66話:声で導く王、剣を置く覚悟
街の統治に本格的に乗り出したフィンは、机上の政策だけでは届かない「民の心」と向き合い始めます。
このパートでは、エルシアとの会話を通じて、王としての覚悟と、彼自身の内面が静かに描かれています。
剣ではなく“声”で導く――その道のりは険しくも、確かに足跡を刻みはじめています。
王都の朝は、静かだった。
だがそれは、嵐の前の静けさにも似ていた。
フィン・グリムリーフは、城のバルコニーに立ち、朝靄に包まれた街を見下ろしていた。整然と並ぶ家々、その間を縫うように走る石畳の道、朝早くから開いた市場の屋台。人々の営みは確かにそこにあるのに、胸の奥にはひとつの重石が居座っていた。
(……昨夜の件、ギルドは本当に収まったのか?)
表向きは落ち着いて見える街だが、水面下ではなお不穏な動きが渦巻いている。フィンはそれを肌で感じていた。王としての直感、というには若すぎるかもしれないが、それでもこの街を見続けてきた目は、確かな違和感を捉えていた。
「王様。朝食の用意が整いました」
控えの間から声をかけてきたのは、近衛団長のエルシアだった。今朝は鎧を脱ぎ、軽装に身を包んでいる。髪をひとつにまとめた彼女は、普段の凛々しさに柔らかな気配を纏わせていた。
「ありがとう、すぐ行く」
振り返りながら応えたフィンに、エルシアは少しだけ視線を向けたまま、言葉を継いだ。
「……何か気がかりですか?」
「いや……昨日の戦いで、裏にいた男。名も顔も、記録にない。商業ギルドとの繋がりも表向きには確認できていない」
「まだ闇は残っている、ということですね」
フィンは無言で頷いた。
朝食の席についても、フィンの思考は止まることがなかった。塩気の効いた干し肉、野菜のスープ、温かい黒パン――どれも王として整えられたものだが、味はほとんど感じなかった。
「王様」
エルシアがスプーンを置いた。
「王として、あなたは声を届けようとし、剣を振るい、傷つきながらもこの街を導こうとしている。その道がどれほど孤独でも、私は――」
「……お前がいてくれて助かってる」
言葉を遮るように、フィンは静かに答えた。
それは照れ隠しでもあり、同時に、心からの感謝でもあった。
エルシアはわずかに目を見開き、次いで微笑んだ。
その表情は、剣を構えた時のそれとはまるで異なる。
「では、今日もこの街のために」
「……ああ。まずは評議会の説得からだ」
日が昇り、城の中は少しずつ活気を取り戻していく。
フィンは執務室へと向かいながら、王都南部で起きた騒乱の報告書に目を通した。見えてくるのは、ギルド内に存在する新たな派閥の影。
(本当に再編できているのか? いや……まだ足りない)
声だけでは届かない者たちがいる。
だが、剣だけでは守れないものもある。
フィンは椅子に腰を下ろし、机に広げられた統治計画書に目を落とした。
ひとつひとつの施策が、ただの文字ではなく、市民たちの未来を形作る礎なのだと感じていた。
そして、そこにまた、エルシアが控えめに現れた。
「王様、北門近くの市場で騒動があったとのこと。商人と評議員の間で衝突が……」
「またか……。よし、俺が出向く」
「王自ら……ですか?」
「声が届かないなら、姿を見せるしかない」
そう言って立ち上がるフィンの背には、再び王の剣があった。
夕暮れの王都には、ほのかに金色の光が降り注いでいた。石畳を照らすそれは、昼の喧騒を穏やかに包み込むように、王城の高窓を淡く染めていく。
執務室の扉が静かに開き、フィン・グリムリーフは背筋を伸ばして立ち上がった。
眼前の机には、整理された文書と新たに届いた報告書が整然と並び、燭台の火がその端を照らしていた。彼は一枚の羊皮紙を手に取り、目を細めながら黙読する。
「……物資供給に遅れ。西地区の道路修繕が思うように進んでいない、か」
自らに向ける声は低く、だが確かに焦りを滲ませていた。統治令を発布してからというもの、王としての責務は増す一方だ。市民の信頼を得るには、言葉だけでは足りない。結果が伴わなければ、声はすぐにかき消される――それを、誰よりもフィン自身が理解していた。
「王様。市民評議会からの代表がまもなく到着します」
扉の向こうからエルシアの声が届く。その声音には緊張と、わずかな苛立ちが混じっていた。彼女もまた、ここ数日、矢継ぎ早に起こる事態に心をすり減らしている。
「ありがとう、エルシア。先に応接室へ通してくれ。俺はすぐに行く」
フィンは返事をしながら、残された報告書にもう一度目を通した。市壁近くで発見された密輸ルート。潜伏していた元塔残党の摘発情報。そして、一部商人による脱税の疑い。
表には出ていないが、街の奥底では依然として不穏な火種が燻っている。統治の礎を築くということは、理想だけでは足りない。現実の泥に足を踏み入れ、時には痛みを伴ってでも、秩序を守らねばならない。
「……声だけじゃ、届かないこともある」
ぽつりと漏れた言葉を、誰も聞いていない室内が静かに飲み込む。
応接室へと向かう足取りは重くも確かなものだった。廊下の窓からは、夕陽が差し込み、彼の影を長く伸ばしていた。
室内では、すでに数名の評議員たちが座っていた。中には、かつて王制に懐疑的だった者の顔もある。
「お待たせして申し訳ない」
フィンが頭を下げると、評議員たちも礼を返す。ただし、そこに敬意が伴っているかどうかは、それぞれの表情が物語っていた。
「王様。統治令の件ですが、一部商人から“商売の自由を奪われる”という強い反発が出ています。彼らの支持を失えば、街の経済に影響が――」
代表格の壮年男性が口火を切った。続くように、他の評議員たちも次々に言葉を重ねる。過剰な監査、通達の不備、連携不足。
それはまるで、統治令そのものを否定するかのようだった。
フィンは静かに耳を傾けた。否定されることは、覚悟していた。だが、今の彼に必要なのは、受け流すことではなく、言葉を尽くすことだ。
「確かに、統治令は急ぎすぎたのかもしれません。だが、俺たちは今、街を立て直す岐路に立っている。この先に混乱を残したままでは、明日は来ません」
その声は、静かに、だが芯のある響きをもって評議室を満たした。
「市民の声を活かし、商人の活動も尊重する。それを両立させるためにこそ、統治令はある。俺一人の理想ではなく、皆で築く秩序を目指したい」
一瞬、室内が静まりかえった。
その沈黙を破ったのは、ひとりの中年女性の評議員だった。
「……王様。あなたは“声”の王と言われているけれど、本当に声を聞いているのですね」
その言葉に、他の評議員たちも少しだけ表情を緩めた。
その夜、執務室に戻ったフィンは、机に腰を下ろしながら、ひとつ息をついた。
まだ遠い。だが、歩みを止めなければ、いつか届く。そんな予感が、彼の胸に宿っていた。
王都の夕暮れは、街に柔らかな橙の光を落としていた。
人々の声が行き交う中央通りでは、露店の灯りが一つ、また一つと灯され、昼とは違う賑わいが広がっている。だがその光景の裏側では、見過ごせない空気の乱れが静かに広がっていた。
広場では、複数の市民たちが声を荒げていた。
「なぜ俺たちの区画には薬が届かないんだ!」
「西の倉庫が優先されてるって話は本当なのか!?」
憤りと不安が交じった叫びは、すぐに近衛兵たちによって制止されたが、収束するにはしばらくかかった。
その現場を遠巻きに見ていたエルシアは、眉間に皺を寄せる。
「また……流言か」
彼女の隣にいた情報将校が、小声で報告する。
「噂の出どころは不明ですが、一部の商人が“新しい秩序は信用できない”と囁いて回っているようです」
「ギルドの古株か……何度でも現れるな」
エルシアは溜息をついた。再編された商業ギルドは、一応の体裁を保っていたが、完全な従属には至っていない。過去の利権を失った者たちは、表では従順を装いながら、裏では不満を募らせている。
その夜。王城の作戦室では、フィンを中心に、近衛団と市民評議会の代表者が集まっていた。
「――配給路線は監査を通しており、不公平は発生していないはずだ」
報告書を机に置きながら、フィンが静かに言う。
「ただし、“信じられていない”なら、それは制度の不備と同じだ。制度は公正でも、伝わらなければ意味がない」
重々しい沈黙が一瞬、場を支配した。
エルシアが口を開く。
「市内の騒ぎは小競り合いレベルですが、集団的な動きに発展する前に、火種を断ちたい。私にもう少し自由を」
「強硬策か?」
「必要ならば」
フィンは目を細め、資料を閉じた。
「それは最終手段にしてくれ。まずは“説明する”努力を尽くそう。どれほど正しくても、伝えなければ届かない」
言い切った声に、作戦室の空気が変わる。
「それが、“声で導く王”のやり方ですね」
誰かがぽつりと呟いた。フィンはわずかに頷く。
翌日、城下の広場には即席の演説台が組まれ、朝から市民が集められた。
そこに立ったのは、フィンだった。
彼は高らかに、現状を語った。配給路線の透明化、流通監査の導入、市民の声を直接届ける新制度の立ち上げ――そして、これらの取り組みが「街の全員にとって公平であるために必要だ」と、真っ直ぐな言葉で伝えた。
最初は疑いの眼差しだった群衆が、少しずつ耳を傾け始めた。広場の隅で、老人が涙ぐみながら頷いていた。
(……届いた)
エルシアが、フィンの背中を見つめながら小さく呟く。
(この声は、確かに街を動かしている)
だが、その光の裏で、また新たな影が蠢いていることに、まだ誰も気づいていなかった。
夜、王城の裏門近く。
フードを被った影が、静かに手紙を壁に貼り付けて去っていく。
翌朝、その手紙が発見され、騒ぎとなる。
『王の声は偽りだ。 本当に導くべきは、かつて街を支えた“力ある者”だ。今の統治では、街は守れない』
挑発的なその文言に、再び空気がざわつく。
だが、フィンは静かに、手紙を握りしめ、言った。
「来たな。……次の一手を、打とう」
夜の帳が王都を包み込み、空にはいくつもの星が瞬いていた。
石畳に敷かれた街灯の光が、まるで小川のように街道を照らし、風に揺れる旗が音もなくなびいている。市民たちの喧騒はすでに途絶え、通りに残るのは衛兵たちの規則的な足音と、時折聞こえる犬の遠吠えだけだった。
王城の一角――資料室の一室には、微かな灯りとともに、フィン・グリムリーフの姿があった。
目の前の机には、分厚い法令書と、整然と並べられた各地の報告書。静かにそれをめくりながら、彼は何度も息を吐いた。
「……これが、統治というやつか……」
声にならぬほど小さく、誰に向けるでもない呟き。
彼の中で、理想と現実の狭間にある苦味がじわりと広がっていく。声で街を導くと宣言したあの日。仲間と誓った未来。どれも嘘ではなかったが、それらを現実にするには、あまりにも多くの選択と犠牲が必要だった。
その時、扉の向こうから控えめなノックの音が響いた。
「失礼します。……まだ起きていらしたんですね、王様」
入ってきたのは、近衛団長エルシア・アルフェリードだった。訓練帰りなのだろう、肩に羽織った外套からは夜露の匂いがした。
「少し……考えていたんだ」
フィンは顔を上げ、かすかに笑みを浮かべた。
「今の街には、新しい法と秩序が必要だ。その設計図を、ようやく形にできそうでな」
「“ようやく”ではありません、王様。あなたが歩んだ道が、少しずつ形になっている証です」
エルシアのその言葉に、フィンは一瞬だけ黙り込んだ。
――彼女の言葉は、常にまっすぐだった。鋭さもあるが、その芯には信頼と温かさが宿っている。
「……ありがとう、エルシア」
「それに、私からの提案もあります。王都南部の巡回隊を再編し、民間自衛団との連携を強化すれば、治安の維持と市民の信頼、両方を高められるはずです」
「なるほど。民と兵が対立せず、共に守る形……それなら、俺の“声”も届きやすくなるな」
二人の視線が交差する。
重なるのは、ただの言葉ではなく、未来を創る責任と希望だった。
「王様、ひとつ、お願いがあります」
少し表情を和らげたエルシアが、一歩だけ近づいた。
「明日の朝、東門の市場へ足を運びませんか? 市民たちが、あなたの姿を見たがっています」
「……それは“王として”か? それとも、“フィン”として?」
「どちらでもありません。“あなた”としてです」
フィンはわずかに目を細め、それから静かに頷いた。
「わかった。明日、俺も行くよ。……ありがとう、エルシア」
「お礼を言われるようなことではありません。あなたが選んだ未来を、私は支えるだけです」
そう言って、彼女は部屋を後にした。
扉が閉まる音がして、静寂が再び部屋を包む。
フィンはゆっくりと目を閉じ、今一度、自分の手の中にある重責の重みを感じていた。
(声で街を導く。剣はその“言葉”を守るためにある)
静かに灯るランプの下で、彼は再びペンを取る。
新たな統治令の草案に向けて、今夜も王としての“戦い”を続けるために。
夜は更けていく――だが、その先にある朝は、確かに近づいていた。
“声で導く王”という理想は、簡単には理解されないものです。けれど、誰かが本気で歩み始めれば、そこに希望が灯るのかもしれません。
王としての責任と、ひとりの人間としての悩み。
エルシアとの静かな対話のなかに、それが滲み出るような一幕でした。
次回、民の目に映る“王”の姿が、少しだけ変わり始めます。




