55話:裁きを繋ぐ声
剣を抜かずに街を守る。
それは、王として選んだ覚悟だった。
この街の声を奪った裏切り者を前にして、フィンは改めて自分の選んだ道の意味を問われる。
剣ではなく声で裁くことが、この街の未来を切り開くと信じて。
そして今、この声の街に、新たな朝が訪れようとしている。
王都の空は、夜明け前の薄闇を残していた。雨上がりの石畳はまだ冷たく湿り、そこを行き交う人々の足音が小さく響いている。暴動がようやく鎮圧され、街は静けさを取り戻しつつあったが、その胸の奥には拭いきれない不安が漂っていた。夜通し燃え上がった露店の火は、石畳に黒い煤の跡を刻み、街のあちこちに暴動の痕跡を残している。
語り庁の執務室では、フィン・グリムリーフが机に向かい、カレンから渡された書簡を睨みつけていた。塔残党問題に一区切りをつけたと思った矢先、密通の証拠が浮かび上がった。しかも相手は、和平を結ぼうと手を差し伸べてきたローザリア特使団だ。街の声を守るために剣を抜かずに戦ったこの胸に、裏切りの刃が突き立つような思いが走る。
「……まさか、あの副官が。」
呟いた声に、カレンが静かに頷いた。「副官だけじゃありません。塔残党の掃討で集めた書簡や証言から、語り庁の一部の役人も関与していたことがわかりました。ローザリア特使団の一部と通じて、暴動の情報を流していたようです。」
フィンの拳が机を叩いた。「なぜだ。あの暴動でどれだけの市民が傷ついたと思っている……。」声が震え、喉の奥が痛む。子どもを抱えて逃げ惑った親子、火の粉に巻かれ泣き叫ぶ老人。あの夜の悲鳴が耳から離れない。自分が剣を抜かずに守ると決めた街の現実だ。
怒りがこみ上げる。だが、その怒りを剣に変えれば、語り庁の存在意義が崩れてしまう。自分が王として選んだ道が、剣ではなく語りであることを、街の人々に証明しなければならない。(この国を剣ではなく語りで治める。それが俺の誓いだ。)フィンは深呼吸し、カレンへと視線を戻した。
「関与していた役人は、今どこに?」
「拘束しています。王都の広場で、民衆の前で証言させる準備も整いました。」
カレンの声には、記録官としての覚悟がにじんでいた。塔の記録官の血を引きながらも、今は語り庁の一員としてこの国の声を守ろうとしている。その姿が、フィンに勇気を与えた。
「ありがとう、カレン。お前がいてくれるから、俺は語りの王でいられる。」フィンはわずかに微笑んだ。カレンの瞳にも、静かな決意が灯っていた。
執務室の扉が開き、リナとノーラが姿を現した。リナの銀髪が朝の光を反射して揺れる。眉間には深い皺が寄っていた。「王様、広場の準備が整いました。市民も集まっています。」声には剣を抜かぬ覚悟を王に託す想いがにじんでいた。
ノーラは腰の双刀に手をかけ、鋭い瞳でフィンを見据えた。「もしもの時は、私の剣で街を守ります。」その声には静かな炎が宿っていた。
フィンは立ち上がった。胸の奥にずしりと重いものを抱えながらも、その足取りは確かだった。「行こう。剣を抜かずに、この街を守ると決めたんだ。」その言葉が、剣よりも強く執務室を満たした。
扉を開けると、まだ湿った朝靄の向こうに、街の広場が見えた。暴動で傷ついた商人や家を失った人々の姿がそこかしこにあった。荷物を抱えて家路を急ぐ老夫婦、泣きじゃくる子どもの手を引く母親。その誰もがフィンの姿に気づくと、一瞬目を見開き、そして安堵と戸惑いの入り混じった表情を見せた。
「王様……俺たちを見捨てなかったんだな。」
「ありがとう……声を届けてくれて……」
「王様、あの夜、剣を抜かずに戦ってくれてありがとう。」
声が、ぽつりぽつりと響くたびに、胸が熱くなる。街の声が確かに届いている。あの暴動の夜、剣を抜かずに戦った意味が、今ここにある。(この街の未来は、声で決まる。)フィンは心の中で改めてその想いを噛みしめた。
リナはそんなフィンの横顔を見つめ、そっと問いかける。「王様、本当に剣を抜かなくて大丈夫ですか?」その声には、剣士としての覚悟と仲間としての迷いが交錯していた。
フィンは立ち止まり、リナの瞳を真っ直ぐに見た。「……大丈夫だ。お前がいるから、俺は剣を抜かずに戦える。」その言葉に、リナは剣の柄を握りしめ、わずかに微笑んだ。
その隣で、ノーラが低く呟いた。「王様、語りで止められない敵が現れたら……その時は私の剣を。」フィンは小さく頷くと、その瞳に覚悟を刻み込んだ。「その時は頼む。だが今は、声で街を守る。」
遠くで鐘の音が響いた。市民の声が広場を満たし、フィンは一歩を踏み出した。剣を抜かずに戦場へ向かう覚悟が、その背に確かにあった。
王都の広場には、朝靄が立ちこめていた。
夜通し燃え上がった露店の煤の匂いが、まだ空気に残っている。
その薄闇を抜けるように、フィン・グリムリーフは語り庁の仲間たちとともに歩みを進めた。
石畳に刻まれた暴動の爪痕は、街のあちこちに生々しく刻まれている。
それでも、その先に集まった市民たちの瞳には、かすかながらも希望の光があった。
広場の中央には即席の壇上が設けられ、語り庁の制服をまとった副官が縛られて立っていた。
顔はうなだれ、膝は震えている。
暴動で家を失った人々、家族を失った人々が、広場を取り囲み、祈るような面持ちで壇上を見つめていた。
その瞳には、怒り、悲しみ、そして語り庁への疑念が入り混じっていた。
フィンはゆっくりと一歩前に出た。
剣を抜かず、語りで街を守ると決めた自分にとって、この場は剣を抜く以上に重い責任を背負う場所だ。
(この街の声を守るために、俺はここに立つ。)
暴動で焼け落ちた市場、かつて剣でしか解決できなかった頃の自分。
その全てを思い出し、乗り越えるために、今ここに立っている。
「市民の皆さん、聞いてほしい」
その声は、暴動で荒れ果てた広場を震わせた。
市民たちが一斉に顔を上げ、その視線が一つに集まる。
市場で火を放たれたあの日、必死に逃げ惑う人々の叫びが耳に蘇る。
「この暴動で、多くの人が傷つき、街が焦土になりかけた。
しかし、その混乱の裏で、俺たち語り庁の中にも裏切り者がいた」
フィンは一瞬言葉を詰まらせ、瞳を閉じて深い息を吐いた。
再び顔を上げ、その瞳に決意を宿して市民たちを見渡す。
「この者は、語り庁に仕える副官でありながら、ローザリア特使団の一部と通じ、街を混乱に陥れた。
この街を守るはずの声を、暴動の炎でかき消した張本人だ」
市民の間から、小さな悲鳴のような声が上がった。
「信じてたのに……」
「語り庁の人間が……」
「剣で斬れ! 剣で裁け!」
怒りと悲しみの声が交錯し、広場に渦を巻く。
フィンはその声をすべて受け止めるように、両手を広げた。
「剣でこの者を罰するのは簡単だ。
だが、それは俺たちが選んだやり方じゃない。
俺たちは剣ではなく、語りでこの街を守ると決めた。
だから、この者自身の口から語らせる。
この街を裏切った理由を、この街の声に届けさせる」
壇上の副官は、縛られた腕を震わせながら、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳には恐怖と後悔が入り混じっていた。
「……すまない。俺は、この街を守りたいと思って語り庁に入ったんだ。
でも、暴動の不安の中で、ローザリア特使団の一部から金と引き換えに情報を流すよう迫られた。
ほんの少しの情報で、街が助かると、最初はそう思った。
でも……気づけば、その情報が街を火の海に変えていた」
副官の声は震え、涙が頬を濡らした。
市民の間には、悲しみと怒り、そしてどうしようもない虚しさが広がった。
「俺は、王都の語り庁の副官だった。
塔の時代を壊し、声を取り戻した新しい街を守るはずだったのに……。
気づけば、また誰かの声を奪う側にいた。
自分が何をしているのか、分からなくなった。
街の声が、毎晩耳元で鳴り止まなかったんだ」
その告白は、広場の空気を震わせた。
誰もがその声に耳を傾け、その罪の重さを感じていた。
フィンは深く息を吐き、その瞳に決意の炎を宿した。
「俺たちは、塔の時代を超えるために語り庁を作った。
声で街を守り、声で街をつなぐと決めたんだ。
この者の裏切りを、剣で断つこともできる。
だが、それではまた剣が剣を呼ぶ国になってしまう。
だから、語らせた。
その罪をこの街が知り、その声でこの街が裁くんだ」
その声は、剣よりも鋭く、そして深く広場を震わせた。
ノーラが一歩前に出た。
「王様、もし語りで止められないなら、私の剣でこの者を討ちます。
でも、王様が声でこの街を守ると決めたなら、私はその声を信じます」
その瞳には、剣士としての覚悟と、王の声を信じる仲間としての決意が宿っていた。
フィンはその想いをしっかりと受け止めた。
リナも前へ進み出た。
「私も剣を収めます。
でも、もし語りで裁けない時は、王様の剣になります」
その声には、剣士としての重みと、王への深い信頼が込められていた。
フィンはその言葉に力強く頷く。
市民の間からも、次第に声が上がり始めた。
「語らせろ!」
「真実を聞きたい!」
「語り庁を信じるから!」
声の波が広場を満たし、街全体が一つの意志を持ったかのように震えた。
フィンは、剣を抜かないその手を高く掲げた。
「この街を作るのは剣じゃない。
声だ。
その声で未来を決める。
俺は、この街の王として、その声を守る」
その言葉は、夜明けの空へ向かって真っ直ぐに響いた。
石畳に朝日が差し込み、暴動の傷跡をも照らし出す。
その光がフィンの決意を照らし、王都の声をも照らしていた。
(この街の声を背負って、俺は歩く)
胸の奥に、剣よりも重い覚悟を抱きながら。
フィンの声が王都の空を震わせたその時、広場の人々の瞳に一筋の光が宿った。
剣を抜かずに声で街を守る。
その言葉がどれほどの重さを持つのか、今ここにいる全員が知っていた。
副官は縛られたまま壇上で、今にも崩れ落ちそうな足を踏ん張った。
声が掠れ、細く漏れた。
「王様……俺は、街を守るために語り庁に入った。
でも、いつの間にか、誰かの声を奪う側になっていたんだ。
街の人たちの叫びが、耳に届いていたのに……俺は……」
涙が一筋、頬を伝った。
その言葉が、広場の人々に重く響いた。
剣を抜けば簡単に裁ける。
だがその剣でまた、街の声を奪うことになる。
フィンはそれだけは許さなかった。
「俺は、剣を抜かずにこの国を導くと決めた」
フィンは胸の奥で息を吐き、静かに言葉を続けた。
「この者の罪は重い。
しかし、この街の声で、その罪を断つ。
その声が、この国を変える力になると信じている」
人々の中に、次第にざわめきが広がった。
「語らせろ……」
「私たちの声で……」
その声はやがて大きなうねりとなって広場を包んだ。
その時、ノーラがフィンの隣へ進み出た。
「王様、もしこの者が再び街を裏切るようなら……その時こそ、私が剣を振るいます」
その瞳は、剣士としての覚悟と、王の声を信じる仲間としての誇りを湛えていた。
リナもその隣に並んだ。
「王様、私も剣を収めます。
でも、剣を抜かずにこの街を守り抜けるなら、私たちも共に歩みます」
その言葉に、フィンは小さく微笑んだ。
「ありがとう、二人とも」
フィンの声が、夜明けの光の中で澄んで響いた。
「俺たちの戦いは、剣よりも重い。
この街の声を背負って、歩いていこう」
その言葉に、ノーラもリナも深く頷いた。
壇上の副官が、震える瞳でフィンを見つめた。
「王様……俺は、この街の声を奪ってしまった……。
でも……俺の罪を、この街の声で裁いてほしい。
語り庁を、そして王様を信じたい……」
その告白は、誰もが予想しなかったほどの弱々しさと、わずかな覚悟を含んでいた。
フィンは、剣を抜かない手を高く掲げた。
「この街の声を奪った罪は重い。
だが、この街の声で未来を決める。
俺は、この国を声で導くと決めた。
その覚悟を、この者の罪で試されているんだ」
その声が、朝焼けの空へ向かって真っ直ぐに響いた。
その時、群衆の中から声が上がった。
「俺たちの声で、この街を変えよう!」
「語り庁を信じる!」
「王様を信じる!」
その声は、暴動の夜を超えて、未来へと繋がる光になった。
フィンは胸の奥で拳を握りしめた。
(剣を抜かずに、この街を守る。
それが俺の選んだ道だ)
その決意は、剣よりも鋭く、そして優しく街を包んでいた。
「副官。
お前の罪は重い。
でも、街の声で裁かれる。
それがお前の背負うべき道だ」
フィンの声は、剣よりも確かにその場を支配していた。
副官は涙を拭い、声を震わせた。
「……はい。
俺は、街の声に背いた罪を受け入れる。
王様……ありがとう……」
その声は小さく、それでいて街の隅々まで届いた気がした。
フィンは副官をまっすぐに見据えた。
「街の声は、剣よりも強い」
その言葉を胸に、朝日が昇りきり、王都の石畳を照らした。
暴動の爪痕が、その光に照らされて輝くように見えた。
剣ではなく声で街を守る。
その決意が、王都の人々の胸に深く刻まれていった。
副官の言葉が静まり、広場には張り詰めた空気が漂っていた。
フィンは剣を抜かず、その手を副官に向けたまま、街の人々を見渡した。
「この街を作るのは、俺じゃない。
お前たちの声だ。
今こそ、その声でこの者を裁いてほしい」
その声が、剣よりも強く響いた。
広場の片隅で老女が声をあげた。
「私の息子は暴動の日に剣で傷を負いました。
あんたの裏切りのせいで……でも、王様が語りでこの街を守ろうとしてるなら、私も声で訴える。
罪を償わせるべきだと思います」
その震える声に、他の市民たちも続いた。
「この街を壊すために裏切ったのなら、語りで正すべきだ」
「塔の時代に戻るのは嫌だ。
語り庁を信じてる」
「王様……私たちの声を信じてください」
その声の波は、暴動の夜を越えて広場を満たした。
フィンはその声を一つひとつ胸に刻むように目を閉じた。
剣で裁くよりも、声で裁く方がずっと難しい。
でも、その声こそがこの街の未来を決める力になる。
フィンはゆっくりと瞼を開き、壇上の副官を見つめた。
「お前の罪は、この街の声で決める。
それが、この街を変えるために必要なことだ」
副官は肩を震わせ、深く頷いた。
「……はい。
俺は、その声を受け入れます」
その言葉に、広場の空気が静かに澄んだ。
ノーラが進み出た。
「王様。
判決は語り庁の声で決めますが、私たちも最後まで責任を持って見届けます」
その瞳には、剣士としての誇りと、王への信頼が光っていた。
リナもまた、静かに頷いた。
「私も、街の声が裁きを下すのを見届けます」
その声には、この街を守る覚悟があった。
フィンは仲間たちの視線を受け止め、深く頷いた。
「ありがとう。
この街の声は、剣よりも強い。
だからこそ、その声を守り抜こう」
その声は、朝日を浴びて広場を満たした。
その時、語り庁の役人が駆け込んできた。
「王様、ローザリア特使団の一部が、暴動の混乱に乗じて街の一角で密談を試みたようです」
その報告に、場の空気が張り詰めた。
フィンは眉をひそめたが、すぐにその瞳を静かに閉じた。
「……分かった。
だが、今はこの街の声を守ることが先だ」
フィンは壇上を見つめ、改めて声を上げた。
「この街を声で守ると決めた。
たとえどんな闇があろうとも、その覚悟だけは揺るがない」
その言葉が、街を包む朝の光の中で、剣以上の強さを持って広場を照らしていた。
街の声は、剣を超える力になる。
フィンは、その声を胸に刻み、街の未来へと歩みを進めた。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます。
第55話では、剣を抜かずに街を守るというフィンの信念が、大きな試練にさらされました。
暴動で傷ついた街、語り庁の中に潜んでいた裏切り者、そしてローザリア特使団との不穏な影。
剣を抜けば簡単に裁けるところを、声で街を繋ぎ、街の未来を市民とともに作ると決めたフィンの姿は、これまで以上に覚悟と成長を感じさせるものになったと思います。
仲間たちもまた、王の決意を信じ、剣を収め、声で戦うという選択を共に歩んでくれました。
剣で声を奪う時代から、声で未来を作る時代へ。
街の人々の声が、フィンを、そしてこの国を支える力となる物語を、皆さんにお届けできて嬉しく思います。
次回から、ローザリアとの外交問題、そして街の復興に向けた新たな戦いが始まります。
どうかこれからも、フィンと仲間たちの物語を見守っていただけると幸いです。
物語を「面白い」「続きを読んでみたい」と感じていただけましたら、
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