67話:夜を裂く声
夜の王都で再び不穏な動きが……。今回のパートでは、フィンが「王」として、そして「声」としてどう決断し、行動するのかが描かれます。市民の不安と王の覚悟、その狭間での緊迫した判断にご注目ください。
王都の朝は、ひときわ静かだった。
昨日までの騒ぎが嘘のように、石畳に敷かれた朝露が光を反射し、街路樹の間を抜ける風は穏やかだった。
だがその静寂の奥底に、確かな変化の兆しが宿っていた。
フィン・グリムリーフは王城の政庁に足を踏み入れ、未明から積まれた書簡の山に目を通していた。
「市民評議会からの通達……税制案の再調整要望か」
小さく呟き、彼は一枚の紙に目を留めた。淡い茶色の羊皮紙には、きれいな筆跡で要望が綴られている。物価安定のため、特定の流通商会への課税免除を一時的に認めてほしいという内容だった。
フィンは椅子に深く腰かけ、思考を巡らせた。
(声で治める……それは、対話を恐れないということだ)
「執務官、評議会代表との会見を午後に組んでくれ」
フィンが指示を出すと、側に控えていた執務官が頭を下げた。
「かしこまりました。王様」
声に含まれる敬意は、形式的なものではなかった。ここ数日で、彼の政は確かに“信任”へと変わり始めていた。
政庁を後にしたフィンは、その足で城の中庭へと向かう。
緑に囲まれたその空間は、王である彼にとって数少ない安息の場だった。
石造りの噴水の縁に腰掛け、彼は天を仰いだ。
「……王になるって、こんなに人の声を聞くことなのか」
ふと、歩み寄る足音が一つ。
「お疲れのようですね、王様」
振り向くと、そこに立っていたのはエルシアだった。いつもの軍服姿ではなく、簡素な薄灰色の礼装だった。彼女の姿に、フィンの口元が僅かに緩む。
「今日は剣ではなく、言葉で勝負か?」
「剣であなたに勝てないことは、もう知っていますから」
エルシアは冗談めかして言いながら、彼の隣に腰を下ろした。
しばしの沈黙ののち、彼女が口を開く。
「統治令は、民の心を少しずつ動かしています。でも、まだ足りません。特に商業層には不満がくすぶっています」
「それはわかっている。今日の午後、代表と直接話すつもりだ」
「……王様は、本当に“声”だけでこの街を導けると思っていますか?」
問いかけは、穏やかだが本気だった。
フィンは少し考え、答える。
「思っている。だがそれは、声を届ける“仕組み”があってこそだ」
彼は懐から一枚の新しい通達文書を取り出した。
「“市民発言所”を各区に設置する。匿名でも構わない。市民が声を発する場を、まず作るんだ」
それを見たエルシアの目がわずかに見開かれる。
「……それは、敵も増やしますよ」
「それでもいい。俺は、聞こえないふりはしたくない」
その声には、剣を振るうときとは違う、静かな覚悟があった。
エルシアはその横顔をしばし見つめ、微かに笑った。
「ならば私は、あなたの耳と目になります」
ふたりの間に、柔らかな風が吹いた。
王都の朝は、ゆっくりと動き始めていた。
夕刻の王都は、まるで深呼吸をするかのように一息ついていた。
陽が傾き、石畳に長い影を落とす頃、王城の奥深くにある執務室では、静かな紙のめくれる音だけが響いていた。
フィン・グリムリーフは、机の上に広げられた統治文書に目を通していた。新たに組織された市民評議会から提出された法案、ギルドの再構築案、治安維持に関する提案書。それぞれの行間に、街の声と不安、そして期待が詰まっている。
「……まだ足りないな。声を届けるだけじゃ、守れない。」
つぶやいたその声には、かすかな疲労と、決意が混ざっていた。
ノックの音が響く。扉が静かに開き、エルシア・ヴァン=レーテンが入室する。
近衛団長であり、街の軍事と治安を担う要の存在だ。淡い銀の髪を束ね、凛とした表情で彼女はフィンに一礼した。
「王様。統治令第七項の運用に関し、兵士から意見が上がっています。特に夜間警備の体制について、再調整が必要かと。」
「夜間警備……南門か?」
「はい。最近、外からの流入者が増えており、不審者の動きも見られます。騎士団だけでは手が回らない箇所も。」
フィンは頷き、文書の隅に印をつける。
「では、治安維持特例を適用し、市民警備団との連携を強化しよう。隊長には君から直接通達を。」
「了解しました。」
短く、だが確かなやりとり。
二人の間には、数多の修羅場を共にくぐり抜けた者同士の信頼がある。
だが、その空気にわずかな揺らぎが走った。
「……王様。少し、よろしいですか?」
エルシアが声を潜める。珍しく、ためらいを含んだ口調だった。
フィンは筆を止め、椅子から身を起こす。
「なんだ?」
エルシアは、窓際に視線を移しながら言った。
「王という立場に、心を削られていませんか?」
その問いに、フィンはわずかに目を見開いた。
「……なぜ、そう思う?」
「あなたの背中が、前よりも重く見えるからです。」
それは、戦場を共に駆け抜けた彼女にしか気づけない微細な変化だった。
フィンは苦笑し、窓の外に目をやる。夕焼けに照らされた街が、黄金に染まっていた。
「確かに、重いな。……だが、それでも俺は歩く。背負っているものの重さこそが、俺の力だ。」
エルシアは静かに頷いた。そして言った。
「その覚悟に、私は剣を捧げます。」
静かな夕暮れに、王と近衛団長の誓いが交わされた。
その瞬間、執務室の扉の向こうから慌ただしい足音が聞こえた。
「失礼いたします! 王様、至急の報せです!」
入ってきたのは、伝令の若い兵士。息を切らしながら差し出した文書には、港区における密輸疑惑と、不穏な武装集団の動きが記されていた。
「またか……」
フィンは眉をひそめる。
「エルシア、準備を。俺たちが出る。」
「はい、王様。」
夕焼けの中、再び剣と声が動き出す。
それは、街を守るための静かな戦いの始まりだった。
王都に夜の帳が下りる頃、空気には昼間とは異なる緊張が漂い始めていた。
石畳の上を滑るように歩く衛兵たちの足音が、静まり返った街にこだまする。提灯の淡い明かりが路地を照らし、市民たちは家々の扉を閉め、湯気の立つ夕餉の準備に追われていた。その一方で、街の裏通りや集会場では、抑えきれぬ不満の声がかすかに交差し始めていた。
王城の執務室。フィン・グリムリーフは、蝋燭の明かりの下で山積みの書類と睨み合っていた。
──交易路の再編に関する再審請求。
──市民評議会からの協議延期の通達。
──旧ギルド幹部による集会の兆候──
読み進めるほどに眉間の皺が深くなる。市政を預かる身としての重責が、肩に重くのしかかる。
「……秩序を保つには、ただ声を届けるだけじゃ足りない。力の裏付けが必要だ」
かつて、ただの旅人だった自分が、今や王都を治める存在となった。その奇跡の重みを、彼は誰よりも理解していた。
ふと、窓の外に目を向ける。闇に包まれた街並みは、昼間とは別の顔を見せている。規律が行き渡りつつある表の顔とは裏腹に、旧権力の残滓が夜陰に潜んでいる──そんな感覚があった。
エルシアの姿が脳裏をよぎる。彼女が視察から帰る際に見せた、あの僅かな笑み。普段は鋼のごとき振る舞いを貫く彼女の、あまりに人間らしい表情が、どうにも心に引っかかっていた。
(……ああ、俺はやはり甘いのかもしれない)
自嘲するように呟いたその時、扉が軽くノックされた。
「失礼します。王様、報告です」
現れたのは側近のアルベルト。彼の表情はいつになく緊張していた。
「どうした?」
「東門前の集会場にて騒動が起きております。住民と旧ギルド関係者との衝突です」
フィンの表情が険しくなる。
「被害は?」
「軽傷者が数名。ただ……これは氷山の一角かと。煽動した人物がいるとの報もあります」
「……エルシアは?」
「既に現地に向かいました」
すぐさま立ち上がるフィン。執務服のまま剣を背負い、足早に部屋を出る。
「アルベルト、情報収集を継続してくれ。裏に何者がいるのかを探り出すんだ」
「御意。王様も、どうかご無事で」
王城を飛び出したフィンは、夜風を受けながら王都東部へと馬を走らせた。暗がりのなかを駆ける彼の胸には、焦燥と決意が交錯していた。
(俺は、言葉で街を変えると決めた。だが、それを否定する者がいるなら──剣を持つ覚悟もある)
到着した広場には、すでに小競り合いの跡が残っていた。散乱する荷車、破られた布の垂れ幕。ざわめく市民の声と、憲兵たちの制止する声が入り交じる。
そしてその中央に、凛と立つひとつの姿──エルシアだった。
彼女の目は鋭く、だが言葉は丁寧だった。暴動の火種となった男たちに、毅然と法の名を伝えている。
「秩序を乱す者は、たとえ誰であれ裁きを受ける。それがこの国の、新たな統治の原則です」
その声は静かでありながら、集まった者すべてに届いていた。
フィンはその背を見つめた。彼女の存在が、今やこの街を形作る大きな柱の一つであると、改めて痛感する。
「……来てくれたんですね、王様」
背を向けたまま、エルシアが呟いた。
「当たり前だ。俺の役目だからな」
フィンは彼女の隣に並び、残党の男たちを見渡した。
「俺は、“声”で街を導くと決めた。それを否定する者は、今夜ここで知れ。この街は、もう好き勝手にはさせない」
剣を抜くことはなかった。だが、その言葉には剣以上の鋭さがあった。
ざわつきは次第に静まり、群衆は解散を始める。
──それでも、まだ終わってはいない。
エルシアが囁いた。
「彼らの背後には、もっと大きな影があります。旧王政の残党か、それとも……」
「全部、明らかにするさ。今度こそ、隠すものは何もいらない」
夜風が二人の間を吹き抜ける。その沈黙は、未来への誓いにも似ていた。
陽が完全に落ち、王都には深い夜の帳が降りていた。空は分厚い雲に覆われ、月の姿はおろか星の瞬きすら見えない。風が石畳の通りをかすめ、遠くで犬の鳴き声がかすかに響いた。それは、静寂の深さを際立たせるように王都の空気を引き締めていた。
王城の高塔の一室──そこは王国軍の指令室として用いられており、今夜も例外なく、灯されたランプの下で数名の近衛幹部たちが集まっていた。壁には巨大な地図が貼られ、各所の状況が赤と青の駒で示されている。円卓の上には文書の束、急報の巻物、未開封の報告書、そしてまだ湯気の立つハーブ茶が並べられていた。
「……例の集会場、扇動者は捕えましたが、支持者の大半は逃走しました。王都北部、旧倉庫街の地下通路へ潜った可能性があります」
報告するのは、剛毛の髪を短く刈り上げた近衛副団長。声は冷静だが、拳は膝の上でわずかに震えていた。
「彼らは武器を隠し持っていた様子もあります。街の武具屋と癒着していた記録も……。民の不安が再燃する恐れもあります」
フィン・グリムリーフはその言葉に、無言のまま頷いた。椅子に深く腰を下ろし、手にした報告書の角をゆっくりと撫でながら、思考の渦へと沈んでいく。
(俺が掲げた“声の統治”は、まだこの街に根付いていない……いや、試されているのだ)
その静寂を破るように、扉が重々しく開いた。
入ってきたのは、エルシアだった。軽装の近衛服に身を包みながらも、その身のこなしはまるで刃のように鋭い。髪は後ろでまとめられ、頬には先の戦いでかすったような傷跡が残っている。
「王様、北部の路地裏で火薬の残留反応が検出されました。爆薬か、もしくは陽動用の煙幕かと。工作痕が新しく、何者かが最近侵入した形跡もあります」
「……つまり、終わっていないということか」
フィンは報告書を静かに閉じ、立ち上がった。その動作には、決意と覚悟がにじんでいる。部屋の空気がわずかに揺らぎ、近衛たちが自然と背筋を伸ばした。
「このまま見過ごせば、次に失うのは民の信頼だ。俺たちは“声”を掲げる以上、それを守る剣にならなくてはならない」
「承知しました。直ちに北部へ移動しますか?」
「いや、待て」
フィンは少し視線を伏せ、思考を巡らせる。そして、ゆっくりと顔を上げた。
「まずは情報を絞る。路地裏の張り込み班に、地下道の入り口を封鎖させてくれ。夜明け前に仕掛ける」
「……囮作戦ですか?」
「そうだ。市民を危険に晒すわけにはいかない。あくまで静かに、だ」
そのとき、窓の外に小さな光がまたたいた。遠くの屋根の上、誰かの影が一瞬見えた気がした。
「……エルシア。今日は塔で待機していてくれ。万が一のときは、君の判断で動いてもらう」
「王様は……?」
「俺はこの街の“声”だ。そして、それを聞こうとしない者には、静かに語るしかない」
夜の王都に風が吹き込む。フィンの外套がひるがえり、足音だけが階段を下っていった。
エルシアはその背中に、一瞬だけ手を伸ばしかけ、そして黙って見送った。
塔の下では、フィンの影が路地裏へと消えていく。
そしてその夜、王の声は剣となって、闇を裂いた。
65話、ついに“声の統治”を掲げるフィンが、自らの信念を貫くために動き始めました。次回はいよいよ囮作戦の展開へ。剣と知恵、そして静かなる対話が交差する「闇夜の選択」にご期待ください。




