第9話:封印の渓谷(挿絵あり)
“語られざる王の地”と呼ばれる渓谷で、フィンたちは再び組織の追手――処理官と対峙します。
押し寄せる力に抗いながら、彼はついに“風の剣”をその手に。
第9話では、《戦場変換》が新たな段階へ進化し、フィンの「語る力」と「風の力」が交わり始めます。
そして、リナやノーラとの絆も、戦いの中で確かな形を持ち始めて――。
ノーラの挿絵です。
朝。渓谷は冷たい空気と、霧の膜に包まれていた。
木々の葉が揺れず、鳥の声すらない。
それは“風が息を潜めている”ような静寂だった。
「……ここが、“語られざる王の地”」
ノーラがぽつりと呟いた。
谷の奥には、崩れかけた古代の建築が静かに佇んでいた。
石造りの柱は苔に覆われ、天井は落ち、瓦礫の山が広がっている。
それでも――中央の広場には、何か“在る”気配があった。
フィンは無言で歩き出す。
リナとノーラも後に続く。
足元に敷き詰められた石畳の中心。
その場には、台座があった。
石でできた低い壇上には、風を象ったような渦巻きの文様が刻まれていた。
「ここだ」
フィンが立ち止まり、そう言った。
リナは顔をしかめる。
「なんだか嫌な空気。……いや、空気じゃない。何か……動いてる?」
「風の層が、ねじれている」
ノーラがそう言って、懐から巻物を取り出した。
「この場所には、“風に選ばれし者が鍵を解く”という記述がある。
これは、ただの扉じゃない。意思を持つ封印よ」
フィンは台座に近づいた。
「なら、俺が開ける」
その言葉は、静かだが、芯のある響きを持っていた。
ノーラがすぐに反応する。
「待って。簡単に触れてはいけない。
封印は“試す”。選ばれた者の意思を、精神を、力を。
――それに、何かが近づいてる」
フィンの手が止まった。
「気づいてたか」
彼はゆっくりと振り返る。
その目は、もう戦場の目だった。
「風が……裂けてる。森の向こうから、強い殺気が来てる」
「……まさか」
ノーラが顔を強ばらせた。
霧の中、三つの影が見えた。
仮面の者たち――だが、今までの追手とは明らかに違う空気を纏っている。
その中央に立つひとりの男。
仮面は白銀に縁取られ、鋭く切り取られた目のラインは、まるで“殺すために作られた意志”を具現化していた。
「……処理官」
ノーラの声は震えていた。
「組織の粛清部隊……裏切り者と“力を覚醒させた対象”を、確実に排除するための存在」
「……私を殺すために来たの?」
「それだけじゃない。おそらく、フィンも標的に入ってる」
リナが剣を抜く。空気が張り詰める。
「なんだって……あんた、まだ正式な“伝説の剣”も持ってないのに……」
フィンは台座の前に立ち、風を感じていた。
「……でも、見られた」
彼は静かに言った。
「この手で、“風を斬った”瞬間を。
――もう、戻れない」
ノーラは深く息を吸い、ポーチから煙玉を取り出した。
「フィン。封印は、あなただけが解ける。
けれど、時間は必要。あの処理官は、数十人を相手取っても勝ち残る“怪物”よ」
フィンは静かに手を伸ばし、台座の文様に触れる。
風が、彼の手から周囲へと広がっていく。
石畳に描かれた模様が、淡く、呼応するように光り始めた。
「……俺が解く。だから――」
彼は振り返らず、でもはっきりと口にした。
「――時間を稼いでくれ」
リナが思わず声を上げる。
「は!? 逆だってば! 普通なら“あたしがやるからお願い!”でしょ!?」
フィンは、肩越しにほんの少し笑った。
「でも、これは俺の役目だ」
ノーラは片膝をつき、煙幕玉を構える。
「風が護るとはいえ、近づかれたら危険すぎる。
煙幕、視界攪乱、リナが前、私が横。3分。……いい?」
リナが頷く。
「3分でいいんだね? なら、やってやるよ」
処理官たちは言葉を発することなく、一歩、また一歩と歩を進めてくる。
風が止まった。
その瞬間、ノーラの煙幕が爆ぜた。
視界が白く染まる。霧とは違う、人工の“遮断”。
その中で、リナが駆ける。
剣を振り抜き、処理官の動きを制限する。
「アンタがどんな怪物でも、こっちは“友達の時間”を守るために来てんの!」
ノーラも影のように動き、処理官の足元へと手裏剣を投擲する。
狙いは“動き”ではなく、“タイミング”。
その一撃をさばいた処理官の腕が、わずかに遅れた。
フィンは封印の中央に手を置いたまま、風の流れを読む。
霧のような気配が、彼の身体を包む。
その中で彼は、低く、しかし確かに語った。
「……風は、まだ止まっていない」
煙幕が渓谷を覆い、視界が白く霞んだ。
風の通り道すら封じられたような閉塞感の中、リナとノーラは動いていた。
「来る!」
リナが叫ぶと同時に、処理官の影が霧を裂くように飛び込んできた。
銀の仮面、その目の奥には感情の光はなかった。
斬撃――否、それは“空間を断つ掌打”だった。
リナが剣で受け止めた瞬間、体の芯にまで衝撃が突き刺さった。
「ぐっ……!」
吹き飛ばされる。
だが、ノーラがすかさず回り込み、爆裂符を処理官の足元に叩きつけた。
「爆破、展開――!」
地鳴りのような衝撃。
土と煙が舞い、敵の動きを一瞬だけ止めた。
その隙に、リナが体勢を立て直す。
「今のは……ただの踏み込み!? 化け物じゃん!」
「処理官は、殺すために“設計された”存在。まともに戦えば、確実に死ぬ」
ノーラの声に、わずかに焦りが滲む。
だが、その中心。
フィンはまだ、封印の前から一歩も動いていなかった。
⸻
封印台座に手を当てたまま、フィンは目を閉じていた。
風が――静かに、しかし確実に集まってくる。
(何かが……応えている)
封印の模様が、脈動するように輝く。
その中で、風の“声”が聴こえた。
――語れ。
――語られざる者よ。
――その意志、その歩みを、風に刻め。
フィンは静かに息を吸い、目を開けた。
「《戦場変換》」
彼の足元に描かれた風紋が、淡く拡がった。
風が、結界のように空間を満たしていく。
「今、この場所は――俺のものだ」
声が漏れた瞬間、風の“圧”が渓谷全体を包んだ。
処理官が一歩踏み出す。
だが、その足元に渦巻く風が、重力のような反発を生んだ。
リナが息を呑む。
「……風が、あの仮面の動きを……止めてる?」
ノーラも驚愕を隠せない。
「違う、“制限してる”……! これは、まさか、空間制御……?」
処理官は再び動いた。
今度は拳から光の刃を放つ。
「離れて!」
フィンが叫ぶ。
その声に反応するように、風の壁が処理官の攻撃を逸らした。
斬撃は石柱を粉砕するが、封印の台座には届かない。
「防いだ……今の、完全に殺す気だったのに……!」
リナが目を見開く。
処理官の動きが徐々に変化する。
警戒、観察、そして――“学習”。
ノーラが唇を噛む。
「これ以上は……長く持たない」
その言葉と同時に、封印台座が眩い光を放った。
フィンの体に、風の紋が浮かび上がる。
彼は目を細めて呟く。
「見えた……“鍵”の形が」
風の中に、“剣のような”気配があった。
まだ実体はない。だが確かにそこに“ある”と分かるもの。
「でもまだ……届かない。あと、少し……」
処理官が再び動く。
今度は風を断ち切るような“逆流”を纏っていた。
「まずい!」
リナが駆ける。
ノーラが再び煙幕を投じる。
フィンの風の結界が軋みを上げる。
それでも、彼は封印から手を離さない。
(俺の中にある。この風は、俺の……)
そのとき。
“誰かの声”が、心に届いた。
――名を刻め。
――汝が歩む風に、名を与えよ。
「名……?」
フィンの瞳に、かつての“村”の風景が浮かんだ。
畑を駆ける少年。
語った夢。
追放された日。
そして、今――リナとノーラが、自分を守ろうとしている姿。
「俺の風の名は……“変わることを恐れぬ風”。
その名は、――“自由”だ」
その瞬間、風が爆ぜた。
封印の模様が砕けるように光を散らし、
風の中から――ひとつの形が浮かび上がった。
それは、剣のようで、風そのものだった。
まだ名もなき力。
だが、確かにフィンの中で、“新たな何か”が目を覚ましかけていた。
剣ではない。だが、確かに“斬れる”とわかる。
風が形を持ち、指先に集い、フィンの腕に沿って“重さ”を与えていた。
それは刃とも杖とも違う、“流れ”そのもの。
(これは……風の意思? いや――俺自身の意思だ)
封印の力が応えた。
そして、フィンが語った名――“自由”が、それに“方向”を与えた。
風の剣が、まだ不確かな輪郭のまま、空気を斬り裂く。
⸻
処理官が動いた。
煙幕を切り裂いて現れたその姿は、影のように音もなく、フィンへと一直線に迫る。
だが、空気の圧が違っていた。
《戦場変換》の発動によって、フィンの足元から広がった“風の場”が空間そのものを歪め、処理官の動きをほんの一瞬鈍らせた。
「今っ……!」
リナが叫ぶ。
処理官の死角を狙って、疾風のごとく剣を振り下ろす。
しかし処理官はわずかに体をひねるだけでその一撃を受け流す。
「くっ……!」
歯を食いしばったリナが後退する。
その直後、ノーラが影のように現れ、処理官の背後から手裏剣を放つ。
鋭く飛んだ刃は処理官の左腕をかすめ、外套を裂いた。
「よしっ――!」
ノーラが呟いた瞬間、処理官の腕の傷口が――音もなく閉じていった。
「再生……!? 傷が、閉じてる……!」
ノーラの声に、リナが目を見張る。
「再生するって……どんだけ反則なんだよ、こいつ!」
そのとき、処理官が初めて口を開いた。
その声は無機質で冷たい、機械のような声音だった。
「我らは“歪み”を正す。逸脱した力も、裏切りの意思も――均されるべき対象」
その言葉に、フィンが返す。
「……均す? それが、お前たちの正義か」
風の剣を構え、静かに歩を進める。
「お前たちがやっているのは、“恐れからの支配”だ。
俺は、それを……斬る」
その瞬間、フィンの背後から風が吹いた。
剣の形をとって右腕に宿るそれは、もう仮初のものではなかった。
輪郭が定まり、風が彼の意思に応える。
処理官が動いた。
指先から放たれる光の刃が、空気を裂いて飛ぶ。
「フィン、危ないっ!」
リナが叫ぶ。
フィンは風の剣を構え、ぐっと踏み込んだ。
風が空間をひねるように集まり、彼の一太刀が放たれる。
風の軌跡が光の刃を裂いた。
空気が震える。重さのないはずの刃が、確かな“力”を持って敵の攻撃を消し去った。
「……斬った。あの光を……!?」
リナが息を呑んだ。
「風で……!」
続けざまに、ノーラも驚愕する。
「ただの斬撃じゃない……“圧”でも“魔法”でもない……
空間そのものが、断ち切られている……!」
処理官が後退し、仮面の奥の目に、わずかな驚きが浮かぶ。
「観測不能の力。未分類。進化段階:認定不能――危険度、上位対応へ移行」
「だったら試してみなよ!」
リナが叫び、再び突撃する。
その動きにあわせて、ノーラが処理官の足元へ毒手裏剣を投擲。
二人の連携が、“一瞬の隙”を生み出す。
「“絶対”なんて、ないんだよ……!」
ノーラが低く言い放つ。
その刹那、フィンが処理官へ踏み込む。
風の剣が、仮面の面へと向かって振り下ろされ――
しかし。
処理官の身体が、突如として後方へ跳んだ。
空間が歪むような揺らぎ。
その背後に、別の仮面が現れていた。
「……あれは?」
ノーラが低く声を漏らす。
「観察役よ。処理官の“監視と制御”を担う存在。
戦闘データを持ち帰るための……目」
「逃げる気!?」
リナが怒鳴る。
だが、処理官は静かに言葉を放った。
「貴殿の“未確定力”――次回以降、処理対象に正式追加。
対象コード、発行中――」
そして、風が逆巻き、処理官と観察者の仮面は煙の中に溶けるように姿を消した。
残されたのは、静寂と風の音だけだった。
フィンの手に宿っていた風の剣は、薄く光を残して消える。
だが、手に残った感触は、明確に“力”の形をしていた。
「……形になった」
静かに呟いたフィンの背に、リナが肩で息をつきながら声をかける。
「ったく……すごいのはいいけど、毎回ギリギリなんだよね。
もうちょっと余裕持ってくれても、あたしたち助かるんだけど」
「けど……」
ノーラが視線を落とさずに続ける。
「今のあなたは、確かに“風の選ばれし者”だった。
……あれは、見間違いようがないわ」
フィンは頷き、静かに封印台座を振り返る。
そこには、まだ“開かれていないもうひとつの文様”が刻まれていた。
「……まだ終わりじゃない」
彼の目は、次の風を見据えていた。
風が止んでいた。
処理官たちが姿を消してから、渓谷には静寂が戻っていた。
だが、その空気には、先ほどまでとは違う“重さ”があった。
まるで――誰もが言葉を探しているような空気。
フィンは封印台座に目を向けたまま、動かなかった。
風の剣が消えてなお、手にはその感触が残っている。
それはただの武器ではなかった。
自分の内側から引き出された、“意思の形”だった。
「フィン……」
リナが歩み寄り、慎重に声をかけた。
「……さっきの、あれ……あたし、ちゃんと見てた。
でも……あんた、何が起きてたの?」
彼はすぐには答えなかった。
けれど、やがて――口を開いた。
「……風が、答えた。
俺の願いに。俺の名前に。
……“語られぬ者”だったはずの俺に」
リナは少し目を見張った。
フィンがこんなふうに言葉を紡ぐのは、初めてだったから。
「なんか、変わったよね。
あんた……前は、もっと喋らなかったのにさ」
「俺も、変わりたいと思ってる」
その一言に、リナが少しだけ微笑んだ。
「……じゃあ、応援するよ。変わるって、すごいことだから」
そのやりとりを見ながら、ノーラは静かに台座を観察していた。
「……まだ残ってる。
封印は、完全には開いていない。
むしろ……今の戦いで“第一段階”が終わっただけかもしれない」
彼女の視線の先には、台座に並んだもうひとつの文様があった。
風ではなく、“羽”のような形状。
そして、その中心には――刻まれていた。
《第二封:風の核、未解放》
「“風の核”……?」
フィンがそっと指先を添えようとした瞬間、
文様が一瞬だけ光り、拒絶するような反応を見せた。
「触れられない……」
「当然だわ。おそらく、“第一封”を解いただけじゃ、この先には進めない。
鍵は、まだ……完全じゃない」
ノーラの目は、どこか焦っていた。
その瞳に映っているのは、“今の戦いよりも大きな何か”だった。
「さっき、処理官が言ってた。“未確定力”とか“観測不能”とか。
あれは……あんたが“組織の常識を超えた存在”になりつつあるってことよ」
「……そうかもしれない」
フィンは、少し俯いた。
風の剣を握ったとき、自分の中の何かが確かに“変わった”のを感じた。
「でも、俺はまだ……“知らなきゃいけないこと”がある。
この風が、どこから来たのか。何を望んでるのか」
「なら、行くしかないよね」
リナが背伸びをしながら言った。
「次の“封印の地”があるなら、あたしたちで探すしかない。
組織より先に、“真の鍵”を手に入れるために」
ノーラが小さく頷く。
「次の痕跡は、地図の南――“風の墓標”と呼ばれる地域に残されている可能性がある。
古い記録に、そこに“風と死者の語り部が眠る”とある」
「……風と、死者?」
フィンが呟く。
「伝承では、“風の起源”に触れた者たちは、いずれ“語ることをやめて消える”らしい。
けれど、そこで“語られぬ剣”が一度だけ姿を見せた、とも」
ノーラの言葉に、フィンの胸が高鳴る。
(語られぬ剣……俺が手にするものは、それなのか……?)
その瞬間、台座が再び脈動した。
地面がわずかに震え、風が――彼の背を押した。
「……ここに、もう用はない。
行こう。まだ先がある」
フィンの言葉に、リナが大きく頷く。
「よっしゃ、次行こう! 今度こそ、あたしが先に剣振ってやるから!」
ノーラも静かに続いた。
「もう、“戦う理由”はできた。あとは、前に進むだけよ」
風が吹いた。
それは、ただの追い風ではなかった。
“導き”――そう呼べるような、意志を持った風だった。
三人は荷をまとめ、渓谷を後にした。
空は晴れていた。
けれど、風の中にはまだ、誰かの“視線”が残っていた。
谷の上方。岩陰に、もうひとつの仮面が佇んでいた。
「……観測完了。第零段階、収束。
次、第二候補地にて“選定”を再開」
その仮面は音もなく立ち去った。
風は、まだ吹いていた。
だが、その風は――もう“静か”ではなかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
風の剣に触れ、仮面の処理官たちを退けたことで、
フィンは“語られぬ存在”から、“語られ始める英雄”へと歩を進めました。
第9話は、戦いと同時に「仲間と共に在る覚悟」と「語る意志の芽生え」を描いた転換点でもあります。
次回、第10話では――
“風と死者”の伝承が残る《風の墓標》へ。
フィンの“名前なき剣”の記憶に迫っていきます。
どうぞお楽しみに!