第8話:道の先に、揺れる光(挿絵あり)
神殿を後にしたフィンたちは、小さな村にたどり着きました。
そこで待っていたのは、“英雄の噂”と、風に揺れるもう一つの影――仮面の女。
第8話では、リナとノーラが初めて言葉を交わし、旅路に微妙な緊張と新たな絆が生まれます。
そして、伝説の名――《エネルア》が、初めて語られました。
フィンの力は、まだ“生まれたての風”。
それでも確かに、彼の歩みは語られぬ伝説の核心へと近づいていきます。
リナの挿絵です。
風は、進む先を照らすように吹いていた。
陽が高くなるにつれ、草原の緑が淡く輝き出す。
空はどこまでも澄みわたり、雲はゆったりと流れていた。
フィンとリナは、焦げた神殿を後にし、東へ向かっていた。
あてもない旅だった。けれど、風だけは確かに“人のいる方”を教えてくれていた。
「……まさか、助けてもらった上に、一緒に旅することになるなんてね」
リナが呟く。
フィンは無言のまま頷いた。
「まだ体、痛むけどさ。足は動くし、口も動くし。ついでに……文句も言えるよ?」
そう言ってから、自分で吹き出す。
「……あんた、ほんと無口だよね。もうちょっと喋ってもいいんだよ?」
また、無言。
だけどフィンの肩が、ほんのわずかに震えたように見えた。
(……今の、笑った?)
そんな気がして、リナはふふっと鼻を鳴らす。
午前のうちに、小さな村が見えてきた。
川のそばに広がる、数十戸ほどの集落。
牧草地と小さな果樹園があり、家畜の鳴き声が風に乗って届く。
村の名は、「エルシェ村」と看板にあった。
地図にも載っていないような、静かな土地。
けれど――村に近づくにつれ、空気が変わった。
子どもたちが遊んでいたが、フィンたちの姿を見るなり、ぱっと逃げる。
畑仕事の老人たちは道端から視線を逸らし、女たちは戸を閉ざした。
「……なんか、感じ悪いね」
リナが眉をひそめる。
だが、その直後。
一人の少年が、彼らの前に駆けてきた。
まだ幼さの残る顔に、目いっぱいの驚きと――興奮が混じっていた。
「し、白い外套の旅人……! 本当にいたんだ! あんたが……!」
フィンが立ち止まる。
少年は興奮気味にまくし立てた。
「“風で敵を倒した小さな王”って、本当にいたんだね!? 僕の兄ちゃんが見たって言ってたんだ!」
リナが口を開く前に、村の大人たちが駆けてきて、少年を抱きかかえるように連れていった。
「あんたたち、旅の者だね? すまないが、うちの村では……よそ者はちょっと……」
そう言って、戸を閉めるようにして去っていく大人たち。
「……噂だけ先に歩いてるのか」
リナがぽつりとつぶやく。
フィンは、黙って空を見上げた。
風が吹いている。
あの日、あの戦場で舞った風と同じ匂いがした。
彼の中で、確かな感覚が芽生えていた。
言葉はなくとも、
声なき噂が、風に乗って大陸を駆けていく。
それが、どれだけ“現実を変える力”を持っているのか――
リナが、そっとつぶやく。
「……英雄って、最初は歓迎されるんじゃないんだね」
そう。
英雄譚は、遠くから見れば美しく響く。
だが、近くで見れば――恐れや偏見を生むこともある。
と、そのとき。
フィンの視線が、村の外れの井戸に向いた。
そこに、ひとりの女が立っていた。
風にたなびく外套。肩から下げた小さな袋。
そして――顔の左側には、仮面。
リナが動きを止める。
フィンの目も、静かに細められた。
女は、その場から動かない。
井戸の石に指を添え、ただこちらを見ていた。
その表情は読めない。
けれど、敵意は感じられなかった。
ただ、空気が、妙に研ぎ澄まされている。
あの戦場のように――風が言葉を飲み込む、静けさだった。
そして、女は一歩、こちらに足を踏み出した。
その足取りは、あまりにも静かで、あまりにも確かな“覚悟”を感じさせた。
その女は、風のように静かに近づいてきた。
村の外れ、井戸の傍から。
一歩一歩がまるで音を立てず、草を踏みしめるのではなく“風に乗るような”足取りだった。
左目にだけ、黒い仮面。
右目からは鋭く澄んだ銀の瞳が覗く。
どこか人ではないような透明さと、恐ろしく整った線の顔立ちがあった。
リナは、反射的に剣に手を伸ばした。
「……仮面……! お前、あいつらの仲間か……?」
吐き捨てるように低く呟く声。
フィンは一歩前に出た。
が、剣には手をかけない。
女――ノーラは、フィンの動きを静かに見ていた。
まるで、何もかも見透かしているかのような視線。
やがて、ノーラが言葉を発した。
「……見ていた」
その声は低く、だが澄んでいた。
「あなたが、風を使って戦場を支配した瞬間。
空気が裂け、命が流れずに決着したあの場を――私は見ていた」
リナが睨みつける。
「で? だから何? “よくやった”って拍手でもくれるの?」
ノーラは応えない。
代わりに、ゆっくりと自らの仮面に手を添える。
カチ、と音がして、左目を覆っていた仮面の留め金が外された。
銀髪がさらりと揺れ、仮面が外れる。
その下にあった左目には――うっすらと焼け跡のような傷が残っていた。
「これは、私の“誓い”だった」
ノーラは、静かに仮面を手に持ったまま続ける。
「私たちは、“見る”ことで任務を遂行する。
この目で見た標的は、排除する。それが契約だった」
「……だった?」
リナが低く反応する。
ノーラは頷いた。
「今はもう、破棄した」
風が吹く。
仮面がノーラの手から滑り、コツンと石畳に転がった。
「私は、組織から離れた。
理由はひとつ――あなたを見て、確信したから。
“本当に恐れるべきは、力そのものではない”と」
フィンはノーラの言葉を受け止めながら、わずかに目を細めた。
リナはなおも疑念を隠さない。
「……あんたらのせいで、仲間を殺された。
その“見る”ってやつで、命を奪われた人間が、どれだけいるか……」
「知っている。全部は、知っている。
……けれど、止める手段を持てなかった。それが私の弱さだった」
ノーラの声は、どこまでも静かだった。
波紋一つない湖面のような、澄んだ響き。
「だから、今ここで選ぶ。
命令ではなく、自分の意思で。
私は――あなたたちに、協力を申し出る」
沈黙が落ちた。
リナが一歩、踏み込む。
「どうして今さら。信用できる理由なんて、どこにもない」
ノーラはリナを見返す。
その目に宿ったのは、誇りでも懺悔でもなく――願いだった。
「信じろとは言わない。ただ……私は、あの風をもう一度感じたかった」
その言葉に、フィンがわずかに目を伏せた。
あの戦場。風の静寂。剣圧だけで仮面を裂いた一閃。
それが、誰かの心を“変えた”のだと、確かに伝わってきた。
リナが肩をすくめる。
「……あんたが敵じゃないなら、いいよ。
でもね、私はまだ信用しないから。フィンの横を歩くのは、まだ早い」
「承知している」
ノーラはそう答えた後、懐から小さな巻物を取り出した。
「これは……私たちの“次の狙い”が記された暗号文。
村を通過した先の渓谷で、“封印の鍵”を発見したとある。
恐らく、次に組織が動くのは、そこ」
フィンはそれを受け取り、開くことなくしまった。
もう決まっていた。
――次に進むべき場所が。
風が三人の足元を撫でた。
かつて敵だった者が、今はただ静かに隣を歩こうとしている。
そこにはまだ、信頼も、絆もない。
けれど、“踏み出した意思”があった。
それはきっと、どんな仮面よりも――確かな証だった。
朝の光が村を照らし、空気に清らかな張りが戻っていた。
フィンたちは、次の目的地――東の渓谷へ向けて出発の準備を整えていた。
ノーラが持参した暗号文には、“封印の鍵”が渓谷に存在するという記述があった。
どんな意味を持つかまでは記されていなかったが、それが仮面の組織の次の目的であることは明らかだった。
「ここから一日もかからない距離だけど、途中は獣道みたいなもんだよ」
リナが背負った荷を調整しながら言った。
声には軽さを装っていたが、視線は時折ノーラに向けられていた。
ノーラはというと、すでに身支度を整え終え、背筋をまっすぐにして立っていた。
左目にあった仮面は外され、代わりに細い包帯が巻かれている。
「……それ、痛むの?」
リナが口に出したのは、ほとんど反射だった。
ノーラは目を伏せず、真っ直ぐにリナを見返して首を振る。
「痛みはない。ただ、忘れないようにしているだけ。
過去に何を見て、誰を裁いたかを――私自身が。」
「……ふぅん。あんたってほんと、めんどくさいよね」
ぶっきらぼうな口ぶりの中に、ほんの僅か“理解”が滲む。
リナの声色には、昨日までにはなかった微かな柔らかさが混じっていた。
そんなふたりの間に流れる空気を、フィンは振り返らずに感じ取っていた。
彼はただ黙って、歩き出す。
その背を見送るリナが、肩をすくめてつぶやく。
「まったく……あいつは、いっつも黙って先に進む」
⸻
村の門をくぐろうとしたとき、草陰に隠れるようにしていた子どもたちの声が聞こえてきた。
「ねえねえ、見た? あれが“風王”だよ!」
「ちがう、“静けさの魔王”って呼ばれてるっておじさんが言ってた!」
「剣が光ってて、空が割れたって聞いた!」
「旅人なのに、王様で、魔法も使えるんだってさ!」
噂はすでに独り歩きを始めていた。
しかも、どんどん派手になっている。
リナがくすっと笑う。
「……すごいね。まだ数日しか経ってないのに、“伝説”になりかけてるよ」
ノーラは黙ってその声を聞き流していたが、ふと口を開いた。
「――噂とは、実像よりも速く育つ。
けれど、音もなく戦場を制するその姿は……確かに、“伝説の剣”を思わせた」
リナが眉をひそめる。
「伝説の剣……?」
ノーラは懐から細く折り畳んだ巻物の一部を引き出した。
風に揺れたそれに刻まれていたのは、古代語の断片。
「かつて、風を裂き、空気を静止させる力を持った剣があったとされている。
その名は《エネルア》。
空に描かれし銀の線、その一振りは千の軍勢を沈黙させたという」
フィンの足が、わずかに止まる。
ノーラは視線を彼に移し、続けた。
「あなたの使った“剣ではない風”は……そのエネルアに似ていた。
けれど、それはまだ未完成。“生まれたての風”とでも言うべきか」
リナが、驚きと納得の混ざった声を漏らす。
「じゃあ、フィンは……その伝説の剣を、いずれ手に入れるかもしれないってこと?」
ノーラはゆっくり首を横に振った。
「……違う。
彼は“選ばれる”のではなく、自らの力で“超えていく”存在だと思う。
伝説をなぞるのではなく、新たな風を刻む者」
風が吹いた。
それは、言葉を肯定するかのように草原を揺らした。
フィンは何も言わなかったが、胸の内で確かにひとつの決意が芽生えていた。
⸻
村のはずれを越えた三人の前に、草原が広がっていた。
そこから先は獣道。
渓谷までは日が高いうちにたどり着けるだろう。
「それにしても……」
リナがふと、空を見上げる。
「“風の剣”なんて、そんなの似合いすぎて反則だよ、あんた」
ノーラは、それを聞いてわずかに口元を緩めた。
珍しく、感情の動きが彼女の顔に現れていた。
その背後、木陰の向こうに、ふたたび仮面の気配が揺れていた。
風は、まだ静かだった。
だが、嵐の予兆は――確かにそこにあった。
夕暮れが迫るころ、渓谷の入り口近くでフィンたちは足を止めた。
風は穏やかで、空の色は橙から群青へと静かに移り変わっていた。
「今日はここまでにしよう。日が暮れてからあの道を進むのは危ない」
リナがそう言って、背から荷を下ろす。
草地の窪みに小さな火を起こし、三人は囲むように腰を下ろした。
焚き火は控えめに。煙が立ちすぎないよう、乾いた枝ばかりを使う。
話すことは、あまりなかった。
だが、それぞれが何かを考えていた。
ノーラは、火の明かりに照らされた左手を見つめていた。
その手は幾度となく剣を握り、幾人もの命を奪ってきた手だった。
「……この手で守ることも、できるのだろうか」
ぽつりと漏れた言葉に、リナが眉をひそめる。
「何よ、急に」
ノーラは返事をしなかった。
ただ、火に照らされる炎のゆらめきだけが、微かに彼女の瞳を揺らした。
「だったら、守ってみせなよ」
リナは背中を預けるようにして、草の上に転がる。
「過去がどうだったとか、何人殺したとか、正直どうでもいい。
あんたがこれからどうするかだけ、あたしは見てる」
ノーラは驚いたようにリナを見る。
その目に、かすかな戸惑いが浮かんだ。
「信じるわけじゃないよ。でも、そばにいるなら、それくらいは言っとく」
「……礼を言う」
「別にいらないし」
そう言って、リナは片目だけでノーラを見て、ニッと笑った。
それは敵意のない、素の笑みだった。
フィンは黙ってその様子を見守っていた。
焚き火の火が彼の目を照らすたび、その表情は少年らしさと“何か別のもの”を併せ持っていた。
やがて夜が深まり、風が冷たくなっていく。
ノーラは立ち上がり、あたりを見回した。
「交代で見張りましょう。誰かが先に――」
「いい。私がやる」
フィンが初めて、自ら言葉を発した。
その一言に、ふたりは少しだけ驚いたような顔をした。
「……わかった。でも、無理はしないでね」
リナがそれだけ言って、毛布にくるまった。
ノーラも簡易的な防寒具を体に巻き、目を閉じる。
夜がすべてを覆い始める。
火の音だけが、かすかに聞こえる。
フィンは一人、焚き火の前に腰を下ろしていた。
空を見上げると、星がいくつも浮かんでいた。
彼は胸元から、ノーラが渡した暗号文を取り出す。
“鍵は、語られざる王の地にて眠る”
その一文が、風に揺れて読み取れた。
「語られざる……王……」
誰にも届かない声で、フィンは呟く。
彼自身が“語られないはずの者”であるかのように。
そのときだった。
木々の向こう――
空気の揺らぎ。
風ではない、別の“気配”。
音はない。
だが、フィンにはそれが“こちらを見ている気配”だと分かった。
仮面の影が、再び迫っている。
そして、その気配の中には――
一人、かつての追手とは違う“濃密な闇”が混じっていた。
フィンは剣に手をかけることなく、目を閉じた。
夜の風が、彼の外套を揺らす。
やがて、足音もないまま、気配は森へと消えた。
嵐はまだ遠い。
けれど、確実に近づいている。
明日、渓谷に踏み入ったとき、すべてが始まる。
フィンはもう、迷っていなかった。
語られざる者であっても、
歩いた足跡が世界に残るのなら――それでいい。
彼は、火を見つめ続けた。
静かに、ただ静かに。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
第8話では、「語られ始める英雄」と「かつての敵との共闘」という大きな転換点を描きました。
静けさの中に漂う緊張、そして渓谷に迫る影――
すべては、次なる“鍵”と《エネルア》の真実へと繋がっていきます。
次回はいよいよ“封印の地”へ。
語られざる王の地で、フィンたちは何を見るのか――お楽しみに!




