88話:砂塵の街、剣闘士の檻
王国の法が及ばぬ地――東の果てにある砂漠都市では、未だ“力こそが正義”とされる風習が残っていた。
今回の舞台は、その砂塵にまみれた街。かつて栄華を誇ったが、今は剣闘士の見世物で生き延びる都市国家である。
そこでは罪もない子どもたちが“戦い”の道具として囚われ、命のやり取りすら娯楽とされていた。
そんな理不尽に、フィンはたった一人で挑む。
剣に、正義は宿せるのか。
誰かを救うことと、戦うことは、果たして矛盾するのか。
この物語は、“剣に意志を宿す”少年の覚悟と、ほんのひとときの希望を描く。
乾いた風が、肌を切り裂くように吹き抜ける。
広大な砂漠の果て――その中央に、異様な活気を持つ都市があった。東部交易の要衝、《ベル=サリム》。王国の法が及ばぬ“自由都市”として知られ、外の者からは“砂塵の都”と恐れられている。
フィンとセリアは、砂嵐に揉まれながら、ようやく都市の南門へとたどり着いた。
「……ここが、ベル=サリム……?」
フィンが呟くと、隣で馬にまたがったセリアが、目を細めて街を見つめた。
「熱……それに、ざわざわしてる。怖い、けど、フィンと一緒なら……平気」
フィンはそっと笑って、彼女の帽子を押さえてやった。風に煽られ、淡い金糸の髪がふわりと舞い上がる。
「ありがとう、セリア。無理はしなくていいからな。中に入ったら、まず水を探そう」
門をくぐると、すぐに異様な喧騒が彼らを包み込んだ。
商人たちが怒鳴り、兵士が怒声を飛ばし、囚人らしき者が鎖を引きずって歩いている。だが、そのすべてを圧倒するのは、中央広場から聞こえてくる、歓声と悲鳴の混ざったような奇妙な音だった。
「……あれ、なんだ?」
「剣の音……血の匂い……」
フィンがセリアの肩を抱き寄せ、群衆の間を縫って広場へと出ると、そこは一面の“闘技場”だった。
円形の石造りの競技場。剣を持った男たちが、生死を賭けて斬り結んでいる。観客席には、富裕層の者たちが酒を傾け、勝者に金を投げつけていた。
「……これは、見世物か」
フィンの声が低くなる。
だが、視線をめぐらせた先――控室のような檻の奥に、幼い子どもたちの姿があった。手枷をはめられ、痩せ細った肢体で壁にもたれかかっている。その目には、希望の光すら残っていなかった。
「フィン、あそこ……!」
セリアの指差す先には、ひときわ小さな少女がいた。彼女と同じ年頃の子だ。埃にまみれた銀髪と、震える肩が痛々しかった。
「子どもまで……剣闘に?」
「売られたって、言ってた。昨日、露店で耳にした。捕まって、剣を持たされるって」
フィンの拳が、わずかに震える。
「……これは、見過ごせないな」
フィンは闘技場の看板を見上げた。
《剣闘士トーナメント開催中。特別賞金:優勝者には金貨千枚》
「セリア、少しだけ離れててくれるか?」
「……嫌。ずっとそばにいる」
「……ありがとう。じゃあ、後ろから見守っていてくれ。絶対に、危ない目にはあわせない」
フィンは、手続きを済ませ、剣闘士として名を刻んだ。
仮名は要らない。
“フィン・グリムリーフ”。
その名が、初めて異国の地に響く時だった。
試合の開始を告げる角笛が、灼けた石壁に反響していた。
観客席の最上段、陽射しを避ける布の下で、セリアはじっとフィンの姿を見つめていた。小さな手には冷たい水筒。だが、唇は一滴も水を口にしていなかった。
「……フィン」
彼女の唇が、かすかに震える。初めて見る“本当の戦い”だった。フィンが剣を手に戦う姿は、どこか遠い場所のもののようで、けれど確かにそこにいた。
一方、闘技場の中心。
フィンはすでに剣を構え、相手と対峙していた。相手は筋骨隆々の男。黒ずんだ皮鎧をまとい、巨大な斧を振り回している。
「小僧が何を……すぐ潰してやるよ!」
怒号と共に、斧がうねりを上げて振り下ろされる。
「っ――!」
フィンは紙一重で身をかわし、滑るように相手の脇へと踏み込んだ。
――シュッ!
短く、鋭い金属音が響く。斬撃は、男の側面をかすめ、血を引いた。
「ぐぉっ……!?」
男がよろめく。だが次の瞬間、反転して背中越しに斧を振るう。
「速い……けど、重い……!」
フィンは跳躍してその軌道を外し、砂を巻き上げながら距離を取る。
――闘技場には、静寂が訪れた。
観客たちが驚きのあまり声を飲み込んだのだ。
この少年は、ただの旅人ではない。そう感じ取った瞬間だった。
「な……なんだ、こいつは」
男が苦悶の表情を浮かべる。
フィンは、静かに剣を掲げた。
「この街で生きる子どもたちが、殺し合いの見世物にされていいはずがない。お前は、ただの強者じゃない。恐怖で、子どもを縛ってるだけだ」
「何を……ッ、小僧が偉そうに――!」
男は怒声と共に突進する。だがその動きは、すでにフィンには見えていた。
足運び、肩の揺れ、武器の構え――すべてが、“力任せ”だ。
「終わらせる」
次の瞬間。
――ズシャァッ!
フィンの一閃が、男の膝を叩いた。
巨体が膝から崩れ落ち、斧が砂の上を滑る。
「ぐ、ぅ……!」
男が呻くのと同時に、フィンの剣がその首筋に突きつけられていた。
観客席に、沈黙が落ちた。
やがて、一人の少女の拍手が響く。
「フィン、すごい……!」
セリアだった。
その声を皮切りに、少しずつ、ざわついていた群衆の間に称賛の拍手が広がっていく。
「勝者――フィン・グリムリーフ!」
審判の声が響いた瞬間、闘技場は歓声に包まれた。
◆ ◆ ◆
控室の隅、フィンは水桶の前で顔を洗っていた。泥と汗、砂がこびりついた頬をゆっくりとぬぐう。
「……ありがとう」
背後から、そっと布を差し出す手が伸びる。
「フィン、かっこよかった。すごく、すごく強かった」
セリアだった。手に持っていた布をそっと差し出すと、フィンはそれを受け取って笑った。
「ありがとう、セリア。でも、これは始まりに過ぎない。次は、もっと強い相手が来る」
「……大丈夫。わたし、フィンが勝つって知ってるもん」
セリアは、胸を張って言った。いつもより幼さの抜けた言葉に、フィンは少し驚く。
「セリア……お前、なんだか大人っぽいな」
「ふふん、だって、フィンの旅の仲間だもん」
そう言って笑ったセリアの瞳は、砂塵の中でもまっすぐにフィンを映していた。
◆ ◆ ◆
日が傾き、次なる試合の鐘が鳴る。
フィンは再び闘技場の中央へと歩いていた。
観客席の視線が、今度は“期待”に変わっていた。
ただの剣士ではない――
この少年は、何かを変える“意思”を持っている。
それを、この街に住む誰もが、本能で理解し始めていた。
第二試合は、開始早々に異様な空気が漂った。
フィンの前に立ちはだかったのは、全身に刺青を刻んだ男だった。左目に傷があり、剣というよりも、巨大な棍棒を手にしている。
「見た目は子ども……だが、お前は“人殺しの目”をしてるな」
低く唸るような声が、観客席に響く。
フィンは、その言葉に応じることなく静かに剣を構えた。
――この街の剣闘士たちは、“強さ”だけでなく、“絶望”を背負っている。
彼らの多くは、他に生きる手段を持たなかった者たちだった。
(だからこそ――俺が、ここで終わらせる)
試合開始の合図と同時に、砂を蹴って間合いを詰める。
「チッ、速いな……!」
男が棍棒を振る。フィンは前に出ながら、その重い一撃を紙一重でかわすと、反撃に出た。
――ザッ。
斬撃が男の肩を裂いた。
「ぐっ……!」
しかし男は怯まず、笑みを浮かべて再び突進してくる。
「いいぞ、小僧。生きてる感じがする」
「……!」
再度の打撃。砂煙が舞い上がるなか、フィンは鋭く踏み込み、男の手元を正確に斬り払った。
棍棒が落ちる。
観客が一瞬息を呑む。
フィンの剣先が、男の首元に突きつけられていた。
「……終わりだ」
「はっ……見事だ。あんた、ただの旅人じゃねぇな」
男は笑い、静かにうなずいた。
◆ ◆ ◆
控え室の一角、フィンは椅子に腰を下ろし、息を整えていた。
額に浮かぶ汗が、静かに顎を伝って落ちる。
そこへ――ふわりと、冷たい風が吹き込んだような気配。
「……フィン、これ、飲んで」
セリアが手にした水筒を差し出してきた。衣の裾は砂で薄く汚れ、頬には細かい塵が付いている。だが、その瞳は濁らず、まっすぐだった。
「ありがとう。セリアも……大丈夫か?」
「うん。暑いけど、フィンの戦いを見てる方が緊張するよ」
無邪気な声に、フィンは微笑んだ。
「そうか……ごめんな。怖い思いをさせたな」
「……ううん。怖くないよ」
セリアは首を振ってから、少しうつむいた。
「フィンは……剣で誰かを斬るけど、誰よりも優しいから」
その小さな呟きに、フィンは何も言えなくなった。
彼の剣は、“守るため”の剣だ。
だがそれは、時に“奪うため”にもなる――その矛盾と共に、彼は歩いてきた。
◆ ◆ ◆
準決勝。
フィンの相手は、名を知られた剣闘士――“獅子の牙”と呼ばれる男だった。
観客席には、次第にこの街の有力者たちの姿も見え始める。
試合開始の角笛が鳴る。
「ようやくか。お前と戦えるのを待っていたぞ」
金色の髪を風に揺らしながら、男が笑う。
フィンは応じるように剣を抜く。
「強さのためじゃない。俺は、終わらせるためにここにいる」
「ふ……それでこそ!」
試合が始まった瞬間、闘技場の空気が変わった。
観客の誰もが、目を見開いた。
――速い。二人の動きは、まるで砂上の幻影のように交錯する。
剣戟が幾度も火花を散らす。
フィンは冷静に、相手の動きを見極めていた。
(この人は、“見せる剣”だ)
観客を惹きつけるための、演武に近い動き。
だがそのなかに、確かな殺気がある。
「一撃、決めさせてもらう」
「来い!」
フィンは一瞬で間合いを詰め――背後に回るように跳躍した。
「なっ――!?」
男が驚いた瞬間、フィンの剣がその肩口に添えられていた。
静寂。
「勝者、フィン・グリムリーフ……!」
観客席が揺れるような歓声を上げる。
セリアは両手を胸の前で組み、こぼれるような笑みを浮かべていた。
◆ ◆ ◆
夜、宿に戻ったフィンは、疲れからか椅子に深く腰を下ろしていた。
そこへ、セリアが温かいスープを運んできた。
「お疲れさま。ちゃんと食べて、明日も勝って」
「ありがとう……セリア」
スプーンを受け取り、ゆっくりと口に運ぶ。
塩気の中に、どこか懐かしい味がした。
「セリアが作ったのか?」
「うん。市場で材料を分けてもらったの。旅先でも、頑張れるように」
フィンは黙って微笑んだ。
子どもに救われる日々がある――それが、彼にとっての“剣を持つ理由”を忘れさせない。
決勝戦の朝、太陽は容赦なく砂漠の空を焼いていた。
剣闘場に集まった群衆は、熱気に包まれながらも、今日という“最後の戦い”を見逃すまいと目を光らせていた。
「今日で終わらせる」
フィン・グリムリーフは、控え室で静かに呟いた。
彼の剣に、迷いはない。
昨日の夜、セリアが自ら縫ってくれた手拭いを、彼は首元に巻いている。
「……セリアのためにも、もうこんな街、終わらせなきゃな」
扉が開かれ、光が差し込む。
そこには、群衆の熱狂と、無数の視線が待っていた。
◆ ◆ ◆
決勝の対戦相手は、“無冠の王”と称される老練の男――グラディオ。
数十年、この闘技場で生き延び、そして誰にも王冠を渡してこなかった男だ。
「貴様か……子どもが剣など振り回して、何が正義だ」
男の声は、風に削られた岩のように重く、乾いていた。
「俺は、子どもだからこそ剣を握る。理不尽を、大人たちが放置したから」
「ほう……口だけは一丁前だな」
グラディオは、刃が欠けたままの巨大な剣を肩に担ぎ、ゆっくりと歩み出る。
「始め!」
乾いた合図の直後、空気が爆ぜたような激突が始まった。
グラディオの一撃は、まるで山を砕くような重さだった。剣と剣がぶつかるたび、闘技場の地面が震え、砂が舞う。
フィンは、持ち前の速度と柔軟な動きで、重さをいなす。
「遅い!」
彼の剣閃が、老人の脇腹を裂く。しかし、血が流れても、グラディオは動きを止めない。
「それで、終わると思うなよ……!」
次の瞬間、剣ではなく拳が飛んできた。フィンの頬を掠め、身体が後方に吹き飛ぶ。
「ぐっ……!」
砂に背中を打ち、息が詰まる。
それでも、彼はすぐに立ち上がった。
(この人は……“終わりたがっていない”)
それがフィンには痛いほどわかった。
グラディオの目に宿っていたのは、希望ではなく――諦めだ。
「なあ、あんたは、いつまでここで戦い続けるつもりなんだ?」
フィンは剣を構えながら問いかけた。
「……誰も俺を止めなかった。誰も、変えようとしなかった」
「だから変える。俺が、今ここで」
剣を握りしめる。全身が痛む。だが、その痛みこそが、“正義”という言葉の代償だった。
「……斬ってみせろ、小僧。その意志が本物なら」
最終の打ち合い。
フィンは、地を蹴った。
グラディオの剣が振り下ろされる瞬間――フィンの剣が、空を裂いた。
次の瞬間、音もなく、グラディオの大剣が真っ二つに折れていた。
「なっ……!」
「ありがとう。あんたが、ここまで剣を振るってくれたから、俺は“信じる剣”を持てた」
グラディオは、まるで重荷を下ろすように肩を落とした。
「……その剣に、任せよう。俺の分も」
こうして、“砂塵の街”での剣闘大会は終わった。
勝者は旅人、フィン・グリムリーフ。
◆ ◆ ◆
剣闘場の外、夕刻の広場では、小さな子どもたちが笑顔で走り回っていた。
かつて檻に囚われていた少年少女たちだ。
「自由になったんだね」
セリアの声が、フィンの横で囁かれる。
「……ああ。だけど、これからどうするかは、大人の仕事だな」
「フィンはもう、立派な大人だよ」
その一言に、フィンは苦笑した。
「ありがとう。でも、俺はまだ、迷ってばかりだ」
「ううん。ちゃんと進んでる。フィンは、誰も見捨てなかったから」
小さな手が、フィンの指を握った。
彼はその手を優しく包み返す。
空に、星が一つ、瞬いていた。
この街に、ようやく夜が訪れる――安らぎのある夜が。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
第88話では、これまでよりも過酷で暴力的な街に焦点を当てました。
フィンが挑んだのは、目の前の敵だけではなく、この都市を支配してきた“古い価値観”そのものでした。
そして、闘技場で剣を交えたグラディオという男――彼自身もまた、時代に囚われた被害者であり、フィンとの対話は“次の世代へのバトン”という意味も持たせています。
セリアの言葉が、どこまでも優しく、どこまでもまっすぐにフィンを支えるのもまた、今回の救いとなりました。
「剣に正義を宿せるか?」――
この問いの答えは、きっと次の地へ向かう中で少しずつ見えてくることでしょう。




