79話:語られた想い、動き出す塔
塔による支配の影が薄れつつある今、フィンたちは「語り場」という新たな希望の種を育て始めます。
けれど、それは平穏な日々を保証するものではありません。
真実が民に届き始めたその時――塔もまた、動き出す。
静かに、しかし確実に。「言葉の闘い」が始まろうとしています。
王都の夜が明けきらぬ時間、まだ空が群青色に染まるなか、フィン・グリムリーフは宮廷の一室で地図を睨んでいた。
広げられた地図には、塔に関係する施設の位置、衛兵の配置、そして新設された語り場の場所が記されている。そのすべてに、細かく赤や青の印が付けられていた。
「動きがあるな……塔の反応が予想以上に早い」
フィンは呟き、指先でひとつの赤印をなぞる。
「ここ、北区の倉庫街。火災が起きたと報告があった。偶然じゃない」
カイが静かに頷く。彼も早朝から呼び出され、書類の束を抱えていた。
「昨夜の語り場での記録公開が効いたんだろうな。塔の側にも危機感がある。あれは、ただの警告じゃない」
「脅し、そして情報の遮断。やはり塔は市民の声を恐れている」
フィンは椅子から立ち上がると、窓の外を見やった。朝焼けが王都を照らし始めている。
「市民の安全を確保するには、語り場の警備を強化しなくてはならない」
「俺とリナで、各地を巡るよ。魔法の防護陣をいくつか貼っておけば、最低限の対策にはなる」
「フェンリックには広報を続けてもらう。市民が怯えれば、塔は勝つ。だが、声を出し続ける限り、俺たちの負けじゃない」
そう言いながら、フィンは手元の紙に新たな指示を書き込む。
その頃、南区の語り場では、リナが子どもたちと共にテントの整備を行っていた。
「よーし、この布は風除けにするよ。ちゃんと端を持って、引っ張って!」
「はーい!」
リナの元気な掛け声に、少年少女たちが楽しそうに応じる。彼女はただ武を持って戦うだけではなく、街の人々に寄り添い、彼らと共にいることを選んでいた。
子どもたちが手を貸す姿は、周囲の大人たちにも伝播していく。やがて商人や鍛冶屋、旅芸人たちがテントの補強や照明の設置を手伝い始めた。
「昨日、あの魔術師さんが読んでくれた話……うちの娘も似たようなことがあったんだ。声にしていいって分かったら、話してくれてさ」
「それだけでも、語り場を作った意味はあったな」
リナはふと、焚き火の近くで話し合う中年夫婦を見つけた。
「なあ……塔は怖い。でも、黙ってるだけじゃ、何も変わらんだろ?」
「うん。うちも語りたいこと、ある。誰かに話したいって、ずっと思ってた」
そんな市民たちの声が、少しずつ積み重なり、街の空気を変えていく。
語り場の上空には、カイが展開した保護の結界が薄く輝いていた。目には見えにくいが、確かな力が人々を包み込んでいる。
そしてその夜、北区で新たな事件が起きる。塔に近い橋のたもとで、市民の集会が妨害を受けたのだ。
その報を受け、フィンたちは現場へと向かう。彼らの闘いは、剣ではなく言葉で続いていく。
希望の火を絶やさぬために。
市民の声が風に溶けるように広がっていく夜が明け、王都には静かな朝が訪れた。
その朝、フィンは政庁の仮設執務室にいた。語り場に集まった人々の声がまとめられた報告書に目を通しながら、アレシア、カイ、リナ、そしてノーラを交えた定例会議が始まっていた。
「まずは、昨夜の反応ですが……」とアレシアが開口一番に切り出す。
「北区では語り場に二百人以上が集まりました。南区でも百五十人規模。西区と東区でも百人を超えています。全体で六百人以上、市民の参加がありました」
フィンは数字よりも、その熱を想像していた。
「塔の影が薄れてきたという実感があるんだな」
「しかし、その影も動き始めています」とアレシアが顔を曇らせた。
「塔側は市内の一部商人と結託し、物流を握ろうと動き始めました。これが成功すれば、私たちが築こうとしている開かれた市政は資材の供給で詰まるでしょう」
「……やる気か」フィンの声が低くなる。
「それだけではありません」
リナが小さく息を吸って、手元のメモを見せた。「塔側の回し者と見られる男が、市内で『語り場は偽り』と吹聴してまわっていたようです。民衆の間に疑念の種を撒こうとしている」
「その者の特定は?」
「顔の特徴は控えてある。ノーラが……」
「追ってるわよ」
黒髪をポニーテールにまとめた少女、ノーラが背後の柱に寄りかかっていた。暗殺者としての鋭さは普段の無口さに包まれていたが、その目は冷徹に周囲を見渡している。
「昨夜、語り場に紛れ込んでいた。身のこなしは素人じゃなかったわ。ああいうのが市民の中にいるのは危険よ」
「塔の刺客か」カイが眉をひそめた。
「今のところは監視しているだけ。でも……何かあったら、始末するわ」
フィンは静かに首を振った。「できれば、民衆の前では手を出したくない。正義を掲げるなら、それに見合った行動をしなければならないからな」
「正義なんてものを信じるには、ずいぶんと血を流してきたわよ」ノーラが小さく呟く。
「……だからこそ、信じたいんだ」フィンはその視線を正面から受け止めた。「お前たちの痛みを無駄にしないためにも」
その言葉に、ノーラはわずかに目を伏せた。
会議が続く中、カイが魔術による情報の拡散について提案した。
「塔が言葉で揺さぶってくるなら、こちらも“真実の言葉”を可視化しよう。記録された市民の声を、魔術で空に投影するんだ。夜空に映る語りの灯火。希望になるよ」
「それは……人の心を震わせるだろうな」フィンが頷く。
「ただし、魔力の供給は膨大です」とアレシア。
「なら、俺が担おう」フィンがすっと立ち上がる。「王としての責務だ」
「王様らしいこと言ってるじゃない」リナが笑う。
「たまにはな」
ノーラは柱の影から姿を離れた。「それなら、私も動くわ。塔の連中が次にどこで仕掛けるか、先に察知しておきたい」
「ノーラ、気をつけてくれ。お前は仲間だ」
「それ、今さら?」
ノーラは素っ気なく背を向けたが、その背中にわずかな緩みがあった。
外の陽が強くなり、街が再び動き始める。
それは、新たな戦いの始まりでもあった。
風が抜ける夜の市街地。
仮設語り場の一つ――東区の広場には、今夜も多くの人々が集まっていた。ろうそくの灯りが、小さな希望のように仄かに揺れている。広場の中央、火を囲むように作られた円形のベンチでは、年配の男性がゆっくりと話を始めていた。
「……塔にいた頃、私たちは命令を守ることが正義だと教わった。誰かを守るには、誰かに命じられる必要があると思っていた。だが今は、違うと思えるようになったんだ」
その隣で、若い鍛冶職人の男がうなずいた。
「俺は逆さまの世に疑問を持ちながらも、口をつぐんでた。ただ目の前の仕事だけをやって……でも今、こうして言葉にできるのが嬉しい」
語り場では、身分も立場も関係なく、人々が自分の想いを語っていた。それはたとえば、心に積もった後悔であったり、未来への小さな希望であったり。言葉が言葉を呼び、炎のように灯が次々にともされていく。
その輪の外、やや離れたところで、ノーラは壁際に立っていた。
夜の気配が濃くなるにつれ、彼女の影も長く伸びていた。
「……こういうの、苦手なんだよね」
そう呟く声は誰にも届かない。
けれど、ノーラの視線は確かに広場の中央に注がれていた。人々が語る声、耳を傾ける姿。そのすべてが、彼女の胸に何かを刺す。
自分の声が、この場に加わることはない。過去を語ることが、彼女にとっては“弱さ”だったから。
しかし、ふと、広場の端にいた小さな子どもが、こちらを振り返ってノーラを見た。瞳が、まっすぐで、曇りがなかった。
「ねぇ、お姉ちゃんも何か話すの?」
――その一言が、ノーラの時間を止めた。
彼女は返事をせず、ただ微笑んで首を振る。けれどその瞬間、胸の奥に、言葉にできないざらつきが生まれていた。
それでも彼女は、そのまま踵を返し、夜の路地へと姿を消した。
*
一方その頃、王宮の執務室。
フィンはアレシアと並び、塔の動きに対する分析を進めていた。
「塔内部の機密文書、いくつかは焚かれた跡がありました。誰かが証拠隠滅を図った可能性が高いです」
「やはり、動き始めたな……」
フィンは、机の上に広げた地図に視線を落とす。
「市民の語り場が広がるほど、彼らは焦る。閉じられた真実が、外へ流れ出すのを恐れているんだ」
アレシアは頷きつつ、新たな報告を続ける。
「塔側の官吏の中に、接触を求めてきた者がいます。“対話の場を望む”という建前ですが、内部の動揺を隠しきれない証左でしょう」
フィンは、深く呼吸をし、言葉を探すように呟いた。
「ならばこちらも、一段階進める時だ。“真実の場”を設けよう」
「……それは?」
「市民だけでなく、塔側の人間も招き、記録を前提とした公開対話の場を設ける。そこにいるすべての声を、歴史に刻む」
「危険です。塔がそれを受け入れるとは思えません」
「受け入れさせる。民意の力でな」
その言葉に、アレシアの瞳がわずかに見開かれた。
*
夜遅く。
ノーラは、裏路地にある古びた屋根の上に腰を下ろしていた。月の光が静かに降り注ぎ、彼女の銀髪が淡く光を帯びる。
「……馬鹿みたいだな、私」
思わずこぼれた言葉。誰に向けたものでもない。
だが、次の瞬間、近くの屋根にふわりと影が落ちた。
「馬鹿じゃないよ」
リナだった。
「驚かせるなって……」
「驚くの、苦手?」
リナは笑いながらノーラの隣に腰を下ろした。
「語り場、見てたんでしょ? あんたも、何か言いたかったんじゃない?」
ノーラは黙って空を見上げる。
「私は、過去に戻れない。謝る相手もいない。語るべき話も、ない」
「そう思うなら、それがあんたの物語だよ」
リナの言葉は、夜風よりも優しかった。
「語るってさ、誰かに謝ることだけじゃないと思う。自分に向き合うってことじゃない?」
ノーラはふと、拳を握る。
「……じゃあ、もう少しだけ。見ててもいい?」
「もちろん。あんたが話すまで、私は隣で待ってる」
そう言って、リナは小さく笑った。
月明かりの下、二人の影が静かに寄り添う。
そしてその夜もまた、語り場では誰かの声が新たに紡がれ、火のように、言葉の灯がともっていった――。
翌朝。王都は、透き通るような晴天に包まれていた。
市場の通りでは、野菜や果物を並べた露店が活気を取り戻しつつあり、子どもたちの笑い声があちこちに響いていた。けれど、明るい光の下で進んでいるのは、表向きの平穏だけだった。
塔の高窓の奥では、重く閉ざされた扉の向こう、影の会議が始まろうとしていた。
「――王とその周囲が、我らの管理下にある情報を外部に流している」
冷たい声が室内に響く。
発言者は、塔の中枢を担う老学士のひとりだった。灰色の外套に身を包み、目元には皺が刻まれているが、眼光は鋭く、威圧的な空気を纏っていた。
その周囲には、複数の塔の文官たちが控えていたが、誰も口を開こうとはしない。
「市民たちの“語り”を放置すれば、塔の威信は地に落ちる。正義は語るものではなく、示すものだ。……我々が作り出した秩序を崩してはならぬ」
「だが……」
若い書記官の一人が、躊躇いがちに声を上げた。
「彼らが発信しているのは、民の声です。過ちを正し、対話を求める声が、市中で確かな共感を得ていることは……否定できません」
その瞬間、室内の空気がぴたりと凍る。
老学士はゆっくりとその男の方へ歩み寄ると、低く言い放った。
「共感か、哀れな幻想だ。民の言葉は時に刃となり、時に毒となる。それを制御せずに放てば、いずれ己の喉を裂く」
書記官は黙り込み、唇を噛んだ。
「……ゆえに、動く。我らもまた、正しき声を放つべきだ」
老学士の視線が冷たく細められる。
「我らの“真実”を。王の言葉に潰される前に」
*
同じ頃、王都北端の仮設語り場では、フェンリックが子どもたちに囲まれていた。
「おじさん、これ見てー!」
「“おじさん”じゃない。“兄さん”って言ってくれ!」
「えー、でもおじさんっぽいよ?」
「ぐぬぬ……!」
いつものように軽口を交わしながら、フェンリックは小さな紙芝居を手に語り部として立っていた。絵を添えた紙には、市民から預かった体験談や、塔に抵抗した家族の話が綴られていた。
「この話の主人公はね、お母さんの薬を手に入れるために、毎日パン屋の端っこで働いた少年なんだ」
「お腹空いてた?」
「そう、すっごく。だけどね、お母さんを助けたい気持ちの方が強かったんだ」
子どもたちの瞳が、真剣な色を帯びていく。
「その子は、まだ小さいのに立派だったんだね……」
フェンリックは頷いた。
「でもね、誰かに『すごい』って言ってほしかったんだ。だから今、僕らが語るんだよ。誰かが生きたその日を、ちゃんと見てたよって」
その言葉に、子どもたちの誰かがぽつりと呟いた。
「……ぼくも、誰かにそう言ってもらえたら、うれしいな」
フェンリックは笑って、子どもの頭を優しく撫でた。
「なら、君も語る側になろう。今度は、君の声が誰かを支える日が来る」
*
そして、王城では――。
フィンは、朝の報告を終え、カイとリナ、アレシアを集めていた。
「塔が、反撃に出る可能性が高い。情報を操作し、“真実”を偽造するかもしれない」
「つまり、捏造ってことだね」
リナが鋭く口を挟む。
「そうだ。だからこそ、俺たちの側は“記録”を徹底する。曖昧な言葉ではなく、実際に語られた証言と、証拠の保存。それが次の防壁になる」
カイは頷きながら言った。
「語り場は火だ。人の心を温めもするし、燃やしもする。だから、ちゃんと守らなきゃいけない」
「塔が、火消しに来るということですね」
アレシアの言葉に、フィンは静かに拳を握る。
「俺たちが守るのは民意だけじゃない。過去だ。誰かの語りこそが、未来の礎になる。語る勇気を奪わせてはならない」
その眼差しには、静かな覚悟が宿っていた。
「いよいよ、“言葉の戦い”が本格化するな」
リナの呟きが、どこか遠くの雷鳴のように響いた。
語り場に集う市民たちの声は、決して雄弁ではありません。
けれど、その一つひとつが、確かに誰かの“生”に根差した、重く、温かな記録です。
塔が動いた今、フィンたちの闘いは、剣や魔法ではなく、“記録”と“言葉”で挑むものになっていきます。




