41話: 王、塔へ登る
――“語った”だけでは、世界は変わらない。
“記録される”ことで、初めて誰かの記憶になる。
第41話から『ついホビ』第3巻が始まります。
王となったフィンが向かうのは、記録を司る巨大な塔。
そこに刻まれてこなかった“語られぬ命”の重さを、
彼は剣ではなく、自らの語りで証明しようとします。
今回は、物語が「制度」とぶつかる第一歩。
“語り”が試され、“王”という立場が再び問われる章です。
王都セントリアは、まだ“静かすぎる”。
戦は終わった。南門は守られた。
だが街は、どこか――音を殺している。
破れた看板、黒焦げた家屋、空き家になった商人通り。
子どもたちの声も、荷車の軋む音も、以前ほどには響かない。
そしてその中心、塔と王城の間にそびえる政庁区。
その大広間の一番奥に、フィン・グリムリーフはいた。
王の椅子は、思った以上に静かだった。
座る者が重くするのではなく、
座った瞬間に“重さの中に沈む”――そんな感覚だった。
「報告を」
絞るような声で、フィンが言った。
「はい」
すぐに応じたのは、内政補佐官――セリナ・トラヴィス。
銀の眼鏡に黒の事務服。背筋は真っすぐ、口調は一切の揺れを見せない。
だがその瞳には、確かな熱がある。
「ファルニア方面の農地は、火災と略奪の被害で壊滅状態です。
耕作再開は十日以内を目指します。灌漑用の木樋は、ドゥルク族の工房に発注済みです」
「よくやってくれてるな」
「いえ、当然のことを」
短いやりとりの奥に、セリナなりの“信任”が滲む。
塔から離れ、あえて“語る王”のもとに残ったのは、彼女にとっても賭けだったはずだ。
「志願兵の再編は?」
セリナは資料を繰り、僅かに眉を寄せた。
「名簿確認・配置提案までは完了しております。ただ……」
彼女はもう一枚の書状を差し出す。
象牙色の厚紙に、塔の紋章。
それだけで空気が、ひとつ冷えた。
「記録庁本庁より通達です。“王による再編命令は、語りの正統審査が済んでいない以上、施行無効”」
フィンは受け取った紙を見つめたまま、しばらく黙っていた。
紙は言葉以上に、重かった。
そこに書かれているのは、こうだ――
“王の命令は、まだ記録されていない。
だから、それに従う義務はない。”
「……塔が動いたか」
「語りの審査が済むまで、王命はすべて“保留”にするよう、各部署に指示が回っているようです」
「冗談じゃない」
リナが、椅子から立ち上がった。
「じゃあ王様なのに、命令できないってわけ!?」
「命令はできる」
フィンは静かに言う。「でも、それに“記録が従わない”」
「従う、従わないって……!」
リナは怒ったように剣の柄に手をかけかけて、空を睨んだ。
ノーラは窓際に立ち、塔を遠くに見ていた。
彼女の双刀は今、鞘の中にある――けれど、
視線はいつでも“何か”に切り込める鋭さを保っている。
「召喚状です」
セリナが冷静に言う。
「塔本庁上層議会。議題は“語りの制度内分類”、
並びに“王による記録的命令の正当性”について」
「……語りの裁判か」
フィンは紙を握りしめる。
「違います。裁かれるのはあなたではなく、
“あなたの語りが、記録に足るかどうか”です」
フィンは椅子から立ち上がった。
肩にはまだ、あの日の戦の傷が疼く。
けれどそれが、自分の“記録”であるならば――
「……行くよ。塔へ」
「今すぐに?」とノーラが言った。
「時間を置けば、“記録されぬ王”として動いた証拠にされる」
フィンは剣を取る。
「だから、語ってくる。“記録”と向き合って、
……この語りが、本当に“王の語り”かどうか」
風が、大広間の窓を鳴らす。
かつて、南門で立ったその男が――
今度は、塔という名の“壁”に向かって、歩み始める。
王都セントリア。
朝の光が石畳を照らし始めたというのに、街はまだ息をひそめたままだった。
戦の傷跡は、生々しく残っていた。
城下町の南区では、焼け落ちた屋根の修復が始まりかけていた。
しかし、瓦礫をどかす手はまだ鈍く、商店の扉は半開きのまま揺れていた。
通りの角では、壊れた荷車の車輪を見つめたまま動けずにいる老人がいた。
王城の扉が開くと、音が消えたような気がした。
フィン・グリムリーフが姿を現した。
背には剣を帯び、肩には王の外套をかけている。
だが、その表情は決して誇らしげでも傲慢でもなかった。
ただ静かに、真っすぐに、塔のある丘を見つめていた。
彼のあとに続くのは、剣士リナ、双刀のノーラ、そして内政補佐官セリナ。
肩を並べる仲間たちは、それぞれの戦いを経て、今なお沈黙の中にいた。
フィンは足を止めた。
城下の広場には、すでに何人かの市民が立っていた。
布を肩にかけた老婆。
傷だらけの兵士。
手を繋いだ子どもたちと母親。
すれ違う者たちは言葉を交わさなかったが――その視線だけは、まっすぐフィンに向けられていた。
誰もが、知っていた。
この男が、この王が、塔に登る。
あの“語りを記録しなかった塔”と、正面から向き合いに行くのだと。
「……目が、重いな」
フィンがぽつりと呟いた。
「そりゃ、みんな思ってるさ」
リナが言った。「“あの門を守ったのに、まだ戦うのか”って」
「違う」ノーラが静かに返す。
「“戦ってるから、まだ立っていられる”って目をしてる」
フィンは答えず、ただ一歩を踏み出した。
道は、塔へと続く。
王都の北にそびえる“塔の丘”――緩やかな坂道に、白石を敷き詰めた一本道が伸びている。
その道を登る者は、国の重責を負った者か、記録を背負った者か、あるいは――“語りを問われる者”だけだった。
フィンは歩く。
足元の石板は、わずかに熱を帯びていた。
「ここだけ……季節が違うみたいだ」
リナが眉をしかめる。
「記録塔の周囲には、“時間の保護結界”がある。
塔が記録したすべての季節を、同時に保っているから」
セリナが淡々と説明した。
「それ、つまり……」
ノーラが視線を上げる。「記録された春と冬と秋が、この場所にはあるってことか」
「そう。だから風が、何層にも分かれて流れてる」
「……塔ってやっぱり、気持ち悪いな」
リナが息をついた。
丘の上、塔が見えてきた。
白い。
ただ、白い柱だった。
窓もなければ、紋章もない。城ではない。砦でもない。
なのに、見る者すべてを“黙らせる”重さがあった。
「……あれが、記録塔」
フィンは立ち止まり、見上げる。
かつて、その塔に自分の名がなかった。
どれだけ語っても、どれだけ誰かを救っても、“記録に残らない存在”だった。
だからこそ、今ここにいる。
「門を守ったときと同じだな」
フィンが小さく言った。
「同じ?」
「“語られるかどうか”なんて関係ない。
誰かの命を、誰かの記憶に繋げる。それが、俺の語りだ」
そのとき――
塔の壁に、ゆっくりと裂け目が走った。
光のない入口が、縦に開いていく。
風が、逆流するように流れ出す。
まるで、“外”の世界を押し返すように。
塔が――語りを持つ王を受け入れたのだった。
ノーラが、わずかに目を細める。
「歓迎してるようには、見えないけどな」
「それでも、踏み込む」
フィンは一歩、踏み出した。
背にある剣が、かすかに軋んだ。
塔の中で、また“語り”が試される。
それがどんな記録にも残らなくても――
この足跡だけは、確かにここに刻まれる。
塔の中は、“記録された空気”で満ちていた。
風の音も、足音も、呼吸の気配も、どこかに封じ込められたように静かだった。
歩を進めるたび、周囲の空間がわずかに“更新されていく”感覚がある。
それはまるで、塔自身が問いかけてくるようだった。
――お前は、記録に値するのか。
床は白い石板でできていたが、表面に刻まれているのは模様ではなく、語りの断片だった。
かつて誰かが語った物語が、言葉ではなく“痕跡”として、石に刻まれている。
だが、そこに“フィン”の名は、まだなかった。
「……気持ち悪いな、やっぱり」
リナが囁くように言った。「壁、こっち見てる気がする」
「塔は“語られる言葉”を選ぶ。
ここでは、何を話すかが全て。間違えば、記録ごと消える」
セリナの声は冷たく響いた。だが、それは恐れではなく、警告だった。
道は広いはずなのに、閉塞感があった。
壁が近づいてくるのではなく、こちらの“存在”が、空間に吸い込まれていくような感覚。
そして――彼らの前に、“人ならざる人々”が現れた。
灰色の長衣をまとった六人。
その顔立ちはあまりに均一で、まるで“同じ型”を与えられたかのようだった。
肌の色も瞳の色も乏しく、表情はまるで彫像のように硬い。
「王、フィン・グリムリーフ。ご到着を記録しました」
その声は、機械のように抑揚がなかった。
「これより、語りの正統性に関する上層審査のため、あなたを審議の間へ案内します」
「同行者は一名まで。
記録認定を受けた補佐官、または語りに深く関わった記録対象者に限ります」
ノーラが眉をひそめた。
「記録“対象”って、要するに“フィンの物語に登場する価値があったか”ってことだな」
「……嫌な言い方だな」リナが舌打ちする。
だが、誰も名乗り出なかった。
この空間では、ただいるだけで、“重さ”がのしかかる。
語れば記録される。記録されれば、責任が生まれる。
その重さに耐えられる者は、限られていた。
「私が行きます」
静かな声が空気を切った。
セリナ・トラヴィスが、目を伏せながら前へ出る。
「私は、かつて塔に仕え、今は“語りの王”の補佐官です。
この語りが塔と衝突するなら、記録官の責任として、その記録を見届ける義務があります」
「認証を確認しました。セリナ・トラヴィス、上層審査補佐官として同行を許可します」
その言葉とともに、空間が震えた。
天井から、一枚の“記録石板”が降りてくる。
光を帯びたそれは、空中でぴたりと静止し、やがて文字を刻み始めた。
> 『王、フィン・グリムリーフ、塔に登る。
> 記録外の剣が、王として語られた。
> その語り、今、記録と制度の狭間で審査される。』
「……訂正しろ」
フィンが石板を見上げて言った。
「語られてないんじゃない。
“記録されなかった”んだ。
誰かが語って、誰かが聞いて、それでも見て見ぬふりをしただけだ」
塔の光が、一瞬だけ脈打つように揺れた。
まるで、フィンの言葉に“何か”が反応したようだった。
「……“記録に届かぬ語り”が、塔の記憶に触れた瞬間だな」
ノーラが静かに言った。
「ここからは、王としてじゃない。“語り部”としての戦いが始まる」
フィンは頷いた。
「俺は、語る。塔が聞こうとしなくても、
誰かに、届く限り」
セリナと共に、記録の回廊を抜けていく。
白い道は、無限に続いているようでいて――その先にある“審査の間”だけが、確かに存在していた。
――塔の心臓部で、語りが問われる。
審査の間は、“白”という色の限界だった。
床も壁も天井も、目に映るすべてが白く、明るいのに陰がなかった。
石でも金属でもない――記録された光そのものが形を成しているような、そんな空間。
その中央に、六つの椅子があった。
椅子というより、玉座。
けれど誰も座ってはいなかった。そこには“記録の意思”だけが、沈黙の形で存在していた。
セリナが一歩前に出て、深く頭を下げる。
「語り王フィン・グリムリーフ、および補佐官セリナ・トラヴィス、入室いたしました。
本日、上層記録庁の命により、語りの制度適正審査を受けるものです」
その声が落ちた瞬間――
空間の奥から、六人の記録官が現れた。
足音はない。歩いてくるのに、音がまったくしない。
全員が、白と灰を基調にした長衣を纏い、顔を覆う仮面をつけていた。
仮面には“語りの象徴”である星や月、風の模様がそれぞれ刻まれている。
一番手前に立った人物が、仮面の奥から声を発した。
「記録庁第六階層、審査官代行、ティセル・ナヴィレア。
本日は、王フィン・グリムリーフの語りに対する分類審査を開始します」
その名を聞いたセリナが、わずかに目を見開いた。
「……エルフィス族。記録庁でも数少ない、超長命階級の審査官……」
ティセルは、仮面越しにフィンを見据えて言った。
「まずは問おう。あなたの語りは、何をもって発動するか」
フィンは答えず、視線を返した。
「……語りは“発動”じゃない。
俺が、誰かを救いたいと願ったとき。
記録されなかった命を、覚えていたいと願ったとき――それが、俺の語りになる」
静寂。
ティセルの背後にいた別の記録官が、一歩前に出る。
その仮面には、“閉じた目”の意匠があった。
「では、その語りは誰の許可で行使されているのか。
記録に登録されていない語りは、制度上“存在しない”。
あなたの語りは、それ自体が“規約違反”である可能性を孕んでいる」
セリナがすかさず口を開いた。
「戦場において、塔が記録を拒んだのは、語りの内容に問題があったからではありません。
塔が“先に存在を否定した”のです。語りが制度に従って生まれるのであれば、制度外の語りは全て消えることになります」
「だからこそ、我々は今こうして確認している」
ティセルが、言葉を重ねる。
「“塔に記録されるに足る語り”かどうか。
王であるか否かは、語りの正当性によってのみ決まる」
フィンは一歩、前に出た。
塔の光が、それに反応するように震えた。
「……俺は王だ。塔が記録したからじゃない。
誰かが俺の言葉で立ち上がってくれたから、
俺は王として、語った」
仮面の記録官たちは、何も言わなかった。
ただ、ひとり――ティセルだけが、仮面をゆっくりと外した。
そこにあったのは、薄い金色の瞳と、
長命のエルフィス族特有の冷静さと、
ほんの僅かな“感情”の揺れだった。
「ならば、語れ」
ティセルが言った。
「塔の中で、語られたことのない真実を。
あなたが王であるならば――記録に残らない“語り”を、この場に示しなさい」
フィンは、背にある剣へと手を伸ばす。
語りは、言葉だけではない。
剣と想いが交差するその瞬間に、
塔は――世界の記録そのものが、動き始める。
審査が、始まる。
塔の中には、静寂しかなかった。
その静けさは、誰もが「語らない」ことで守ってきた秩序だった。
フィンは、ついに塔の心臓部に足を踏み入れました。
彼の語りが、記録の中で“例外”とされるのか、
それとも、新たな制度として受け入れられるのか――
仲間の信頼を背に、フィンは言葉を携えて塔に登ります。
剣ではなく、語りを武器に。
この巻では、制度との対立、過去に封じられた語り、
そして“記録されなかった者たちの声”が明かされていきます。
どうか、彼の一歩が、あなたの中にも“残る記録”になりますように。




