――」


 「魔獣が出るんだよね?」


 「“地を這う獣”って噂だ。剣を持ったことすらない大人たちと、小さな子どもたちだけの村じゃ……防ぎきれない」


 セリアは、しばらく空を見上げていたが、ふいに真っ直ぐフィンを見た。


 「だったら行こう。……剣で守れるものがあるなら、守ろうよ」


 その言葉に、フィンは深く息を吸い込んだ。


 「……そうだな」


 彼は剣の柄に手を添えた。

 それは誰かを斬るためではなく――誰かを守るために。


 風が吹き抜ける。


 いま再び、旅路の意味が問い直されようとしていた。


 次なる地は、“焦がれた日常”を夢見る者たちの村。

 その地でフィンは、初めて“守るためだけの剣”を振るうことになる。

ご覧いただきありがとうございました。

 第91話では、セリアが“巫女”たちと心を通わせ、風と精霊の世界へより深く踏み込む様子を描きました。フィンにとっても、ただ戦うだけではない“精霊との共鳴”という力が、改めて意識された回だったかもしれません。


 次回、物語は再び“地上”へ。

 希望を抱き、辺境に村を作ろうとする流民たち。そして、それを脅かす魔獣の影。

 少年が“守りたい”と願った世界を、フィンは“守る剣”で支えることができるのか――。


 どうぞ、引き続きお楽しみください。

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