84話:竜の谷と契約の剣(挿絵あり)
フィンとセリアの旅は、“伝説”が息づく地へと進みます。
第84話では、かつて竜と人が共に暮らしたという“竜の谷”を舞台に、暴走する幼竜とそれに巻き込まれた村を描きました。
物語の軸となるのは「力を振るう意味」と「共に生きる道」の探求です。
今回は、フィンが“ただ斬る”のではなく、“癒す”ように剣を振るう姿を通して、彼の成長と優しさを表現しました。
また、セリアの存在が光を添えることで、無言の絆が少しずつ深まっていく様子も描いています。
風が、広がる谷の奥から吹きつけてくる。
焼け焦げた木々。崩れ落ちた石造りの家屋。そして、煙をまとった空。
その風景は、まるで大昔の戦場跡のようだった。
だが、ここはれっきとした村であり、つい数日前までは人々の暮らしがあった場所だ。
「……ここが、“竜の谷”か」
フィン・グリムリーフは、焦げた土を踏みしめながら呟いた。
隣には、小柄なエルフの少女――セリアが立っていた。
黄金の陽光を浴びて、彼女の柔らかな巻き毛がほのかに光を反射している。
草色のマントに、くるぶし丈の革靴。くるんとした睫毛の奥には、澄んだエメラルドの瞳。
小さな背中には、旅の荷を詰めた小さな袋と、水筒が下げられている。
少女の姿は、滅びの村に差す一筋の希望のようだった。
「セリア、後ろに」
フィンがやさしく声をかけると、セリアは素直にこくりとうなずいて、彼の背後へ身を寄せた。
言葉はまだ通じぬ。けれど彼女は、危険を察する感覚にとても優れていた。
谷に入る前――。
彼らは、村の手前の草原で一晩を過ごしていた。
野花の咲き乱れる緩やかな丘。
そこに敷いた毛布の上で、セリアは小さく膝を抱え、夕焼けの空を見つめていた。
空は紫から朱に染まり、山の稜線には金色の光が差し込む。
フィンが支度した簡素なスープの湯気が漂うなか、セリアは小さな両手で木のカップを包み、ほっと一息ついた。
言葉はなくても、笑みだけは交わせた。
そのときの彼女は、あまりにも穏やかで、まるで“この世界にようやく居場所を見つけた子ども”のようだった。
その記憶が、今の焦げた村の風景と重なって、胸を締めつける。
ふと、村の奥――倒壊した祠の方向から、地を揺るがすような低い咆哮が響いた。
「……来たな」
空気が震え、土埃が舞う。木立の影から、ずんぐりとした巨大な影が現れた。
それはまだ成竜には遠い、だが明らかに“竜”の姿をした獣だった。
焦げ茶の鱗が陽光を跳ね返し、爪のひと振りで瓦礫を散らす。目には理性の色がなく、ただ苛立ちと恐怖だけが宿っていた。
「暴走している……原因は?」
フィンは剣の柄に手をかけながら、考える。
“竜の谷”とは、かつて竜と人とが共に暮らしたと言われる伝説の地。
その調和が崩れ、破壊と死がこの村に訪れたということか。
「……止めるしかない」
剣を引き抜く音が、静かな谷に響いた。
そのとき、セリアが小さな声を漏らした。
「……あれ、かわいそう」
その声に、フィンの足がわずかに止まる。
彼女の瞳は、ただ恐れではなく、竜の痛みを見つめていた。
フィンは小さく頷き、剣を肩に担いだ。
「できる限り、傷つけずに済ませよう」
そう呟くと、彼はゆっくりと、竜へと歩を進めた――。
フィンは、ゆっくりと足を踏み出す。
瓦礫を踏みしめるたび、土煙が巻き上がり、焦げた匂いが鼻を突く。
だが、その中に混じるのは、鉄――いや、血の匂いだった。
――村の民は……どれだけ生き残っている?
その問いを心に押し込み、彼は竜に視線を向けた。
幼竜は、かつて祠だった建物の屋根に前脚をかけ、うなるように唸っていた。
片目は潰れ、片翼は焦げて破れている。
狂暴というより、苦しんでいる。
何者かに捕えられ、傷つけられ、放たれたばかりのようにすら見えた。
「……セリア、離れていろ」
木陰に身をひそめていたエルフの少女にそう伝えると、彼女はゆっくりと、葉陰から小さく頷いた。
フィンはマントを翻し、剣をゆっくりと抜いた。
その音に、幼竜が顔をこちらに向ける。
両目がぎらりと光を放つ。
――次の瞬間。
地響きを立てて、幼竜が跳ねた。
「来い」
フィンは声を低く押し出し、踏み込みと同時に、斜めに剣を振り上げた。
飛びかかってくる竜の爪――それを刃の腹で受け、滑らせて受け流す。
重い一撃。
だが、幼竜は本気ではなかった。
その眼には、明らかに迷いがあった。
(……何か、訴えたいのか?)
再び牙が迫る。フィンは間一髪で回避し、背後へ跳ぶ。
着地と同時に、剣を構え直し、叫んだ。
「俺は敵じゃない!」
それでも、竜の動きは止まらない。
前脚が地を砕き、背後の壁が吹き飛ぶ。
瓦礫がフィンの頬をかすめた。
そのとき――。
「やめて!」
透き通るような声が、野原に響いた。
セリアだった。
少女は、両手を広げて、フィンの前へと飛び出してきた。
「やめて……フィンは……ちがう!」
竜の眼が、ぴたりと止まった。
震える唇、涙の浮かぶ翠の瞳。その姿に、竜の呼吸がわずかに緩む。
――共鳴。
それは、フィンの内に宿る「記憶の力」と、セリアの持つ“自然との繋がり”が、不意に交錯した瞬間だった。
フィンの剣が、微かに光を帯びる。
気づかぬうちに、竜との“感覚の橋”が繋がっていた。
「……聞こえるか」
フィンは、静かに呟く。
「お前の怒りも、痛みも、ここに届いている」
ゆっくりと、剣を下ろし、膝をついた。
「俺は、戦うために来たんじゃない。……救いに来た」
幼竜は、長い鼻面を低く下げ、地面を嗅ぐようにして近づいてきた。
フィンの肩越しに、セリアがゆっくりと近寄る。
彼女は、怖がることなく、竜の前脚へと手を伸ばした。
「もう、だいじょうぶ」
その囁きに応えるように、竜の息遣いが静かに鎮まった。
――そして、そのとき。
フィンの剣が、灼熱の空気と共鳴するように、赤金の輝きを帯び始めた。
まるで、炎の精がその刃に宿ったかのように、刀身が脈動する。
刻まれた文字が一つずつ、熾火のように浮かび上がる。
それは、竜の意志を映すかのようだった。
――竜の記憶。
――契約の刻印。
誰にも気づかれぬほどに、
剣の刀身の奥に、淡い紋章がゆらりと浮かんだ。
それは、炎に焼かれた大地にのみ刻まれる“誓い”の証。
「……終わった、のか」
フィンが呟くと、幼竜は静かにその場に身を伏せ、目を閉じた。
風が吹いた。
谷に漂っていた焦げた空気が、ほんの少しだけ、洗われたような気がした。
セリアは、そっとフィンの手を握った。
その小さな手が、どこまでも温かかった――。
谷を包んでいた緊張の気配は、幼竜が身を伏せた瞬間、潮が引くように消えていった。
倒壊した家々と、焼け焦げた木々が痛ましく残るものの、生命の気配が、確かに戻りつつある。
「――あの子……鎮まったんだな」
背後から、かすれた声が聞こえた。
フィンが振り返ると、村の長老と思しき老人が、杖を突きながら立っていた。
顔には火傷の痕が残っているが、それでもどこか、安堵の笑みを浮かべていた。
「若造が、こんな化け物をねじ伏せるとは……思いもよらんかったよ」
「ねじ伏せたわけじゃありません」
フィンは、幼竜を一瞥し、静かに首を振った。
「彼は……助けを求めていただけです。誰かに、理解してほしかったんでしょう」
長老はその言葉に眉を動かし、空を仰いだ。
「そうだな……ここはかつて、“竜の民”と呼ばれる一族が棲んでいた谷だった。
竜と心を通わせる力を持つ者が、確かにいたんだ。……だが、そんな話はもう、昔のことと思っていた」
言いながら、老人はフィンの腰の剣を見つめた。
「お主の剣……何やら、変わったようだが?」
フィンは、一拍の間を置き、鞘から刃を引き抜いた。
かつての剣にはなかった、細かな紋章のような模様が、鍔の根元に浮かんでいる。
まるで、竜の爪痕のようなそれは、鈍い光を帯びて脈動していた。
「……彼と、少しだけ心を通わせました」
剣を鞘に戻し、フィンは視線を谷の奥へ向ける。
幼竜は、静かに横たわりながら、時折まぶたを上げ、セリアの方を見ていた。
「ね、フィン。あの子、お名前あるのかな?」
セリアが近づき、屈むようにして竜の鼻先に手を当てる。
まるで、親しげな動物と話すように、無垢な笑顔で言った。
「なんていうのかな……もしかして、名前ないのかも」
幼竜は鼻をひくつかせ、彼女の手にそっと顔を寄せた。
その仕草に、セリアの耳がぴくりと動く。
「……あ、わかった。『ラオ』って」
「ラオ?」
フィンは、思わず聞き返す。セリアは真剣な顔で頷いた。
「うん。『ラオ』って言ってる。……きっと、そう呼んでほしいの」
ラオ――それがこの幼竜の名。
不思議と、谷の風がその音に反応したかのように、やわらかな風が野を渡る。
「セリア、お前は……ラオの声がわかるのか?」
「ちょっとだけ、ね。たぶん、私たち、友だちになれたの」
セリアは嬉しそうに笑い、竜の頬に額を当てた。
「この子、ずっと一人ぼっちだったのよ。……でも、もう大丈夫。わたしたちが、いるから」
フィンはその光景を黙って見つめ、ふと、自身の足元に目を落とした。
その土には、かつて誰かが残した石碑の欠片が埋まっている。
《竜と人、心を重ねて歩む谷にあれ》
古き契りの言葉。
もう語られることのなかった伝承が、今まさに、小さな再生を迎えようとしていた。
◆ ◆ ◆
日が暮れると、村人たちが傷の手当てを始め、倒壊した家屋の修復が始まった。
その合間に、焚き火を囲む小さな輪ができる。
セリアは、少し離れた丘の上で、ラオと並んで座っていた。
膝を抱えて草の上に腰を下ろし、彼女は星空を見上げている。
「フィン、こっち!」
呼ばれて、フィンも彼女の隣に腰を下ろした。
小さな肩が、少しだけ震えていることに気づいた。
「……こわかった?」
問いかけに、セリアは小さく頷いた。
「でも……フィンがいたから、だいじょうぶだったよ」
「俺も、セリアがいなかったら、ラオを救えなかったさ」
ふたりの間に、静かな風が吹き抜ける。
星空の下、ひとりと一匹、そしてもうひとり。
孤独だった魂たちが、そっと寄り添っていた。
その時だった。
フィンの胸元が、かすかに熱を帯びた。
剣の“契約痕”が、共鳴するように輝いたのだ。
――これは、始まりにすぎない。
彼は、無意識にそう感じていた。
この剣には、もっと深い使命が眠っているのだと。
そしてこの旅は、まだ終わらない。
夜が明ける少し前、谷には柔らかな霧がかかっていた。
火災の残り香はわずかに残っていたが、空気にはすでに再生の兆しが漂い、鳥のさえずりが遠くから聞こえていた。
仄暗い空の下で、フィンは剣を背負い直し、静かに村の外れを歩いていた。
竜のラオは、谷の奥に戻っていった。
その背を見送ったセリアは、村の広場で一人、背を丸めるようにしてしゃがんでいた。
「……セリア」
フィンの声に、セリアは振り返った。
小さな体には、村の子どもたちが作ってくれたマントが掛けられている。
「朝……もう行くの?」
声はかすれていた。夜通し、泣いていたのかもしれない。
それでもセリアの瞳は、まっすぐフィンを見ていた。
「うん。……でも、また戻るよ。ラオにも、お前にもな」
セリアはフィンの隣に立つと、小さな手でマントの裾をぎゅっと握った。
「わたしも……行っていい?」
「……ああ」
言葉は短かったが、そこに込められた想いは深かった。
フィンは、少女の髪を優しく撫でると、視線を上げた。
村の人々が、少し離れた場所でこちらを見ていた。
長老がゆっくりと歩み寄り、布に包まれた何かを差し出す。
「これはの。谷に代々伝わる“心の石”じゃ。
竜と共に歩んだ証として、かつての“竜の民”が持っていたもの……
今はお主に預けよう。剣と共に、この谷を忘れぬようにな」
フィンはその包みを両手で受け取った。
開くと、白銀色の小さな結晶が現れた。
指先に触れると、まるで心音のようにかすかな鼓動を感じた。
「……ありがとうございます」
「礼には及ばん。……願わくば、またあの竜が戻ってきたとき、この谷が“居場所”であるようにしてやってくれ」
長老の声は、微かな震えを含んでいた。
フィンは頷き、包みを丁寧にしまう。
◆ ◆ ◆
村を発つと、谷の空が開けていた。
山々の間から朝日が差し込むと、霧が金色に染まっていく。
フィンとセリアは、なだらかな丘を登っていた。
セリアの足取りは軽く、風に揺れる長い銀髪が朝日を受けて煌めいていた。
「……次はどこに行くの?」
セリアが尋ねた。
フィンは地図を広げるでもなく、ただ前を見つめたまま答えた。
「西の平原に、奇妙な“戦跡”があるらしい。
かつて王国と隣国が争った場所……いまも、死者の影が現れると噂されてる」
セリアは目を丸くした。
「おばけ……出るの?」
「たぶん、そういう“未練”の方が近いな」
「じゃあ……ちゃんと、さよならって言ってあげるの?」
フィンは微笑んだ。
「できるならな」
◆ ◆ ◆
谷の出口に立ち、フィンはもう一度、振り返った。
そこには、壊れかけの村と、新しく建て直されつつある家々があった。
ラオの気配はすでに遠くなっていたが、風の向こうから小さな“鼓動”のようなものが聞こえた気がした。
――また、来るよ。
フィンは心の中でそう呟き、再び歩き出した。
旅はまだ、始まったばかりだ。
だが、その足元には、“誰かの想い”と“命の重さ”が、確かに刻まれていた。
竜との契り。
セリアとの絆。
そして、剣に宿った新たな力――。
それらすべてを胸に、フィン・グリムリーフは、今日も剣を背に進んでいく。
読んでいただき、ありがとうございました!
今回は“バトル+共鳴”というテーマで、フィンの剣に“竜の契約痕”という新たな力を宿らせました。
これは今後の伏線にもなります。
また、セリアは今回ほとんど言葉を発していませんが、視線や行動から伝わる気持ちが、彼女の魅力だと思っています。
そして、イラストに近づけた描写も加えさせていただきました。
次回、第85話では、かつての“王国の騎士”と出会う場所、古戦場が舞台です。
フィンにとって剣とは何か。その問いが、再び突きつけられます。
どうぞ、引き続きお楽しみください。




