70話:霧の王都、塔との序章
灰色の霧が包む王都――その静けさは、嵐の前の静寂だった。
街に蓄積された不満、塔との緊張、そして民を守ろうとする王の覚悟が、交差し始めるdパート。
今回は、フィンの決意と、それに共鳴して動き出す仲間たちの姿に注目です。
塔との最初の衝突は、静かに、しかし確かに始まりを告げます。
「霧の誓い、灰の空に」
早朝の王都。空はまだ鈍い灰色に染まり、夜の名残を引きずるように霧が街路を覆っていた。
石畳の隙間からわずかに湯気が立ち上り、昨日の雨が残した水滴が街灯に反射して鈍く光っている。露に濡れた木の葉が、時おり風に揺れ、雫を落としては音もなく地面に溶けていった。
「……静かすぎるな」
エルシアは王城の見張り台から街を見下ろし、眉をひそめた。いつもなら市場の準備を始める軽やかな声が、小鳥のさえずりに混じって響く時刻だ。しかし今朝は、まるで何かが息をひそめているような、不気味な沈黙が街全体を包みこんでいた。
まるで嵐の前触れ――エルシアは本能的にそう感じていた。
一方その頃、王城内の作戦室では、フィンが厚手の報告書に目を通していた。壁際に並ぶ棚には、地図や各地区の統計資料、評議会からの要望書などがきっちりと収められている。
「塔周辺での不審な動き……昨日も報告があったな」
地図の上に置かれた彼の指先は、王都中心部にそびえる一角――『塔』の区域に留まっていた。そこはかつて、知識と記録を司る中立機関だった。だが今では、歴史という権威を盾に、街の予算や政策にまで干渉する、もうひとつの支配者のようになりつつある。
「彼らは……自分たちの正しさを信じすぎている。だが、それは時に、街の声を無視する暴力にもなる」
そうつぶやいたフィンの声には、怒りというよりも、深い覚悟がにじんでいた。
その言葉に応えるように、リナが小さく呟く。
「だから、塔に集まってた予算を削って、街の福祉とか、食糧の備蓄に回すって……決めたんだよね。でも、それが塔の人たちを怒らせちゃった」
リナの言葉には、少女らしい素直な不安が混じっていた。塔の者たちが危険な存在だとわかっていながらも、どこかまだ「対話できる相手」であってほしいという思いが、彼女の瞳に宿っていた。
「塔は反発するだろう。だが、俺たちが優先すべきは民の生活だ」
フィンは迷いなく言い切った。
その時、扉がノックもなく開かれ、長身の影が音もなく滑り込んでくる。ノーラだった。
「……塔の者たちが非公式に接触してきました。『再考の余地があるなら、対話の席を』と」
その口調はいつも通り冷静だったが、わずかに眉が動いているのを、フィンは見逃さなかった。
「交渉、か……表向きは、な」
王の椅子に深く腰をかけ直しながら、フィンは静かに考える。塔が自ら歩み寄るような真似をするとは思えない。それが罠であるか、あるいは何かを見せつけるための挑発なのか。
「ノーラ、彼らの動向を監視してくれ。近衛隊には塔の周囲に控えを。交渉の場があっても、万が一に備えておきたい」
「承知」
ノーラは一礼すると、また音もなく消えていった。
「大丈夫かな、王様……塔って、ただの歴史オタクの集まりってわけじゃないんでしょ?」
リナがぽつりと呟く。その不安を隠すように笑ったが、指先が書類の端をそっと握る動作に、緊張がにじんでいる。
「それどころか、魔導技術や記憶転写術、封印術など、古代の危険な知識を多数保有している。だからこそ、塔を敵に回すことは、街の過去そのものと対峙することになる」
王は言った。その眼差しに迷いはない。彼の中にはすでに、恐れや迷いを超えた信念があった。
フィンは王の印章を手に取った。それは、統治者としての最後の責任を示すものだった。
「俺はこの街を守る。塔の意思に従う王ではなく、市民の未来に仕える王として――」
霧の中、灰色の空の下。
その誓いが、静かに、しかし確かに王都に響いた。
朝霧がまだ王都を包むなか、王城内では次の一手に向けた静かな準備が進められていた。
フィンは書斎に移り、分厚い本の山に囲まれながら、塔の過去の動向や内情に関する記録を読み返していた。壁一面に並ぶ書棚には、代々の王が残した記録や、塔に関する裁定書が保管されている。書斎の空気は重く、まるで積み重ねられた知識の重圧が圧し掛かってくるかのようだった。
「……やはり、塔はいつの時代も“例外”として扱われてきた」
フィンは呟く。塔の存在は王国創立以前にまでさかのぼるとされ、街の守護者、学問の頂点、歴史の証人といった様々な顔を持ってきた。だがその一方で、幾度となく王政と対立し、時には暗殺未遂や市民煽動といった“越権”を犯してきた記録も残っている。
その一つ一つを読みながら、フィンは思考を巡らせる。
「これはもはや、ただの予算争いではない。塔は、自分たちこそがこの街の本質だと信じている……それを壊されまいとしている」
扉が軽くノックされ、エルシアが入ってきた。
「王様、近衛隊の配置が完了しました。塔周辺の警備は万全です」
「ありがとう、エルシア。……彼らの動き、何かあったか?」
「塔の使節らしき者が、書簡を持って市門を通過したとの報告があります。直接交渉の場に向かう準備でしょう」
フィンは頷きつつ、机の上に広げていた地図の一角を指差した。
「塔の南区画に倉庫群がある。そこに古い魔導具の封印庫があったはず。彼らがそこに手を出す可能性もある……警戒を続けてくれ」
「了解しました」
エルシアが去った後、リナが代わって入ってくる。彼女はいつも通りの服装だったが、その背中には小さな書類束が抱えられていた。
「市民評議会から新しい意見書が届いたよ。塔の動きに不安を感じる人が増えてるみたい」
フィンはその書類を受け取り、一枚一枚に目を通す。どれも簡素な言葉で綴られていたが、そこには切実な生活の声が詰まっていた。
『歴史も大切だが、今の暮らしの方がもっと大事です』
『塔の人たちは、私たちの話を聞いてくれません』
『王様に、私たちの未来を守ってほしい』
フィンは目を閉じた。
「……俺は、誰のためにこの王座にいるのか。改めて問われている気がするよ」
リナはそっと微笑み、椅子の横にしゃがみ込んだ。
「王様が悩むなら、それはきっと正しい道の途中にいるってことだよ。正しいことって、いつも簡単じゃないもん」
「ありがとう、リナ」
その瞬間、部屋の外から急報が届いた。
「報告! 塔の一団が、王城に向かって移動を開始!」
フィンは立ち上がり、剣の柄に手をかけながら短く命じた。
「全員配置につけ。俺も行く」
そして、朝霧のなかへ――静かな決戦の幕が、音もなく上がった。
午前十時。灰色だった空が徐々に薄く晴れはじめ、街にかすかな光が射し込む頃――王城の会議室には、塔からの代表団が到着していた。
白銀と灰のローブを纏った四人の魔導官。その後方には、記録用と思しき補佐官が二名、無言で控えている。
その中心に立つのは、塔の副長にして、実質的な最高権限者・アルヴェス。
「王よ、我々は敵意を持って訪れたのではない。対話の場を設けていただき、感謝する」
礼儀正しくも、その声音には固い芯があった。
フィンは王座の一段下、執政机に座りながら応じる。
「こちらこそ、急な予算見直しの件、混乱を招いたことを詫びる。だが、我々が目指すのは“持続可能な街”の再構築だ。塔も、共に歩んでくれると信じたい」
「なるほど……『持続可能』とは、耳に心地良い言葉ですな。しかし、その再構築とやらに、塔の意義は含まれておるのか?」
アルヴェスの視線は鋭く、静かに会議室の空気を引き締める。
リナが小さく息を飲んだ。
「塔は、歴史と記録の番人です。街がどれほど変容しようとも、“過去”を守る存在は必要だと、我々は信じている」
「それは理解している。だが同時に、過去への執着が、未来の障壁となってはいないか?」
フィンの問いかけに、アルヴェスの眉がわずかに動く。
「我々は執着などしておらぬ。ただ、未来を語るには、正確な過去が必要なだけ」
「だとすれば、その“記録”の力が、民を束縛するものではないと、証明してほしい」
会議は緊張感を孕んだまま続いた。
一方、塔の本拠地では、交渉と並行して別の動きが進行していた。
地下に広がる石造りの回廊。陽の光が届かぬその場所では、幾人もの魔導技師たちが何かの準備を進めていた。
「……予定通り、記憶遷移装置の起動準備完了」
「対象区域への干渉制御も完了。発動時の魔力放出は王城に届かぬよう遮断しています」
ローブの裾が床を擦る音と、魔力の振動が淡く空気を揺らす。
「……アルヴェス様が時間を稼いでくれているうちに、我らの“正しき記憶”を街に上書きする」
魔導技師たちの言葉には、確信と陶酔が入り混じっていた。
その中心に置かれていたのは、球状の魔導装置。青白い光を帯び、脈動するように輝いている。
それは、かつて失われた“記憶の書庫”から抽出された幻影記録。
真実か、虚構か、それすら曖昧なまま、塔は“過去”を街に刻もうとしていた。
――王城。
交渉の席に、突然緊急報がもたらされた。
「王様! 塔の地下で、記録魔導の起動反応が確認されました!」
近衛兵の報告に、空気が凍る。
「まさか……この場で交渉をしながら、裏では記憶操作を?」
リナが怒気を含んだ声を漏らす。だが、フィンの目は静かだった。
「……やはり、対話は“形式”だったか。アルヴェス副長」
「……我々は、正しい歴史を街に伝えるために動いているだけです。記録が歪められ、過ちが繰り返されることこそ、最大の悲劇ではないか?」
その言葉に、リナが怒りをあらわにし、立ち上がる。
「じゃあ街の人たちの“今”はどうでもいいって言うの!? 自分たちが守りたい過去のために、勝手に記憶を塗り替えるなんて――それこそ暴力だよ!」
フィンは深く息を吸い、ゆっくりと立ち上がった。
「アルヴェス……この街の未来は、街の人々が築くものだ。塔の幻想に塗り替えられる“記録”など、俺は拒絶する」
「ならば、力で拒むというのか?」
「違う。“声”で止める。必要なら、剣を取る」
その瞬間、王の印章が青く光を帯びた。
――緊急統治権発動。
「ノーラに伝令を。近衛団を動かし、塔の地下を制圧せよ!」
会議室が一気に動き出す中、アルヴェスは目を閉じた。
「……ならば、我らも覚悟を示そう」
光と記録の衝突は、避けられないものとなっていた。
塔の上層部──かつて知の殿堂と呼ばれたその空間は、今や圧迫感すら覚える沈黙に満ちていた。天井から垂れ下がる幾筋もの魔導灯が、淡い青白い光を灯しながら、広間に並ぶ無数の書架と装置を照らし出している。
だがその光の下に集った男たちの瞳に、知への敬意は微塵もなかった。
「……王が予算配分の見直しを断行した。塔の領域に踏み込むつもりらしい」
低く発せられた声に、他の者たちも口々に囁き合い始める。
「馬鹿な。あの小僧、何を勘違いしている?」
「この街を支えているのは、塔の研究成果だ。歴史を管理する意味すら理解しておらんのだろう」
怒り、嘲り、そして侮り。
その中にあって、唯一静かに口を開いたのは、塔の長老格──カーゼルと呼ばれる男だった。
「我々が退けば、混乱が生じるだろう。民は迷い、秩序は崩れ、やがてこの街はかつての戦乱に逆戻りする。……だからこそ、我々は“声”に代わる“抑止”を示さねばならん」
誰もが黙り込む。次の言葉を、待つように。
「“視認の刻印”を起動しろ。王の行動をすべて記録し、彼の失策を公にするのだ。それが、塔の正当性を示す唯一の道となろう」
その命に従い、術士たちは無言のまま魔法陣を展開し始めた。淡い光が渦を巻き、やがてそれはフィンの居室を映し出す魔導鏡となった。
同時刻、王城の地下、作戦指令室。
フィンは塔の魔導術の起動を感じ取り、すぐさま警戒態勢を強化していた。
「エルシア、ノーラ、リナ──準備は?」
「いつでも出られます、王様」
「塔の動き、完全に読まれてましたね」
「まさか視認術を仕掛けてくるとは……想定より一歩早かった」
フィンは静かに息を吸い込んだ。
「だが、こちらもただ手をこまねいていたわけじゃない」
彼が手を上げると同時に、地下の壁に設置された魔導装置が淡く光り、街全域に警戒信号が発せられた。
「塔の行動を市民に向けて公開する。隠していても無駄だ。塔がこの街にどんな力を行使しようとしているか、それを“声”で伝える」
動揺する兵たちをよそに、エルシアは剣を手に取り、凛とした声で答えた。
「この戦いは、情報と信念の戦争。剣よりも声の強さが問われる時です」
リナも、彼女らしく明るく拳を握る。
「じゃあさ、私が広場に行って、みんなに塔のこと説明してくるよ。例の予算の流れとか、ちゃんと見せながら」
「頼んだ、リナ。……ノーラ、君は塔の外縁に潜入してくれ。裏口の監視を任せたい」
「了解。裏から仕掛けるには、私が最適でしょう」
次々に展開される作戦。
だがフィンの瞳は、塔の魔導鏡に映る光の動きを注視していた。
(ここで動かなければ、民の信頼は崩れる。そして塔の掌の上にすべてが戻る)
「王の名において命ずる。全市街に、塔の監視と情報操作の実態を開示せよ」
その言葉が発せられた瞬間、塔に向けて各地から同時に光の信号が放たれた。街の上空に映し出される魔導映像には、塔が裏で進めていた予算操作、非公式交渉、そして視認術の記録が次々に浮かび上がる。
王都の民が息を呑んだ。
「……これが、塔の正体……?」
「王様は、最初から全部知ってたのか……」
そして、塔内部。
激昂したカーゼルは魔導鏡を打ち砕いた。
「情報を制するのは我らのはず……なぜ、王の側が……っ!」
その時、塔の扉が激しく叩かれた。
「王命により!塔の調査を開始する!」
王の近衛隊が、ついに塔の前に姿を現した。
夜が明ける頃、王都には新たな風が吹き始めていた。
塔との対立は避けられない――そんな未来を見据え、フィンたちが選んだのは「対話を捨てず、剣も捨てない」姿勢でした。
リナ、ノーラ、エルシア……それぞれが持つ覚悟と行動が少しずつ重なり、街を動かす波となっていきます。
戦いはまだ始まったばかり。次回以降、塔の真意や、そこに秘められた“禁じられた記録”も明かされていく予定です。
どうぞ引き続きご期待ください。
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