50話:語り庁、始動――剣なき王の選択
新たに設立された語り庁の初会合を終え、剣を抜かずに言葉で国を導くという覚悟を改めて胸に刻みました。
ローザリア特使団との外交交渉を経て、人の声を繋ぐことがどれほどの重責かを痛感しています。
それでも、仲間の支え、そして市民の声を受け止めながら、私はこの国を語りで守っていきたい。
塔の時代を越えた“語りの国”の夜明けは、まだ始まったばかりです。
王都の朝は、昨日とは比べ物にならないほどの熱気に包まれていた。
塔が崩れ、権威の象徴だった記録庁が解体された今、この街はフィン王の新たな統治の形を待ち望んでいた。
その中心となるのが、「語り庁」だ。
塔の代わりに記録や統治を担う。
だが、フィンはそれを単なる役所にはしたくなかった。
語りで国をつなぎ、人の声を届ける――それが、塔の支配から解放された新たな時代の象徴になるはずだと信じていた。
王城の控えの間で、フィンは一枚の羊皮紙を見つめていた。
「語り庁の設立目的」――昨日までに何度も書き直した文章だ。
剣を抜かずに国を治める。そのためには、この一文すら妥協できないと、彼は感じていた。
(人の声は剣より重い。
語ることで命を救うなら、その声を、国として守りたい。
それが王としての俺の責務だ)
そんな想いを胸に、ペンを握り直そうとしたその時、控えの間の扉がそっと開いた。
「失礼します、フィン様」
姿を見せたのは、語り庁の初代通訳官であるカレンだった。
長い栗色の髪を軽くまとめ、記録札を胸に抱えたその姿は、凛とした気配をまとっていた。
塔の崩壊前から通訳官として活動していた経験を活かし、今ではフィン王の語りを“記録”ではなく“伝える”仕事へと昇華させている。
「語り庁の初会合の準備が整いました。
各部署の代表者も待機しております」
声の調子は穏やかだが、その瞳の奥には確かな決意の光が宿っていた。
フィンは少しだけ安堵の笑みを見せる。
「ありがとう、カレン。
剣よりも言葉を選ぶ方が、これほど難しいとはな」
カレンは微笑んだ。
「でも、その言葉で救われた人は、私も含めてたくさんいます。
私はそれを記録するだけじゃなく、届けたいんです。
あなたの語りが、誰かの未来になるように」
その言葉が、フィンの胸に静かに響いた。
塔が権威で人を支配したあの時代とは違う。
今は語りで人を繋ぐ時代――そのために自分はここに立っているのだと。
「ありがとう、カレン。
お前がいてくれるだけで心強い」
カレンは少し頬を赤らめ、視線を逸らした。
「そ、そんな……王様のお役に立てるなら、それが私の一番の喜びですから……」
その瞬間、扉が勢いよく開き、クラリスが駆け込んできた。
「フィン様、王都中央広場にローザリア公国の特使が到着したとの報告が入りました!」
息を切らしながらも、その瞳は真剣そのものだった。
フィンは羊皮紙を握りしめ、深い呼吸を整える。
(語り庁の設立も、外交も、一度に来るか。
けれど、これが王だ。剣ではなく、語りで国を繋ぐと決めたのだから)
「分かった。
語り庁の初会合は予定通り行う。
ローザリア特使の件は、語り庁の場で報告を受けよう。
それが、この国の語りのあり方だ」
その背後には、ノーラとリナの姿が見えた。
そして、カレンの瞳も揺らぎはなかった。
言葉が国を治める。
その覚悟を胸に、フィンは扉を開け放った。
大広間には、朝の光が射し込み、塔の時代には決して許されなかった“人々の声”が、静かに鳴り始めていた。
語り庁の設立を祝う者、未来に不安を抱える者、そして、この国がどう変わっていくのかを息を呑んで見守る者――
そのすべての息遣いが、この空間を満たしていた。
フィンは壇上に立ちながら、集まった顔ぶれをひとりひとり、確かめるように目を配った。
塔の紋章が外された壁には、新たな語り庁の紋章が掲げられている。
剣でもなく、塔でもない。
人々の声を結ぶ一本の羽根を象ったその紋章は、どこか頼りなさそうにも見えたが、それこそが今のこの国の現実だった。
(誰かに任せるんじゃない。
語る者として、国を抱きしめる。
それが俺のやり方だ)
胸の奥に、剣を握る時以上の緊張が走った。
声を上げることは、斬り結ぶよりもずっと難しい。
けれど、この国にはもう、語るしか道が残されていなかった。
「皆、よく集まってくれた。
今日から、ここが“語り庁”として動き出す」
フィンの声が響くと、大広間の隅で耳をすませていた市民たちの表情が少しずつ変わっていく。
リナは壁際で腕を組み、視線を鋭く張り巡らせている。
ノーラは双刀の柄を軽く握りしめ、広間の後方で人々の流れを睨んでいた。
クラリスは数名の補佐官たちに指示を飛ばし、各部署の準備状況を確認している。
どの顔も、昨日までの不安をまだ捨てきれていない。
けれど、その瞳の奥には確かに“信じたい”という想いが灯っていた。
壇上のフィンは、深い呼吸を整えて言葉を紡ぐ。
「語り庁は、塔のように人を支配する場所ではない。
語りで人を繋ぎ、声で国を守る。
それが、この国が選んだ新しいやり方だ」
広間の中央に立つ老商人が、震える声で問いかけた。
「しかし王様……塔がなくなった今、治安も、税も、教育も――
あの制度に頼らざるを得なかったものまで、私たちはどうすれば……」
その声に、フィンは頷いてみせた。
「だからこそ、語り庁が必要なんだ。
塔が管理してきた制度の影に、人の声は消されてきた。
これからは、その声を俺たちがすくい上げる。
治安も、税も、教育も、人の声の上に立たせる。
それが、この国の“語りの時代”だ」
市民たちの間に、ざわめきが広がった。
疑念、安堵、そして期待。
それらすべてが入り交じった空気が、広間を満たしていく。
そのとき、フィンの視線の先で、一歩下がった位置に立つカレンがそっと目を上げた。
通訳官としてだけでなく、この国の語り手を支える者として、
その眼差しには真剣な光が宿っている。
「王様……」
カレンの声は小さいが、まっすぐだった。
「あなたの語りは、塔に奪われてきた人々の声を救ってきました。
だから、どうか迷わずに進んでください。
私は必ず、その語りを正しく記録し、伝え続けますから」
その声に、フィンは剣を抜いた時よりも深く息を吸った。
(俺だけの国じゃない。
この国は、語りを信じた人たちの国なんだ)
壇上で拳を握ると、フィンは再び語り始めた。
「語り庁は、今日から正式に動き出す。
そして、その語りは、この国を繋ぎ、世界に広げていく。
剣ではなく、言葉で国を守る。
それが俺たちの、新しい戦いだ」
その瞬間、広間の奥でクラリスが駆け込んできた。
「フィン様! 王都中央広場にローザリア公国の特使団が到着しました!」
場内が一気にざわめきに包まれる。
「特使団……」
フィンの声が低くなる。
塔時代から続く隣国との微妙な関係。
その外交の火種が、いま、この“語り庁”に持ち込まれるのか。
カレンが小さく息を呑んだ。
その横顔を見て、フィンは微かに笑みを見せる。
「大丈夫だ。
語りで国を守ると決めた。
だからこそ、外交だって、語りで切り拓く」
視線の先に、リナが双剣を構え直して待機している。
ノーラの瞳も鋭く輝いていた。
語り庁という看板を掲げた以上、王都の命運はもう、フィンの語りにかかっているのだ。
「ローザリア特使団を迎え入れよう。
そして、王都の声を、彼らに届ける。
この国が剣だけじゃないってことを、見せてやるんだ」
広間を一歩踏み出すと、背中に確かな気配を感じた。
カレンの視線が、そっと彼の背を押してくれている。
その温もりが、言葉を選ぶ覚悟をくれる。
この国の語りが、今、幕を開ける。
そして、フィン王の新たな戦いが始まるのだった。
王都中央広場には、朝から数え切れないほどの市民が集まっていた。
ローザリア公国の特使団が到着したという報せが、瞬く間に広がり、人々の好奇心を掻き立てたのだ。
かつて塔が支配していたこの街で、こうして“王の語り”が国の代表として外交に臨むことになるとは、誰も予想していなかった。
フィンは、語り庁の代表として中央広場へと向かっていた。
背後にはリナ、ノーラ、クラリス、そしてカレンが控えている。
ローザリアとの和平交渉は、ただの外交ではない。
塔が牛耳っていた時代の“旧記録”が関わってくるかもしれない、そんな予感があった。
「王様、特使団の馬車が門をくぐりました」
クラリスが早足で駆け寄り、フィンの耳元で囁いた。
「噂では、ローザリア公国は塔と水面下で繋がっていたとも……。
くれぐれも油断なさらぬように」
フィンは頷く。
(塔の影を追い払ったと思ったのに、また違う形で襲ってくるのか)
剣を抜かず、語りでこの国を守ると決めた。
その覚悟を試す舞台が、いきなり幕を開けたのだ。
中央広場の石畳の上、装飾の施された馬車から、ローザリア公国の特使が姿を現した。
金と青の刺繍が施された外套を纏い、背筋を伸ばした壮年の男だった。
その目には、この場に集まる民衆を値踏みするような光が宿っている。
(この国の語りを、試しにきたのか)
「初めまして、フィン王。
私はローザリア公国の特使、ドラス・イーレンと申します」
丁寧な口調だが、その声はどこか冷たさを帯びていた。
「こちらこそ、よくお越しくださいました。
私はフィン・グリムリーフ。
この国の語り庁を通じて、あなた方と語り合うためにここに立っています」
ドラスは一瞬だけ視線を鋭くし、その瞳を細めた。
「塔の崩壊後、王都の治安や経済が混乱していると聞きました。
我が公国は、かねてよりこの国と友好を築きたいと願っておりました。
そのため、今回は塔の干渉を受けない“新たな条約”を結ぶためにまいりました」
その言葉に、場内がざわつく。
(塔の干渉を受けない――それは塔が牛耳っていた外交からの完全な決別を意味する)
フィンは内心で息を整えた。
「なるほど。
しかし、塔の影は完全には消えていません。
この街にも、そしておそらく貴国にも、その影はまだ潜んでいる」
剣を抜くでもなく、あくまで語りで、フィンは真実を突きつけた。
ドラスの口元がわずかに引きつる。
「噂に聞いていた通り、語りで人を試すお方だ。
しかし我々は、あくまで和平を結びたいと願っているのです。
もちろん、語り庁が主導するのならば、その語りに従います」
その瞬間、群衆の中から声が上がった。
「語り庁がこの国を守ってくれるんだろうな!」
「ローザリアにまた塔を呼び戻されるのはごめんだ!」
不安と怒りが交錯し、空気がざわめき始める。
フィンはその声をしっかりと受け止め、ドラスを見据えた。
「この国は、もう誰かの都合で語りを消される国じゃない。
塔に支配された歴史を、もう二度と繰り返させないために、語り庁があるんだ。
俺の語りで、この街を守る」
その声は剣よりも鋭く、民衆の胸に届いた。
リナが剣を握りしめ、ノーラが視線を鋭くして辺りを警戒している。
クラリスは補佐官に合図を送り、語り庁の記録官たちがペンを走らせる。
その中心で、カレンがフィンの言葉を一語一句、真剣な眼差しで書き留めていた。
ドラスはほんの一瞬、口元に薄い笑みを浮かべた。
「塔があったから、この街は秩序を保てたのではありませんか?」
その問いに、フィンは即座に答えた。
「塔が秩序を保ったんじゃない。
人が秩序を守ってきたんだ。
塔はただ、その上に乗っていたにすぎない。
だからこそ、語り庁は“人の声”を支えるんだ」
その瞬間、広場の空気が変わった。
誰かが、ゆっくりと手を叩いた。
それが一人、二人、そして数十人と広がっていく。
ドラスはその拍手の波を見やり、肩をすくめる。
「なるほど……塔の秩序より、語りの声を選んだわけですね。
実に興味深い国だ」
その言葉には、まだ一抹の警戒が残っている。
フィンは頷き、視線を外さなかった。
「この国が歩むのは、語りで繋がる道だ。
そして、その語りを信じた人々のために、俺は語り続ける」
その瞳は、一瞬たりとも揺らぐことがなかった。
その背後で、カレンがそっと筆を置き、胸に手を当てた。
その瞳は、塔に支配された時代を乗り越えた者の誇りに満ちていた。
語りの時代が、いよいよ始まるのだ――。
ローザリア特使団との交渉を終え、王都中央広場の喧騒が少しずつ収まり始めていた。
人々の視線は語り庁の新たな紋章へと注がれている。
塔の紋章を打ち砕き、新しい“語り”の象徴を掲げたその場は、今や王都の心臓部だった。
フィンはその場に立ち、深い息を吐いた。
剣ではなく語りで国を治める――その選択が、今ここに根を張ろうとしているのだ。
(民の声が、剣よりも強い盾になる。
だが、それを束ねるのがどれほど難しいことか……)
その胸の内を知る者は少ない。
リナが一歩前に出て、警戒の目を緩める。
「王様、ローザリアの特使団は今のところ穏便に引き上げる気配です。
でも、あのドラスって奴……油断できない相手ですね」
その声には、戦士としての冷静さと、仲間としての優しさが混じっていた。
「そうだな」
フィンは頷いた。
「だが、あいつらも語りの中で生きている。
語りで国を守ると決めたからには、俺もこの言葉で相手と向き合うしかない」
そこへノーラが歩み寄り、双刀の柄を軽く撫でた。
「フィン、あの場で剣を抜かなかったのは、王様の選択だ。
でも……もしもの時は、私が全部斬り伏せるからな」
その言葉に、フィンは小さく笑った。
「ありがとう、ノーラ。
お前の剣は、俺の語りの支えだ。
もし語りだけで国を守れなくなったら、そいつはお前に任せるよ」
そのやりとりを、少し離れた場所でカレンが見守っていた。
通訳官として、そしてフィンの語りを記録し続ける者として、彼女の瞳は静かに揺れていた。
フィンの語りが、この国の未来になると信じている。
でも同時に、その語りがいかに脆く危ういものかも知っていた。
(王様……)
カレンは胸の内でそっと呟いた。
(どうか、あなたの語りが誰かの命を奪わぬように。
そして、あなた自身を苦しめぬように)
そんな思いを胸に抱えながら、カレンは羊皮紙を手にし、フィンの語りを書き記し続けた。
塔がなくなっても、誰かが語りを残さなければ、この国の歴史はまた塔のように歪められてしまう。
それだけは、絶対に許されない。
その時、クラリスが書簡を手にして走り寄ってきた。
「フィン様、語り庁の会計担当から報告が入りました。
塔時代の予算が一部不明瞭で、現場が混乱しています。
もしよろしければ、王様から直接方針をお示しください」
フィンは目を細めた。
塔の闇は、こうしてじわじわと残骸を広げてくるのだ。
「分かった。語り庁の全体会議で説明する。
それまでに資料をまとめてくれ」
「承知しました」
クラリスは深く頷き、走り去っていく。
語り庁の立ち上げは、まだ始まったばかり。
塔の残骸も、ローザリアとの外交も、そして王都の人々の不安も――
そのすべてが、今、フィンの双肩にのしかかっている。
ふと気づくと、王都の人々が集まり始めていた。
子どもを抱いた母親が、老いた農夫が、学者風の男が、そして商人たちが。
フィンの周りを取り囲むように、声が溢れ出した。
「王様! 塔がなくなってから、戸籍が分からなくて困ってるんです!」
「我が家の家畜が盗まれてしまった! 治安をどうにかしてほしい!」
「商売を再開したいけど、記録がないから許可が下りないんだ!」
その声の一つ一つに、フィンは耳を傾けた。
塔の時代なら、一言の命令で全てが片付けられていただろう。
けれど今は違う。
剣ではなく語りで国を繋ぐと決めた。
だからこそ、この声を捨てるわけにはいかない。
「一人一人の声を、語り庁が繋ぐ。
必ず、お前たちの声を国の力に変えてみせる。
それが、この国の新しい形なんだ」
フィンの言葉は、広場の空気を震わせた。
その時、背後でカレンが筆を止め、そっと目を閉じた。
(これが、私たちの“語りの国”……)
その瞼の奥に、フィンの背が大きく映った。
そして、その場にいた全員が、その語りに応えるように静かに頭を垂れた。
剣を抜かずとも、人の声はこうして繋がる。
それが、塔の時代にはなかった“生きた歴史”なのだ。
「王様、そろそろお戻りください」
リナが小声で告げる。
王都の復興、語り庁の整備、外交問題――
すべてが待っている。
フィンはゆっくりと歩みを進めた。
その背を、ノーラが双刀を抱えて守り、カレンが羊皮紙を胸に寄り添った。
語りの時代が、ここから始まる。
そして、その語りが国を救うのだと――
フィンは信じていた。
語り庁という制度を立ち上げたことで、王都は確かに変わり始めました。
剣ではなく語りで国をまとめる――その道は険しく、決して簡単なものではありません。
けれど、仲間たちの支えや、カレンの記録に込めた想いが、私を奮い立たせてくれるのです。
これからも、誰かの声を剣よりも強く守り抜く覚悟で歩んでいきます。
塔が砕かれた今こそ、私自身の語りが試されるとき。
どうかこの先も、共に歩んでいただけたら嬉しいです。
物語を「面白い」「続きを読んでみたい」と感じていただけましたら、
評価ポイント・ブックマーク・リアクション・感想・レビューをお寄せいただけると嬉しいです。
読者の皆さまの声が、作者の筆を進める大きな原動力になります。
どうか応援のほど、よろしくお願いいたします。




