90話:風の塔と空の囁き
空を渡る風の音は、時に心の奥まで届くものです。
今回の舞台は、地上を離れた“風の塔”。
幻想的で、少し神秘的な空の世界で、フィンとセリアが出会うのは、風の精霊と“剣に込められた問い”でした。
空に問いかけ、風に試される――
そんな旅のひとときを、どうぞご覧ください。
「……雲が、下にある」
フィンは、そびえ立つ断崖の上から遥か遠くを見下ろしていた。風が頬を撫で、髪を揺らす。視界の果てに、白い雲海が広がっている。それは海のように静かで、どこか“現実感”を奪う不思議な眺めだった。
目の前には巨大な石造りの塔が立っていた。塔の上層部は雲に包まれ、先端が見えない。塔の名は――《風の塔》。かつて古代の魔法文明が築いたとされる“空の遺構”であり、今も“風”の試練を受け継いでいるという。
「フィン……ここ、空の匂いがする」
セリアがそう呟き、フィンの横に並ぶ。幼いエルフの少女は、空を見上げながら、風に髪をなびかせていた。彼女の銀髪は陽光を受けてきらきらと光り、青空とのコントラストがまるで絵画のように幻想的だった。
「怖くはないか?」
「うん、ちょっとドキドキするけど……フィンが一緒なら、大丈夫」
フィンは柔らかく笑い、セリアの頭をそっと撫でた。彼女は少し照れくさそうに頬を染めたが、すぐに無垢な笑みを返す。
「この塔の上層には、“風の精霊”が棲んでいるという伝承があるらしい」
「じゃあ、また精霊さんと戦うの?」
「戦う……というより、試されるのかもしれないな。これは俺自身の“修行”でもある」
「うん。フィン、がんばって」
セリアの声にはどこか祈るような優しさが込められていた。
◆ ◆ ◆
塔の入り口は古びていたが、不思議と清浄な空気が流れていた。フィンは剣を腰に収め、慎重に第一層へと足を踏み入れる。内部は螺旋状の構造になっており、風が鳴るような音が常に壁の奥から聞こえてくる。
「風の塔……」
セリアがぽつりと呟き、壁の文様に指先を触れる。
「古いけど、悲しい場所じゃない。むしろ……ずっと誰かを待っていたみたいな、そんな感じ」
「……誰かを?」
「うん。たとえば、フィンみたいな人」
彼女の言葉は冗談めいていたが、不思議と胸に残った。塔が“待っていた”とすれば、それは何を、誰を、どんな“運命”を迎え入れるためだったのか。
◆ ◆ ◆
塔の第一層――そこには試練があった。
風の回廊に足を踏み入れると、突然、強烈な突風が吹き荒れた。足元の石板が震え、セリアがふらりとよろける。
「っ……!」
「セリア!」
フィンは即座に駆け寄り、彼女を抱き寄せた。風は鋭利な刃のように周囲を削り、衣の端を切り裂いた。セリアの小さな体が震える。
「ありがとう、フィン……でも、わたしも、行ける」
そう言って、彼女はぎゅっとフィンの腕を掴んだ。恐怖を隠さず、それでも前を向こうとする瞳。フィンはその眼差しに応え、頷いた。
「なら、共に行こう」
風の回廊を越えるには、風を読むこと、風に抗わぬこと。力ではなく、調和――
フィンは己の気配を沈め、風の流れと一体になるように一歩ずつ踏み出していった。セリアもその背中を追い、まるで彼の歩幅を記憶しているかのように、的確に続いていく。
塔の最奥には、“風の祭壇”が待っていた。
そこには浮遊する“光の羽根”のような精霊体がいた。
「試す者よ――風を読み、風と踊れ。汝の剣に、我が加護を与えるに値するか、見せてみよ」
声なき声が響き、空気が唸った。
そして、次なる試練が始まる。
風の祭壇――それは、まるで空に浮かぶ幻の庭のようだった。
天井はなく、風だけが青空の天蓋をなぞるように吹き抜けている。足元の床は透明な石でできており、遥か下方の雲海が透けて見えた。わずかに足を踏み出すだけでも、落ちてしまいそうな錯覚に囚われる。
だが、フィンの心には揺らぎはなかった。
「……ここが、精霊の試練の場所か」
彼の前に浮かぶのは、翼のような流線型の光――それが“風の精霊”だった。輪郭は曖昧で、しかしそこに確かな“意志”がある。空気が震え、周囲にさざ波のような風紋が広がる。
『剣を手に取れ、選ばれし者よ。風は、お前の中にあるか? それとも……お前に刃向かうか』
声なき問いかけが、脳裏に直接響いた。
フィンは剣を抜いた。その動作はまるで舞の始まりのように滑らかだった。銀の刃が陽光を受けてきらめき、風と共鳴するかのように微細に震える。
「フィン……!」
セリアが、少し離れた位置から彼を見つめていた。足元の不安定な床に緊張しながらも、じっと彼の背中を見つめている。
フィンはその視線を感じながら、静かに呼吸を整える。
“風に、抗わない”
老騎士に学んだ技術、己の心を澄ませる訓練、そしてこれまでの旅で得た“感覚”――それらすべてを、この瞬間に込めた。
精霊が動いた。
風が渦を巻く。真横から叩きつける烈風が、鋼のような圧力で迫る。まともに受ければ骨が折れる。フィンは剣を一閃。風を裂くのではない、風に“添わせる”ように流す。
まるで空を舞うような剣戟が繰り返される。
精霊は次第にその動きを速めていく。上空からの真空斬、足元をすくう竜巻、背後からの逆風の斬撃――すべてが“試練”の一環であった。
フィンは剣の構えを変えない。
すべての風を、読んで、感じて、預けていく。
その姿は“戦っている”というより、“舞っている”に近かった。
◆ ◆ ◆
「……すごい……」
セリアは、小さな声で呟いた。
フィンの動きはまるで風そのものだった。力任せの一撃ではなく、柔らかに流れる線。けれども、そのひと振りひと振りが、確かに精霊の暴威を受け止め、かわし、和らげていた。
「ねぇ、風の精霊さん……あなた、本当は怒ってるんじゃないよね」
セリアがぽつりと話しかけるように空へ言う。
「ずっと、ずっと――誰かが来るのを待ってたんでしょ?」
風が一瞬、優しくなったように思えた。
◆ ◆ ◆
そして、試練の終わりが訪れる。
フィンの足がふわりと浮いた。風が彼を包み込み、剣が淡い蒼光を帯びていく。
『――風を読むだけでは、風にはなれぬ』
『だが、お前は……風の懐に、己を溶かした』
光が収束する。
そして、風の精霊の核とも呼べる“風の羽根”が、彼の剣へと宿った。
蒼い文様が刀身に浮かび上がる。それは“契約痕”――精霊と剣との誓約の証。
「……これが、風の……」
フィンが剣を見つめると、その背にセリアがそっと近づいた。
「フィン、すごい……ね。わたし、見てたよ。ぜんぶ」
「ありがとう。……セリアの言葉がなかったら、きっと風に呑まれてたかもしれない」
彼はそう言って、小さく笑った。
セリアは一瞬、目を丸くした後、うん、と力強く頷いた。
「フィンの剣は……まっすぐだもん。きっと、これからも」
風は、もう荒れていなかった。
優しく、塔の中を巡っていた。
風の精霊との契約を果たしたことで、塔の上層へと進む道が開かれた。
フィンとセリアは、階段のない塔の中央に浮かぶ“風の輪”に足を踏み入れた。それは風の力で空中に維持された透明な円形の足場で、上層へ導く“浮遊の道”と呼ばれるものだった。
「わあ……まるで飛んでるみたい」
セリアが思わず声を上げる。
下を見れば、幾重にも連なる雲の層。遠くで稲妻が閃き、陽光が斜めに差し込んで幻想的な風景を織りなしている。塔の内部に吹き込む風が、セリアの淡銀色の髪を揺らした。
「……空って、こんなに近かったんだね」
「うん。俺も、こんな空は初めてだよ」
フィンもまた、視線を空に向けた。
彼の頬をかすめる風は、先ほどまでの暴風ではなく、どこか懐かしい風――まるで、精霊が導いてくれているような優しさを含んでいた。
◆ ◆ ◆
上層にたどり着くと、そこはまるで天空庭園のようだった。
足元には柔らかい苔と小花が咲き乱れ、風にそよぐ白い草が一面を覆っている。中心には風紋の刻まれた大理石の祭壇。その上に、一本の剣が突き立てられていた。
「……誰かの、剣?」
フィンが近づくと、剣から淡い光が漏れ始めた。その光は、彼が持つ風の契約痕に反応しているようだった。
剣に触れようと手を伸ばす――その瞬間。
空が割れた。
バシュンッという空気の振動と共に、塔の上層に“何か”が侵入してきた。
「伏せて!」
フィンがとっさにセリアを抱き寄せ、地面に伏せさせる。
瞬間、彼らの頭上を黒い影が通過し、塔の縁に静かに降り立った。
「……あの気配……」
フィンが低く呟いた。
現れたのは、黒いマントを羽織った男。目元には風除けのゴーグル。腰に二振りの短剣を携え、全身に“空を歩く技術”を身につけた者の風格があった。
「やっと、来たか。風の塔の継承者」
男は、嗤うようにフィンを見下ろす。
「……お前は?」
「名乗るほどの者じゃない。ただ……かつてこの塔を護っていた、もう一つの家系の末裔さ」
「“もう一つ”……?」
「精霊に選ばれた剣士だけが風を継ぐと思うな。俺たちは、風を“奪う者”として、この地に封じられてきた」
男の言葉と共に、風が逆流する。
塔の上層に満ちていた優しい風が、一転して鋭利な刃となってフィンを襲う。
「……! セリア、下がって!」
「フィン……気をつけて」
セリアは遠巻きに手を合わせ、静かに祈るように目を閉じた。彼女の周囲にも、微かな風の精霊の気配が集まり始めていた。
フィンは剣を構える。
風の契約痕が、刀身に淡い蒼の光を宿す。
「風を奪う者に、風は応えない」
「……応えさせてみろ!」
男が飛んだ。
まるで風に乗るかのように、壁を蹴り、空を滑るように舞い降りてくる。
フィンはその斬撃を、真正面から受け止めた。
ガキィィィィン!
風の圧力が衝突し、塔の空間がきしむような音を立てた。
◆ ◆ ◆
「フィン、左――!」
セリアの叫びが飛ぶ。
フィンは反射的に体をひねり、脇腹をかすめる短剣を紙一重でかわした。
「やるじゃないか。……だが、風の一閃は、読めるか?」
男の体が一瞬、風に溶ける。
瞬間、フィンの背後に現れた。
――が、フィンの剣は既にそこにあった。
「……読めたよ。お前の風は、殺すための風だ」
「なに……!」
剣が叩きつけられる。
蒼い光と共に、風の精霊が咆哮を上げたように吹き荒れる。
男の体が風に巻かれ、塔の外縁へと吹き飛ばされた。
「う、うわああああっ!」
「……行ったか」
フィンは剣を収め、荒い息をついた。
セリアが駆け寄ってくる。
「フィン! 怪我は?!」
「大丈夫。少し、体が風に振り回されただけさ」
彼はそう言って、微笑んだ。
セリアは小さく頷き、彼の袖をぎゅっと握った。
「フィンが風に選ばれて、よかった。だって……こんなにも風は優しいんだもの」
「……ああ。精霊は、きっと戦う力だけじゃなくて、守る心も見ていたんだろうな」
塔の空が、静かに晴れていく。
次は“塔の頂上”――風の精霊たちが最後に語る真実が待っていた。
塔の頂上は、どこまでも青く澄みきった空に抱かれていた。
フィンとセリアは、最後の風の浮遊盤に乗って、風の精霊が最も強く息づく聖域へと降り立つ。そこは地上からは決して見ることのできない、空の裂け目――《風環》と呼ばれる浮遊する天空の台地だった。
「……ここが、塔の最上部……」
セリアが、目を見開いたまま呟いた。
地面には苔と白い風花が敷き詰められ、中心には透明な水晶のような風の柱が天へと伸びていた。柱の周囲を、大小様々な風の精霊たちが舞っている。
風が囁き、空が歌うような場所。
まるで、空そのものが命を持ち、心を語っているようだった。
「……あの柱が、風の本質なの?」
「たぶん、そうだろうな。ここが、風の契約の本源……」
フィンが歩みを進めると、彼の剣が再び微かな光を放った。契約痕が静かに熱を持ち、彼の胸に「来たるべき時」を知らせる。
そして、透明な柱の中から、ひとりの“人の姿を模した精霊”が現れた。
白銀の髪に、透き通るような羽衣をまとう女性の姿。
目元は覆われ、言葉ではなく風の波動で意思を伝えてくる。
『――汝は、剣を持ち、風に選ばれし者』
『問いを持って、ここに至ったか』
「……はい」
フィンは剣を手に進み出る。
「俺は、たくさんのものを背負ってきました。人を助けるために剣を抜き、守るために力を振るってきた。でも、いつも思うんです。本当に正しいのかって」
風の柱が、静かに揺れた。
セリアがフィンの隣に立ち、小さな手を彼の袖に添える。
「フィンは、優しいよ。だから、迷うんだよ。けど……その優しさが、剣を正しくするんだと思う」
その言葉に、精霊はひとつ頷く。
『ならば――その剣に、もうひとつの風を与えよう』
突如、空が渦を巻いた。
塔全体が光に包まれ、風の柱が裂けるように広がった瞬間、そこから無数の“風の羽根”が生まれ、フィンの周囲を舞い始めた。
剣が空を裂き、風がそれを包む。
その刹那、フィンの背後に“翼のような紋様”が浮かび上がる。新たな契約痕――それは“空を断ち、空を守る者”にのみ与えられる証。
「……これが、最後の風……?」
『汝が望むなら、この塔を閉じ、空を封じることもできる。だが、汝は“開いたまま”の道を選んだ』
『故に、その剣に、我が名と力を宿そう』
精霊の体が、光の粒となって剣に吸い込まれていく。
剣は銀から蒼に染まり、鍔の部分に風を模した紋章が刻まれた。
「……ありがとう」
フィンは静かに頭を垂れ、剣を背に収めた。
その時だった。
「……ん、なんか、空の匂いが変わった?」
セリアが鼻をひくひくと動かして周囲を見回す。
「んー……これは、雨の匂い?」
「まさか、ここで雨なんて……」
次の瞬間、空の一角がぽたり、と涙のように雫を落とした。
風の精霊が去ったことで、塔の魔力の一部が抜け、“自然”が戻り始めている。
「……この塔も、長くは持たないかもしれないな」
フィンは空を見上げる。
「じゃあ、帰ろっか。風の塔とも、お別れだね」
セリアが静かに手を差し出す。
その小さな手を、フィンは握った。
空の精霊が残した力が、二人の足元に浮遊盤を再び呼び起こした。
最後の浮遊で、空から地上へ。
彼らの足元に、次の地――新たな戦いの影が、すでに待ち受けていた。
「風の塔」編、いかがでしたでしょうか。
フィンはこれまで多くの戦いを経てきましたが、今回の敵は“誰か”ではなく“自分の選択”でした。
風の精霊から与えられたのは力ではなく、剣に込める“信念”そのものです。
そしてセリアの静かな励ましが、彼の心を支え続けています。
ちなみに、執筆中「セリアに羽が生えるかも?」という妄想も浮かびましたが、そちらはまた別の番外編で……(笑)
次回からは、風の力を得たフィンが、再び地上で新たな事件に挑みます。
どうぞ、お楽しみに。
物語を「面白い」「続きを読んでみたい」と感じていただけましたら、
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