89話:闇市場の檻と処刑台
王国の片隅で起きた“村の崩壊”は、ただの事件ではありませんでした。
その背後には、腐敗と欲望が絡み合った「闇市場」の存在と、そこに加担していた王国の一部貴族たちがいました。
主人公・フィンは、剣を振るうだけでなく、“剣を抜くべきか否か”に心を悩ませる立場にあります。
今回は、その“迷い”と“決断”を描く回。
同時に、セリアとの信頼関係がより深まるシーンも込めました。
どうか、二人の歩む「正義の形」を、見守っていただければ幸いです。
王都の東、広大な平原に点在する農村地帯の一つ、〈ベロア〉――
そこはかつて、“王の穀倉”と謳われた肥沃な土地だった。
だが、今は見る影もない。
焼け焦げた畑。崩れかけた納屋。牛馬の鳴き声も、麦を刈る音もない。
ただ、乾いた風がすすきのように枯れた作物を揺らしていた。
「……ここが、あのベロアなのか?」
馬を降りたフィンは、手にした羊皮紙の地図を見下ろしてつぶやいた。
古びた地図には確かに「肥沃の地」と記されていたはずだった。
その背後、白銀の髪を揺らす小さな影――セリアが、馬の腹からするりと降りてくる。
「ここ、なんだか……におう。甘くて、苦いにおい。……人じゃない、何かが腐ってる」
小さな鼻をしかめ、セリアはフィンの袖を掴んだ。
「フィン、ここに来たのは、王として?」
「……いや、今日は“旅人”として、だ」
フィンは軽く頷き、集落の中央へと歩き出した。
廃墟のように沈黙した村道を、ふたりの影が静かに進む。
途中、道端に打ち捨てられた籠や壊れた水車の残骸が目に入ったが、人影はどこにもない。
「誰も、いない……ね」
「……いや、いる。感じる」
フィンが剣の柄に指を添えた、その瞬間――
風の中に混じるかすかな呻き声。耳を澄ませば、地下から響いてくるような、どこか湿った音だった。
「この下……地下か?」
乾いた地面に、ぽつんと開いた井戸のような口があった。
セリアがしゃがみ込み、手のひらをかざすと、冷たい空気が吹き出してきた。
「……人の声が、する」
次の瞬間、ぎぃ……と音を立てて、小さな鉄の扉が、地面ごと持ち上がった。
薄暗い地下通路から、老人が這い出てくる。
骨ばった腕、擦り切れた服。目は虚ろに濁り、それでもフィンを見た瞬間、彼は両手をついて膝をついた。
「……王よ。……どうか、助けてくだされ……」
その言葉に、フィンは膝を折った。
「話せ。何があった?」
「村の者は……皆、連れて行かれました。……奴隷として、闇市へ……」
言葉の途切れた先、地下の奥へ視線が注がれる。
フィンは無言で立ち上がり、セリアに目配せした。
「行こう」
「うん」
◆ ◆ ◆
地下室は、まるで異世界のようだった。
地上の荒廃と反比例するように、整備された石の回廊。その左右に並ぶ檻には、衰弱した男女、そして子どもたちが押し込まれていた。
痩せ細った体、空洞のような瞳。
その中に、王都で見たことのある衣服の柄が混じっていた。
「……王都の人間まで?」
「“処分”されたはずの孤児や罪人……それに村人も混ぜて、商品にしてたんだ」
フィンの目が鋭くなる。
セリアは檻の前にしゃがみ、少女にそっと声をかけた。
「だいじょうぶ……お水、持ってきたよ」
革の水筒を差し出すと、少女は最初こそおびえたが、セリアの笑みに釣られてそっと手を伸ばした。
「セリア」
「うん。鍵を探すね。絶対、助けよう」
その時、奥の通路から、硬い靴音が響いてきた。
「……誰だ、お前ら!」
四人の兵士。全員、黒い装甲に身を包み、顔を隠していた。
「密偵だ! ここに王の犬が来たぞ!」
フィンは剣を引き抜いた。
「ならば、“牙”を見せてやる」
──次の瞬間。
彼は一息で間合いを詰め、最初の一人を壁へ叩きつけた。
旋回しながら二人目の太刀を受け流し、柄頭でこめかみを打つ。
最後の一人が逃げようとした瞬間、セリアが檻の鍵束を放り投げた。
「フィン!」
見事な弧を描いた鍵束が宙を舞い、フィンの手に収まる。
彼は一瞥し、もう一度敵を見据えた。
「剣を抜いた理由がある。俺は王として、誓う……ここにいる全員、解放する」
剣戟の音が、暗闇の中で再び響き渡った。
血の臭いが、薄暗い地下通路に濃く漂っていた。
敵の制圧を終えたフィンは、倒れた兵士たちをひとりひとり縄で縛り、気絶させたまま隅に寄せていた。その背中を、セリアがじっと見つめている。
「フィン……怒ってる?」
セリアの問いかけに、フィンは作業の手を止め、わずかに視線を逸らした。
「怒ってるさ。俺は、“王”として、この腐った仕組みを見逃すわけにはいかない」
声は静かだった。だが、その奥底に揺れる怒りは、炎のように静かで、深く、燃えていた。
「奴隷売買がここまで広がっていたなんて……。しかも、それに“王国の一部勢力”が加担していたとしたら……」
セリアはうつむいて、言葉を探すようにした。
「フィン……王様って、つらいね」
ぽつりと、こぼれたその言葉に、フィンは不意に立ち止まり、セリアの頭にそっと手を置いた。
「ありがとう、セリア。お前がそう言ってくれると、少し救われる」
「うん……でも、フィンはひとりじゃないよ。わたしがいるもん」
セリアの小さな手が、フィンの腰布をぎゅっと掴む。その手の温もりは、酷薄な世界の中で、唯一無二の“信頼”だった。
◆ ◆ ◆
地上に出ると、空はすでに赤く染まり始めていた。
捕らわれていた人々――子どもたちや老いた者――は、地下から慎重に運び出され、廃屋の中に避難させられている。
フィンは老人たちから詳細な事情を聞いていた。
「……最初は、王都から来た役人の言うことだったんですよ。“新しい制度だ”とか、“再教育の場だ”とか言われて……。それが、まさか闇市場のためだったなんて……」
「許せん……」
フィンの拳が震える。
「この農村の崩壊は、人災だったんですね?」
「ええ……。作物が不作になったのも、薬品を混ぜられていたんです。市場価格を操作して、村を自滅させてから、人を“売る”ための口実にした」
フィンは、深く息を吐いた。
「王都の貴族の中に、それを動かしている者がいる」
「……王よ。剣を抜いてくださいますか?」
老人の目は、フィンの目を見据えていた。
フィンは答えなかった。ただ、視線の先――村の丘の上に設けられた、石造りの“処刑台”を見つめていた。
そこには、鉄の枷が打ち込まれ、罪人たちを“見せしめ”として縛るための台が用意されていたのだ。
「セリア」
「うん」
フィンは歩き出す。セリアはそのすぐ隣を、ちょこちょこと歩幅を合わせてついていく。
「ねぇ、フィン……剣を抜くのは、本当に“王”だけができることなの?」
「……違う」
フィンは空を仰ぎ見た。
「剣を抜くのは、たぶん、“覚悟”を持った者だ。だけど、俺は王だ。だから、その剣に“責任”を宿す」
「じゃあ、今日の剣は……誰のため?」
フィンは立ち止まり、振り返った。
「……囚われていた人たち。村で失われた日常。そして、未来の誰かのために」
セリアは少し微笑んで、そっと頷いた。
「なら、わたしも“耳”を貸すね。フィンの剣が、きっと届くように」
◆ ◆ ◆
夜――。
フィンは王の印章を刻んだ黒のマントを羽織り、村の中央へと姿を現した。
広場には、逃げ延びてきた民、そして隠れていた元兵士たちが集まっていた。
焚き火の灯りに照らされるその中心で、処刑台の上に立つフィンの姿は、まるで“剣の王”そのものだった。
「これより、王として宣言する」
静かな声が、空気を震わせた。
「この村に蔓延した奴隷売買と、それに関与した者たちは、“人の尊厳”を踏みにじった罪により、裁かれるべきだ」
ざわめきが広がる。
「だが、俺はそのすべてを剣で断罪するのではない。今日ここにいる者には、“人を守る側”に立つ者もいる。だからこそ、俺は問いたい」
フィンは剣を掲げる。
「“剣に、正義は宿せるか?”」
誰も答えられなかった。だが、その静けさが答えだった。
「だからこそ、俺は誓う。この剣が誰かを傷つけるなら、俺が先に傷つこう。だが、この剣が誰かを守るなら、俺は何度でも抜く」
その言葉に、セリアが群衆の中でそっと手を合わせた。
フィンは最後に、処刑台の床に剣を突き立てた。
「ここに、王命をもって命じる――
ベロア村における“奴隷売買の一切”を根絶し、その記録を王都に届けること。違反した者は、“人としての名”を剥奪される」
その瞬間、群衆の中に確かな変化が走った。
怒りでも、恐怖でもない。胸に灯る、小さな“希望”の火だった。
王命が下った翌朝、空は透き通るように晴れていた。
だが、その光はどこか刺すように鋭く、夜に処刑台で告げられた“宣言”の重さを、村人たちの背中に刻みつけていた。
広場の隅では、かつて闇市場を仕切っていた貴族の私兵たちが拘束され、村の老人たちによって監視されていた。
フィンはすでに報告書をまとめ、信頼できる王都の役人に連絡を取るため、風の使い魔を飛ばしていた。
その様子を見ていたセリアは、そっとフィンの隣に腰を下ろす。
彼女の細く透き通る銀髪は、朝の陽光に照らされて煌めいていた。眠気の残る目をこすりながら、小さな声で尋ねる。
「フィン……疲れた?」
「……少し、な」
フィンは頬をかすかに緩め、セリアの頭にぽんと手を乗せる。
「でも、大丈夫だ。お前が傍にいてくれるからな」
セリアは照れくさそうに笑うと、フィンの膝に頭を預けるように横になった。
その無邪気な甘えに、フィンはどこか救われた気がして、小さく息を吐いた。
◆ ◆ ◆
昼前、王都から派遣された特使が村に到着した。
彼はフィンの存在に驚きながらも、即座に敬礼し、頭を垂れる。
「フィン陛下、ご命令通り、王都から検視官と記録官を伴って参りました。罪状の確認と処罰の執行を行います」
「ご苦労だった。だが、処罰は“見せしめ”ではなく、“記録”として残してくれ。今後、同じことが起きぬよう、法の整備にも入ってくれ」
「はっ」
王国の法が届きにくい辺境で、王が直々に動いた前例は少ない。
この村の事件は、王都でも確実に話題となるだろう。
その様子を見ていたセリアが、ぽつりと呟いた。
「……やっぱり、フィンは“ふつうの旅人”じゃないよね」
「今さらか」
フィンは苦笑しつつ、しかし真剣な目でセリアを見た。
「でも俺は、旅人でもありたいと思ってる。人のことを“見に行ける”王でありたい。机の上でだけ命令を出すような王には、なりたくない」
セリアは黙って頷いた。
「だから、行こう。また次の場所へ。見に行こう。まだ知らない人たちの痛みと、希望と、そして……笑顔を」
その言葉を聞いて、セリアはふわりと微笑んだ。
「うん。フィンがどこへ行くのか、わたしも一緒に見たい」
◆ ◆ ◆
出発の準備を整えると、村の広場に人が集まり始めていた。
老人も、子どもも、誰もがまだ傷を抱えながらも、その目はまっすぐにフィンを見ていた。
「……王様、ありがとうな……」
「命を助けてくれて、ほんとに、ありがとう……!」
「わたし、お母さんと会えるようにがんばる……!」
次々に投げかけられる言葉に、フィンは小さく頭を下げた。
その胸には、言葉にできない重さがあった。
「これで終わりじゃない。まだ、始まったばかりだ」
そう言って、フィンは黒いマントを翻し、歩き出す。
セリアはすぐ後ろから続き、まるで陽だまりのような笑顔を浮かべていた。
その背に、村の人々が拍手を送った。誰かがそっと言った。
――「剣王様だ……」
その言葉が、村の風に溶けていく。
◆ ◆ ◆
夕刻、村を離れて森を越えた丘の上、フィンはセリアと共にテントを張っていた。
火を焚くことなく、風の音だけが二人の間を吹き抜ける。
セリアが膝を抱えて、ぽつりと呟く。
「ねぇ、フィン……今日のは、やっぱり“正義”だったの?」
「……難しいな」
フィンは剣を見つめながら、ゆっくりと答えた。
「人を裁くのが、正義とは限らない。だが、“誰かを救うために剣を抜いた”なら、それは俺の中での正義だ」
セリアはしばらく黙ってから、そっと言った。
「なら……わたしも、フィンの剣を信じるね」
「……ありがとう」
二人はしばらく黙って夜を見つめていた。だが、その静寂の中には、確かな絆と、次なる戦いへの静かな覚悟があった。
処刑台が解体された翌朝、村の広場には静かな風が吹いていた。
まるで何かが浄化された後の空気のように、冷たく、澄んでいて、けれどどこか寂しげな気配が漂っている。
フィンは小さな木の椅子に腰掛け、昨日まで闇市場として使われていた広場の一角を見つめていた。
あの場所にはもう、奴隷の檻も、見世物小屋の幕もない。あるのは、荒れた地面と、空っぽの空間だけだった。
「……全部、消えたな」
呟いたその声に、背後から細い影が近づいてくる。
「ううん。全部は、消えてないよ」
振り向くと、そこに立っていたのはセリアだった。
彼女はまだ年端もいかない子どものような外見をしているが、瞳の奥には年齢以上の冷静さと観察眼があった。
「だって……フィンは、忘れないでしょ? あの子たちのことも、この村のことも」
フィンは一度、目を閉じた。
小さな子どもたちが、肩を寄せ合って震えていたあの光景。
少女が親の名前を呼びながら泣いていた声。
そして、処刑されると知ってなお、虚ろな目をしていた兵士たちの顔――。
「……忘れないさ。絶対に」
「それなら、大丈夫。全部は、消えてないよ」
セリアはそっとフィンの隣に腰を下ろした。彼女の白く細い指が、フィンの手の甲に触れる。
「フィンの中に、ちゃんと残ってる。だから、わたしは安心できるの」
「……セリア」
言葉にならない感情が、胸を満たす。
フィンは小さく頷き、セリアの手を軽く握り返した。
◆ ◆ ◆
その日の午後、王都から正式な検視官と記録官たちが到着し、事件の記録作業と、村の今後の保護計画が話し合われた。
「ここは、王都の保護区とする。二度と、同じ過ちを繰り返さないようにするために」
フィンの言葉に、検視官たちは深く頷く。
「畏まりました。陛下のお心を、我々も胸に刻み、処理を進めます」
「それと……」
フィンは地面に突き立てられていた小さな木製の杭を指さした。
「亡くなった者たちの墓標を、村の外れに立ててほしい。名のある者も、名のない者も、分け隔てなく」
「承知しました」
その日、村の外れに新たな墓地が整備され、過ちと赦しの記憶が刻まれる場所ができた。
人々は手を合わせ、それぞれの想いを空へと送っていく。
セリアも、小さな手を胸の前で合わせた。
長い耳が風に揺れ、儚げなその姿は、まるで古の精霊のようだった。
◆ ◆ ◆
夜、村を発つ前の最後の食事を囲むため、フィンとセリアは村の代表と共に小さな焚き火を囲んでいた。
「助けてもらった恩は、一生忘れません。……子どもたちも、安心して眠れるようになりました」
代表の男は、感謝の言葉を何度も繰り返した。
フィンはそれを黙って聞いていたが、ふと箸を置いて言った。
「これで、すべてが終わったわけじゃない。あの地下には、まだ“他の市場”があるかもしれない。……今後も、警戒を続けてくれ」
「はい、もちろんです」
セリアはその様子を見て、小さく肩をすくめた。
「フィンって、いつも“先のこと”考えてるよね。もっと今を楽しんでもいいのに」
「それは……お前が横で笑ってくれるから、少しは楽しめる」
「ふふっ、上手く言ったつもり?」
「少なくとも、思ってることは本当だ」
セリアは、少しだけ照れたような顔をしてうつむいた。
焚き火の赤い光が、彼女の頬を優しく照らす。
◆ ◆ ◆
夜も更け、いよいよ村を発つ時が来た。
フィンとセリアは、小さな荷を背に、東の街道を歩き出す。
月は高く、星は風に揺れていた。
「これから、どこに行くの?」
セリアの問いに、フィンは答えた。
「北の渓谷に“風の塔”があるらしい。……次は、そこだな」
「また、いろいろあるんだろうなぁ……」
「だが、それが旅というものだろ?」
「うん、そうだね」
二人の影が、街道に長く伸びる。
“剣に正義を宿せるか”――
今日、その問いに対する答えは出なかった。
だが、少なくともフィンは、一歩ずつ前に進んでいる。
そしてその隣には、必ずセリアがいた。
このエピソードでは、“正義”という言葉の重さを、少しだけ掘り下げてみました。
誰かの命を守るために、誰かを裁く――その判断は、とても重く、冷たく、痛みを伴います。
けれど、それでも前を向いて進まなければならないのが“王”であり、“英雄”なのかもしれません。
そして、セリアの存在があったからこそ、フィンは立ち止まらずにすみました。
彼女の一言一言が、どれほど彼を救っているか……。
次回は、新たな地「風の塔」での物語が始まります。
少し幻想的で、少し危険な空の世界――どうぞお楽しみに。




