73話:静かなる包囲網
塔を巡る緊張が高まる中、街の空気もまた、目に見えない重圧を帯び始めています。
今回の物語では、表に出ない駆け引きの裏側で、各キャラクターが「何のために動くのか」「誰のために剣を抜くのか」という問いと向き合う姿を描きました。
特にノーラ、リナ、エルシアそれぞれの立場と覚悟に注目です。
夜が明けきらぬ王都の空に、かすかな光が差し始めていた。
空気は冷え、霧が街を包む中、静けさの中に緊張が漂っていた。
王城の会議室には、フィン、エルシア、ノーラ、リナ、そして市民評議会の代表たちが顔を揃えていた。
塔との交渉を巡る対策会議が始まろうとしている。
「……昨夜、塔の側から正式な文書が届きました」
ノーラが低く報告した。彼女の手には封蝋が施された書状。
それは淡い青の蝋で封じられており、塔の印章が確かに押されている。
「開けて」
フィンの指示で、ノーラが手早く封を解いた。
中から現れたのは、予想に反して丁寧な文体の交渉文書。
『王都における塔の役割について再確認を求む。
協調の意志を持って臨む用意あり。会談の場を設けられたい。』
「表向きは融和の姿勢だな」
リナが眉を寄せる。
「……でも、これまで予算や人材のことになると強硬だったよね? なんで急に?」
「おそらく、我々が市民の支持を得始めたことを警戒しての動きだろう」
エルシアが言葉を継ぐ。
「塔の持つ知識と記録は、確かに価値がある。だが、それを盾にして支配しようとするなら、容赦はしない」
フィンは頷き、壁にかけられた王都全図を見つめる。
塔の位置、王城、市民街、工房区、そして郊外に広がる農地や学舎。
この街すべてが、彼の守るべき場所だ。
「……塔との対話は受けよう。ただし、こちらの代表として、俺たちが全権を持つという形にする」
「同意する」
エルシアがうなずき、リナも拳を握りしめた。
「うちの職人たちも協力するって! みんな、塔のやり方に不満を持ってたし」
フィンは微笑むと、ノーラに視線を送る。
「ノーラ、会談の場を城の『陽光の間』に設定してくれ。こちらが迎え入れる立場だ」
「了解。加えて、念のため見張りを増やします。塔の人間が裏で動いている可能性もある」
会議室に静けさが戻る中、外から陽光が差し始める。
鈍く冷たい空が、わずかに朝の気配を帯びていた。
その時、侍女が駆け込んできた。
「王様、大変です! 塔の一部関係者が、市民街で演説を……!」
「演説?」
「はい、“塔こそがこの街の知の柱”と訴え、市民に統治令への疑念を……」
リナが怒りをあらわにする。
「また勝手なことを……っ!」
フィンは短く息を吸い、冷静に命じた。
「すぐに現地を押さえ、映像記録を。対応は慎重に。感情的に動いたら、相手の思うつぼだ」
「了解。私が行きます」
ノーラがその場を去り、フィンは拳を握りしめた。
「――塔は、まだ本気を見せていない。だが、それはもうすぐだ」
冷たい朝の光の中、対話と対立の幕が静かに上がろうとしていた。
朝靄が街の石畳をかすめるように流れていた。塔の周囲は一見静寂に包まれていたが、空気は張り詰め、まるで絹のように薄く尖っていた。誰もが、何かが起きる予感に喉を鳴らすことすら躊躇うほどだ。
王城の作戦室では、フィンが地図の前に立ち、厳しい視線で塔を囲む区域を見つめていた。
「近衛隊、第三班が塔の裏門前に到着。ノーラの指揮下で配置完了しました」
報告をしたのは近衛兵の若者だ。額にはうっすらと汗がにじんでいた。
「よし、報告は逐一こちらに上げてくれ。迂闊な動きはしないよう、あくまで牽制だ」
フィンの指示に、若者は敬礼して去っていく。
その横では、エルシアが机に広げられた情報資料に目を通していた。鋭い目つきで塔の幹部たちの顔写真や経歴に目を走らせる。
「……予想以上に“まとまってる”。塔は研究者の寄せ集めと思っていたけれど、軍隊並みに動ける人員を隠し持っていたとは」
「それだけ、街の支配に本気だってことだろ」
フィンは椅子に腰掛けながらも、背筋を伸ばしていた。その目はどこか遠くを見るようで、だが確かな覚悟が宿っていた。
「彼らは“記憶”を武器にしている。歴史、術式、技術――人々の過去を握ることで、未来に口を出す。その構図を変えなきゃいけない」
「そのために、塔に予算を集中させない。記録を独占させず、街全体に還元させる」
リナが小さく呟いた。
「けど、それって戦争じゃない?」
静かな言葉だったが、誰も否定できなかった。
塔はすでに自分たちの権益が脅かされることを察し、対抗策を練っている。実際に、市民評議会の一部にも密かに手を伸ばし、反対意見を増やし始めていた。
「正面からぶつかるしかないのか……」
エルシアの指が机の角を強く押した。
「いや、正面だけじゃない」
そう言ったのは、いつの間にか作戦室に現れていたノーラだった。
黒装束の彼女は音もなく部屋に入り、懐から封書を取り出してフィンに手渡す。
「塔の側近の一人、クロニエ=ダンが密かに接触してきた。彼は内部でも浮いた存在で、街の未来に懸念を抱いている。『対話の余地はある』と」
フィンは一拍おいてから封を切った。中には短い文と、塔の北側にある古文書倉庫での“非公式な会談”の提案が記されていた。
「……罠の可能性もあるな」
「だが、利用価値はある。裏から揺さぶりをかけて、塔の結束を緩める。それができれば、交渉でも戦闘でも、こちらの優位が生まれる」
ノーラの目が、わずかに鋭く細められる。
「俺が行こう。塔の者は俺に最も警戒している。俺が直接動けば、それだけで混乱も起きる」
フィンの提案に、一瞬、沈黙が落ちた。
「……無茶はしないでよね」
リナがそっぽを向きながら、少しだけ声を震わせた。
エルシアもまた、口を開いた。
「近衛隊からは私が同行する。何があっても、あなたを一人にはしない」
「ありがとう。だが、今回は少人数で動く。逆に目立つ。俺とノーラで十分だ」
その言葉に、エルシアは何か言いかけたが、結局、押し黙った。
作戦は決まった。
塔の心臓部に、王が乗り込む。
それは、歴史と記憶を巡る闘いの火蓋が、静かに――しかし確実に切られる瞬間だった。
塔の北側に位置する古文書倉庫は、石造りの分厚い壁と幾重にも施された封印によって守られていた。王都の中でも最も静謐な場所のひとつであり、そこに入ることが許される者は限られている。深い霧の中、フィンとノーラはその入り口へと歩を進めていた。
「……まさか、ここを使うとはね」
ノーラが低く呟く。彼女の声は冷えた空気に溶け込み、すぐに霧に吸い込まれていった。
フィンは黙って頷く。石段を登りながら、彼はかつてこの場所で見た記憶の断片を思い出していた。少年の頃、師匠に連れられてここに来たことがある。塔の記録は膨大で、すべてを正確に管理するには尋常ならざる規律と知識が必要だ。だが、同時にその情報の力は、時に刃ともなる。
扉の前に立つと、フィンは右手を掲げた。王の印章が嵌め込まれた指輪が淡く光を放ち、それに呼応するように石扉が鈍い音を立てて開かれていく。
「入るぞ」
「了解」
中はほの暗く、石の床には湿り気があり、空気は長年閉ざされていた書物の匂いを含んでいた。古びた燭台にノーラが手をかざすと、魔導の火が静かに灯る。赤橙の光が通路を照らし出し、幾重にも並ぶ本棚と、その間を縫うように敷かれた古文書の束が姿を現した。
「案内役はいないのか……?」
フィンが呟いた瞬間、通路の奥からゆっくりと足音が響いた。そのリズムは機械的で、まるで計測されたような正確さを持っていた。やがて、ローブをまとった初老の男が姿を見せる。白髪をきっちりと後ろに束ね、目元には深い皺が刻まれている。
「……クロニエ=ダン、か」
「王よ、ご足労をおかけしました。塔の非公式な意志として、私はここに立っています」
フィンは一歩前へ進み、相手の目を見据えた。
「非公式な対話、というにはずいぶんと形式ばっているな。背後に何人の目がある?」
クロニエは微かに笑った。
「知っていても、あなたはここに来た。つまり、交渉の意志がある。……それで十分です」
テーブルのように使われている古い書見台の前で、クロニエは立ち止まり、数枚の紙を並べた。その内容は、街の予算配分の提案書――だが、よく見ると、その下には“塔の再編案”と記された草案も含まれていた。
「……これは?」
「改革案です。塔の現在の体制は、百年前の構造を引き継いだまま硬直化しています。王の意志に従う者もいれば、過去に縋る者もいる。私は、前者として動いているだけです」
フィンの眉がわずかに動いた。
「……つまり、塔の中にも分裂が起きていると?」
「ええ、そしてその火種をあなたが作った」
クロニエの言葉に、ノーラの目が一瞬鋭くなった。しかしフィンは表情を変えずに応じた。
「ならば、この火を消すのは俺ではなく、そちらの責任だ。民の生活を人質にするような塔の在り方は、今ここで終わらせなければならない」
クロニエは数秒沈黙した後、小さく頷いた。
「……今夜、塔の評議会が開かれます。そこで、予算と権限の見直しが正式に議題となる。だが、反対派はあなたの暗殺も視野に入れている」
その言葉に、ノーラが一歩前に出た。
「ならば、もう交渉の余地はない」
「待て、ノーラ」
フィンが手を上げて制した。
「……俺は行く。その場で真っ向から向き合い、塔に問いかける。記録の塔は、民のためにあるべきなのか、それとも記録そのもののために存在するのかを」
クロニエは再び笑った。今度のそれは、どこか寂しさを帯びた微笑だった。
「あなたの問いが、塔の沈黙を破ることを願いましょう」
こうして、交渉は終わった。
だが、それは嵐の前の静けさにすぎなかった。
夕刻の王都には、微かに赤く染まる雲が流れ、城の尖塔に長い影を落としていた。空気は昼間の熱気を残しつつも、どこか張りつめた冷たさを孕んでいた。
その空気の中を、エルシアは一人、王城の訓練場を歩いていた。
周囲の見張り兵に軽く目配せをすると、彼らは何も言わずにその場を離れ、静寂が場を支配する。
「……来るわね」
エルシアは小さく呟き、腰の剣に手をかけた。見上げる空に、影が差す。
風を切る音と共に、塔の使者が空中より舞い降りる。漆黒の外套をまとった人物は、顔を覆面で隠し、その手には古代文字が刻まれた細身の杖を持っていた。
「王の命に逆らい、塔の誇りを傷つける愚か者。……エルシア、剣を抜け」
低く抑えた声に、エルシアの口元が歪む。「王の命に逆らうのはどちらかしら?」
瞬間、剣と杖が交差した。
火花が散り、空気が弾ける。塔の使者は魔導術と剣術を併せ持つ異能の戦士。だが、エルシアの剣は迷いなく、その技と精神は鋼のように研ぎ澄まされていた。
「正義の名のもとに街を支配する気?」
「正義とは、知によって導かれるべきだ。……愚かな民の感情に、統治を任せる愚かさを塔は許さない」
「王は、民を信じてる。その信頼を、私は守るだけ」
何度目かの交錯ののち、エルシアの剣が杖を弾き、相手の覆面を裂いた。
顕になったその顔は、若い女魔導師だった。彼女は口元を拭いながら、なおも睨みを利かせる。
「我らは退かない。塔は、千年の歴史をもって、この地を導く存在だ。……王など、ただの後継者にすぎない」
エルシアの剣先が、そっと相手の喉元に添えられた。
「その言葉、王の前で言ってみなさい」
女魔導師は苦笑した。「塔の者が公に姿を現すわけがない。だが、王の周囲には、すでに“揺さぶり”が始まっている。……市民の中に、不満を煽る者たちがいるでしょう?」
エルシアは沈黙する。女魔導師はそのまま姿を煙のように消し去った。
戦いが終わったあと、空は深く暮れかけ、訓練場には再び風の音だけが残った。
その静寂の中、エルシアは胸に刻まれる緊張を解くことなく、そっと目を閉じた。
「……私は王を信じてる。どれだけ多くの敵がいたとしても」
その呟きは、まるで誓いのように、夜の帳へと溶けていった。
静かに、しかし確実に火種が積み重なっていく回でした。
フィンが前に出すぎれば反発を招き、逆に引けば民を見捨てることになる。――この矛盾の中で、どれだけの信念を貫けるか。
次回、第74話ではいよいよ塔内部への動きが本格化します。
誰が裏切り、誰が信じるのか。見逃せない展開になっていきます。




